茜さす

横山美香

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 君水藩明野領では、桜が散って葉桜が生い茂る季節になって強い南風が吹く。
 地形の関係か、あるいは潮の流れの影響なのか。春一番とは一般的に、立春から春分の間に吹く風のことだから、春一番にはかなり遅い。だが日のある時間が伸びてきて、梅雨入りまでに間があるこの時期に吹く突風が、明野領にとっての春一番であることには違いない。
 その日、手習いの時間が終わり、子ども達が帰った後の法勝寺の庭先にも春一番が吹いた。子ども達の置き土産の手習い紙が強い風にあおられて、手習い部屋の中だけではなく、庭にまで舞い散っている。
「うわ……、すごい風ですね」
「毎年のことだ。風が強いのはまだしばらく続くぞ。陣屋の庭木なんて毎年この時期は、飛んで来た洗濯物で物干し竿みたいになるからな」
 るいが庭に降りて飛んで行った手習い紙を集め出したので、雅勝は部屋の中に散ったものを拾い集めた。雅勝が毒にやられた際に寺と陣屋を行き来していたのがまずかったのか。彼女は今、どうやら陣屋の奥座敷における法勝寺担当と認識されてしまったらしい。もともと御見の方と和尚が親しいので、陣屋からはちょくちょく文やら季節の品やらが届いていたのだが、最近ではほとんどその遣いにるいがやって来る。そのたびに手習い所を訪ねて来ては雅勝と言葉を交わし――どういうわけか、この寺にすっかり馴染んでしまった。
 もっとも彼女自身は里にいる時はわずかに仮名が読める程度で、まともに読み書きを覚え出したのは明野領に来て陣屋に勤めてからのことだという。事実、今でも難しい字は苦手だと言って、年長の子どもに教わったりもしている。その話を聞いた時、正直なところ雅勝はかなり深いところから驚いた。――この聡い娘が、ほんの少し前まで無筆だったとは。
 部屋の中のものを大方拾い終えて庭を見やると、るいも地面に落ちた紙をすべて拾い上げ、庭木に引っかかった手習い紙に手を伸ばしたところだった。さすがに忍び里出身だけあって、身軽に枝葉の間に引っかかった紙を回収している。しかし最後に残った一枚だけは、どうしても彼女の背丈では手が届かなかった。
 何度か飛び上って指が届かず、いや、さすがにそれは無理だろうと思って見ていたら、履物を脱いで木に登るつもりらしい。最初に会った時のような男装ならともかく、今のその恰好で脹脛をむき出しにして木に登るのはいかがなものか。雅勝も履物をひっかけて庭に下り立った。雅勝の背丈であれば、少し手を伸ばせば容易に指が届く。
「おい、枝が折れるぞ、やめておけ」
 雅勝と庭木の間で振り返った娘は礼を言い、自分が届かなかった枝と雅勝の手とをしみじみと見比べている。あまりにじっくり見ているので、何を言いだすのかと思えば、
「……背が高いって便利ですね」
 人の身長を柄の長い熊手が何かと一緒くたにしている。
 ちょくちょく顔を合わせるようになったとは言っても、手習い部屋には子ども達がいるし、寺には和尚も小坊主もいる。二人きりで他の耳がないというのはもしかしたらこれがはじめてかもしれない。これまでずっと考えていたことを話すよい機会だと思って、雅勝は頭一つ低いところにある相手に向き直った。
「るい」
「はい?」
「今度、海を見に行かないか」
 再び吹いた風は春一番というにはほど遠い、優しい感触のものだった。
 るいが目を開いて押し黙ったので、頭上で揺れる葉桜の音がやけにしっかり耳に届いてきた。何の反応もないので、そんなに絶句するほどおかしなことを言ったかと思った時、とても嬉しそうに笑って頷いた。その瞬間、彼女の頬がわずかに染まったように見えたのは――橙に染まり始めた陽射しの所為だと思うことにした。
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