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第219章『緩から急へ』

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第219章『緩から急へ』

 昼過ぎの曹長大部屋、冷たい風の吹く外とは違いストーブで暖かな空気に満たされている筈のそこは、現在何故か極寒の空気が流れている。
「……で……?課業中に基地の外迄酒を買いに行かせるたぁどういう了見なんだ……?」
 ソファにどかりと腰を下ろし足を組んで踏ん反り返っているのは鬼の最先任上級曹長、居合わせた曹長達は顔色を失くしその前に立ち、何をどう言い繕ったものかと必死で考えていた。
 商店街に酒を買いに出掛けたタカコはいつ迄経っても戻らず、何か急な案件でも出来たのか、そんな言葉を交わしつつ業務をこなしていた彼等の前に現れたのは不機嫌を身に纏った上官。
「先任、お疲れ様です。タカコなら今は――」
 この鬼が唯一の女性曹長を甚く気に入っている事は古参であれば誰もが知っている事で、二人がいつ結婚するのかという賭けには大部屋の全員が乗っている。彼がこの大部屋へと姿を現す時にはタカコに用事が有る事が殆どで、今回もそうだろうと深く考えずに曹長の一人が立ち上がりながら口を開けば、その直後に鬼の口から出た言葉に、それを聞いた全員の心臓は一度鼓動を停止した。
「いねぇのは知ってる……少し前に外で会ったからな……何だっけか、ああ、そうだ……『ジャンケンに負けて商店街迄酒の買い出しに行く』って言ってたなぁ……?」
 拙い、バレた、よりによって一番バレてはいけない人物にバレた。どう反応すれば良いのか分からずに固まる面々、敦賀はその彼等を活骸ですら怯えそうな鋭い眼差しで射抜きつつ室内へと入り音を立ててソファへと座り込む。そして、
「……来い」
 と、地を這う様な声音で命令し、それに逆らう意志も術も持たない哀れな曹長達はどんな殺され方をするのかとすら思いつつ彼の前に立った。
「で……だ、気を張って仕事してるんだ、ジャンケンで奢りは良い、俺もここの住人だった時にはよくやってた。だがよ……課業中に、しかもえらい立て込んでる時に商店街迄行かせて、挙句にそれが酒ってのはどういう了見なんだ……?」
 最先任――、生粋の、そして叩き上げの下士官である自分達の頂点、運の強さと実力を兼ね備えた者のみに許される遥かな高み。その地位に上り詰め十年の長きに渡り君臨し続ける生きる伝説、敦賀貴之。陸軍の高級士官を父に持ちながら敢えて海兵隊兵卒の道を選び、父親の威光を持ち出して囁かれる陰口は実力で叩き潰して来た彼を否定する者は今や誰もいない。
 高卒や大卒で入隊して来て彼より年上の下士官もいるが、年齢ではなく在籍年数と階級が絶対のこの海兵隊に於いて、彼に面と向かって命令出来るのは総司令である高根と副司令である小此木位のものだ。その『生きる伝説』であり『鬼』である敦賀、その彼にじっと睨みつけられる曹長達の心境は『生き心地がしない』程度では生易しく、寧ろ一思いに殺してくれとすら願う程。素手で活骸の群れに突っ込めと命令される方がまだマシだと心の中で己の境遇を嘆く彼等の目に、敦賀の背後で開け放たれたままの扉の向こうからひょっこりと顔を出したタカコが申し訳無さそうに手を合わせる姿が映ったのはそんな時だった。
「な……!」
「あいつ……!」
「……あ?何処見てやがる、てめぇ等は今誰と話をしてるんだ?」
「い、いえっ!何でもありません!」
 俺等を売りやがった、逃げやがった、そう思いながら思わず口に出せば、敦賀はそれすら睨みつけて力尽くで黙らせる。手を合わせて謝った後に何処かへと消えて行ったタカコ、敦賀のお気に入りだからと言ってこれは無いだろうと思うものの、それをこの場で口や態度に出せる強者は誰一人としておらず、まだまだ終わる気配の無い鬼の説教へと意識を戻して行った。
 そんな哀れな曹長達が敦賀の説教を受けている時、凛を高根の自宅へと送り届けて戻って来たタカコが大部屋での謝罪の次に向かったのは総司令執務室。扉を叩いて入室の許可と共に中へと入り、ソファへと乱暴に身体を沈めて部屋の主である高根を睨みつける。
「って……タカコよ、どうかしたか?」
 事情等知る筈も無い高根が書類から顔を上げてタカコを見るが、彼女の苛立ちは治まる事を知らなかった。凛が自分で高根に告げると言ったしそれが筋だというのは分かっている、だから今彼に対して事実を告げるつもりは無い。
「……何でもない……」
 高根が今重責を一身に背負ってその役目を果たそうと懸命に働いている、近くで彼を見ているからその事についてもよく分かっている。替えの利く立場ではないし彼の有能さも他には替え難いものだ、彼がここで職務に当たり自宅へ帰る余裕等殆ど無いという現実は至極真っ当なのだという事も。
 けれど、将来を誓い合っているのであろう相手、しかも知らないとは言え身重の存在を放置して良い理由になるのか、昨夜は帰宅出来ていたがその前に帰宅したのは十日も前の事、少々省みるべきだろうと一言言ってやりたいものの、その理由をどう言ったものかと思案する。
「何でもねぇってこたぁ無ぇだろうよ、そんな恐ろしいツラしてよ。何だ、敦賀と何か有ったのか?」
「私とあいつの事なんざどうでも良いんだよ!私が言いたいのはお前だお前!いつ家に帰るつもりだ!」
「は?昨日は家に帰ったぜ?」
「その前は十日も前だろうが!凛ちゃん放置してるんじゃねぇよこの屑!」
 タカコのその荒い言葉に高根は言葉に詰まる、彼にしても負い目も自覚も有るのだろう、それでも仕事よりも凛を優先させる事も出来ず、一番苛立ちを抱えているのは彼自身なのかも知れない。タカコはそんな高根の様子を見て大きく息を吐きつつがしがしと頭を掻き、ポケットから煙草を取り出して火を点けた。
「……口止めされてたんだけどさ、さっき外に出た時に凛ちゃんに会ったよ。病院に行こうとして立ち眩み起こしててさ、私が病院に連れて行って、さっき家に送り届けて来た。真吾が心配するといけないから、言うなって言われた」
「立ち眩みって……大丈夫だったのか?」
「ああ、別に問題無い。問題無いけどさ、もう少しで良いから凛ちゃんの為に家に帰ってやれよ、体調悪けりゃ不安にもなるし、今日は家に帰ってやれよ?」
 妊娠の事実は自分が言えた事ではない、それは彼女の口から直接伝える事。それでもそれ以外の事であれば良いだろうとそちらだけを口にすれば、一瞬腰を浮かせかけた高根は『問題無い』というタカコの言葉にほっとした面持ちになり再度椅子へと身を埋める。
「……そうか、世話になったな、悪かった」
「別にお前が謝る事じゃねぇ、凛ちゃんの為だ」
「……そうだな……今日は帰るよ、朝からずっと気にはなってたしな、俺も」
「そうしろ」
 家に帰れば彼はそこで素晴らしい報せを聞く事になる、明日出勤して来た時が見物だなと煙を吐き出しつつタカコが小さく笑った時、扉が激しく叩かれると同時に凄まじい勢いで開かれた。

「司令!博多で、博多でまた曝露が発生しました!」

 真っ青な顔をして飛び込んで来たのは部屋付きの士官、タカコはその彼の告げる内容を理解した瞬間、床を蹴っていた。
「おい!タカコ!」
「凛ちゃんが!凛ちゃんは――!」
 お前の子を身籠っている、それだけは何とか胸の内に押し留め、間に合ってくれ、と、胸中で何度も何度も繰り返し、高根の自宅へと向かって走り出した。
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