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第二部2
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――わたしは結局、どこまで行ってもあの方の一番にはなれないようだ。
忠雅が帰った後、保月庵で茶の道具を片付けながら、菊松尼――菊乃は夕焼けの広がる空を見ていた。秋が近づいている所為か随分と赤い空だ。海の方角から吹く風はとても鋭く、まだわずかに青を残した空が、潮の匂いのする風に斬られて血を流しているかのように見える。
そんな禍々しい想像は、この三年間の苦悩と悔恨を象徴しているかのように見えた。
忠雅自身は覚えていないようだが、菊乃は幼い頃から忠雅のことを見知っていた。菊乃は五大家老家の末席・佐竹家の末娘であり、父が忠雅の父と親しかったので、父や兄に連れられて幼い頃から何度も清水の邸に出入りしていた。清水家には息子はいたものの娘がいなかったので、当時まだ存命だった清水家の奥方は菊乃を実の娘のように可愛がってくれた。そんな日々の中で知ったのだ。庭の片隅や邸の軒先で時折見かける少年が、清水家の末子――当主が台所女中に手を付けて産ませた子であるということを。
幼い頃は大抵、男児より女児の方が発育がよいものだし、栄養状態のよくない忠雅は六、七歳くらいまで、菊乃より大分身体が小さかった。服装こそ武家の子であったが、いつも薄汚れて、痩せて、それでいてとても綺麗に澄んだ目をしていた。庇護を請う幼子の目ではない。その年齢で既に、何かを成し遂げようとする大人の男の目をしていた。
一度も口をきいたことはない。ただ清水の邸を訪れる時に見かけるだけの少年の強い眼に菊乃は惹かれた。初恋だったように思う。もっとも惹かれたところでどうにもならなかった。清水家の七男であれば、いずれは養子に行くか出家するのだろう。菊乃には兄がいるので嫁に行くしかない。あのまま順当に時が経っていたならば、二人の人生は決して交わることはなかっただろう。
それがまさか上に六人もいた清水家の男子がすべて亡くなって、忠雅が家督を継ぐことになるとは。家同士の都合で忠雅と許嫁となった時、菊乃は運命に近いものを感じた。再会した時、十六歳の忠雅は明るく快活な若者となっていて、菊乃に対する言動も優しかった。だが何度か清水の邸で顔を合わせるうちに悟った。この人が、自分に向ける笑顔や言動はすべてがまがい物だ。菊乃が惹かれて止まなかった強い眼差しは、常に彼女を通り抜け、彼方にあるまったく別のところに向いている。
その感情は婚約して間もなく、忠雅に友として雅勝を紹介された時に確信に変わった。清水の邸を出て影衆であった頃、忠雅は雅勝と二人で明野領の外れにある川口家の別宅で暮していた。雅勝は経師屋顔負けに手先が器用なので、御見の方の許可の上、朽ち果てかけていた別宅を手直しし、三年ほど、そこで一緒に暮らしていたのだという。笑い合う二人の若者の間には屈託も隔たりもなく、菊乃には決して向けられることのない忠雅の素の感情がすべて雅勝に向いていることを悟って、強く嫉妬した。
これが恋敵であれば勝負を挑むこともできる。勝負に負けて泣いたとしても、その方がまだしもわかりやすかろう。だが嫉妬の対象が、夫となる人のもっとも親しい友であった場合、いったいどうすればよいのだろうか。
もちろん、二人の関係が色や情に基づくものでないことは承知の上だ。現実に雅勝は可愛らしい娘と恋に落ちて所帯を持つところだったし、菊乃と忠雅も祝言を挙げる予定だった。菊乃は雅勝のこともおるいのことも人として好きだったので、あのまま何事も起こらなければ、親しい二組の夫婦として、うまく付き合って行けたと思う。今頃には菊乃のこの浅ましい感情も若い頃の笑い話となって、おるいと二人、繕い物をしながら――あるいは膝の上に互いの子どもを抱きながら、笑い合っていたかもしれない。
しかしそれも雅勝が死んだことで、すべてが夢となって消えた。無二の友の幸せを奪って死なせてしまったと、忠雅はずっと悔やんで苦しみ続けている。菊乃との婚約を破棄した後も頑なに妻帯しようとしないのは、その現れだろう。それでも深い心の傷も、年月と共に多少は癒えてきたのか、前藩主・武智泰久の死から三年あまりが経過して、ようやく保月庵にやってくる時は心の底から安堵した笑顔を見せるようになった――その矢先に、雅勝とよく似た人物が現れたのだった。
――雅勝様が生きていらっしゃった……ということはないのですか?
忠雅は苦笑して否定していたが、菊乃にとっては半ば祈りのような問いかけだった。五大家老の一人を兄に持つ菊乃は三年前、何があったかを正確に知っている。あの時は正直、男達の決断に腹が立った。女を置き去りにして、男という生き物はどうしてこうも散り急ぐのか。そして今はかなり怖い。もしまた同じようなことが起こったならば、忠雅はむしろ喜んで、菊乃を置いて自らも散って行くだろうから。
あの時、雅勝が実は生き延びていて。何かの事情でこれまでの記憶をすべて失っている――などということは絶対にあり得ないのだろうか。
もちろん、それはそれで問題はある。忠雅の言葉から判断すると、その人物は影衆の一人あるいは二人を斬殺し、忠雅の命を狙った敵方の人間だ。もしも無二の友が敵に回ったのだとしたら、忠雅はやはり悩み苦しむむだろう。
だけどそれでも死んでしまうよりはいい。生きてさえいてくれれば、自分が友を死なせたのだという悔恨からは解放される。それだけで忠雅の心は大分救われるはずだ。
――どうかその人が雅勝様でありますように。
決して誰にも――忠雅に対してさえも口には出しては言えない願いを、血のように禍々しい空に向かって、菊乃は祈った。
他の誰の為ではない。ただ愛する人の為だけに。
忠雅が帰った後、保月庵で茶の道具を片付けながら、菊松尼――菊乃は夕焼けの広がる空を見ていた。秋が近づいている所為か随分と赤い空だ。海の方角から吹く風はとても鋭く、まだわずかに青を残した空が、潮の匂いのする風に斬られて血を流しているかのように見える。
そんな禍々しい想像は、この三年間の苦悩と悔恨を象徴しているかのように見えた。
忠雅自身は覚えていないようだが、菊乃は幼い頃から忠雅のことを見知っていた。菊乃は五大家老家の末席・佐竹家の末娘であり、父が忠雅の父と親しかったので、父や兄に連れられて幼い頃から何度も清水の邸に出入りしていた。清水家には息子はいたものの娘がいなかったので、当時まだ存命だった清水家の奥方は菊乃を実の娘のように可愛がってくれた。そんな日々の中で知ったのだ。庭の片隅や邸の軒先で時折見かける少年が、清水家の末子――当主が台所女中に手を付けて産ませた子であるということを。
幼い頃は大抵、男児より女児の方が発育がよいものだし、栄養状態のよくない忠雅は六、七歳くらいまで、菊乃より大分身体が小さかった。服装こそ武家の子であったが、いつも薄汚れて、痩せて、それでいてとても綺麗に澄んだ目をしていた。庇護を請う幼子の目ではない。その年齢で既に、何かを成し遂げようとする大人の男の目をしていた。
一度も口をきいたことはない。ただ清水の邸を訪れる時に見かけるだけの少年の強い眼に菊乃は惹かれた。初恋だったように思う。もっとも惹かれたところでどうにもならなかった。清水家の七男であれば、いずれは養子に行くか出家するのだろう。菊乃には兄がいるので嫁に行くしかない。あのまま順当に時が経っていたならば、二人の人生は決して交わることはなかっただろう。
それがまさか上に六人もいた清水家の男子がすべて亡くなって、忠雅が家督を継ぐことになるとは。家同士の都合で忠雅と許嫁となった時、菊乃は運命に近いものを感じた。再会した時、十六歳の忠雅は明るく快活な若者となっていて、菊乃に対する言動も優しかった。だが何度か清水の邸で顔を合わせるうちに悟った。この人が、自分に向ける笑顔や言動はすべてがまがい物だ。菊乃が惹かれて止まなかった強い眼差しは、常に彼女を通り抜け、彼方にあるまったく別のところに向いている。
その感情は婚約して間もなく、忠雅に友として雅勝を紹介された時に確信に変わった。清水の邸を出て影衆であった頃、忠雅は雅勝と二人で明野領の外れにある川口家の別宅で暮していた。雅勝は経師屋顔負けに手先が器用なので、御見の方の許可の上、朽ち果てかけていた別宅を手直しし、三年ほど、そこで一緒に暮らしていたのだという。笑い合う二人の若者の間には屈託も隔たりもなく、菊乃には決して向けられることのない忠雅の素の感情がすべて雅勝に向いていることを悟って、強く嫉妬した。
これが恋敵であれば勝負を挑むこともできる。勝負に負けて泣いたとしても、その方がまだしもわかりやすかろう。だが嫉妬の対象が、夫となる人のもっとも親しい友であった場合、いったいどうすればよいのだろうか。
もちろん、二人の関係が色や情に基づくものでないことは承知の上だ。現実に雅勝は可愛らしい娘と恋に落ちて所帯を持つところだったし、菊乃と忠雅も祝言を挙げる予定だった。菊乃は雅勝のこともおるいのことも人として好きだったので、あのまま何事も起こらなければ、親しい二組の夫婦として、うまく付き合って行けたと思う。今頃には菊乃のこの浅ましい感情も若い頃の笑い話となって、おるいと二人、繕い物をしながら――あるいは膝の上に互いの子どもを抱きながら、笑い合っていたかもしれない。
しかしそれも雅勝が死んだことで、すべてが夢となって消えた。無二の友の幸せを奪って死なせてしまったと、忠雅はずっと悔やんで苦しみ続けている。菊乃との婚約を破棄した後も頑なに妻帯しようとしないのは、その現れだろう。それでも深い心の傷も、年月と共に多少は癒えてきたのか、前藩主・武智泰久の死から三年あまりが経過して、ようやく保月庵にやってくる時は心の底から安堵した笑顔を見せるようになった――その矢先に、雅勝とよく似た人物が現れたのだった。
――雅勝様が生きていらっしゃった……ということはないのですか?
忠雅は苦笑して否定していたが、菊乃にとっては半ば祈りのような問いかけだった。五大家老の一人を兄に持つ菊乃は三年前、何があったかを正確に知っている。あの時は正直、男達の決断に腹が立った。女を置き去りにして、男という生き物はどうしてこうも散り急ぐのか。そして今はかなり怖い。もしまた同じようなことが起こったならば、忠雅はむしろ喜んで、菊乃を置いて自らも散って行くだろうから。
あの時、雅勝が実は生き延びていて。何かの事情でこれまでの記憶をすべて失っている――などということは絶対にあり得ないのだろうか。
もちろん、それはそれで問題はある。忠雅の言葉から判断すると、その人物は影衆の一人あるいは二人を斬殺し、忠雅の命を狙った敵方の人間だ。もしも無二の友が敵に回ったのだとしたら、忠雅はやはり悩み苦しむむだろう。
だけどそれでも死んでしまうよりはいい。生きてさえいてくれれば、自分が友を死なせたのだという悔恨からは解放される。それだけで忠雅の心は大分救われるはずだ。
――どうかその人が雅勝様でありますように。
決して誰にも――忠雅に対してさえも口には出しては言えない願いを、血のように禍々しい空に向かって、菊乃は祈った。
他の誰の為ではない。ただ愛する人の為だけに。
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