55 / 100
第255章『風邪』
しおりを挟む
第255章『風邪』
惜敗を喫した雪合戦勝負の翌日、敦賀は目の前に現れたタカコを見て険を深くし大きな溜息を吐いた。
「……だから言っただろうがこの馬鹿が……ちょっと来い」
「え?へーきへーき……ぜーんぜ――」
「うるせぇ、来い」
真っ赤な顔と微妙に焦点の定まらない眼差しでへらへらと笑いながら手を振るタカコ、その様子に苛立ちを感じつつ肩を掴んで引き寄せて額へと掌を当ててみれば、見た目からも窺えた通りにひどく熱くなっている。
「俺が何て言ったか言ってみろ」
「……風邪ひくからさっさと風呂入って着替えろって言いました……」
「で、お前は何て答えた?」
「……動き回って暑いからまだいいって……汗が引いたら入るって言いました……」
「で、どうなった?」
「……御覧の通りです……」
馬鹿だ、本当にこの女は馬鹿だ、心底馬鹿だ、そんな事を思いつつもう一度深い溜息を吐き、今日の日程を思い返す。今日は統幕へと出向いての訓練の説明の日、統幕だけでなく陸軍幕僚監部と技術研究本部と装備施設本部も揃った重要な会議になる。本来であれば下士官の立場で出る事は無いが、高根と黒川が中核となった提案で、その中には既に自分もタカコも、そして今回同行している他の陸軍兵や海兵も前提として組み込まれており、夫々が二人からの命令で参加する事となった。
「先任、どうかしたんですか?」
その言葉に振り返ればそこにはカタギリとキムの姿、彼等も同じ様にして選抜され連れて来られており、敦賀は二人を見てから顎で彼等の上官を指し示す。
「人の忠告を無視して風邪をひいた馬鹿に馬鹿って言ってたところだ」
「ああ、それは自業自得ですね」
「完膚無き迄の自業自得ですね」
敦賀の言葉ににこやかにそう言って退ける二人、作戦行動下でない時は本当に尊敬されていない上官なのだなと思いつつ、再度タカコへと視線を戻す。
恐らくはタカコに対しても質問が出るかも知れないし、何よりタカコでなければ答える事が出来ない事も有るだろう、それを考えればタカコをここで休ませておくのは無理だ。
今回の計画案――、無人の廃墟となった鳥栖市街地全域を演習場とし、そこで対非正規兵の訓練を行うというもの。黒川が鳥栖曝露の直後から考え他に先んじて管理権を得、それから改めて高根へと話を持って来たと聞いている。本土内での事であれば本来は陸軍の管轄だが、対馬区への出撃は依然棚上げとなったままの上に、今後は本土内での動きに注力すべき状況になって来るだろうというのは黒川と高根共通の見解だった様で、計画は陸軍西部方面旅団と海兵隊の共同で行われる事になった。
タカコとその部下であるカタギリとキムを教導団とし、選抜された人間が先ずは指導を受け、その指導を受けた人間達を正式な仮想敵部隊として、以降全ての部隊に順次訓練を受けさせるというのが二人の書いた絵図面だ。そういった事はタカコ自身も考えていたのか特に問題になる事も意見が対立する事も無く話は纏まり、それを見越していたのか黒川が事前に調整していた会議への参加となったのは、意見の一致を見てからほんの一週間程後の事。ここ迄の手配は殆ど黒川の独断で先行して行われていたそうで、こういった事の手配や交渉は本当に嫌味な位に上手いと思ったものだ。
陸軍にとっても海兵隊にとっても、否、大和にとって重要な転機の一つとなるであろう計画の始動、躓きは絶対に許されない状況、そんな中でタカコを欠席させる事は黒川も高根も認めないだろう。タカコには可哀相だが部下二人の言う通りに自業自得、会議の間だけでも踏ん張ってもらって、後はこの宇治駐屯地の医務室で休んでいれば良い、そう判断してタカコへと声を掛ける。
「しんどいのは分かるがしゃっきりしろ。会議が終わったら寝てれば良いから、今は虚勢でも何でも張っとけこの馬鹿女」
「……うん、そうだよね……タカコさん頑張るよ……」
出会ってから今迄の二年半で発熱した事は一度も無かったタカコ、馬鹿なのかそういう体質なのかは分からないが、そんな人間がこんな高熱をいきなり出せば相当辛いに違い無い。返事をしつつも身体は微妙にふらふらと揺れ呼吸も荒く、そんな彼女の様子を見ながら、せめて会議が荒れなければ良いが、と、敦賀はそんな事を考えた。
各種の研究を行う技研と工廠を監督し兵器や装備の開発を統括する装施、彼等にとっては新たな作戦や装備は大きな関心事だろうし、西部方面旅団の上位組織になる陸幕にとってもそうだろう。その彼等を統括し制服組としては最上位に位置する統幕だけではない、多くの組織と人間が今回の会議とそこで提案される計画案について大きな関心を寄せている。
そんな中、統幕長の須藤だけでなく副長である自らの父も会議には当然参加する予定で、個人的とは言えどタカコに強い関心を持っている彼がタカコに注視するであろう事は敦賀にも予想が付く。発熱して本調子でないところを執拗に見られていてはどんな綻びを見つけられないとも限らないが、それでも何とか誤魔化して乗り切るしか無いだろう。
以前は父との確執の所為で京都に寄り付きたくはなかったが、今はそれにもう一つ理由が加わった。そうそう簡単に露見する事は無いだろうが、事が明らかになれば黒川も高根も、そして自分も、無傷では済まないどころか軍事法廷送りになる事は明らかだ。それでもタカコには戦略的に見て、それ程の危険を冒してでも手の内に置いておく価値が有る、少なくともあの二人はそう判断しているのだろう。
そんな彼等の為にも自分の為にも、どうか綺麗に取り繕ってくれよ、そう思いつつ敦賀はタカコの頭を軽く撫でた。
惜敗を喫した雪合戦勝負の翌日、敦賀は目の前に現れたタカコを見て険を深くし大きな溜息を吐いた。
「……だから言っただろうがこの馬鹿が……ちょっと来い」
「え?へーきへーき……ぜーんぜ――」
「うるせぇ、来い」
真っ赤な顔と微妙に焦点の定まらない眼差しでへらへらと笑いながら手を振るタカコ、その様子に苛立ちを感じつつ肩を掴んで引き寄せて額へと掌を当ててみれば、見た目からも窺えた通りにひどく熱くなっている。
「俺が何て言ったか言ってみろ」
「……風邪ひくからさっさと風呂入って着替えろって言いました……」
「で、お前は何て答えた?」
「……動き回って暑いからまだいいって……汗が引いたら入るって言いました……」
「で、どうなった?」
「……御覧の通りです……」
馬鹿だ、本当にこの女は馬鹿だ、心底馬鹿だ、そんな事を思いつつもう一度深い溜息を吐き、今日の日程を思い返す。今日は統幕へと出向いての訓練の説明の日、統幕だけでなく陸軍幕僚監部と技術研究本部と装備施設本部も揃った重要な会議になる。本来であれば下士官の立場で出る事は無いが、高根と黒川が中核となった提案で、その中には既に自分もタカコも、そして今回同行している他の陸軍兵や海兵も前提として組み込まれており、夫々が二人からの命令で参加する事となった。
「先任、どうかしたんですか?」
その言葉に振り返ればそこにはカタギリとキムの姿、彼等も同じ様にして選抜され連れて来られており、敦賀は二人を見てから顎で彼等の上官を指し示す。
「人の忠告を無視して風邪をひいた馬鹿に馬鹿って言ってたところだ」
「ああ、それは自業自得ですね」
「完膚無き迄の自業自得ですね」
敦賀の言葉ににこやかにそう言って退ける二人、作戦行動下でない時は本当に尊敬されていない上官なのだなと思いつつ、再度タカコへと視線を戻す。
恐らくはタカコに対しても質問が出るかも知れないし、何よりタカコでなければ答える事が出来ない事も有るだろう、それを考えればタカコをここで休ませておくのは無理だ。
今回の計画案――、無人の廃墟となった鳥栖市街地全域を演習場とし、そこで対非正規兵の訓練を行うというもの。黒川が鳥栖曝露の直後から考え他に先んじて管理権を得、それから改めて高根へと話を持って来たと聞いている。本土内での事であれば本来は陸軍の管轄だが、対馬区への出撃は依然棚上げとなったままの上に、今後は本土内での動きに注力すべき状況になって来るだろうというのは黒川と高根共通の見解だった様で、計画は陸軍西部方面旅団と海兵隊の共同で行われる事になった。
タカコとその部下であるカタギリとキムを教導団とし、選抜された人間が先ずは指導を受け、その指導を受けた人間達を正式な仮想敵部隊として、以降全ての部隊に順次訓練を受けさせるというのが二人の書いた絵図面だ。そういった事はタカコ自身も考えていたのか特に問題になる事も意見が対立する事も無く話は纏まり、それを見越していたのか黒川が事前に調整していた会議への参加となったのは、意見の一致を見てからほんの一週間程後の事。ここ迄の手配は殆ど黒川の独断で先行して行われていたそうで、こういった事の手配や交渉は本当に嫌味な位に上手いと思ったものだ。
陸軍にとっても海兵隊にとっても、否、大和にとって重要な転機の一つとなるであろう計画の始動、躓きは絶対に許されない状況、そんな中でタカコを欠席させる事は黒川も高根も認めないだろう。タカコには可哀相だが部下二人の言う通りに自業自得、会議の間だけでも踏ん張ってもらって、後はこの宇治駐屯地の医務室で休んでいれば良い、そう判断してタカコへと声を掛ける。
「しんどいのは分かるがしゃっきりしろ。会議が終わったら寝てれば良いから、今は虚勢でも何でも張っとけこの馬鹿女」
「……うん、そうだよね……タカコさん頑張るよ……」
出会ってから今迄の二年半で発熱した事は一度も無かったタカコ、馬鹿なのかそういう体質なのかは分からないが、そんな人間がこんな高熱をいきなり出せば相当辛いに違い無い。返事をしつつも身体は微妙にふらふらと揺れ呼吸も荒く、そんな彼女の様子を見ながら、せめて会議が荒れなければ良いが、と、敦賀はそんな事を考えた。
各種の研究を行う技研と工廠を監督し兵器や装備の開発を統括する装施、彼等にとっては新たな作戦や装備は大きな関心事だろうし、西部方面旅団の上位組織になる陸幕にとってもそうだろう。その彼等を統括し制服組としては最上位に位置する統幕だけではない、多くの組織と人間が今回の会議とそこで提案される計画案について大きな関心を寄せている。
そんな中、統幕長の須藤だけでなく副長である自らの父も会議には当然参加する予定で、個人的とは言えどタカコに強い関心を持っている彼がタカコに注視するであろう事は敦賀にも予想が付く。発熱して本調子でないところを執拗に見られていてはどんな綻びを見つけられないとも限らないが、それでも何とか誤魔化して乗り切るしか無いだろう。
以前は父との確執の所為で京都に寄り付きたくはなかったが、今はそれにもう一つ理由が加わった。そうそう簡単に露見する事は無いだろうが、事が明らかになれば黒川も高根も、そして自分も、無傷では済まないどころか軍事法廷送りになる事は明らかだ。それでもタカコには戦略的に見て、それ程の危険を冒してでも手の内に置いておく価値が有る、少なくともあの二人はそう判断しているのだろう。
そんな彼等の為にも自分の為にも、どうか綺麗に取り繕ってくれよ、そう思いつつ敦賀はタカコの頭を軽く撫でた。
0
お気に入りに追加
42
あなたにおすすめの小説
〖完結〗私が死ねばいいのですね。
藍川みいな
恋愛
侯爵令嬢に生まれた、クレア・コール。
両親が亡くなり、叔父の養子になった。叔父のカーターは、クレアを使用人のように使い、気に入らないと殴りつける。
それでも懸命に生きていたが、ある日濡れ衣を着せられ連行される。
冤罪で地下牢に入れられたクレアを、この国を影で牛耳るデリード公爵が訪ねて来て愛人になれと言って来た。
クレアは愛するホルス王子をずっと待っていた。彼以外のものになる気はない。愛人にはならないと断ったが、デリード公爵は諦めるつもりはなかった。処刑される前日にまた来ると言い残し、デリード公爵は去って行く。
そのことを知ったカーターは、クレアに毒を渡し、死んでくれと頼んで来た。
設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。
全21話で完結になります。
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
愚かな父にサヨナラと《完結》
アーエル
ファンタジー
「フラン。お前の方が年上なのだから、妹のために我慢しなさい」
父の言葉は最後の一線を越えてしまった。
その言葉が、続く悲劇を招く結果となったけど・・・
悲劇の本当の始まりはもっと昔から。
言えることはただひとつ
私の幸せに貴方はいりません
✈他社にも同時公開
愛することをやめたら、怒る必要もなくなりました。今さら私を愛する振りなんて、していただかなくても大丈夫です。
石河 翠
恋愛
貴族令嬢でありながら、家族に虐げられて育ったアイビー。彼女は社交界でも人気者の恋多き侯爵エリックに望まれて、彼の妻となった。
ひとなみに愛される生活を夢見たものの、彼が欲していたのは、夫に従順で、家の中を取り仕切る女主人のみ。先妻の子どもと仲良くできない彼女をエリックは疎み、なじる。
それでもエリックを愛し、結婚生活にしがみついていたアイビーだが、彼の子どもに言われたたった一言で心が折れてしまう。ところが、愛することを止めてしまえばその生活は以前よりも穏やかで心地いいものになっていて……。
愛することをやめた途端に愛を囁くようになったヒーローと、その愛をやんわりと拒むヒロインのお話。
この作品は他サイトにも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品(写真ID 179331)をお借りしております。
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
私はお母様の奴隷じゃありません。「出てけ」とおっしゃるなら、望み通り出ていきます【完結】
小平ニコ
ファンタジー
主人公レベッカは、幼いころから母親に冷たく当たられ、家庭内の雑務を全て押し付けられてきた。
他の姉妹たちとは明らかに違う、奴隷のような扱いを受けても、いつか母親が自分を愛してくれると信じ、出来得る限りの努力を続けてきたレベッカだったが、16歳の誕生日に突然、公爵の館に奉公に行けと命じられる。
それは『家を出て行け』と言われているのと同じであり、レベッカはショックを受ける。しかし、奉公先の人々は皆優しく、主であるハーヴィン公爵はとても美しい人で、レベッカは彼にとても気に入られる。
友達もでき、忙しいながらも幸せな毎日を送るレベッカ。そんなある日のこと、妹のキャリーがいきなり公爵の館を訪れた。……キャリーは、レベッカに支払われた給料を回収しに来たのだ。
レベッカは、金銭に対する執着などなかったが、あまりにも身勝手で悪辣なキャリーに怒り、彼女を追い返す。それをきっかけに、公爵家の人々も巻き込む形で、レベッカと実家の姉妹たちは争うことになる。
そして、姉妹たちがそれぞれ悪行の報いを受けた後。
レベッカはとうとう、母親と直接対峙するのだった……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる