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第321章『交渉の始まり』

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第321章『交渉の始まり』

『どういうつもりだ?こちらには――』
 ガシャン。
 受話器の向こうから聞こえて来た落ち着いた男の声音、横山は僅かに奇妙な抑揚のついたそれを耳にした瞬間、再度受話器を電話機へと叩き付けた。通話の内容は電話機に取り付けた拡声機を経由して室内にも流れており、漸く相手と話をするかと思ったのに、相手を怒らせたら人質の身に危険が、そんな事を言いた気な視線が自分に集中するのを感じながら、横山は机上に放られた誰かの煙草を手に取って咥え、微かに震える手でそれに火を点けて煙を天井へと向かって吐き出した。
「横山司令、どうい――」
「黙ってろ」
 煙を吐き出しながらの横山の声音は酷く硬く冷たく、普段の穏やかさは何処にも感じられない。その様子に気圧されて周囲は押し黙り、彼と、その前に置かれた電話機を重苦しく張り詰めた空気の中じっと見詰めていた。
 電話が再び鳴り始めたのはそれから直ぐのこと、緊張が走る室内、横山はそのピリピリとした空気を感じながら、ゆっくりと受話器へと手を伸ばし、それを持ち上げて耳へと持って行く。
『これ以上遊びに付き合う気は無い、話をしようか』
「大和陸軍西部方面旅団隷下博多駐屯地司令、横山大佐だ、お前は?」
『話をする気は有るのか』
「名を名乗れ、話はそれからだ」
『そうだな……Yと、呼んでくれ』
 漸く始まった会話、相手が発した『ワイ』という言葉に、横山の横にいた小此木が机上に置かれた書類の中からアルファベットを順に並べた紙を取り出し、『Y』のところを指し示して横山へと見せる。横山はそれを見て小さく頷き、名前の頭文字なのだろうか、そう思いつつ再度口を開いた。
「Yか、そうか。ではY、我々は忙しい、君の要求を聞こう」
『それは既に拡声機で伝えている通りだよ大佐、軍が行った非道を認め、遺族に謝罪と補償をし、捕らえられている仲間を解放する。物資や電力の民間への開放や軍の解体は……こちらはまぁ時間が掛かるから、追々でも構わないが、他は直ぐに出来る事だろう?政府から首相声明を出せばそれで済む事だ』
「言うのは簡単だが、政府迄動かすとなれば事はそう簡単じゃない。軍の判断だけで出来る事じゃないんだ、時間をくれないか?」
 電話の向こうとの遣り取りをしながら横山の脳裏に浮かぶのは、繰り返しタカコから言われた言葉。
『人質をとった相手との交渉では、絶対に弱みや焦りを見せたら駄目です。こちらには余裕が有るんだと、何が有っても何を言われてもそう振る舞って下さい。交渉は直通の電話の遣り取りのみになると思いますが、位置取りが重要です、絶対に相手により下の位置にはつかない様にして下さい。ハッタリでも何でも、とにかく余裕ぶっこいて下さいね』
 簡単に言ってくれるがこんな事は初めての経験で、そもそもこんな現場等には出ず、後方で全体を見渡して采配を振るうのが本来の仕事なのだ、そんな人間に何とも豪快な無茶振りをしてくれる、一事が万事こんな調子なのでは高根も小此木も普段の苦労は如何ばかりか、そんな事を考える。
『時間は指定した通り、動かすつもりは無い』
「そうか、分かった。こちらも最大限の事はする、だから、人質には危害を加えないで欲しい。この約束が守られない場合、お前の要求は全て拒否する」
『それは困るな……分かった、君達が妙な事をしないのであれば、人質の安全は約束しよう。またかける』
 男のその言葉と共に通話は途切れ、ツーという音だけが室内に響く。横山はそれを聞きながら大きく息を吐き出し、灰皿の上で短くなってしまっていた煙草を手に取り一度吸い、それを灰皿に押し付けて揉み消した。
「……しんどいな、なかなか」
 嘘偽りの無い本心の吐露、出来る事であれば経験の有るであろうタカコ達に役目を代わって欲しい位だ。それでも現状ではそんな事は出来ず、多少の経験は有る警察を軍の縄張りに入れる事も出来ず、タカコの凡その事を知っている陸軍の要職に在る高級士官である自分が矢面に立つ以外に道は無いなと思い至り、新しい煙草を取り出して火を点ける。
 時計を見れば時間は午前十時半、火発が占拠されてから十九時間程が経過し、要求が出されてからは十六時間程になる。残された時間は後二十時間、その間に人質の保護だけでも出来れば、火発の施設に多少の損害が出たとしても大きく兵員を動かせるが、今はそれも無理だ。出来る事と言えばこうして電話越しに相手と言葉を交わすだけ、実際の働きは沖合から敷地へと侵入したであろうタカコ率いる奪還部隊に全ての望みを託すしか無い。
 彼女達は今はどうしているのだろうか、現場での動きはタカコに一任しているから自分達には何も分からないが、騒動が起きた気配は今のところ全く無い、海上の艦艇から入る報告でも上陸して油槽船へと入って以降の動きは未だ無いらしい。恐らくは日中ではなく、日没後から行動を開始するのだろう。強力な照明が照らし出すとは言え、夜間であれば影は方々に出来る、それ等を移り施設建物内へと到達し一気に急襲を掛ける、それが一番成功の公算が大きい事は、門外漢の横山にもよく分かっていた。
 戦闘の事となれば尚更自分には何も言えない、あちらの事はタカコを全面的に信用し任せるしか無いだろう。一蓮托生となった今更彼女を疑う気は無い、本来であればここ迄の信頼を置ける立場でない事は理解しているものの、既に乗ってしまった船だ、どうこう言ったところでどうなるものでもない。
 とにかく、自分達はここで自分達に出来る事を、この交渉で多少なりとも相手の気を惹ければ、その分タカコ達が動き回れる隙が大きく多くなるのだろうから。
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