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サイドK④
おにいちゃん①
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土曜日。ぼくはまだ眠っている充枝にキスをして8時前に家を出た。このところ全く連絡を取っていなかったデリヘル嬢のヒカルが、業を煮やしてSNSで連絡をしてきたのだ。
<近くの大木坂公園にいるから。少しだけでも会って>
土曜日のこんな早い時間に、しかもぼくの自宅からほど近い公園まで来ているという。これを無視すると自宅まで押しかけられかねない。
<分かった。でも1時間くらいは掛かるよ。どこかで潰してて>
<うん。絶対来てね>
慌ててしわになったシャツにアイロンを掛けながら、あ、今日はそういう予定じゃないんだった、と思い返す。ヒカルと会う=デート、というイメージがこびりついていて、勝手に体が動いてた。今は充枝が心配だ。さっさと済ませて来ないとな。そう思って家を出た。
大木坂公園は郊外型の大きな公園で、芝生の広場や噴水のある池も備えている。まだ時間が早いせいか散歩の老夫婦やジャージ姿でランニングをしている人がチラホラいる程度で人出は少なかった。ヒカルはベンチで噴水を眺めていた。オシャレな雰囲気はいつも通りだったが、今日は少し影を感じる。こちらの心持もあるんだろうなと、思いながら近づいていくとヒカルはぼくに気が付いた。スイッチがオンになったかのように、パッと笑顔が開く。
「こうちゃん!」
明るい声色。充枝と対極にあるヒカルの雰囲気に、ぼくはたちまち飲まれてしまう。大阪で会ってから2ケ月以上が過ぎていた。ヒカルは急にSNSに連絡をしてしまったことや、こんなところまで押しかけてきてしまったことを詫び、その上でここ1週間ほど、連絡が途絶えてしまって寂しかったと、ストレートに気持ちを伝えてきた。
彼女は商売女であり、それ以上でも以下でもない。その一線を崩さないからこそ、ぼくはぼく自身の基準の中で浮気ではないと思っていたが、こうして会っていると心が動く。結局、ぼくのしてきたことは……。
ぼくたちは暫く公園で話をして、どちらからともなく歩き出した。このまま別れるのが辛かったのだ。公園から駅に向かう道で、ぼくは、ふ、と冷たい視線を背筋に感じた。慌てて振り返ったが誰もいない。今のは何だ。
「どうしたの」
心配そうにヒカルがぼくの顔を覗き込む。その顔が一瞬、充枝に見えた。
「ごめん。ヒカル。やっぱり、ごめん」
ぼくはヒカルをその場に残して、視線を感じた方に向かって走り出した。ヒカルの「行かないで」という叫び声に胸が痛む。だが、振り向かずに振り切った。ごめん、ヒカル。こんなつもりじゃかったのに。もっとうまくやれるつもりだったのに。
ぼくは家まで走って、充枝がいないことを確認すると、もう一度大木坂公園まで走った。きっと充枝はそこにいる。あの視線の先に充枝はいたはずなんだ。
1時間くらい走り回っただろうか。息が苦しい。みっちゃん、どこにいるんだ。噴水の池の前で前かがみになって息を整えた。自分の方に近寄ってくる人の気配がした。その足元に見慣れたスニーカーとジーパンが見えた。ああ、みっちゃん。顔を上げるとそこには充枝の顔があった。
しかしその顔は、京都に行くあの新幹線の、そして出張帰りの真っ暗な部屋の、そして初めての中出しをした後の、それぞれのシーンで見た能面のような無表情だった。ぼくは心が消失しているに違いない妻を、きつく抱きしめた。
お昼時の公園は、家族連れも増えて、賑やかで明るい光に満ちていた。優しい風に包まれて、ぼくは充枝をもう離さないと誓う。だから。だから帰ってきてくれ、充枝。
次の瞬間、首筋に何か冷たいものが当たるのを感じた。
「ん?」
その部分から熱いものが流れ出している。ぼくは事態を飲み込むことも、痛みを感じることもなく、そのまま意識が遠のいていくのをただ静かに受け入れていた。
遠ざかる記憶の中の妻がとてつもなく美しかったことと、その唇から発せられたすこし甲高い言葉の響きだけが、グルグルと頭の中を巡る。それは遠い昔にぼくの心を癒してくれた、懐かしい言葉だった。
「おにいちゃん」
(続く)
<近くの大木坂公園にいるから。少しだけでも会って>
土曜日のこんな早い時間に、しかもぼくの自宅からほど近い公園まで来ているという。これを無視すると自宅まで押しかけられかねない。
<分かった。でも1時間くらいは掛かるよ。どこかで潰してて>
<うん。絶対来てね>
慌ててしわになったシャツにアイロンを掛けながら、あ、今日はそういう予定じゃないんだった、と思い返す。ヒカルと会う=デート、というイメージがこびりついていて、勝手に体が動いてた。今は充枝が心配だ。さっさと済ませて来ないとな。そう思って家を出た。
大木坂公園は郊外型の大きな公園で、芝生の広場や噴水のある池も備えている。まだ時間が早いせいか散歩の老夫婦やジャージ姿でランニングをしている人がチラホラいる程度で人出は少なかった。ヒカルはベンチで噴水を眺めていた。オシャレな雰囲気はいつも通りだったが、今日は少し影を感じる。こちらの心持もあるんだろうなと、思いながら近づいていくとヒカルはぼくに気が付いた。スイッチがオンになったかのように、パッと笑顔が開く。
「こうちゃん!」
明るい声色。充枝と対極にあるヒカルの雰囲気に、ぼくはたちまち飲まれてしまう。大阪で会ってから2ケ月以上が過ぎていた。ヒカルは急にSNSに連絡をしてしまったことや、こんなところまで押しかけてきてしまったことを詫び、その上でここ1週間ほど、連絡が途絶えてしまって寂しかったと、ストレートに気持ちを伝えてきた。
彼女は商売女であり、それ以上でも以下でもない。その一線を崩さないからこそ、ぼくはぼく自身の基準の中で浮気ではないと思っていたが、こうして会っていると心が動く。結局、ぼくのしてきたことは……。
ぼくたちは暫く公園で話をして、どちらからともなく歩き出した。このまま別れるのが辛かったのだ。公園から駅に向かう道で、ぼくは、ふ、と冷たい視線を背筋に感じた。慌てて振り返ったが誰もいない。今のは何だ。
「どうしたの」
心配そうにヒカルがぼくの顔を覗き込む。その顔が一瞬、充枝に見えた。
「ごめん。ヒカル。やっぱり、ごめん」
ぼくはヒカルをその場に残して、視線を感じた方に向かって走り出した。ヒカルの「行かないで」という叫び声に胸が痛む。だが、振り向かずに振り切った。ごめん、ヒカル。こんなつもりじゃかったのに。もっとうまくやれるつもりだったのに。
ぼくは家まで走って、充枝がいないことを確認すると、もう一度大木坂公園まで走った。きっと充枝はそこにいる。あの視線の先に充枝はいたはずなんだ。
1時間くらい走り回っただろうか。息が苦しい。みっちゃん、どこにいるんだ。噴水の池の前で前かがみになって息を整えた。自分の方に近寄ってくる人の気配がした。その足元に見慣れたスニーカーとジーパンが見えた。ああ、みっちゃん。顔を上げるとそこには充枝の顔があった。
しかしその顔は、京都に行くあの新幹線の、そして出張帰りの真っ暗な部屋の、そして初めての中出しをした後の、それぞれのシーンで見た能面のような無表情だった。ぼくは心が消失しているに違いない妻を、きつく抱きしめた。
お昼時の公園は、家族連れも増えて、賑やかで明るい光に満ちていた。優しい風に包まれて、ぼくは充枝をもう離さないと誓う。だから。だから帰ってきてくれ、充枝。
次の瞬間、首筋に何か冷たいものが当たるのを感じた。
「ん?」
その部分から熱いものが流れ出している。ぼくは事態を飲み込むことも、痛みを感じることもなく、そのまま意識が遠のいていくのをただ静かに受け入れていた。
遠ざかる記憶の中の妻がとてつもなく美しかったことと、その唇から発せられたすこし甲高い言葉の響きだけが、グルグルと頭の中を巡る。それは遠い昔にぼくの心を癒してくれた、懐かしい言葉だった。
「おにいちゃん」
(続く)
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