犬と子猫

良治堂 馬琴

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第79章『傀儡』

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第79章『傀儡』

 軍の街、博多。
 各軍の施設や軍人やその家族が住む地区や軍人を相手にする歓楽街や色街やそこで働く人間の暮らす区画が入り乱れ、軍施設と軍人家族の多い区画以外は人の入れ替わりも激しく雑然としている。そもそもがそんな状態の街だから、『見ない顔』や『新顔』や『不審者』といった概念は住人達には希薄であり、それは『敵』にとって絶好の条件であるという事に事前に気付けていた大和人は、恐らくは一人もいなかっただろう。

 アジビラが撒かれ同じ内容が全国紙の紙面を飾ってから一週間、博多の空気は日に日に不穏当に、そしてきな臭くなっていた。
 ビラや新聞の内容は事実無根である事、軍は無関係であり、国民保護の為に尽力している事、そういった事が軍を含めた全省庁を統括する政府の声明として出されはしたものの、衝撃的な内容が耳目を引き真実味を与えてしまったのか国民を納得させるには至らず、軍には批判の電話が殺到する事になった。その最大の被害を受けたのは、やはり海兵隊と陸軍西部方面旅団。海兵隊基地と陸軍博多駐屯地、そして西部方面旅団総監部の置かれた太宰府駐屯地の電話交換台は全ての回線が常に塞がっている状態で、その上内部の人間が漏らしたのか直通回線も相当数が塞がっており、何処も辛うじて残った直通回線を使い各所と遣り取りをしている状況が続いている。
 尋常ではない空気に博多やその近隣の基地や駐屯地では全兵員に対して課業後の外出の自粛が通達され、兵士達の食欲と性欲を満たす事で糧を得ている歓楽街や色街は大きな打撃を受けている。棲み分けの境界を跨ぐ校区では、歓楽街の経営者や従業員の子供が親の愚痴を聞きかじりそれを学校で軍人の子供にぶつけ、と、そんな小さな諍いが頻発し教員はその対応に苦慮していた。
 軍の存在在ってこその自分達の生活という事は軍人のみならず博多の住人であればそれは重々承知の事ではあるものの、ではこの鬱憤を誰にぶつけるべきなのかという事は誰にも分からない。夫々の中に暗く重い嫌な感触が少しずつ積もり大きくなっていく。
 活骸の原因菌で飲料水が汚染されたと発表され陸軍主体の給水活動が始まった直後、博多や鳥栖は軍の犠牲になったのだという告発と共に陸軍の車両や施設への攻撃が既に行われている。そんな状況で軍部が過敏になっている中追い討ちの様な今回の一連の流れに、誰も彼もが漠然とした、そして大きな不安を抱えていた。

 その不安は『敵』にとって恰好の養分である事を、大和人は事前に自覚する事は出来ず、そして、それは或る日突然に発露した。

 自分以外の『誰か』、それが見知った人間ではなくとも、自分の中の漠然とした不安や怒りに対して一見『明確な』答えを突き付けてくれる存在に、人間は容易く誘引され、そして同調する。そしてそれは自分の中の意思や知識が漠然であればある程に顕著になり、過激に発露する。
 それを大和人は知らず、そして、その人間の特性を利用する者の存在等、考えもしなかった。
 その『動』きが発生したのは歓楽街近くの路上。ここ最近の景気の冷え込みを嘆く雑談に、同調する様に入り込んで来た人間が
「軍に責任が有る」
 と最初の種を蒔き、流れを巧妙にそちらへと誘導し火種を少しずつ、しかし確実に大きくして行く。
 軍の存在が自分達の心臓に直結している事は博多の住民は理解しているから、彼等だけでは直ぐには大火にはならない事は分かってはいるが、それでも必要な下準備。そうして住民の不安を静かにしかし確実に煽りつつ、あちこちから集めた、理由は様々でも軍を敵視している大和人を、海兵隊基地と沿岸警備隊基地、そして陸軍駐屯地へと向かわせる。
 大和人の中に工作員を数名紛れ込ませ、目的地へと誘導しながら気炎を上げ少し煽れば後は自然に勢いは強くなっていく。軍部への不満、理由は色々有れど、どれも矮小で些末な事ばかり。それでも当人達にとってはそれは何よりも大きく強く、そして真実であり、正当性は自分に有ると信じて疑わない。人間の自尊心の擽り方を心得た者にとってこれ程利用し易いものも無く、彼等は自己決定権に基づいた正当な行動と信じて疑わぬまま、目的地へと殺到し暴徒と化した。
 警衛の兵士達との激しいぶつかり合い、今の情勢下で軍が民間人に対して実力行使に出られないであろう事は想定済み、しかし衝突を目撃するであろう博多の住民から他へと話は伝わり、軍に対しての不安と不信は大きくなり、いずれ博多の住民も暴動に参加する様になる。暴動が起きると同時に後方へと下がった工作員が撮影した写真はアジビラに使われ、報道各社にも特ダネとして流され、全国紙の紙面を飾る。そして、それを積み重ねて行けば、軍への不信は雪だるま式に大きくなっていくだろう。
 その後は純粋に大和人同士で潰し合えば良い、『敵』はそれを横目に次の作戦を遂行すれば良いのだから。

「凛、胎教に良くないから、あんまり気にするなよ」
「真吾さん……はい、分かってはいるんですけど……なかなか」
「……やっぱり心配だから、落ち着く迄島津のところ行っとけ。島津と敦子ちゃんには俺から頭下げとくから」
 敦子が迎えに来てから一週間程で自宅へと戻った凛、それは島津宅へと電話を掛けて様子を尋ねた高根へと敦子から伝えられ、高根としては一人で大丈夫なのかと気が気ではない半面、帰宅すれば愛妻の顔を見る事も小さな身体を抱き締める事も出来るのだと嬉しくもあった。しかしやはり情勢が情勢、身重の妻に万が一の事が有ってはと思い直し義兄である島津の家への避難を勧めるが、凛としては情勢の方が気になるのだろう、久し振りの夫婦揃っての食卓だというのに新聞の内容が気になって仕方が無いらしい。
「一昨日と昨日は何とか帰って来たけどさ、俺も次にいつ帰って来られるか分かんないから、頼むよ、な?」
「……はい、分かりました」
 昨日の午前中には海兵隊だけでなく全軍の博多の拠点で小規模ではあったものの民間人との衝突が有ったと、商店街へと買い物に出かけた時に聞いた。本来であればその対応も有るのだろうから帰宅は難しかっただろうに、少しでも安心させようとして夫は無理をしてでも帰って来てくれたのだと、その程度の事は凛にも分かっている。仕事で忙殺され神経をすり減らしているに違い無い夫にこれ以上の負担をかける事だけは止めておこう、そう思い至り、凛は高根の申し出に頷いた。
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