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サイドM③
なつのじゆうちょう②
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今日の予定はゼロ。なんにもない。万年床から見える窓枠内の青い空を呆然と見つめていた。スマートフォンの通知もなく刻々と時が刻まれて行く。音はしないはずの時計からも時の音がした。
時刻はもう、15時を指していた。
あまりの怠惰さに布団に溶けてしまいそうだ。だめだ、だめだ。私は徐に腰を上げて茶色の戸棚へと足を運んだ。戸棚の中には、少し前に旦那と旅行先で撮った写真や実家から各自持ってきた子どもの頃の写真がアルバムに整理されている。私は戸棚の前に体育座りで蹲み込んだ。
私は三段になった戸棚の一番下の奥に隠すようにしまってある一枚の写真を探す。そう、たしかこの辺に挟んであるはず……。指先に当たる懐かしい紙の感触。
「あった」
私は夢中になってくしゃくしゃのセピア色のポラロイド写真を引っ張り出した。毎回、引っ張り出す時に他のアルバムと擦れているせいで所々が剥げている。もし旦那が見たとしても何が写っているのやら朧げすぎて分からないだろう。しかしその年季の入ったポロライド写真は、私にとって医者から貰う抗うつ剤よりも間違いなく精神を安定させてくれた。だからこうして時々取り出して眺めるのだ。
私はその写真を雲間から僅かに覗く斜光をライト代わりにして、思わずほくそ笑んだ。写真の中の私たちは永遠だ。
写真に映っているのは、まだ5歳の頃の私と7歳の兄の姿だった。私はいつも通りの無愛想な顔をしている。わざとらしくピースサインを作っているが、それがまた矢鱈と不似合いで笑えてくる。顔も髪型も体型も兄とそっくりだった。おまけに私は5歳の女児にしては高身長だったので、少し遠くから見たらどちらか判別するのも難しいほどで、よく「良く似た兄妹だね」と言われた。それは私にとってこの上ない褒め言葉だった。
写真の中の私は白いTシャツに半ズボン。夏風が白いTシャツを煽っていてへそが半分見えかけている。兄も同じように白いTシャツに半ズボンを着ていた。大分昔の写真だから色の識別が難しいが、唯一違うのはサンダルの色がピンクかブルーかだった。私は女の子だからという理由でピンク色のサンダルを祖母に無理矢理はかされていた。本当は兄と一緒のブルーが良かったのだ。でも、もし兄がピンクを好んでいたなら私も駄々をこねずにピンクにしていただろう。何もかも兄と同じが良かった。
茶色の背景には田舎の畦道が遠くまで延びていて、そこからはピンボケしていてよく分からない。恐らく、祖母が撮ってくれた写真であろう。外に出るのが好きな溌剌とした祖母は、外で遊んでいる兄と私にカメラを向けてはシャッターを切って遊んでいた。今のデジカメと違って現像が遅く、私と祖母は、はたはたと写真を必死に振って現像を待ちわびていたものだ。あの頃の写真はまだ祖母の家に飾ってあるのだろうか。
「ばっちゃん、元気かな」
私は不意に祖母のことが気になった。敬老の日に何か送ろうかなと思ったが、まだ大分先だなと苦笑する。電話くらいかけておいで、という祖母の言葉を思い出し、今夜にでも掛けてみようかと思った。
再び写真を見澄ました。写真からでもわかる満面の笑みでピースサインを送る幼き日の兄。今はそれが私へのエールに思えて仕方がない。永遠に幼い少年のまんまの兄。お兄ちゃん。私の兄は私が木から落ちて左足を怪我した年に、川に流されて行方不明になり、結局見つからずに亡くなったことになっているが、私はそれが嘘だということを知っている。
だって私は、その後もずっと大好きな兄の背中を追いかけてきたから。左足を怪我した1年後のあの夏も、それからだって何回もある。そして今だって……。
ピンポーン
唐突にインターフォンが鳴った。雲の流れが早くなり、部屋が薄暗くなる。どうやら雲行きが怪しいみたいだ。聞こえない時計の音が聞こえ、それに合わせるように速くなる心音。何だろう、宅配便ではないはずだ。
私は焦っていた。何にも焦る必要なんかないのに。自分でも分かる挙動不審。居留守を使おうと思ったが、その思いとは逆に
「はーい」
と、いつもより明るい声が出た。それで気持ちは落ち着いた。誰が来ようと、居留守を使う理由なんて何にもない。私はゆっくりと扉を開けた。いつものように臆病を装い上目遣いでインターフォンを鳴らした人物を見上げる。
目の前のガタイの良い黒いスーツの男が褐色の骨張った手で私の目の前に黒い手帳をかざした。
「こういうものですが」
警察?その男の後ろにはもう一人やはり同じような黒いスーツの男が立っていた。警察が何の用?私には何ひとつ身に覚えがなかった。
「この写真の男をご存知ですか?」
男は胸ポケットから写真を取り出して私に見せる。思わず、握っていた写真をくしゃりと潰した。
「ご存じですよね。あ、大丈夫ですよ、調べはついてますので。すいませんがね、ここではちょっと何ですから。少々中でお話を伺っても宜しいでしょうか」
言葉は丁寧だが、有無を言わせぬ圧力がある。男たちは私の承諾もない内に玄関に入って来た。とても拒絶出来るような勢いではない。二人の刑事はアッという間に靴を脱ぎ、部屋に押し入った。暑苦しい大柄の男二人が小さな居間を占拠する。私はその現実離れした情景に目を眩ませた。
一体何?分からない、分からない、分からない。握られた写真だけが、唯一私の心を支える拠り所になっていた。
助けて、お兄ちゃん。
(続く)
時刻はもう、15時を指していた。
あまりの怠惰さに布団に溶けてしまいそうだ。だめだ、だめだ。私は徐に腰を上げて茶色の戸棚へと足を運んだ。戸棚の中には、少し前に旦那と旅行先で撮った写真や実家から各自持ってきた子どもの頃の写真がアルバムに整理されている。私は戸棚の前に体育座りで蹲み込んだ。
私は三段になった戸棚の一番下の奥に隠すようにしまってある一枚の写真を探す。そう、たしかこの辺に挟んであるはず……。指先に当たる懐かしい紙の感触。
「あった」
私は夢中になってくしゃくしゃのセピア色のポラロイド写真を引っ張り出した。毎回、引っ張り出す時に他のアルバムと擦れているせいで所々が剥げている。もし旦那が見たとしても何が写っているのやら朧げすぎて分からないだろう。しかしその年季の入ったポロライド写真は、私にとって医者から貰う抗うつ剤よりも間違いなく精神を安定させてくれた。だからこうして時々取り出して眺めるのだ。
私はその写真を雲間から僅かに覗く斜光をライト代わりにして、思わずほくそ笑んだ。写真の中の私たちは永遠だ。
写真に映っているのは、まだ5歳の頃の私と7歳の兄の姿だった。私はいつも通りの無愛想な顔をしている。わざとらしくピースサインを作っているが、それがまた矢鱈と不似合いで笑えてくる。顔も髪型も体型も兄とそっくりだった。おまけに私は5歳の女児にしては高身長だったので、少し遠くから見たらどちらか判別するのも難しいほどで、よく「良く似た兄妹だね」と言われた。それは私にとってこの上ない褒め言葉だった。
写真の中の私は白いTシャツに半ズボン。夏風が白いTシャツを煽っていてへそが半分見えかけている。兄も同じように白いTシャツに半ズボンを着ていた。大分昔の写真だから色の識別が難しいが、唯一違うのはサンダルの色がピンクかブルーかだった。私は女の子だからという理由でピンク色のサンダルを祖母に無理矢理はかされていた。本当は兄と一緒のブルーが良かったのだ。でも、もし兄がピンクを好んでいたなら私も駄々をこねずにピンクにしていただろう。何もかも兄と同じが良かった。
茶色の背景には田舎の畦道が遠くまで延びていて、そこからはピンボケしていてよく分からない。恐らく、祖母が撮ってくれた写真であろう。外に出るのが好きな溌剌とした祖母は、外で遊んでいる兄と私にカメラを向けてはシャッターを切って遊んでいた。今のデジカメと違って現像が遅く、私と祖母は、はたはたと写真を必死に振って現像を待ちわびていたものだ。あの頃の写真はまだ祖母の家に飾ってあるのだろうか。
「ばっちゃん、元気かな」
私は不意に祖母のことが気になった。敬老の日に何か送ろうかなと思ったが、まだ大分先だなと苦笑する。電話くらいかけておいで、という祖母の言葉を思い出し、今夜にでも掛けてみようかと思った。
再び写真を見澄ました。写真からでもわかる満面の笑みでピースサインを送る幼き日の兄。今はそれが私へのエールに思えて仕方がない。永遠に幼い少年のまんまの兄。お兄ちゃん。私の兄は私が木から落ちて左足を怪我した年に、川に流されて行方不明になり、結局見つからずに亡くなったことになっているが、私はそれが嘘だということを知っている。
だって私は、その後もずっと大好きな兄の背中を追いかけてきたから。左足を怪我した1年後のあの夏も、それからだって何回もある。そして今だって……。
ピンポーン
唐突にインターフォンが鳴った。雲の流れが早くなり、部屋が薄暗くなる。どうやら雲行きが怪しいみたいだ。聞こえない時計の音が聞こえ、それに合わせるように速くなる心音。何だろう、宅配便ではないはずだ。
私は焦っていた。何にも焦る必要なんかないのに。自分でも分かる挙動不審。居留守を使おうと思ったが、その思いとは逆に
「はーい」
と、いつもより明るい声が出た。それで気持ちは落ち着いた。誰が来ようと、居留守を使う理由なんて何にもない。私はゆっくりと扉を開けた。いつものように臆病を装い上目遣いでインターフォンを鳴らした人物を見上げる。
目の前のガタイの良い黒いスーツの男が褐色の骨張った手で私の目の前に黒い手帳をかざした。
「こういうものですが」
警察?その男の後ろにはもう一人やはり同じような黒いスーツの男が立っていた。警察が何の用?私には何ひとつ身に覚えがなかった。
「この写真の男をご存知ですか?」
男は胸ポケットから写真を取り出して私に見せる。思わず、握っていた写真をくしゃりと潰した。
「ご存じですよね。あ、大丈夫ですよ、調べはついてますので。すいませんがね、ここではちょっと何ですから。少々中でお話を伺っても宜しいでしょうか」
言葉は丁寧だが、有無を言わせぬ圧力がある。男たちは私の承諾もない内に玄関に入って来た。とても拒絶出来るような勢いではない。二人の刑事はアッという間に靴を脱ぎ、部屋に押し入った。暑苦しい大柄の男二人が小さな居間を占拠する。私はその現実離れした情景に目を眩ませた。
一体何?分からない、分からない、分からない。握られた写真だけが、唯一私の心を支える拠り所になっていた。
助けて、お兄ちゃん。
(続く)
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