茜さす

横山美香

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第二部5

5-3

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 今から約二十五年前のある日、大阪の裕福な商家の夫婦が、十八歳の娘を連れて玄徳の師匠の元を訪れた。娘盛りまっただ中の娘は紙のように真っ白な顔をしていて、やせ衰えて目が落ちくぼみ、明らかに人としての正常な状態ではなかった。
 元々、師匠はこの商家かかりつけ医であり、娘のことも幼い頃から見知っていた。何故こうなるまで放っておいたのか。娘の身にいったい何が起きたのか。事情がわからなければ治療もできないと言った医師に対し、両親はしぶしぶ、自分達の娘に起きた出来事を語った。
 裕福な商家で何不自由なく育った年頃の美しい娘に、出入りの若い職人が懸想した。無論、そんな想いは許されるものではない。商家の縁組は、武家以上に家と商いの都合で決まる。即座に職人を叩き出した両親は娘を離れに監禁し、誰かと会うことはもちろん、部屋から一歩も外に出ることを許さなかったのだが――ほんの一瞬の隙をつかれ、娘は男にかどわかされて、行方知らずとなってしまった。
 と、二親は語ったそうだが、どう考えても、厳重に監禁された娘を若い男が一人で誘拐したとは思い難い。これは娘も男を憎からず想っていて、二人は相思相愛だったと考える方が自然だろう。
 金を惜しまず人を雇い、執念深く親達が二人の居所を突き止めた時、所帯を持って既に一年以上共に暮らしていたそうだから、完全にかどわかしではなく駆け落ちだ。居所を知った両親が手紙をしたため「こうなったからには二人の仲を認めるから、一度顔を合わせよう」と言って若夫婦と再会した時、娘は既に産み月に近い大きな腹を抱えていた。
 そこで、不幸な掛け違えが起きて――と両親は話したが、それは本当に不幸な行き違いと呼ぶべきものだったのか。
 駆け落ちした娘夫婦と再会するだけであれば、腕の立つ男達をあらかじめ何人も用意しておく必要はない。両親に認めてもらえる――孫を抱いてもらえるとささやかな喜びを抱いてやってきた娘の眼前で、夫は親の雇った男達に殴られ命を落とした。はじめから殺すつもりではなかったかもしれない。だが無理やり、力ずくで連れて行かれようとする身重の妻をかばった男の死は、結局、罪咎として裁かれることはなかった。
 そうして連れ戻された実家で、間もなく娘は子を産んだ。産み月には若干足りなかったらしいが、産声を上げたというから、抱き上げて乳を与えれば元気に育ったことだろう。しかし、誕生を寿ぎ、優しく抱き上げてくれる腕はなかった。生まれたての赤ん坊は両親の――祖父母の雇った産婆の手で、濡れた紙で鼻と口を塞がれ葬られた。最愛の夫を両親に殺されるという悲運の中で、命懸けで我が子を産んだばかりの母親の目と鼻の先で。
 事ここに至って、娘の心は完全に壊れた。産後のただでさえ滋養が必要な時期にろくに食事を取らず、聞こえるはずのない赤子の鳴き声が聞こえると言って四六時中、半狂乱になって我が子を探し回る。そんな娘に対し、お前の赤子はもう生きてはいない、だから正気を取り戻して早く自分達の可愛い娘に戻れと諭した二親は、本心から自分達が悪いとは微塵も考えていなかった可能性が高い。
 語る玄徳の口調はどこまでも重たく、年若い雅道は、ずっと眉を顰めて拳を握りしめている。赤子が殺されたくだりでは、忠雅よりはるかに年齢も人生経験もある慈円和尚が顔を歪め、数珠を手繰り寄せて合掌した。男達でさえこの反応なのだ。吐き気でも催したのか、菊乃は墨染の衣を口元にあて、先ほどから固く目を閉じてしまっている。
 忠雅も胸が悪くなりそうだったが、明野領の次席家老としては、この両親はきっときわめて優秀な商人なのだろうと思う。他者の嘆きや痛みに思いを馳せず、ひたすら利己的に行動できる。それもまた一種の才能なのだ。優れた商人や辣腕の為政者――世間から誉められ、崇められる人間の中には一定程度、この手の人間が存在する。娘が親の意に添わない相手を選びさえしなければ、家内だって平和で安全だったことだろう。夫婦のどちらかがこんな惨い仕儀を行えば、普通ならもう片方が必死で止めそうなものなのに、二人で仲良く手を携えて行ってしまうあたり、価値観のぴたりと一致した非常に相性の良い夫婦なのだろうし。
 ただ、この優秀で良好な夫婦の目論見は、彼らの血を分けた娘に対してだけは完全に外れた。赤子を殺された娘はやがて、完全に外からの刺激に反応しなくなった。飯を食わず、水も飲まず、眠りもせずに半ば死人となった娘を医師の元に連れてきた両親は、このままでは娘が死んでしまう、助けてくれ、どうか娘の記憶を消し去ってくれと泣いて縋ったそうだ。
 当時、今の雅道と同じ年齢だった玄徳は呆れかえって空いた口が塞がらなかったし、師匠もまた苦虫をかみつぶしたような表情をしていた。それでも医師が両親の言葉に従う気になったのは、差し出された金の包みに目が眩んだというよりは、目の前の娘の様子があまりに哀れで見ていられなかったからなのかもしれない。
「それで……娘の記憶を消し去ることはできたのか」
 確かにこの場合、娘の悲惨な記憶を消し去ることは、治療と呼ぶべきものなのかもしれない。薬も過ぎれば毒になり、毒も使いようによっては薬となる。忠雅自身、今でも辛い記憶がよみがえって、眠れなくなることがたまにある。過去の記憶を消してくれる妙薬があるというなら、試してみたいような気がしないでもない。
「できたと言ってよいのかどうか……」
 玄徳の師匠は、かつて戦国の世で上杉に仕えた忍びの一族の秘薬だと言っていた。調合方法は教えてもらえなかったが、恐らく精神に働きかける数種類の薬草と、何かの動物の生き胆を混ぜ合わせたものだと思われる。娘の体調を見極めごく少量の薬を何回もに分けて服用させ、鍼を打ち、時に灸を用い――当時の玄徳には、師匠が行っている施術の半分も理解ができなかった。
 秘薬の効果は確かにあった。娘は自身の身に起きた凶事を忘れた。若い職人と惹かれ合ったことも。その男と所帯を持って、子を産んだことも。しかし自身の名や家のこと、親たちの顔は忘れなかったので、男に誑かされる前の可愛い娘が戻って来たといって、両親は心から歓喜して涙を流し、一家は平穏を取り戻した。
 それでめでたしめでたし……となったのならば、玄徳がここまで暗い眼差しをしているはずがない。話はそこで終わらなかったのだ。だから今、置き行灯一つの薄暗い寺の一角で、医師と医師見習いと僧侶と尼僧と次席家老が、肩を寄せあって重苦しい話を聞いている。
「確かに娘は起きたことを忘れた。だが、薬の効果というのは時と共に薄まって行くものだ。そしてあの薬は……恐らく、心の臓に負担をかけるのだろう。何かの拍子に揺り戻しが起きた時が、酷かった」
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