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第270章『匂い』

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第270章『匂い』

「……親父が来るのか」
「そう嫌な顔するなよ……お前より俺の方が嫌だよ…統幕長が来るよりマシだと思おうぜ」
 夜の海兵隊総司令執務室、ソファに腰を下ろした敦賀が心底嫌そうな面持ちで舌打ちをし、高根はそれに苦笑しつつ言葉を返した。統幕から派遣される将官が敦賀の父親である敦賀統幕副長になった、統幕長の須藤から高根がそう連絡を受けたのは夕方の事。よりによって彼か、勘が鋭く有能で次期統幕長は確実と言われている、そんな切れ者が来る事になるとはと頭を抱えた高根、同じ様に連絡を受けたであろう黒川も似た心境に違い無い。敦賀はそれ以前に折り合いが良いとは言えない父親の襲来が嫌らしく、あからさまに嫌悪の表情を浮かべて煙草に火を点ける。
「敦賀の親父さんが中央から派遣されて来るんだってー?」
 そこにやって来たのはタカコ、扉を叩き入室を許可された後に室内へと入りながらの彼女のその言葉に高根が眉根を寄せて口を開く。
「そうだが、誰から聞いた?」
「タツさん。さっき大部屋に電話来たよ、『工廠の黒川ですが清水曹長いらっしゃいますか?』って」
「……何やってんだあいつは」
「んで、胃が痛くなるって愚痴聞かされた」
 気持ちは分かるが何故お前に、そう言って頭を掻く高根を見て笑いながら敦賀の隣へと腰を下ろそうとしたタカコ、その彼女の表情は敦賀が手にした煙草を見て一気に険しくなった。
「この……アホンダラ!お前、私が言った事をもう忘れたのか!」
 言葉と共に右手が敦賀が手にする煙草を取り上げ、左手が彼の後頭部へと手首を効かせて叩き込まれる。突然の事に動きを失いつつも後頭部を抱える敦賀、タカコはそんな彼を見下ろしつつ灰皿に煙草を押し付けて怒鳴り付けた。
「お前、今度は非正規兵役に回るから身体から体臭以外の臭いは消しておけって言っただろうが!煙草は当然厳禁、納豆も食うな食事に薬味も使うなって言っただろうがこの馬鹿!ボケ!童貞!」
「ああ、そういやそうだったな。だがよ、それでいきなり殴るとか――」
「やかましい!お前、部隊を全滅させる気か!人間の嗅覚侮るな、意識には上らなくても無意識下で察知するんだよ!それで気取られて反撃されたらどうするんだこのボンクラ!」
 ムッとしつつも言葉を返す敦賀を叩き斬る勢いでタカコが怒鳴り返し、彼の隣へと腰を下ろす。
「しかしよ、お前もヤニ飲むだろうがよ」
「私は一連の訓練が確定してから吸ってないぞ。口に入れる物は徹底的に気を配って身体も念入りに洗ってるし、その時に使う石鹸も営舎のは使ってない、香料入ってないやつを買って来てそれ使ってるよ」
 タカコも喫煙者だった筈だがと問い掛ける高根、タカコは彼のそんな言葉を受けて立ち上がり、執務机迄歩いて来て後ろで一つに束ねている自らの髪を差し出して来る。
「匂い嗅いでみ?」
 そう言われて高根が髪の束を受け取りそれを鼻先へと持って行ってみれば、確かに香料の香りは全くせず、綺麗に洗ってあるからか体臭すら全く感じ取れなかった。
「今回非正規側に入れるケインとヴィンスも同じだぞ、訓練の予定も近いし、もう何の匂いもしなくなってるんじゃないかな。アリサは逆だな、私と入れ替わる時は匂いを付けさせてる、私の役をしてもらうのに匂いからばれると困るからね」
「……そこ迄徹底すんの?」
「すんの」
 あっけらかんと言って笑うタカコ、何から何迄大和とは違うなと高根が頭を掻けば、彼の手から髪を外したタカコがソファへと戻り今度こそ敦賀の隣へと腰を下ろす。次回の訓練の予定は四日後、明日の朝からタカコが率いる非正規役部隊は鳥栖の演習場へと入り最終準備に着手する手筈となっている。習うより慣れろだ、そう言い切った彼女からは大まかな流れしか聞かされておらず、非正規側がどう迎え撃つのか仕掛けて来るのかは高根にも黒川にも何も分からない。同じ大和陣営である敦賀や他の選抜人員も現時点では何も聞かされておらず、明日朝の演習場入りと同時に連絡手段を失い、何がどう行われるかの詳細は大和勢には全く知らされないまま訓練を迎える事となっている。
 そこ迄徹底した機密保持、副長がやって来たからといってそう簡単に事が露見するとも思えないが、高根の心中には拭いきれない不安が滓の様に残っていた。統幕長の須藤もそうだが副長も次期統幕長はほぼ確定と言われている程の人物、それも現在の役職から見ての事ではなく、統幕入りする前からそんな話はあちこちで聞いている。本来であれば総合的な運用に携わるのが職務の統幕、そこの副長が直々に派遣されて来るとは流石に思わなかった。統幕内の人間が来るにしても精々が佐官だと思っていたのだ、無論統幕の意向を全面的に受けた形となる事は当然だが、階級や立場も考えればその方が断然やり易かったのは明白だ。
 副長が来れば一切の誤魔化しは利かないだろう、少しでも綻びを見せれば正面切ってそこを突っ込んで来るに違い無い。息子の嫁候補という事でタカコに対しても随分と関心を寄せている様子だが、その調子でマクギャレットに近付き替え玉である事を見破られる可能性も有る。こちらに関してはタカコ本人に接触されるよりは、マクギャレットに注意を向けている内は立案や実際の訓練にタカコが指導側で携わっている事を気取られる可能性は低くなるかも知れないから、一概に悪い事ではないのかも知れないが、いずれにせよ胃と頭が痛くなる事実は変わらない。
「大和人つーか東洋系は体臭無い方なんだからまだ楽だぞ、ジェフとかマリオなんか体臭自体が強めだから大変なんだって」
「そういうもんなのか」
「おお、マジマジ。いっぺんあいつ等が脱いだシャツに顔突っ込んで深呼吸してみ?食欲無くすぞ」
「……それは……体臭が無くても御免被りてぇんだが」
「私は足は臭いけど身体は無臭だぞ、ほれ、敦賀も私の髪の匂い嗅いでみ」
「止めろ馬鹿女、鼻に毛先が入る」
 明日以降の事を考えてげんなりとした面持ちになる高根、その彼の目の前ではタカコと敦賀がじゃれ合っており、こいつ等は事の深刻さを理解しているのかと大きく溜息を吐く。
「……お前等さぁ……頼むぜ?本当に」
「えー?任せろって。少なくとも私はヘマはしねぇよ」
 高根の言葉にそう言って軽い調子で返事をするタカコ、高根はそんな彼女の様子を見て、もう一つ溜息を吐いた。
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