茜さす

横山美香

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 そこに現れたのは、雅勝の腰の高さまで背丈のある巨大な猪だった。
 濡れたような濃灰色の毛にどこかつぶらな瞳。そして口の両側で上向きに光る牙が、下手な刀匠がうった刃物より鋭く見える。
「――るい!」
 雅勝が大声を張り上げたので、るいは背後を振り返って、その場から飛びのいた。彼女が荷を放り捨てて鳥居の影に身を滑らせた時、猪の牙が鳥居の柱を抉り、周囲に木っ端が飛び散った。
 るいがきっちり避けてくれたおかげで、雅勝の側にも刀を抜く時間の余裕ができた。刀を抜いて地面を蹴り、猛り狂った獣と正面から向かい合う。ただ実際、どう戦えばよいのかさっぱりわかっていなかった。
 猪の肉ならば以前、忠雅の奢りで食ったことがあるが、これまで雅勝は、猪と戦ったことはない。いや、雅勝より年長の既に鬼籍に入った影衆達だって、猪相手に刀を振り回したことはないのではないか。
 どこをどう打てば骨が砕けるのか。どこを断てば相手の動きを封じられるか。人の身体の急所ならば把握しているが、猪の急所はわからない。どんな生き物であっても首が急所であることに変わりはないかと斬りつけてみたのだが、そもそも胴と首の境界を見極められていないので、文字通り手負いの獣にしてしまっただけのようだった。
 踏みしめた草履の下に土と石の感触を感じながら、全身の神経を相手の動きを把握することに集中させる。
 猪突猛進という言葉があるが、まっすぐにしか進めないわけではない。止まることもできるし向きも変えることができるが、後退はできない。そして恐らく、横には動けない。それほど目がよくないらしく、素早い動きにはついてこられないようだ。
 相手の動きは読めてきたものの、相変わらずどこを斬ればよいのかわからない。となれば、あとはもう手当たり次第に斬り刻むしかないだろう。相当血生臭い光景ができあがるだろうが、それで息の根は止まるはずだ。
 大体の算段ができたので、軽く息を吐き出し、刀を持つ手から力を抜く。よく知らないが、猪とはここまで獰猛な生き物なのか。雅勝の身体から殺気が消えた途端、荒い息を吐き、瞳を怒らせながら突進してきた。
 充分に引きつけ、獣の身体が間合いに入るのを待つ。再び刀を握る手に力をこめた時――唐突に目の前の景色が捻じれて歪んだ。
 それはほんの一瞬のことで、すぐに視界の揺らぎは収まった。視界が戻ると同時に、諸突猛進の本当の意味を知る。真っ直ぐ走る時の速度は人間の比ではない。思っていたよりはるかに近い位置に、濃灰色の身体と白い牙があった。
 人の身体の急所は、他人のものも自分のものも正確に把握している。このままあの牙が直撃した場合、ちょうど腿の位置に突き刺さる。人の腿には太い血の筋が走っているので、そこを裂かれた場合、止血のしようもなく、手の打ちようがない。
 速さではかなわない。斬るのは無理だ。それでも避けるだけならば、横に跳べば間に合うと判断し――
 ――急に突き抜けたように、何もかもがどうでもよくなった。
 他でもない自分自身が選んだことなので、己の境遇を恨むつもりはない。それでも心のどこかで願っていた。割り切れぬ思いを割り切るたびに、自分の今の境遇が、母と妹が生きる糧になっているのだと、そう考えてわずかばかり慰められるような気がしていた。――それがすべて無意味だったのだとしたら。
 正直、今さら本領の隠密やら海賊やらにやられるのは業腹だが、十九まで生き延びながら、どことも知れぬ山奥で、獣に殺された影衆がいたというのも後世までの笑い話として悪くないだろう。瞬きするより短い刹那、雅勝は心の底から、生き延びることが面倒くさくなった。
「――駄目!」
 何もかも捨て去りそうになった一瞬、強い声音が耳朶を打った。途中から彼女の存在を忘れ果てていたので、細い背が雅勝と猪の間に割って入って、まるで盾にでもなるかのように腕を広げた時、本気で焦りを感じた。こんな細い体があの牙に引き裂かれたら、ひとたまりもない。――この娘が血を流して苦しむところを見るのは嫌だ。
 細い肩を掴んで押しのけようとして、これまで彼女から感じたことのない強い気配に掌が途中で止まった。雅勝と猪の間に割って入ったるいは、鳥居の向こうに鬱蒼と広がる山の木々に向けて声を張り上げていた。
「この人に手を出すな!――猪瀬の熊に伝えろ、娘が婿を連れて帰って来たと!」
 るいの身体の寸前まで迫っていた獣の動きが、何かに弾かれたように停止する。一瞬、まさか獣に人間の言葉がわかるのかと思いかけて、人間であるはずの雅勝が、彼女が何を言っているのかさっぱりわからないことに気が付く。
 ――今、何かとんでもなく意味不明なことを言わなかったか。
 猛り狂っていたはずの猪は、猛り狂ったままの形相で停止している。獣と雅勝の中間で、るいはまだ森の木々を見ている。この場所は既に鳥居の中だが、確かに神舎の社はない。鳥居の奥にぽっかり空いた空間の向こうに生い茂る木々の濃緑は、既に夏の装いだ。
 自分はともかく、この娘を獣の餌にすることはなさそうだと密かに安堵した時、枝ずれの音に混ざって、かすかに笛の音を聞いたような気がした。恐らく通常の人間ならば気が付かないほどのかすかな音だが、影衆達は音に対する修練も積んでいる。この手の音は通常、人間より獣の方が敏感なので、誰かが音を使って獣を操っていたのか。
 刀の柄を握る手に再び力をこめた時、
「――お嬢!遅かったな、待ちくたびれたぞ!」
 るいが見つめる先で茂みが割れ、そこから複数の人間の顔が覗いた。
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