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プロローグ

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 球春。カキーンという高く遠くに飛んだであろう打球が見えるような、伸びやかな金属音が響く。

 今年もプロ野球の開幕と時を同じくして、甲子園球場では選抜高校高野球が行われていた。うだるような暑さの中で全国から過酷な予選を勝ち上がってきたチーム同士で行われる夏の大会と違い、春の甲子園は真新しいユニフォームがひときわ眩しく初々しく輝く。新チームで臨んだ秋の大会で実績を上げた各校が、冬を超えて一段成長した姿を見せてくれる選抜。正に晴れ舞台。当然、見逃せないカードが目白押しだが、その裏側ではここに出場出来なかった高校が、夏の大会こそはと日夜厳しいトレーニングに励んでいる。その数、全国で約4000校。所属する10万人以上の野球部員の共通の目標がこの『甲子園』である。

 とある風光明媚な地方都市にある私立「あけぼの高校」でも、球児たちがグランドに汗と涙を染み込ませていた。かつてあけぼの高校は、甲子園常連の野球名門校だったが、近年は今も選抜で活躍しているわかたか学園にその座を奪われ、長きに渡って甲子園の土を踏むことが出来ずにいた。

 同校の現監督・君島吾朗は、あけぼのが名門の名を欲しいままにしていた時代に甲子園のマウンドを踏み、その後も大学、社会人のアマチュア野球で名を馳せた名投手だった。プロからの誘いもあったが、高校野球の指導者の道を一途に志し、3年前、ついに念願の母校の監督に就任した。

 当然ながら君島監督には、OBや関係者から名門復活の大きな期待が掛けられたが、それから3年、君島監督率いるあけぼのは、思い描いたような成果を出せずにもがいていた。特に夏の大会は二年連続で初戦敗退。今年は君島監督が一年生から育てたメンバーが三年になる勝負の年。正念場だった。この夏の結果次第ではクビになるかも知れないという噂もチラホラ聞こえ始めていた。

 この君島監督が本作の主人公・君島うのの父親である。

 君島うのは十六歳の女子高生。先に紹介した父・君島吾朗と元五輪日本代表候補の陸上選手だった母との間に生まれたバリバリの体育会系血統の少女である。うのは母の仕事(某国陸上ナショナルチームのコーチ)の関係で、八歳から海外で育った。元々ずば抜けた身体能力を持った少女だったが、大好きな父親の影響で幼少時から慣れ親しんだ野球の才能には格別なものがあった。ジュニアハイスクール時代は男子に混じってプレイし、互角どころか全国レベルのジュニア有数の投手としてその名を轟かせる。

 うのは選手としての才能も素晴らしかったが、それ以上にチームに大きな影響を与える選手だった。チームメイトたちは彼女の明るさや真剣に野球に取り組む姿勢に惹かれ、そして、そのキュートな笑顔を見る為に奮闘した。その一人ひとりの頑張りが、チームの結果に繋がっていく。地区予選負けばかりだったうののチームは、1年後には全国大会に出場し、翌年には全国優勝を果たした。

『ミラクル・ガール』

 うのを知る者たちは、賞賛の思いを込めて彼女をそう呼んだ。

 高校入学を機に惜しまれつつも日本に帰国したうのは、大好きな父と野球が出来るとワクワクしていたが、周知の通り日本の高校野球は女子選手の出場は認められていない。出場どころか女子は危険という理由で、つい先日まで試合前の練習の補助にすら参加することが出来なかった。

 土俵か、甲子園か、男塾か。時代錯誤した日本のしきたりに、うのは泣く泣く甲子園の夢を断念し、普通のJKとして一年間を過ごした。野球漬けの日々から解放された日本のJK生活。うのは持ち前の明るさでその自由で華やかな日々を満喫した。

 しかし。
 何かが足りない。

 そんなある日、友人からあけぼの高校の話を聞いた。あけぼのは父が監督をしている高校だ。今年の夏の大会で結果を出せなければ、監督がクビになるかも知れないという話だった。

 高校野球の監督になって、子供たちと一緒に夢を追い掛ける、それが夢だと語っていた父。折角叶った父の夢が、この夏で潰えてしまうかも知れない。

 そんなのいやだ。うのは父のために自分に出来ることはないかと考えた。

 そして。

 うのは父と自分の夢の為に立ち上がることを決意する。女だからダメなのなら、男になればいい。決意の証として、父の目の前で肩まであった髪をバッサリ切り、そしてこう宣言した。

「パパ。わたし野球をやりたい。わたしあけぼのにいく」

 娘の決意に父は目を潤ませ「う、うの」と声を震わせた。

 そして、呻くように。

「ありがとう、うの。だけどな......。あけぼのは......男子校なんだよ」

 と言った。

(続く)
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