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第52章『計略』
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第52章『計略』
「――それでね、私は大丈夫だって言うのに旦那は『絶対に駄目!あんた指揮官なんだから頼むから後方にどっしり控えてて!先陣切ってカチ込みかける指揮官とか有り得ないから!』って言ってさ、その場にいた人間総動員で押さえ込んで、結局出られなくて」
「……いや、タカコちゃん、俺は旦那に同情するよ……気苦労多いんだろうな、君みたいな嫁さん兼上官持つと……」
「タツさんも!?酷くない!?」
「いや、ほら、ね?民間企業とは言え社長で指揮官なんだろ?だったらさ、後方で構えて全体を見渡して指揮をね?」
「現場と前線大好きなのに……前線出ないと窒息して死んじゃう病気なのに……そもそも私は士官教育課程受けた下士官上がり士官よ?現場の方が合ってるに決まってるじゃん!」
「へぇ、その若さでとはそりゃすげぇ、よっぽど優秀なんだな。それが何でまた下野したんだい?」
「……大人の事情」
「……上と喧嘩でもしたんだろ」
夜の中洲、五月に高根達と訪れた店の同じ座敷、そこで黒川とタカコが向かい合い料理をつつき酒を酌み交わしている。話題はタカコの夫の事ばかり、知らない人間の事を聞いても楽しくないだろうと言うタカコに
「いや?君みたいな子が選んだのがどんな人間か興味有るし」
と、黒川は穏やかに笑ってそう言って、夫との生活の中で起こった出来事を話せとせがんで来た。それならと話し始めたタカコ、大和に来てから一年ともうすぐ三ヶ月、殆ど話す事の無かった夫との想い出、本心では誰かに聞いて欲しかったのか、一つ二つ促されて話し出せば後はもう流れる様にして言葉が溢れ出す。
黒川はそれに対して過去形ではなく、必ず現在形で言葉を返して来る、意識的にか無意識か、それが何とも嬉しく、心を暖かくしてくれた。
そうして促されるままに話し飲み、前回と同じ様に轟沈したのは腰を下ろしてから三時間程経った頃。黒川はそんなタカコの様子を見て数度名前を呼んでみるが返事は無く、それを確認すると目を細めて手にしていた猪口を机の上へと置く。
やはり今回も何も聞き出せなかった、二か月前タカコに暴行を加え何者かに惨殺された三人、彼等はタカコの事を捕虜だと知っていただけではなく間諜だとも言っていたと聞いている、何か手掛かりになる事を聞き出せはしないかと思い飲ませてみたものの結果は前回と同じ、肝心なところは話を絶妙にぼかしたり逸らしたり、相当高度な訓練を受けている優秀な軍人である事に間違いは無いだろう。
士官教育課程に選抜されたというのは恐らくは本当だ、下士官が四十人近い部隊の指揮官に据えられる事は無いだろうしこうも高度な教育は受けられまい、彼女の戦闘能力を見るに、最初から士官として任官した線も薄いだろう。
結局今日の収穫はそれだけだ、こうも守りが堅いとは、梃子摺る相手だと思ったのは正解だった。
彼女に対しての罪悪感にも謝罪にも嘘は無い、あの日水から引き揚げた彼女の心拍も呼吸も停止していた時には心臓が凍るかと思ったし、苦しそうに咳き込んで水を吐き出した時には心底安堵した。
そして今日、思わず抱き締めてしまった事を余計だったと思いはするものの、彼女が責める事も無く呆気無く許してくれた事も本当に嬉しかったし安堵もした。高根を介して知り合った勝ち気で跳ねっ返りの友人、その彼女を失う事にならずに良かったと思った事に嘘は無い、それは黒川の全くの本心だった。
けれど、それと彼女の素性について調べる事は全く別の話なのだ、九州地方の安全を預かる総責任者としての黒川は、依然としてタカコに対する警戒心を解いてはいない。
高度な教育を受けた、恐らくは正規軍、更に言えばその特殊部隊の指揮官が目の前にいる、高い戦闘能力と高度な技術と知識を持ち、そうとは思えない外見でそれ等を覆い隠した危険因子、それがタカコだ。
拉致と暴行を受けた際にするであろう抵抗の痕跡が殆ど見られない、彼女を診察した医官からはそう報告を受けている、その事からも非常に冷静に事に当たっている事が見て取れた。つまりは抵抗して陸軍と海兵隊の間に事が起これば、海兵隊に守られている自分の安全が脅かされる、彼女はそこ迄見通して算盤を弾き、大人しく拉致されて暴行を受ける、その方が損失が少ないと、安全だと判断したという事になる。
間諜ではないのかも知れない、それでも見たままを受け入れる事は到底出来ないだろう、せめて彼女の本来の任務内容を知る事が出来れば、それが大和に害を為すものではない事が明らかになれば、そう思いはするものの、この調子では彼女がそれを明らかにするとも思えない。
タカコを海兵隊から、高根から奪うつもりは毛頭無い。それでも、彼女に害意が無い事だけは確信させて欲しい、それが黒川の正直なところ。
(……さーて……どう落とすかね、このお嬢ちゃんを……手強いぜこりゃ)
高根と敦賀とタカコ、そして自分、夫々に違う思惑が絡み合った今の状態、少しでも注意を怠ればあっと言う間に他の陣営に食い込まれる事になる。政争に興味は無いが自分の縄張りの中で他の勢力に、しかも国外の勢力に動かれる可能性が有るとなれば話は全く変わって来る。今回はそれだけではなく彼女の情報を自分や殺された三人の兵卒に漏らした正体不明の勢力も有る、下手をすれば九州は、この福岡博多は禍に見舞われる事になるだろう、それだけは避けなければ。
その禍が実際に齎されるとして、それを放つのがタカコではない事を祈ろう。個人としての自分は彼女を気に入っている、出来れば殺したくはない、ずっと良い関係を保っていたい。
時計を見ればもう二十三時を回っている、高根と敦賀から御目付け役を任された大尉が半泣きになっているに違い無いな、黒川はそんな事を考えて立ち上がり、タカコを起こして送り届けようと歩き出した。
「――それでね、私は大丈夫だって言うのに旦那は『絶対に駄目!あんた指揮官なんだから頼むから後方にどっしり控えてて!先陣切ってカチ込みかける指揮官とか有り得ないから!』って言ってさ、その場にいた人間総動員で押さえ込んで、結局出られなくて」
「……いや、タカコちゃん、俺は旦那に同情するよ……気苦労多いんだろうな、君みたいな嫁さん兼上官持つと……」
「タツさんも!?酷くない!?」
「いや、ほら、ね?民間企業とは言え社長で指揮官なんだろ?だったらさ、後方で構えて全体を見渡して指揮をね?」
「現場と前線大好きなのに……前線出ないと窒息して死んじゃう病気なのに……そもそも私は士官教育課程受けた下士官上がり士官よ?現場の方が合ってるに決まってるじゃん!」
「へぇ、その若さでとはそりゃすげぇ、よっぽど優秀なんだな。それが何でまた下野したんだい?」
「……大人の事情」
「……上と喧嘩でもしたんだろ」
夜の中洲、五月に高根達と訪れた店の同じ座敷、そこで黒川とタカコが向かい合い料理をつつき酒を酌み交わしている。話題はタカコの夫の事ばかり、知らない人間の事を聞いても楽しくないだろうと言うタカコに
「いや?君みたいな子が選んだのがどんな人間か興味有るし」
と、黒川は穏やかに笑ってそう言って、夫との生活の中で起こった出来事を話せとせがんで来た。それならと話し始めたタカコ、大和に来てから一年ともうすぐ三ヶ月、殆ど話す事の無かった夫との想い出、本心では誰かに聞いて欲しかったのか、一つ二つ促されて話し出せば後はもう流れる様にして言葉が溢れ出す。
黒川はそれに対して過去形ではなく、必ず現在形で言葉を返して来る、意識的にか無意識か、それが何とも嬉しく、心を暖かくしてくれた。
そうして促されるままに話し飲み、前回と同じ様に轟沈したのは腰を下ろしてから三時間程経った頃。黒川はそんなタカコの様子を見て数度名前を呼んでみるが返事は無く、それを確認すると目を細めて手にしていた猪口を机の上へと置く。
やはり今回も何も聞き出せなかった、二か月前タカコに暴行を加え何者かに惨殺された三人、彼等はタカコの事を捕虜だと知っていただけではなく間諜だとも言っていたと聞いている、何か手掛かりになる事を聞き出せはしないかと思い飲ませてみたものの結果は前回と同じ、肝心なところは話を絶妙にぼかしたり逸らしたり、相当高度な訓練を受けている優秀な軍人である事に間違いは無いだろう。
士官教育課程に選抜されたというのは恐らくは本当だ、下士官が四十人近い部隊の指揮官に据えられる事は無いだろうしこうも高度な教育は受けられまい、彼女の戦闘能力を見るに、最初から士官として任官した線も薄いだろう。
結局今日の収穫はそれだけだ、こうも守りが堅いとは、梃子摺る相手だと思ったのは正解だった。
彼女に対しての罪悪感にも謝罪にも嘘は無い、あの日水から引き揚げた彼女の心拍も呼吸も停止していた時には心臓が凍るかと思ったし、苦しそうに咳き込んで水を吐き出した時には心底安堵した。
そして今日、思わず抱き締めてしまった事を余計だったと思いはするものの、彼女が責める事も無く呆気無く許してくれた事も本当に嬉しかったし安堵もした。高根を介して知り合った勝ち気で跳ねっ返りの友人、その彼女を失う事にならずに良かったと思った事に嘘は無い、それは黒川の全くの本心だった。
けれど、それと彼女の素性について調べる事は全く別の話なのだ、九州地方の安全を預かる総責任者としての黒川は、依然としてタカコに対する警戒心を解いてはいない。
高度な教育を受けた、恐らくは正規軍、更に言えばその特殊部隊の指揮官が目の前にいる、高い戦闘能力と高度な技術と知識を持ち、そうとは思えない外見でそれ等を覆い隠した危険因子、それがタカコだ。
拉致と暴行を受けた際にするであろう抵抗の痕跡が殆ど見られない、彼女を診察した医官からはそう報告を受けている、その事からも非常に冷静に事に当たっている事が見て取れた。つまりは抵抗して陸軍と海兵隊の間に事が起これば、海兵隊に守られている自分の安全が脅かされる、彼女はそこ迄見通して算盤を弾き、大人しく拉致されて暴行を受ける、その方が損失が少ないと、安全だと判断したという事になる。
間諜ではないのかも知れない、それでも見たままを受け入れる事は到底出来ないだろう、せめて彼女の本来の任務内容を知る事が出来れば、それが大和に害を為すものではない事が明らかになれば、そう思いはするものの、この調子では彼女がそれを明らかにするとも思えない。
タカコを海兵隊から、高根から奪うつもりは毛頭無い。それでも、彼女に害意が無い事だけは確信させて欲しい、それが黒川の正直なところ。
(……さーて……どう落とすかね、このお嬢ちゃんを……手強いぜこりゃ)
高根と敦賀とタカコ、そして自分、夫々に違う思惑が絡み合った今の状態、少しでも注意を怠ればあっと言う間に他の陣営に食い込まれる事になる。政争に興味は無いが自分の縄張りの中で他の勢力に、しかも国外の勢力に動かれる可能性が有るとなれば話は全く変わって来る。今回はそれだけではなく彼女の情報を自分や殺された三人の兵卒に漏らした正体不明の勢力も有る、下手をすれば九州は、この福岡博多は禍に見舞われる事になるだろう、それだけは避けなければ。
その禍が実際に齎されるとして、それを放つのがタカコではない事を祈ろう。個人としての自分は彼女を気に入っている、出来れば殺したくはない、ずっと良い関係を保っていたい。
時計を見ればもう二十三時を回っている、高根と敦賀から御目付け役を任された大尉が半泣きになっているに違い無いな、黒川はそんな事を考えて立ち上がり、タカコを起こして送り届けようと歩き出した。
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