犬と子猫

良治堂 馬琴

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第56章『一閃』

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第56章『一閃』

 強い力で肩を掴まれ後ろに引かれ、その勢いに負けて数歩後退れば、姿勢を崩して玄関の三和土に尻餅を突いた。視界に広がるのは戦闘服を纏った多佳子の背中、自分よりも引き締まり逞しい体格をしているとは言っても男に比べれば小さく頼り無い筈のそれは、今は何故か凄まじい緊張に漲り、立ち上る『何か』で周囲の空気が歪んでいる様にすら見えた。
 左手にはナイフ、右手には拳銃――、佐官からしか貸与されない筈の拳銃を何故多佳子が、それよりも何故多佳子はここへとやって来たのか、先程の聞き慣れない奇声と関係が有るのか、分からない事だらけだと凛が立ち上がろうとした時、多佳子の向こうに小さな影が現れ、それが多佳子に飛び付いたのが、見えた。
「早く二階に!扉閉めて塞いで絶対に出て来るな!」
「え、あ……」
 今迄に聞いた事の無い、多佳子の緊迫し切った、そして鋭い咆哮。よく見れば多佳子に飛び付いた小さな影は人間の姿ではなく、写真でしか見た事の無い活骸――、それも大人ではない、子供のそれだった。
 飛び付いただけではなく右腕に食い付いた子供の活骸、身に着けている衣服は綺麗なもので、それを見た瞬間、博多に暮らす子供が活骸に変異したのだとそう思い至り、一体どうして、と、ほんの一瞬だけ身体が動きを失う。しかしそれは
「早く!早く行け!!」
 という多佳子の怒号の如き声に吹き飛ばされ、凛はしっかりと立ち上がり彼女の言葉に従って踵を返し廊下へと上がり走り出す。
 背後からは銃声は聞こえない、それでも激しい物音だけは伝わって来て、銃は使用していないものの多佳子が戦闘に転じた事だけは把握出来た。階段を駆け上がり寝室を通り過ぎ扉を開け、その中へと転がり込んだ。
「……何が、どうなって……!!」
 そう吐き捨てつつ窓へと駆け寄り外を見れば、家の前に集まりつつある小さな活骸の群れ。多佳子の断末魔は聞こえては来ないものの一人では無理だ、と、凛は弾かれた様に踵を返し、眦を決し靴下を脱いで裸足になり、壁に掛けられた高根の長物へと手を伸ばす。
「……おじいちゃん……後方支援ではありませんが、今が『その時』です……!!」
 手に取ったのは薙刀、これならは距離もとれる、体格も技量もお粗末な自分には一番向いているだろう。高根の体格に合わせて誂えられたものの為に拵に巻かれた滑り止めの蛭巻の位置が自分にはかなり遠いが、それでも一撃二撃程度であれば、そして返り血を被りでもしなければ滑るという事はそうそう無いだろう。今はとにかく、多佳子に加勢しなければ、と、一つ短い呼吸の後、凛は玄関へと向かって再び走り出す。
「銃声!多佳子さん……!!」
 廊下へと飛び出したところで階下から響いて来た一発の銃声、持ち堪えて下さい、そう祈りながら階段を駆け下りた。一階の廊下へと降り立ちつつ狭い廊下に合わせて器用に薙刀と身体の向きを変え玄関へと向かえば、そこにいたのはぼろぼろの身体で両腕を活骸の群れへと向けた多佳子の姿。こちらへと背中を向けている所為で表情は窺えないが、良くない、と、直感的にそう思い薙刀の鋒を多佳子へと向け声を張り上げた。
「多佳子さん!伏せて下さい!!」
 自分のその一喝に多佳子の身体は抗う事も無くす、と、脇に避ける様にして上体が倒れて行く。その彼女の顔の直ぐ脇へと薙刀を突き入れ活骸の小さく細い頸へと鋒を叩き込めば、暗く濁った血飛沫と耳障りな絶叫が上がり、拵を握り締めた両手に、刀身と拵を通し肉を切り裂く嫌な感触が伝わって来た。
 掴まれる事を避ける為に直ぐに拵を握り伸ばし切った両腕を引けば、支えを失った活骸の身体が崩れ落ちる。引かれる刃を追う様にしてこちらへと振り返る多佳子、その向こうからこちらの様子を窺う活骸の群れ、それを視界の中心に据えながら、声を張り上げていた。

「私も……鬼の孫です!!」

 何故、そう叫んだのかは自分でも分からなかった。けれど、守られるばかりではないのだ、自分は大丈夫だから、多佳子は多佳子の仕事を、そんな想いで多佳子を見れば、何かが彼女に届いたのか、眼光は射貫く様な鋭さを、ひどく重そうだった身体は動きを取り戻し、手にしていた銃とナイフを持ち直しながら、ざり、と靴底を三和土に打ち付ける様にして立ち上がった。
「たか――」
「凛ちゃん……下がってて!私なら大丈夫、掃討部隊が来る迄持ち堪えて見せるから、凛ちゃんは子供の為に下がってて!!」
 心配の言葉を掛けようとする凛、その彼女を鋭い視線で往なして多佳子は再び前を向く。三和土を蹴り外へと飛び出し、それと同時に彼女によって玄関の扉は荒々しく閉じられ、後はもう外から響いてくる銃声と多佳子の咆哮、そして、活骸の耳障りな、けれど細く高い奇声を聞くばかり。良かった、と多佳子が動きを取り戻せた事に、そして今戦えている事に安堵はするものの、それでも何とも言えない違和感が凛を支配する。
 多佳子の口から彼女の立場や能力を聞いた事は無いが、振舞いから有能な軍人なのだろうという事だは窺い知れた。そんな彼女が何故あんな風に動きを失っていたのか、まるで活骸を抱き締めようとでもするかの様に腕を広げ迎え入れる様な素振りを見せていたのか。あのままでは恐らく食い殺されていただろう、そんな事にならずに良かった、そう思いつつ、これ以上は自分に出来る事は無いと、彼女の無事を扉を隔てた室内で祈り続けた。
 どれ程の時間が経ったのか、外からは活骸の叫びも銃声も、小さな物音すら聞こえなくなった。多佳子は無事なのか、そう思っていた凛が無事を確かめに外に出てみようか、そんな事を思い始めていた時、不意に扉がゆっくりと数度叩かれる。
「……凛ちゃん……凛、ちゃん」
 先程迄の力強さも勢いも無いが声は間違い無く多佳子のもの、無事で良かったと裸足のまま三和土に飛び降りて扉を開ければ、先程よりも更にぼろぼろになった、それでも生きている多佳子の姿がそこに在った。
 一見無事ではあるものの眼差しは虚ろ、双眸からは涙が溢れ顔を血と混じり合ったそれがぐしゃぐしゃに濡らして汚し、とにかく中へ、と凛が玄関の中へと肩に手を添え招き入れれば、そこで力尽きたかの様にがっくりと三和土へと崩れ落ちる。
「多佳子さん!大丈夫ですか!?」
 焦った様な凛の問い掛けに返事は無く、様子を見ようと脇へと膝を突いた凛を多佳子は何も言わずに抱き付いた。そして、何かを押し留めていた堰が決壊したかの様に声を上げて泣き始め、凛は一瞬焦りはしたものの何も言わずにそっと抱き締める。
『Forgive me..., please... forgive me..., My baby... His baby...』
 譫言の様に繰り返される言葉、意味は全く分からないがそれでも胸が締め付けられる様に痛い。いつもは明るく強い彼女が何かを嘆いているのだという事だけは凛にも十二分に伝わり、声を掛ける事も出来ず、その代わりに震える身体を抱き締め、あやす様にして肩や背中を撫で続けていた。
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