犬と子猫

良治堂 馬琴

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第25章『懇願』

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第25章『懇願』

 座薬を入れた後は布団に入り丸まっていた高根、いつの間にか眠りに落ち、次に目が覚めたのは寒気ではなく暑さから。目を開ければ自分の全身がぐっしょりと濡れているのが感じ取れ、その不快感に起き上がれば布団から出た上半身から一気に熱が奪われ身体が大きく震え、これだけ汗を掻いたのなら熱も多少は下がっているだろうと室内の暗さに室内灯へと手を伸ばし明かりを点け、体温計を手に取り脇に挟む。数分経ってから取り出して見れば、指し示している数値は三十七度六分、この分なら明日は出勤出来そうだ、そんな事を考えていると部屋の扉が遠慮がちに数度叩かれ、静かに開かれた向こうから凛がそっと顔を出した。
「あ、起きたんですか、体調どうですか?熱は少しは下がりましたか?」
「うん、今測ったら七度六分だったよ。この分なら明日はもう大丈夫そうだ」
「熱は日中下がって夜に上がるんですから、楽観視しちゃ駄目ですよ?解熱剤で下がってるだけかも知れませんから、安静にして下さいね?今着替え出しますね、凄く汗掻いたみたいだから、着替えないと」
「うん、有り難う」
「着替える前に身体拭いた方が良いですね、お湯とタオル持って来ます」
 凛はそう言ってふわりと笑って箪笥から着替えを一揃い出し、湯とタオルの用意をしに階下へと降りて行く。その心遣いと絶妙な距離感に高根の口元は知らず知らず緩み、彼女が戻って来る迄の間水筒の中身を飲みながら、何とも穏やかな心持ちでぼんやりと彼女が出て行った扉を見詰めていた。
 只管に優しい、人を疑う事も傷付ける事もしない凛。彼女をこの家に留めておけば、こんな優しく穏やかな時間がこの先ずっと続くのだろう。仕事では自らの責務に真っ向から取り組み全てを注ぎ込み、夜になり束の間の解放を得て家へと戻れば、彼女の作り出す優しい空間と時間が待っている。そして、眠りに就く前に彼女を抱き吐き出し注ぎ込み、小さな身体を抱き締めて眠りに就く――、そこ迄考えて高根は口元を歪めて笑い、緩々と頭を振りその妄想を振り払う。
 求められるであろう関係を結ぶ気は自分には無い、有るのは自分が楽だと思える時間と空間への欲求と性欲だけだ。結婚という契約を見据えた関係を築き添い遂げる覚悟も無い自分に、凛を束縛し留め置こうとする資格は無い。彼女はいつかこの家を出て行き、自分はそれを見送る、それが当初からの約束であり自分もそれに納得している筈だと、もう何度目になるのか分からない事を自らに言い聞かせ水筒の中身をコップへと注ぎ足して一気に煽れば、流石に喉が痛みそれに顔を顰めた。
「お待たせしました、これで身体拭いて、終わったら着替えてまた寝て下さいね。洗面器とタオルは後で取りに来ますから」
「有り難う。何度か様子見に来てくれてたのかい?」
「はい、心配ですから。一時間に一回位ですね、ずっと眠ってたから起こしませんでしたけど」
「そっか、有り難うな」
「もうそろそろお夕飯の時間ですけど、食べられそうですか?食欲有るなら、お粥以外にも何か作りますけど」
 時計を見れば時刻は既に十八時近く、随分長い間眠っていたのだとここで漸く知った。
「うん、喉は痛いけど腹は空いてるから、お願いします。夕飯はおじやが良いな、出来るかい?」
「はい、鶏の挽肉と大根が有りますから、それで良いですか?」
「お願いします」
「出来たら持って来ますから、横になってて下さいね」
「有り難う」
 凛が微笑んで部屋を出て行った事で遣り取りは途切れ、一人になった室内で高根は寝間着と下着を脱ぎ身体を拭き、凛が出しておいてくれた着替えへと袖を通す。色々と考えなければならない事は多いが、それでも今はこの温かな時間を享受しようと決め、凛が夕食を持って来る迄の間、穏やかな心持ちで寝台へと横になっていた。

「御馳走様でした」
「お粗末様でした。それじゃ、お薬飲んだらまた横になって、早く寝て下さいね。私も時々は様子見に来ますけど、何か有ったら呼んで下さい。下迄降りて来なくて良いですよ、部屋から顔だけ出して呼んでくれれば良いですから」
「うん、有り難うな」
「お休みなさい」
「ああ、お休み」
 食後、薬を飲むのを見届けて凛は部屋から出て行き、明かりを常夜灯へと落とし高根は寝台へと横になり布団を被る。身体は随分楽になった、明日はもう大丈夫だろう、そう思いつつ目を閉じれば、体調が悪い事に加えて普段の疲れも溜まっているのだろう、程無くして眠りへと落ちて行った。

「……か……さん……たか……さん?」
 聞き慣れた優しい声が自分を呼んでいる、それは分かるのに瞼が開かない、身体が重く痛い、寒気が止まらない。
「高根さん?大丈夫ですか?」
 はっきりと聞こえた声に漸く瞼を持ち上げてみれば、そこにに心配そうな面持ちの凛の姿。
「……寒ぃ……」
「はい、やっぱり熱上がっちゃいましたね、熱測ってみて下さい」
 悪寒が激しく、震えが止まらない。歯がかちかちと音を立てる程の高根の様子に凛は顔を歪め、起き上がる高根の背に腕を添えて支え、体温計を手渡した。
「……八度、八分……」
「病院行く前よりも上がっちゃいましたね……氷嚢作って来ますから、その間に……あの、解熱剤……入れて下さいね?」
昼間の遣り取りを思い出したのか微妙に言い淀む凛、それでもこのままでは良くないと判断し氷嚢を作ろうと立ち上がった彼女の腕を掴んだのは、無意識だった。

「凛……ずっと……ずっと、ここにいろよ」

「でも……そのままじゃ良くないですよ、氷嚢作ったら直ぐに戻って来ますから……ね?」
「何処にも行くな、ここに、俺の傍にいてくれ……頼むから」
 自分が口走っている事の意味を、高根自身も理解していない。しかし彼女に消えて欲しくないという思いに突き動かされ、手を握ったまま子供の様に懇願する。凛は凛でどうしたものかと困った様に暫くの間考え込み、
「分かりましたから……氷嚢と、お布団持って来ます、そうしたらずっとここにいられますから。だから少しだけ待ってて下さい……ね?」
 と、腕を掴んだままの高根の手を、空いた方の手で数度優しく撫で摩る。
「本当に?」
「はい、何処にも行きませんよ、直ぐ戻って来ますから」
 それだけ言われれば高根も多少は落ち着いたのか、渋々ではあるが掴んでいた手を放す。
「高根さんはその間解熱剤入れて下さいね?」
「……分かった」
 離れる手と腕、途切れる体温。
 その日、離れ難いという感情の意味を、高根は初めて理解した。
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