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サイドK⑤
暗闇の先に②
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虚ろからの目覚めは最悪だった。眠ろうとしても、空白の記憶がみぞおちのあたりを寒々とさせ、かと思えば手足の先に何か得体の知れない不快感になって襲ってくる。看護師に訴えて点滴の薬剤を調整してもらい、何とか眠りの端緒につくことはできたのだが、悪夢は夢の中でこそ存分にその力を発揮するらしく、ぼくは何度も叩き起こされた。疲労困憊の末に明け方ややウトウトした以外はほぼ完徹。このコンディションで記憶にない妻に会うという一大事をこなすことができるだろうか。ぼくは大きな不安を抱えながら、それでも午前中の検査を淡々と受けた。
5月らしい爽快な青空にゆらゆらとトンビが飛んでいる。病院の窓から眺める景色が寝不足のぼくの瞼を重くしていた。このまま何も考えずに眠れたらいいのにと思いながら、それが叶わない現実が間もなくやってくることに、ぼくの気分は沈んでいた。
ほどなくして、妻、充枝が中田に連れ添われてやってきた。
「どうだ気分は?」
中田が明るいトーンで声を掛けてくる。「ああ」と空返事をしたぼくは、扉を入ったところで俯いているぼくの妻だという小柄な女性に無遠慮な目を向けていた。柔らかな光沢のある白のシャツの上にデニムの上着に、涼しげな薄いピンク色のパンツ。髪は肩に届かないショートカットで若々しく見るからに男好きのするスタイルだ。
「こちら、充枝さんだ。お前の奥さんだ」
中田が紹介すると、充枝は顔を上げてぼくに向かって真っすぐにその視線を合わせた。その瞬間、ああ、そういうことか。ぼくたちはもう巡り逢っていたのだと知った。
田舎の山の景色が見えた。その日ぼくと妹の充枝は川べりで魚釣りをしていた。三日ほど大雨が降って外に出られなかったこともあって、大好きな妹と過ごす外遊びの時間は殊の外楽しかった。ぼくは充枝を溺愛していた。本当に将来はお嫁さんにしたいと思っていたし、充枝にもそう言って言い聞かせたりもした。
「うん、おにいちゃんのお嫁さんになる」
恐らく訳も分からずに充枝もそう答えてニコニコしていた。
川べりの東屋でぼくが充枝を抱きしめたりしなければ、きっとそのまま何もなく楽しい一日で終わったに違いない。いや、その東屋が行方不明になった親戚のおじさんという人に充枝がいたずらをされた場所だったことをぼくが知っていたなら、絶対にそんなことはしなかった。
「おにいちゃん。おじちゃんとおなじになっちゃうよ」
そう言ってぼくから逃れた充枝は、東屋から川に向かって走り出した。ぼくは慌てて追いかける。その時川上の方から『ドドドドドドドド.......』という音が聞こえた。濁流の音は多分もっと前からぼくたちに警告を与えていたのだと思う。しかしその警告にぼくは全く気づいていなかった。濁流はもう目前に迫っていた。先を行く充枝もそれに気づいた。足を止めて立ち止まる。慌てたようにぼくの方を向いた顔はもう泣いていた。
「早く、川からはなれるんだ」
ぼくは必死で叫んだ。しかし充枝は大人の体ほどの小さな木に掴まって動かない。見る見る内に川が増水して既に充枝の足元を飲み込んでいた。動けないんだ。ぼくは走った。充枝まではあとほんの10mだ。川べりの道は既に川とひとつになっていて走る度にビチャビチャと水が跳ねた。青空と山の緑は何も変わらずに綺麗なままなのに、この川の周りだけに地獄の使いのような凶暴な水の悪魔がやって来て、ぼくと妹を飲み込もうとしていた。
充枝を助けなくては。ぼくはただそれだけを考えていた。充枝のところまであと5メートルまで来ていながら、その5mが永遠の距離のように進めない。その内に充枝が捕まっていた小さな木が流れに耐えきれずに傾いた。見えない川べりの道から本来の川の方に妹が流れていく。そのスピードはとてもゆっくりでスローモーションでも見ているような感じがした。
今ならいける。ぼくは自分の持てる力の限りを使って妹の方に向かっていった。足も手も腰もお腹も顔も頭もなかった。体中が魂になったような気がした。ぼくは充枝に追いついた。そしてその小さな体を抱きしめて川べりの道から少し小高くなったまだ水の上がっていない場所まで引き上げた。
「大丈夫か。充枝」
震えながらうなずく妹。良かった。ぼくは愛おしい妹をもう一度抱きしめようと思った。しかし、妹は「いや、いや、いや」と逃れるように立ち上がると、思いもよらない力でぼくを押しのけた。態勢を崩したぼくは小高い丘から転がり落ち、更に水嵩の高くなった川に飲み込まれた。泳ぐ力どころか、何かに掴まるような力すらぼくには残っていなかった。
20年以上掛かって、やっとあの日別れた妹と本当の意味で再会することが出来た。
「充枝」
ぼくはあの日のままの気持ちで妹の名前を呼んだ。
「おにいちゃん」
充枝はあの日と同じように、大粒の涙をポロポロこぼして泣き出した。そしてぼくを拒絶してあの日とは異なり、真っ直ぐにぼくの胸に飛び込んできた。
取り戻せた、妹を。帰ってきて良かった。暗闇に飲み込まれなくて良かった。ぼくは充枝の体温を感じながら、その川での出来事をきっかけに、膨大な過去の出来事が頭の引き出しから顔を出していることに気が付いた。
ありがとう、中田。いつだってお前が、ぼくと充枝を引き合わせてくれたんだな。ぼくは心の中で深々と中田に頭を下げた。
(続く)
5月らしい爽快な青空にゆらゆらとトンビが飛んでいる。病院の窓から眺める景色が寝不足のぼくの瞼を重くしていた。このまま何も考えずに眠れたらいいのにと思いながら、それが叶わない現実が間もなくやってくることに、ぼくの気分は沈んでいた。
ほどなくして、妻、充枝が中田に連れ添われてやってきた。
「どうだ気分は?」
中田が明るいトーンで声を掛けてくる。「ああ」と空返事をしたぼくは、扉を入ったところで俯いているぼくの妻だという小柄な女性に無遠慮な目を向けていた。柔らかな光沢のある白のシャツの上にデニムの上着に、涼しげな薄いピンク色のパンツ。髪は肩に届かないショートカットで若々しく見るからに男好きのするスタイルだ。
「こちら、充枝さんだ。お前の奥さんだ」
中田が紹介すると、充枝は顔を上げてぼくに向かって真っすぐにその視線を合わせた。その瞬間、ああ、そういうことか。ぼくたちはもう巡り逢っていたのだと知った。
田舎の山の景色が見えた。その日ぼくと妹の充枝は川べりで魚釣りをしていた。三日ほど大雨が降って外に出られなかったこともあって、大好きな妹と過ごす外遊びの時間は殊の外楽しかった。ぼくは充枝を溺愛していた。本当に将来はお嫁さんにしたいと思っていたし、充枝にもそう言って言い聞かせたりもした。
「うん、おにいちゃんのお嫁さんになる」
恐らく訳も分からずに充枝もそう答えてニコニコしていた。
川べりの東屋でぼくが充枝を抱きしめたりしなければ、きっとそのまま何もなく楽しい一日で終わったに違いない。いや、その東屋が行方不明になった親戚のおじさんという人に充枝がいたずらをされた場所だったことをぼくが知っていたなら、絶対にそんなことはしなかった。
「おにいちゃん。おじちゃんとおなじになっちゃうよ」
そう言ってぼくから逃れた充枝は、東屋から川に向かって走り出した。ぼくは慌てて追いかける。その時川上の方から『ドドドドドドドド.......』という音が聞こえた。濁流の音は多分もっと前からぼくたちに警告を与えていたのだと思う。しかしその警告にぼくは全く気づいていなかった。濁流はもう目前に迫っていた。先を行く充枝もそれに気づいた。足を止めて立ち止まる。慌てたようにぼくの方を向いた顔はもう泣いていた。
「早く、川からはなれるんだ」
ぼくは必死で叫んだ。しかし充枝は大人の体ほどの小さな木に掴まって動かない。見る見る内に川が増水して既に充枝の足元を飲み込んでいた。動けないんだ。ぼくは走った。充枝まではあとほんの10mだ。川べりの道は既に川とひとつになっていて走る度にビチャビチャと水が跳ねた。青空と山の緑は何も変わらずに綺麗なままなのに、この川の周りだけに地獄の使いのような凶暴な水の悪魔がやって来て、ぼくと妹を飲み込もうとしていた。
充枝を助けなくては。ぼくはただそれだけを考えていた。充枝のところまであと5メートルまで来ていながら、その5mが永遠の距離のように進めない。その内に充枝が捕まっていた小さな木が流れに耐えきれずに傾いた。見えない川べりの道から本来の川の方に妹が流れていく。そのスピードはとてもゆっくりでスローモーションでも見ているような感じがした。
今ならいける。ぼくは自分の持てる力の限りを使って妹の方に向かっていった。足も手も腰もお腹も顔も頭もなかった。体中が魂になったような気がした。ぼくは充枝に追いついた。そしてその小さな体を抱きしめて川べりの道から少し小高くなったまだ水の上がっていない場所まで引き上げた。
「大丈夫か。充枝」
震えながらうなずく妹。良かった。ぼくは愛おしい妹をもう一度抱きしめようと思った。しかし、妹は「いや、いや、いや」と逃れるように立ち上がると、思いもよらない力でぼくを押しのけた。態勢を崩したぼくは小高い丘から転がり落ち、更に水嵩の高くなった川に飲み込まれた。泳ぐ力どころか、何かに掴まるような力すらぼくには残っていなかった。
20年以上掛かって、やっとあの日別れた妹と本当の意味で再会することが出来た。
「充枝」
ぼくはあの日のままの気持ちで妹の名前を呼んだ。
「おにいちゃん」
充枝はあの日と同じように、大粒の涙をポロポロこぼして泣き出した。そしてぼくを拒絶してあの日とは異なり、真っ直ぐにぼくの胸に飛び込んできた。
取り戻せた、妹を。帰ってきて良かった。暗闇に飲み込まれなくて良かった。ぼくは充枝の体温を感じながら、その川での出来事をきっかけに、膨大な過去の出来事が頭の引き出しから顔を出していることに気が付いた。
ありがとう、中田。いつだってお前が、ぼくと充枝を引き合わせてくれたんだな。ぼくは心の中で深々と中田に頭を下げた。
(続く)
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