大和―YAMATO― 第四部

良治堂 馬琴

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第391章『髭と食事』

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第391章『髭と食事』

 博多の街から一般人が消え、それは街中だけではなく海兵隊の基地の中にも影響が現れていた。厨房や酒保の従業員は軍人ではなく民間人を雇用しており、民間人の退避命令に応じ彼等も博多を去った。酒保の物品は需品科が一旦買い上げる形を採り兵員からの申請に応じて支給される様になり、日に三度の食事に関しては戦闘職ではない後方部隊から人員を出し、彼等が厨房へと入りなれない炊事に従事している。
「味噌汁が濃過ぎる!殺す気か!!」
「贅沢言うな!!だったらてめぇが作れよ、俺だって慣れてねぇんだよ、算盤弾いてお前等の俸給計算するのが仕事なんだぞ!!包丁と太刀だったら太刀握るわ、代わってくれ!!」
 調理が本職だった厨房員達とは違い、面倒な事は殆ど人任せで職務へと没頭して生きていた様な男達。元々営舎で生活していた者は当然、非常態勢になってから基地内へ入って来た営外生活者もまた普段の料理は家族任せ。その彼等が包丁を握った結果出されるものは、何の引っ掛かりも無く食べられるとは言い難いもの。対馬区への出撃の際に食べる缶飯の方が余程ましだと言いながら濃い味噌汁を茶や水で薄めつつ食事を流し込む海兵達の中に、敦賀の姿も在った。
 タカコが自分を受け入れてくれた次の日、中洲の街を二人で歩きながら入った雑貨屋で買った髭剃りの替刃。また直ぐに買いに来れば良いと一つしか買わなかったそれは、タカコが姿を消した後の不調とその後の忙しさの中、水切りが不充分だったのか錆びてしまった。酒保のものでは肌が剃刀負けするからと新しいものを入手する事も無く、非常態勢であるのを良い事に、濡らす程度の洗顔と歯磨き以外の顔の手入れは放棄した。今では伸び放題になっている無精髭を何とも思わないわけではないが、下士官や兵卒のほぼ全員、士官も下の方の者は自分と大差が無い有様であまり目立たずに済んでいる。
 今は身形をどうこうするよりも、タカコが自分達に伝えてくれた事を生かす事に注力したい、それしか考えられない。全海兵の上に立ち采配を振るう立場の高根やその補佐である小此木であれば見た目にも多少の配慮が必要になるが、最先任上級曹長の自分は下士官や兵卒の上に立ち彼等を取り纏めつつも、心理的にも実際の距離的も近しい必要が有る。彼等が大変な時に自分だけ身綺麗なのは考えもので、ほんの時折は鬱陶しく感じる事も有る最先任という立場が、今は逆に或る種の気楽さを齎してくれていた。
 沖合で停止した艦隊にはいまのところ動きは無い、沿岸警備隊への反撃の凄まじさにこのまま戦闘へと突入するかとも思われたが、日本海の荒海に浮かぶ巨大な鉄の塊の軍勢は不気味な静けさを保ったまま。しかし態々ここ迄やって来た彼等が何もせずに撤退する事は無いだろう、恐らく今は次の行動に移る為に態勢を整えているだけ。自分達から動く事は出来ない、相手の出方を只管に待つだけの毎日。焦れる気持ちが無いわけではないが、待つしか無いか、敦賀はそんな事を考えつつ、味噌汁の椀へと口を付け塩辛い中身を一啜りした。

 ――博多某所――
 ぷち、ぷち。
『……ボス、もう良いですか?』
『黙ってろ動くな、まだ残ってる』
 ぷち、ぷち、ぷち。
『……痛いんですが』
『喋るな』
 主が街を去り無人となった家屋の中、場所は住宅街の外れ、海兵隊基地は目と鼻の先。そこの二階の窓際に座るのはタカコ、しかし窓の外に視線が向けられる事は無く、両手と視線は下へと向けられている。そこに在るのはキムの顔、タカコの忠実な部下である彼は現在何故かタカコの太腿に頭を預ける形で寝転がっており、タカコはと言えば毛抜きを手に只管に彼の顎の無精髭を抜いていた。
 体毛が濃い方ではないキムは髭も同じなのかそう多くは生えず、伸びて来ても密度は薄く疎らで、それを見たタカコが
『お前、前から思ってたけど髭が似合わないよな……よし、暇だし抜いてやろう』
 と思い付いた様に言いながら背嚢の中の救急セットから毛抜きを取り出し、哀れな部下は強引に膝枕で寝かせられ、ここ三十分ばかりの間ぷちぷちと髭を抜かれている。
『……あの』
『何だ』
『抜くのはまぁ良いんですが……抜いた髭を俺の頬に貼り付けるの止めてくれませんか』
『お前の顔に生えてたもんだろう、気にするな』
『……時々、貴方に付き従っていて良いのか激しく疑問に思う事が有ります……』
 この程度の横暴は慣れたものなのだろう、キムも本気で言っているわけではなく小さく笑っており、タカコもそれを見て笑みを浮かべつつ髭を抜き終えたキムの頭の下から膝を抜き、彼の頭が床へと落ちる音を聞きながら窓の外へと視線を遣った。
 博多から民間人を退避させる事になれば各所で凄まじい混乱が発生すると思ってはいたが、実際のところは想像以上だった。燃油切れで放置された車両が道を塞ぎ、避難者の行列は先を進む人間に続くだけで歩き易い道を探そうともしない。車を放棄して先を進む割に鍵は抜き取られているものが殆どで、燃油が残っていたとしても直ぐに動かせる状態ではない。
『車両を放棄する時には鍵を付けたままにしておく様に周知しないといかんな。我が国ではこんな規模で急な非難は例が無いがこの先も無いとは限らん、平野部の郊外なら原野を走れば良いが都市部じゃそうもいかん、車も多いしな。貴重な情報だ、本国に戻ったら重要案件として報告を上げるか。いちいち窓を叩き割ってエンジン直結するわけにもいかないしな』
『そうですね、確かにこんな状況になるとは予想外でした、まさか集団自殺になりかねない行為の連続とは』
『ああ、盲点だったな』
 頭を摩りながら起き上がったキムがタカコの横で胡坐を掻き、二人で話す内容はこうして博多へと戻って来て腰を落ち着ける前に見た出来事。本国へと戻ったらこれをどう活用するのか、そんな事を話し合いながらタカコは脇に置いた菓子の袋へと手を伸ばす。
『もう湿気てやがる、これだから梅雨は嫌だね』
 都市部での潜伏の際の食料は、持ち込んだ物を食べ尽した後は人混みに溶け込めるのであれば買い出しに出掛け、その為の資金が無ければ塵箱漁りが王道だ。しかし現在の博多にはその塵を出す人間はおらず、そんな状況では出来る事は一つ、民家や店舗に侵入しそこに残された食料を盗む事。博多へと戻って来て最初の数日は冷蔵庫や冷凍庫の中に残った生鮮食品にありつく事も出来たが、前後して軍用火発からの無人となった博多の街への電力の供給は止まり、今はそれ等は腐臭を放っている。
 腐敗した物を摂取して何とも無くいられる様な丈夫な胃腸と強力な消化液は流石に持ち合わせてはおらず、今は口にするものと言えば専ら袋菓子や缶詰ばかり。状況の推移を間近で見られる様にと基地の直ぐ近くに腰を据えている為煮炊きをする事も出来ず、夜陰に乗じて街から集めて来る僅かな食料や水で何とか繋いでいるのが現状だった。
『まぁ、艦艇にももう直ぐ動きが有るだろうから、それ迄の辛抱だな』
 外海や太平洋側にも直ぐに出られる佐世保では無く博多へと駒を進めた理由、ヨシユキが絡んでいるとなればどんなに甘く見積もっても碌な事ではないだろう。事が動き出せば食事がどうこうと言っていられる状況でなくなるのは明らかだ、タカコはそんな事を考えつつ新しい菓子の袋へと手を伸ばしながら、基地の向こうに広がる対馬区の方向へと視線を向けて目を細めた。
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