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太陽神降臨
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「じゃあ、行ってきます」
なんだこの面接前のような緊張感は。異世界に来たのはいいけれど、なんか思ってたのと違うぞ。
などと考えながら、鳥のさえずりにも聞こえる鴬張りの床を、きゅっきゅと鳴らしながら歩く。
「ここからが“本殿"だ。童、常に感謝の念を持ち、敬う心を忘れるな」
大きな扉の前で、男は私を見る事もせず、真正面を向いたままで口を開いた。その様はあまり良い気分を私に残さない。
「あの、付いてこないんですか?」
「この先は、許可の下った者以外は入れない」
なるほど。それだけ神聖な場所って認識でいいのか? まあいい。なんでも来いや。
そうやって流れに身を任せ、まずは扉を開けようと一歩、足を前に出したその時だった。その彫刻細工が美しい大扉が、まるで私を待っていたかのように自ら口を開け始めたのだ。
そして扉に誘われるように一歩、また一歩と歩みを進めると、再び扉が動き出し、大きく開けていたその口を閉じてしまった。――――これで私は完全に独り。
「マジか。なんだこれ、どうすればいいんだ?」
先ほど歩いて来た殿内とは違い、今度は最低限の窓しかない大部屋。というよりも、大空間と表現するのがふさわしいだろう。
足を踏み出すと、床の軋む音が寂しくこだまする。
高さも奥行きも桁違いな本殿は、その広さの割には静かで、つんとした無音だけが騒がしく耳の中で反響する。
「人の子。龍野一二三よ」
――――小雨の如く静かに降って来た声。その美しい声は、なぜか私が人間だった頃の名前を呼んだ。
でも何で私の名前を知ってるんだ?
「こ度は、我らの烏が、お主に大変な迷惑を掛けてしまったことを、深くお詫び申す」
綺麗な女性の声。日差しのように透き通る声だが、真夏の太陽のような力強さも持っている。
……烏って、あの三本足の烏のことか?
「いえ。とんでもありません。あんな所に立っていた私も私ですし…………」
私にぶつかって来た烏が、まさかの神の使いだったという事実を知り、逆に申し訳ない気持ちが浮上してくる。
こちらに向かって飛んできたとは言え、落ちたのは私の責任でもあるからなあ。
「ですのでどうか、お気になさらないでください」
「左様であるか。どうやらお主は、激しく寛大な心の持ち主のようだな」
――――その次の瞬間、突如として大空間に光が注ぎ込まれる。太陽を直視することが出来ないように、今の私も、その眩しさに目を開けることが出来ない。
私は咄嗟に袖で光を遮断して目を守る。そしてしばらくそうしていると、逆光のような光は次第に落ち着いてきた。そして代わりに、声が一つ。
「ふう、いつぶりだろうか。天の山腹に降りてきたのは」
天の声とは違う声……?
袖を降ろすと、目に飛び込むは絶世の美女。もとい天女。
七色の装束を身に纏い、耳や頭には色鮮やかな宝飾。そして奥が透いて見えるほどの薄い羽衣が、まるで龍のように巻き付いている。
背丈はユキメより少し高く、恐らく一七〇以上はある。まあ、とにかく美人だ。
「どうした? あまりの眩しさに失明したか?」
そう言って天女は笑うが、あの光は冗談に聞こえない眩しさだった。下手したら本当に失明していたかもしれない。
「あの、貴女様は?」
恐る恐る私は彼女に問う。しかし私の勘が外れていなければ、多分彼女は腰に手を当て、胸を張って答えるだろう。
「よくぞ聞いてくれた。余は天の神々が住まう都、天都を治める主宰神。名を、天陽大神である!」
予想通りの自己紹介。やはり彼女はお姫様タイプ。しかも一人称が“余”だ。きっと権力を振りかざして、無理難題を押し付けるタイプの神様に違いない。
「な、なるほど」
「あれ、もしかして余がどれだけ凄いか分かってない?」
どこか友達と話してるような感覚だ。まだ参道で出会った樹木の女神さまの方が、よっぽど|貴(とうと)かった。
「いや、そんなことないですよ」
「言っておくが、余より偉い神様なんていないんじゃからな」
調子が狂う。これだけの大々的な空間でこの背丈だし、なんか性格も十代みたいだ。本当は偉い神様の娘なのではと疑ってしまう。
「し、しかし何故そのような神様が、わざわざ私の前に現れたんですか?」
――――と、素朴な質問をしてみる。
「うむ。その方が誠意が伝わるかなって思って」
理由が高校生! “近くにいたから来たよ"的なノリだよ。この神様、行けたら行くって言うタイプの神様だなこれ。
「…………なるほど」
「でも本当に悪かったって思ってるから!」
いや、そんな半ギレで言われても。
それにもう過ぎたことだし、私もそれほど気にしてないんだよな。三十年も前の話だし。
「ですので、そこまで気にしてないので大丈夫ですよ」
「そうかそうか。なら良かった」
どこか軽いんだよなぁ。でもまあいいか。最高神様が直々に謝ってくれたんだ。それだけでも有難いことだ。
「では、そろそろ本題に参りませんか?」
――――そう。私がここに来た目的は禊祓を済ませに来たことだ。私は早く終わらせて神通力を使いたいのだ。
「ふむ禊だな。喜べ、今回はこの余が直々に執り行うぞ」
何でこんなに恩着せがましいんだろう?
「はあ。有難うございます」
「それじゃあ、そこに座れ」
言われるがままに私は彼女の指さす場所に座る。しかしそこから真上を見ると、そういう構造なのか、天井には大きな穴がぽっかりと開いている。
……一体何が起きるんだ?
「ちょっと待っておれ」
そう言って彼女は目をつむり、ぶつぶつと何か言葉を唱え始める。
すると、まるで何かの引き金を引いたかのように、突然頭上からテニスボール大の雨が降りそそぐ。
「――――冷た!」
「まだまだ序の口だよー」
唱える声はどんどん大きくなり、それに従い雨も勢いを増していく。というよりも、もはや雨なんて可愛い物ではない。
大滝の様に連続して降り注ぐ大量の水。その勢いに耐えきれなかった私は、思わず腹ばいになってしまい、その凄まじい水圧を全身に受けてしまう。
――――まるで誰かに押さえつけられている感覚だっ。頭が上がらないし、呼吸も出来ないっ! これはヤバイッ、死ぬッ!
そう思った次の瞬間、岩のようにのしかかっていた奔流は、まるで蛇口を捻ったかのようにピタリと止んだ。
しかし、あれだけの水が落ちてきたにも関わらず、床には水が溜まるどころか、水滴一つさえ残っていない。一体あれは何だったのだ?
降水が止み、私は気管に入った水を吐こうと、全身の筋肉が縮こまるほど激しく咳き込む。それにしても冗談ではない。年齢は三十でも、体はまだ五、六歳児と同等なんだぞ。
――――完全に殺しに来てる。
「お疲れサマー」
心臓も一緒に出てしまいそうなくらい、大量の水を吐く私の背中をさすりながら、彼女は陽気な口調で労いの言葉をかける。
「ちなみに、今の“サマー”は"さま”と掛けてるんだよ。ほら私“太陽の神"だから」
何言ってんだこいつ。人が死にそうだって時に。
「でもこれで、三十歳の禊は終了だよ」
今なんと言った。三十歳の禊と言ったのか? もしかしてこれで終わりじゃないの?
そんな私の疑問に答えるかのように、太陽の神はまさしく、さんさんと太陽のような陽気なテンションでこう言う。
「残るは七十歳の禊だけじゃ。多分その禊祓は余じゃないけど、まあ頑張ってね」
――――むしろお前じゃない方がいい気がする。
「さて、それじゃあ、次は契りの話だけど……」
そうだ。まだ課題は残っていたんだった。確か、力を貸してくれる神様と契約を交わすんだっけ?
「喜べ。お主の神通力。余が力を貸してやる」
正直、この神様とは今日で関係を終わらせたいが、ここで断ったらもっと面倒な繋がりが出来そうだ。
「……あざっす」
咳に紛れて、私はお礼の言葉を砕いた。
「それじゃあ、“余の血”と“お主の血”を今から交わすぞ」
そう言って私の対面にちょこんと正座をすると、絵に描いた様な白くて細い人差し指を私に向けた。
「……でも、どうやるんですか?」
何故だかすごく嫌な予感がする。果たして血と血の交換とは大丈夫なものなのだろうか。衛生的にも、絵面的にも。
「――――まず、相手の指の先を少し切る。次に、指を咥えてその血を飲むのだ」
おっと、ちょっとヤバそうだな。…………でもまあ、人間の身体とは構造が違うっぽいし、大丈夫なのかな?
「わかりました」
ようやく咳も落ち着いて来た私は、袴に染みこんでいる水を雑巾の様に絞り出しながら頷く。
そして、“床は濡れていないのに、なぜ袴は濡れたままなのか"と、禊祓のシステムを呪った。
「うむ、では余の小刀を貸してやる。故にまずはお主が切れ」
正直、指の一本くらいは切り落としてやりたいところだが、生憎、それを実行するほどの度胸を、私は持ち合わせていない。
そうして彼女の手から私の小さい手へと、白銀に輝く小刀が渡る。
私は今から神様の指を切るのだが、まあこの神様の指なら問題なく切れるだろう。
「――――痛っ」
しかし痛みに耐えるその儚げな表情に、不覚にも私の顔は火照ってしまう。というか、神様にも痛覚はあるのだな。それともこの刀が特殊なのか。
「では、次は余の番だな」
そう言って彼女は逆の手で小刀を握ると、台の上に置かれた白い布を手に取り、刃を伝う真っ赤な血を拭う。
……しかし綺麗な手だ。女性らしい細い指に滑らかな関節。それなのに刀の柄を握る姿は様になっている。
と、私が彼女の手に見惚れていると、その手は私の指に軽く傷をつけた。
そして指先からの出血を確認すると、彼女はもう一度血を拭き取り、その刀身を胸の前でゆっくりと鞘に納めて台に戻す。
「それじゃあ今度は、相手の指を咥えます」
血の滴る指が私に向けられる。体に残る龍の本能なのかは分からないが、その真っ赤な貴い血を見ると、体がうずいて仕様がない。
「ふふ。その糸のように細い瞳孔と、血を見ると赤く輝く瞳。最早お主も、立派な龍人なのだな」
――――ついに我慢が出来ず、私は神様の指を咥えた。そして指先から溢れる血液を、この舌の隅々にまで絡ませる。
水とは違い、粘り強く舌に巻きつくような感触。唾液に混ぜて飲み込めば、鼻の奥では鉄分が弾ける。
「こ、こら。そんなに舐めまわすものではないっ」
「す、すいません」
上手く感情の読み取れない表情を見て、思わず指を離してしまった。しかしその際、唾液が口から伸びてしまったので、恥ずかしく思いながらもすかさず袖で拭う。
「こっ、今度は私の番だ」
神様は頬を薄く染めながらも、ゆっくりと私の指を口に含む。しかしこの感じ、どうやら彼女は慣れていないようだ。もちろん私も慣れていないが。
――――そして、柔らかくて暖かい感触が指先に伝わってくる。
彼女が血を飲み込むたびに、舌全体が指に強く吸い付いて嫌でも鳥肌が立つが。たまに猫の甘噛みのように歯が当たるのは不思議と心地がいい。
…………そうして彼女は唾液が漏れないように、ゆっくりと私の指を口から離す。しかし本当にこれで終わったのだろうか。
「これで、お主の身体には余の血が流れることとなる。同様に、余の身体にもだ」
艶やかな深紅色の口紅に、彼女は絵具のように赤い血を染み込ませたまま口を開く。まるで告白でもするかのように頬を赤らめながら。
「もういいんですか?」
何か気まずい。さっきから神様と目が合わなくて余計に気まずい。先ほどの滝行が気まずさの余り、手を振って走り去っていく勢いだ。
「うむ。後はしっかりと祝詞を読んでくれれば、それが”繋がり”となり、余はお主に力を貸すことが出来るだろう」
少しぎこちないドヤ顔だが、不覚にも少し可愛く見えてしまった。
「それじゃ、余も最高神ゆえ、こう見えても忙しいのでな。ここいらで失礼させてもらう」
――先程は「今日で関係を終わらせたい」と思っていたが前言撤回だ。恐らく、彼女とはしばらく会えなくなるだろう。そう思うと少し寂しい。
「わかりました。本日は誠に、ありがとうございました」
九十度に腰を曲げてお辞儀をする。その最中、川のせせらぎを聞いているかのように心が安らぎ、やはりこの方も神様なのだなと強く実感する。
「うむ。お主も神使の責務、しっかりと務めるのだぞ」
そう言って、天陽大神様は再び、眩い光と共に閃光のように消え去る。
それと同時に、堅く閉ざされていた出口も、ゆっくりと口を開け始めた。
「ああ、ソウ様! よくぞ無事に戻られました!」
ユキメと別れた廊下。太陽の神、天陽大神と契りを交わした私は、びしょ濡れの袴を引きずってそこに戻って来た。
「少々お時間が掛かったようですが、大事ありませんか?」
腰を落とし、目に涙を浮かべながら私を見上げるユキメ。彼女は私の身体を事細かく確認し、契りの際に傷つけた指を発見する。
「血が。いま手当いたします!」
袴の袖を爪で切り取り、それを私の指に優しく巻き付ける。だが、あの滝行の後にこのテンションは少し疲れる。
「大丈夫だよユキメ。これくらいの傷」
「なりませぬ! この貴いお体に不純物を入れてしまうのは言語道断」
可愛い。あれだけクールで凛としているユキメが今、私のためにここまで取り乱している。しかしこの世界に来てからどうにも美女ばかりに囲まれる。趣味が変わりそうだ。
「ありがとうユキメ」
黒みつのように艶やかなその髪に、私はそっと手を置いた。すると傷の手当てに集中していたユキメが、はっとした表情で私を見上げる。
「あ、ああ。身に余る幸福ッ!」
彼女はそのまま床に手を着き、その頭も同様に床に打ち付けた。ヨウ家ラヴなのは嬉しいが、他人の目があることも知って欲しい。
「して、ソウ様の清く貴い血を口にしたのは、どの神にございますか?」
ユキメの言葉を聞き、これまで無関心だった糸目の男も、変わらず無関心を装いながら、待ちわびていたかのように薄く目を開く。
「名前が難しい神様だったよ。太陽の神様って言ってたっけ?」
天陽大神だ。しかし私は子供らしさを出すために、あえて言葉を濁した。
――――ふふふ。一体どんな顔で驚くんだろうな。さあ見せてくれその痴態を。
「太陽神だとッ!」
薄く開きかかっていた糸目が、今では誰よりも大きく見開いている。
そうだろ、そうだろ。お前のボスと私は契約したのよ。
「大御神がなに故このような小娘と!」
分かる。その気持ちはよく分かる。自分が尊敬して止まない神様が、私みたいなぽっと出と血を交わしたんだ。妻を寝取られた様な気持ちはよく分かる。
――――でもだからといって、私の襟元を掴むのはやめてほしい。苦しいから。
「手を離せ」
私を掴む男神に、声を強張らせたユキメが立ちはだかる。それなのに私は、ユキメが怖くてその顔を見られない。
神が配分を間違えて作った様な顔が、今どのように歪んでいるのか。気にもならないし、気にしたくもない。
「ユキメ、大丈夫ッ、退がって!」
私の必死の声掛けも届かず、振り絞った言葉は虚しく空に散る。
「……う、うぬは、自分が何をしているのか、分かっておるのか?」
そう言う男の額には汗が伝う。目線はバラバラで、一か所に留まらず泳いでいるが、それは決してユキメの顔には向かなかった。
――――しかしこれは不味い。いくら位が低いとは言えど、相手は|天つ神(あまつかみ)だ。ユキメを止めないと彼女自身に処罰が下される。
「台下こそ、大御神の神使に無礼を働いておるのが分からぬのか?」
ユキメの言葉を聞くと、男神は面白くなさそうに舌打ちをし、そのまま私を掴む手を離した。
……でもちょっと待てよ。糸目の男神はユキメの言葉に何も言い返さなかった。もしかして今のあたしって、神様レベルに偉い感じ?
「…………失礼を致した」
めっちゃ悔しそうだなあ。そんなに偉いのかあの神様は。ゲームで例えるなら、ガチャで激レア引いた感じか?
「お聞き入れ感謝申す。……さあ、参りましょうソウ様」
ユキメは男神に最敬礼をすると、今度は私の手を引いて歩き出す。いつも通りの美しい顔で微笑みながら。
そうして拝殿を出ると、石柱の上から私を見下ろしていた狛犬が、今では手のひらを返したかのように地べたで首を垂れている。怖かったはずの顔も、今ではまるで子犬の様だ。
「ねえユキメ。天陽大神はそんなに偉い神様なの?」
行きとは違い、どこか満足そうな表情で歩くユキメに私は問う。
「ええ! それはもう貴い神にございます。この世で、大御神より位の高い神は存在しません……」
嬉しそうに話すユキメを見て、私の気分も少し和らいだ。ずっと不安だったけど、彼女を失望させずに済んでよかった。
「そしてその品位の高さ故、大御神と契りを交わせた神使は、この世に一人としていませんでした。流石はヨウ家の御子であります!」
この世界であたし一人!? 待て待て待て。という事はつまり、私は現時点で最強の龍人になったって事なのか?
それはそれで…………。
「――――激アツすぎるぅ」
なんだこの面接前のような緊張感は。異世界に来たのはいいけれど、なんか思ってたのと違うぞ。
などと考えながら、鳥のさえずりにも聞こえる鴬張りの床を、きゅっきゅと鳴らしながら歩く。
「ここからが“本殿"だ。童、常に感謝の念を持ち、敬う心を忘れるな」
大きな扉の前で、男は私を見る事もせず、真正面を向いたままで口を開いた。その様はあまり良い気分を私に残さない。
「あの、付いてこないんですか?」
「この先は、許可の下った者以外は入れない」
なるほど。それだけ神聖な場所って認識でいいのか? まあいい。なんでも来いや。
そうやって流れに身を任せ、まずは扉を開けようと一歩、足を前に出したその時だった。その彫刻細工が美しい大扉が、まるで私を待っていたかのように自ら口を開け始めたのだ。
そして扉に誘われるように一歩、また一歩と歩みを進めると、再び扉が動き出し、大きく開けていたその口を閉じてしまった。――――これで私は完全に独り。
「マジか。なんだこれ、どうすればいいんだ?」
先ほど歩いて来た殿内とは違い、今度は最低限の窓しかない大部屋。というよりも、大空間と表現するのがふさわしいだろう。
足を踏み出すと、床の軋む音が寂しくこだまする。
高さも奥行きも桁違いな本殿は、その広さの割には静かで、つんとした無音だけが騒がしく耳の中で反響する。
「人の子。龍野一二三よ」
――――小雨の如く静かに降って来た声。その美しい声は、なぜか私が人間だった頃の名前を呼んだ。
でも何で私の名前を知ってるんだ?
「こ度は、我らの烏が、お主に大変な迷惑を掛けてしまったことを、深くお詫び申す」
綺麗な女性の声。日差しのように透き通る声だが、真夏の太陽のような力強さも持っている。
……烏って、あの三本足の烏のことか?
「いえ。とんでもありません。あんな所に立っていた私も私ですし…………」
私にぶつかって来た烏が、まさかの神の使いだったという事実を知り、逆に申し訳ない気持ちが浮上してくる。
こちらに向かって飛んできたとは言え、落ちたのは私の責任でもあるからなあ。
「ですのでどうか、お気になさらないでください」
「左様であるか。どうやらお主は、激しく寛大な心の持ち主のようだな」
――――その次の瞬間、突如として大空間に光が注ぎ込まれる。太陽を直視することが出来ないように、今の私も、その眩しさに目を開けることが出来ない。
私は咄嗟に袖で光を遮断して目を守る。そしてしばらくそうしていると、逆光のような光は次第に落ち着いてきた。そして代わりに、声が一つ。
「ふう、いつぶりだろうか。天の山腹に降りてきたのは」
天の声とは違う声……?
袖を降ろすと、目に飛び込むは絶世の美女。もとい天女。
七色の装束を身に纏い、耳や頭には色鮮やかな宝飾。そして奥が透いて見えるほどの薄い羽衣が、まるで龍のように巻き付いている。
背丈はユキメより少し高く、恐らく一七〇以上はある。まあ、とにかく美人だ。
「どうした? あまりの眩しさに失明したか?」
そう言って天女は笑うが、あの光は冗談に聞こえない眩しさだった。下手したら本当に失明していたかもしれない。
「あの、貴女様は?」
恐る恐る私は彼女に問う。しかし私の勘が外れていなければ、多分彼女は腰に手を当て、胸を張って答えるだろう。
「よくぞ聞いてくれた。余は天の神々が住まう都、天都を治める主宰神。名を、天陽大神である!」
予想通りの自己紹介。やはり彼女はお姫様タイプ。しかも一人称が“余”だ。きっと権力を振りかざして、無理難題を押し付けるタイプの神様に違いない。
「な、なるほど」
「あれ、もしかして余がどれだけ凄いか分かってない?」
どこか友達と話してるような感覚だ。まだ参道で出会った樹木の女神さまの方が、よっぽど|貴(とうと)かった。
「いや、そんなことないですよ」
「言っておくが、余より偉い神様なんていないんじゃからな」
調子が狂う。これだけの大々的な空間でこの背丈だし、なんか性格も十代みたいだ。本当は偉い神様の娘なのではと疑ってしまう。
「し、しかし何故そのような神様が、わざわざ私の前に現れたんですか?」
――――と、素朴な質問をしてみる。
「うむ。その方が誠意が伝わるかなって思って」
理由が高校生! “近くにいたから来たよ"的なノリだよ。この神様、行けたら行くって言うタイプの神様だなこれ。
「…………なるほど」
「でも本当に悪かったって思ってるから!」
いや、そんな半ギレで言われても。
それにもう過ぎたことだし、私もそれほど気にしてないんだよな。三十年も前の話だし。
「ですので、そこまで気にしてないので大丈夫ですよ」
「そうかそうか。なら良かった」
どこか軽いんだよなぁ。でもまあいいか。最高神様が直々に謝ってくれたんだ。それだけでも有難いことだ。
「では、そろそろ本題に参りませんか?」
――――そう。私がここに来た目的は禊祓を済ませに来たことだ。私は早く終わらせて神通力を使いたいのだ。
「ふむ禊だな。喜べ、今回はこの余が直々に執り行うぞ」
何でこんなに恩着せがましいんだろう?
「はあ。有難うございます」
「それじゃあ、そこに座れ」
言われるがままに私は彼女の指さす場所に座る。しかしそこから真上を見ると、そういう構造なのか、天井には大きな穴がぽっかりと開いている。
……一体何が起きるんだ?
「ちょっと待っておれ」
そう言って彼女は目をつむり、ぶつぶつと何か言葉を唱え始める。
すると、まるで何かの引き金を引いたかのように、突然頭上からテニスボール大の雨が降りそそぐ。
「――――冷た!」
「まだまだ序の口だよー」
唱える声はどんどん大きくなり、それに従い雨も勢いを増していく。というよりも、もはや雨なんて可愛い物ではない。
大滝の様に連続して降り注ぐ大量の水。その勢いに耐えきれなかった私は、思わず腹ばいになってしまい、その凄まじい水圧を全身に受けてしまう。
――――まるで誰かに押さえつけられている感覚だっ。頭が上がらないし、呼吸も出来ないっ! これはヤバイッ、死ぬッ!
そう思った次の瞬間、岩のようにのしかかっていた奔流は、まるで蛇口を捻ったかのようにピタリと止んだ。
しかし、あれだけの水が落ちてきたにも関わらず、床には水が溜まるどころか、水滴一つさえ残っていない。一体あれは何だったのだ?
降水が止み、私は気管に入った水を吐こうと、全身の筋肉が縮こまるほど激しく咳き込む。それにしても冗談ではない。年齢は三十でも、体はまだ五、六歳児と同等なんだぞ。
――――完全に殺しに来てる。
「お疲れサマー」
心臓も一緒に出てしまいそうなくらい、大量の水を吐く私の背中をさすりながら、彼女は陽気な口調で労いの言葉をかける。
「ちなみに、今の“サマー”は"さま”と掛けてるんだよ。ほら私“太陽の神"だから」
何言ってんだこいつ。人が死にそうだって時に。
「でもこれで、三十歳の禊は終了だよ」
今なんと言った。三十歳の禊と言ったのか? もしかしてこれで終わりじゃないの?
そんな私の疑問に答えるかのように、太陽の神はまさしく、さんさんと太陽のような陽気なテンションでこう言う。
「残るは七十歳の禊だけじゃ。多分その禊祓は余じゃないけど、まあ頑張ってね」
――――むしろお前じゃない方がいい気がする。
「さて、それじゃあ、次は契りの話だけど……」
そうだ。まだ課題は残っていたんだった。確か、力を貸してくれる神様と契約を交わすんだっけ?
「喜べ。お主の神通力。余が力を貸してやる」
正直、この神様とは今日で関係を終わらせたいが、ここで断ったらもっと面倒な繋がりが出来そうだ。
「……あざっす」
咳に紛れて、私はお礼の言葉を砕いた。
「それじゃあ、“余の血”と“お主の血”を今から交わすぞ」
そう言って私の対面にちょこんと正座をすると、絵に描いた様な白くて細い人差し指を私に向けた。
「……でも、どうやるんですか?」
何故だかすごく嫌な予感がする。果たして血と血の交換とは大丈夫なものなのだろうか。衛生的にも、絵面的にも。
「――――まず、相手の指の先を少し切る。次に、指を咥えてその血を飲むのだ」
おっと、ちょっとヤバそうだな。…………でもまあ、人間の身体とは構造が違うっぽいし、大丈夫なのかな?
「わかりました」
ようやく咳も落ち着いて来た私は、袴に染みこんでいる水を雑巾の様に絞り出しながら頷く。
そして、“床は濡れていないのに、なぜ袴は濡れたままなのか"と、禊祓のシステムを呪った。
「うむ、では余の小刀を貸してやる。故にまずはお主が切れ」
正直、指の一本くらいは切り落としてやりたいところだが、生憎、それを実行するほどの度胸を、私は持ち合わせていない。
そうして彼女の手から私の小さい手へと、白銀に輝く小刀が渡る。
私は今から神様の指を切るのだが、まあこの神様の指なら問題なく切れるだろう。
「――――痛っ」
しかし痛みに耐えるその儚げな表情に、不覚にも私の顔は火照ってしまう。というか、神様にも痛覚はあるのだな。それともこの刀が特殊なのか。
「では、次は余の番だな」
そう言って彼女は逆の手で小刀を握ると、台の上に置かれた白い布を手に取り、刃を伝う真っ赤な血を拭う。
……しかし綺麗な手だ。女性らしい細い指に滑らかな関節。それなのに刀の柄を握る姿は様になっている。
と、私が彼女の手に見惚れていると、その手は私の指に軽く傷をつけた。
そして指先からの出血を確認すると、彼女はもう一度血を拭き取り、その刀身を胸の前でゆっくりと鞘に納めて台に戻す。
「それじゃあ今度は、相手の指を咥えます」
血の滴る指が私に向けられる。体に残る龍の本能なのかは分からないが、その真っ赤な貴い血を見ると、体がうずいて仕様がない。
「ふふ。その糸のように細い瞳孔と、血を見ると赤く輝く瞳。最早お主も、立派な龍人なのだな」
――――ついに我慢が出来ず、私は神様の指を咥えた。そして指先から溢れる血液を、この舌の隅々にまで絡ませる。
水とは違い、粘り強く舌に巻きつくような感触。唾液に混ぜて飲み込めば、鼻の奥では鉄分が弾ける。
「こ、こら。そんなに舐めまわすものではないっ」
「す、すいません」
上手く感情の読み取れない表情を見て、思わず指を離してしまった。しかしその際、唾液が口から伸びてしまったので、恥ずかしく思いながらもすかさず袖で拭う。
「こっ、今度は私の番だ」
神様は頬を薄く染めながらも、ゆっくりと私の指を口に含む。しかしこの感じ、どうやら彼女は慣れていないようだ。もちろん私も慣れていないが。
――――そして、柔らかくて暖かい感触が指先に伝わってくる。
彼女が血を飲み込むたびに、舌全体が指に強く吸い付いて嫌でも鳥肌が立つが。たまに猫の甘噛みのように歯が当たるのは不思議と心地がいい。
…………そうして彼女は唾液が漏れないように、ゆっくりと私の指を口から離す。しかし本当にこれで終わったのだろうか。
「これで、お主の身体には余の血が流れることとなる。同様に、余の身体にもだ」
艶やかな深紅色の口紅に、彼女は絵具のように赤い血を染み込ませたまま口を開く。まるで告白でもするかのように頬を赤らめながら。
「もういいんですか?」
何か気まずい。さっきから神様と目が合わなくて余計に気まずい。先ほどの滝行が気まずさの余り、手を振って走り去っていく勢いだ。
「うむ。後はしっかりと祝詞を読んでくれれば、それが”繋がり”となり、余はお主に力を貸すことが出来るだろう」
少しぎこちないドヤ顔だが、不覚にも少し可愛く見えてしまった。
「それじゃ、余も最高神ゆえ、こう見えても忙しいのでな。ここいらで失礼させてもらう」
――先程は「今日で関係を終わらせたい」と思っていたが前言撤回だ。恐らく、彼女とはしばらく会えなくなるだろう。そう思うと少し寂しい。
「わかりました。本日は誠に、ありがとうございました」
九十度に腰を曲げてお辞儀をする。その最中、川のせせらぎを聞いているかのように心が安らぎ、やはりこの方も神様なのだなと強く実感する。
「うむ。お主も神使の責務、しっかりと務めるのだぞ」
そう言って、天陽大神様は再び、眩い光と共に閃光のように消え去る。
それと同時に、堅く閉ざされていた出口も、ゆっくりと口を開け始めた。
「ああ、ソウ様! よくぞ無事に戻られました!」
ユキメと別れた廊下。太陽の神、天陽大神と契りを交わした私は、びしょ濡れの袴を引きずってそこに戻って来た。
「少々お時間が掛かったようですが、大事ありませんか?」
腰を落とし、目に涙を浮かべながら私を見上げるユキメ。彼女は私の身体を事細かく確認し、契りの際に傷つけた指を発見する。
「血が。いま手当いたします!」
袴の袖を爪で切り取り、それを私の指に優しく巻き付ける。だが、あの滝行の後にこのテンションは少し疲れる。
「大丈夫だよユキメ。これくらいの傷」
「なりませぬ! この貴いお体に不純物を入れてしまうのは言語道断」
可愛い。あれだけクールで凛としているユキメが今、私のためにここまで取り乱している。しかしこの世界に来てからどうにも美女ばかりに囲まれる。趣味が変わりそうだ。
「ありがとうユキメ」
黒みつのように艶やかなその髪に、私はそっと手を置いた。すると傷の手当てに集中していたユキメが、はっとした表情で私を見上げる。
「あ、ああ。身に余る幸福ッ!」
彼女はそのまま床に手を着き、その頭も同様に床に打ち付けた。ヨウ家ラヴなのは嬉しいが、他人の目があることも知って欲しい。
「して、ソウ様の清く貴い血を口にしたのは、どの神にございますか?」
ユキメの言葉を聞き、これまで無関心だった糸目の男も、変わらず無関心を装いながら、待ちわびていたかのように薄く目を開く。
「名前が難しい神様だったよ。太陽の神様って言ってたっけ?」
天陽大神だ。しかし私は子供らしさを出すために、あえて言葉を濁した。
――――ふふふ。一体どんな顔で驚くんだろうな。さあ見せてくれその痴態を。
「太陽神だとッ!」
薄く開きかかっていた糸目が、今では誰よりも大きく見開いている。
そうだろ、そうだろ。お前のボスと私は契約したのよ。
「大御神がなに故このような小娘と!」
分かる。その気持ちはよく分かる。自分が尊敬して止まない神様が、私みたいなぽっと出と血を交わしたんだ。妻を寝取られた様な気持ちはよく分かる。
――――でもだからといって、私の襟元を掴むのはやめてほしい。苦しいから。
「手を離せ」
私を掴む男神に、声を強張らせたユキメが立ちはだかる。それなのに私は、ユキメが怖くてその顔を見られない。
神が配分を間違えて作った様な顔が、今どのように歪んでいるのか。気にもならないし、気にしたくもない。
「ユキメ、大丈夫ッ、退がって!」
私の必死の声掛けも届かず、振り絞った言葉は虚しく空に散る。
「……う、うぬは、自分が何をしているのか、分かっておるのか?」
そう言う男の額には汗が伝う。目線はバラバラで、一か所に留まらず泳いでいるが、それは決してユキメの顔には向かなかった。
――――しかしこれは不味い。いくら位が低いとは言えど、相手は|天つ神(あまつかみ)だ。ユキメを止めないと彼女自身に処罰が下される。
「台下こそ、大御神の神使に無礼を働いておるのが分からぬのか?」
ユキメの言葉を聞くと、男神は面白くなさそうに舌打ちをし、そのまま私を掴む手を離した。
……でもちょっと待てよ。糸目の男神はユキメの言葉に何も言い返さなかった。もしかして今のあたしって、神様レベルに偉い感じ?
「…………失礼を致した」
めっちゃ悔しそうだなあ。そんなに偉いのかあの神様は。ゲームで例えるなら、ガチャで激レア引いた感じか?
「お聞き入れ感謝申す。……さあ、参りましょうソウ様」
ユキメは男神に最敬礼をすると、今度は私の手を引いて歩き出す。いつも通りの美しい顔で微笑みながら。
そうして拝殿を出ると、石柱の上から私を見下ろしていた狛犬が、今では手のひらを返したかのように地べたで首を垂れている。怖かったはずの顔も、今ではまるで子犬の様だ。
「ねえユキメ。天陽大神はそんなに偉い神様なの?」
行きとは違い、どこか満足そうな表情で歩くユキメに私は問う。
「ええ! それはもう貴い神にございます。この世で、大御神より位の高い神は存在しません……」
嬉しそうに話すユキメを見て、私の気分も少し和らいだ。ずっと不安だったけど、彼女を失望させずに済んでよかった。
「そしてその品位の高さ故、大御神と契りを交わせた神使は、この世に一人としていませんでした。流石はヨウ家の御子であります!」
この世界であたし一人!? 待て待て待て。という事はつまり、私は現時点で最強の龍人になったって事なのか?
それはそれで…………。
「――――激アツすぎるぅ」
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