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第二部3
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――もしかしたら、背負いきれない重荷を誰かに一緒に背負ってもらいたいだけなのかもしれない。
飯野成之の訪問があってすぐ、本領に向かって出立したのは、以前菊乃に言われた言葉が心の片隅に残っていたからだ。正直もうこれ以上、あの雅勝によく似た若者を曖昧なまま放置しておけなかった。他人の空似なのか、それとも何らかの理由で記憶を失った本人なのか。確かめないことには忠雅自身がとても正気を保てそうにない。
「え、清水様、どうしてこちらに……?」
前触れもなく、突然現れた忠雅を見て、おるいは当然のことながら驚いたようだった。洗濯ものを干す手を止め、目を見開いている。何をどう告げるべきか悩みながら近づいて行った時、唐突に、今、彼女が一人ではないことに気が付いた。
棒立ちになったおるいの足元から、ひょこりと小さな頭が覗いている。女の子なのだろう。大人のものを解いて作ったらしい小花柄の着物を着ていて、手に真っ赤な紅葉の葉っぱを持っている。よく見ると物干し竿にかかった洗濯ものにも、大人物と子ども物があった。
――そうか。嫁いだのか。
彼女が実家にいなかった時点で気づいてしかるべきだった。おるいは今、誰かに嫁いで所帯を持っているのだ。この件に関して誰が最も悪いかというならば、所帯を持つ約束をしながら勝手に死んだ雅勝が一番悪い。お陰で一度はおるいの未来も心さえも壊れた。今、彼女が誰かに嫁いで子を産んで、平和に暮らしているのならば、祝福こそすれ責める気は毛頭ない。
そして今、おるいの得た平和で幸福な結婚生活に、忠雅の存在は完全に過去の遺物だろう。遺物ならばまだしも、異物として今の夫との関係に悪影響を及ぼしたなら、切腹でもして詫びるしかない。
「ごめん!」
「清水様?」
「ごめん、本当に悪かった!俺が来たことは忘れてくれ!旦那と子供と元気で暮してくれ!じゃあな!」
「えっ?あの、ちょっと待って下さい!清水様」
責める気などもちろんないし、おるいの今の生活を壊すつもりもまったくない。それでも心のどこかが少しだけ痛かった。信じたかったのかもしれない。忠雅が忘れられずにいるように、おるいもまた、忘れずにいてくれると。同じ思いを抱えている人間がこの世のどこかにいると思うことで、忠雅自身が救われるような気がしていたのかもしれない。
一息に言い切って、振り切るように踵を返した忠雅をおるいは追いかけて来た。子どもを腕に抱えて、息を切らしながら必死で忠雅の袖にしがみついてくる。
「あの清水様、何か勘違いをされてませんか?この子は――」
振り返った瞬間、おるいの腕の中にいた童女とまともに目が合った。
忠雅はあまり子どもに馴染みがないのでよくわからないのだが、亡くなった時の千代丸君がこれくらいの大きさだったので、今、三歳くらいだろうか。そういえば子どもって生まれるまで十月十日母親の腹にいるんだったよな……と指折り数えてみる必要はなかった。おるいの腕の中にいる幼子の顔。子どもに馴染みのない忠雅でも女の子は幼い頃、父親に似るという俗説は聞いたことがあった。
赤の他人の忠雅が見ても可愛らしいと思う。ふっくら白くてすべすべの頬。さらさらの髪。ぱっちりとした黒い目が、母親と忠雅の顔を交互に見比べている。
何か形見の品でも渡してやりたかったのだけれど、渡せるものが何もなかった。あいつは何も残さずに逝った――ずっとそう思っていた。だけどまさかこんな大きなものを残していたとは。
いや、そういうものなのかもしれない。人は誰しも痕跡を残さずに生きることはできない。脱ぎ捨てた着物に温もりが残っているように。どこかに必ず何かが残っている。
「かかさま?この人、だあれ?」
「ゆい、この方はね。――お父様の大切なご友人ですよ」
おるいの腕の中できょとんと目を見開いた幼子は、明らかに亡くなった友の面影を宿していた。
飯野成之の訪問があってすぐ、本領に向かって出立したのは、以前菊乃に言われた言葉が心の片隅に残っていたからだ。正直もうこれ以上、あの雅勝によく似た若者を曖昧なまま放置しておけなかった。他人の空似なのか、それとも何らかの理由で記憶を失った本人なのか。確かめないことには忠雅自身がとても正気を保てそうにない。
「え、清水様、どうしてこちらに……?」
前触れもなく、突然現れた忠雅を見て、おるいは当然のことながら驚いたようだった。洗濯ものを干す手を止め、目を見開いている。何をどう告げるべきか悩みながら近づいて行った時、唐突に、今、彼女が一人ではないことに気が付いた。
棒立ちになったおるいの足元から、ひょこりと小さな頭が覗いている。女の子なのだろう。大人のものを解いて作ったらしい小花柄の着物を着ていて、手に真っ赤な紅葉の葉っぱを持っている。よく見ると物干し竿にかかった洗濯ものにも、大人物と子ども物があった。
――そうか。嫁いだのか。
彼女が実家にいなかった時点で気づいてしかるべきだった。おるいは今、誰かに嫁いで所帯を持っているのだ。この件に関して誰が最も悪いかというならば、所帯を持つ約束をしながら勝手に死んだ雅勝が一番悪い。お陰で一度はおるいの未来も心さえも壊れた。今、彼女が誰かに嫁いで子を産んで、平和に暮らしているのならば、祝福こそすれ責める気は毛頭ない。
そして今、おるいの得た平和で幸福な結婚生活に、忠雅の存在は完全に過去の遺物だろう。遺物ならばまだしも、異物として今の夫との関係に悪影響を及ぼしたなら、切腹でもして詫びるしかない。
「ごめん!」
「清水様?」
「ごめん、本当に悪かった!俺が来たことは忘れてくれ!旦那と子供と元気で暮してくれ!じゃあな!」
「えっ?あの、ちょっと待って下さい!清水様」
責める気などもちろんないし、おるいの今の生活を壊すつもりもまったくない。それでも心のどこかが少しだけ痛かった。信じたかったのかもしれない。忠雅が忘れられずにいるように、おるいもまた、忘れずにいてくれると。同じ思いを抱えている人間がこの世のどこかにいると思うことで、忠雅自身が救われるような気がしていたのかもしれない。
一息に言い切って、振り切るように踵を返した忠雅をおるいは追いかけて来た。子どもを腕に抱えて、息を切らしながら必死で忠雅の袖にしがみついてくる。
「あの清水様、何か勘違いをされてませんか?この子は――」
振り返った瞬間、おるいの腕の中にいた童女とまともに目が合った。
忠雅はあまり子どもに馴染みがないのでよくわからないのだが、亡くなった時の千代丸君がこれくらいの大きさだったので、今、三歳くらいだろうか。そういえば子どもって生まれるまで十月十日母親の腹にいるんだったよな……と指折り数えてみる必要はなかった。おるいの腕の中にいる幼子の顔。子どもに馴染みのない忠雅でも女の子は幼い頃、父親に似るという俗説は聞いたことがあった。
赤の他人の忠雅が見ても可愛らしいと思う。ふっくら白くてすべすべの頬。さらさらの髪。ぱっちりとした黒い目が、母親と忠雅の顔を交互に見比べている。
何か形見の品でも渡してやりたかったのだけれど、渡せるものが何もなかった。あいつは何も残さずに逝った――ずっとそう思っていた。だけどまさかこんな大きなものを残していたとは。
いや、そういうものなのかもしれない。人は誰しも痕跡を残さずに生きることはできない。脱ぎ捨てた着物に温もりが残っているように。どこかに必ず何かが残っている。
「かかさま?この人、だあれ?」
「ゆい、この方はね。――お父様の大切なご友人ですよ」
おるいの腕の中できょとんと目を見開いた幼子は、明らかに亡くなった友の面影を宿していた。
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