243 / 390
第15章 戦間期編2
第5話 リシュカの心は深淵の闇
しおりを挟む
・・5・・
20??年
日本国内某所
リシュカは夢を見ていた。
そこは前世で、あったかもしれない世界で。けれども、叶わなかった世界だった。
前世のリシュカは、その名を如月莉乃。
日本において屈指の資産家で随分と昔には華族と呼ばれる類の家系、十二家が一つ如月家直系が一人だった。親族を亡くす不幸こそあったものの、以降の人生は悪いものではなく、むしろ良いものだった。
そこは日本でも東海と呼ばれる地方で、その地方でも第二の都市が彼女の居住地。老齢ながら健康体の祖父母と大きな庭付きの一戸建て、屋敷と言っても差し支えのそこで、大切な人とも過ごしていた。
季節は秋。紅葉が間もなく始まろうとする季節で朝晩は冷え込むとはいえ、昼間は暖かい。この日も広い庭で傍らに大切な人がいて、小さな少女が一人、祖父と遊んでいた。
「――も大きくなったよね」
「ね。健康に育っていて、来年で幼稚園も卒園だもん」
幸せに満ちた表情をしている前世のリシュカ。
傍らにいるのは長身のスラリとした男。かつて大学生時代は野暮ったさがあったが元々の顔立ちが整っていただけに、二十代後半の今はフォーマル寄りのスタイルがとても似合っている格好良い部類に入る男になっていた。
彼は穏やかな表情で莉乃に話し掛ける。
「莉乃」
「なあに、――」
「こうやって――がお義祖父さんと楽しそうに遊んでいて、お義祖母さんがそろそろ美味しい珈琲を淹れてくれて、傍らに莉乃がいる生活はとても幸せだ」
「ちょ、ちょっといきなりどうしたの。いきなりそんな事言われたら照れるじゃない」
「ごめんごめん。ふと思っただけさ」
「もー」
前世のリシュカは頬を膨らませながらも微笑んでいた。
前世とも今世とも違い、軍人とも無縁で戦争とも無縁な幻の世界。穏やかに過ぎ行く時間と、夫がいて娘と過ごす、祖父母と暮らす光と幸福に満ちた世界。
しかし、世界は突如として反転する。
幸せに包まれた世界は消え去り、彼女の目の前に広がるのは爆煙に包まれた、大都市の交差点。
名古屋市中村区、スパイラル型の超高層ビルがある交差点。
悲鳴と断末魔が支配する凄惨な光景。
彼女の目の前には、先程まで傍らにいて微笑んでいた夫の亡骸。四肢の一部が欠けており、口からは血が流れ二度と目を開かない大切な人。
「違う……! こんなの、違う……!」
世界は再び変わる。
次に現れたのは、日本ではない何処かの国にある建物の無機質な密室。
鎖に繋がれ、拘束された彼女は身に纏う衣服が無かった。
下腹部には感じたくない白濁とした液体が、コンクリートの地面にぽたぽたと流れている。
鉄扉が開かれ現れるは下卑た笑いの男達。自らを弄び、蹂躙したクソ野郎共。しかし抗う術もなく、部下達の最期の叫びを聞かされた挙句に三日三晩犯され続けた悪夢の日。
「こんなの、私の望んだ世界じゃない! タチの悪い夢だ!」
否、夢ではなく現実であった。
そして次に切り替わったのは彼女の最期の瞬間だった。
祖父は既に事切れていた。胸部に空いた銃痕が何よりの証。
自らも眉間に銃口を突きつけられ、そして――。
「どうして、どうしてっっ……!!」
慟哭が、広がった。
・・Φ・・
10の月22の日
午前7時25分
妖魔帝国・レオニブルク
ゾリャーギ私邸・リシュカ寝室兼書斎
「…………クソッタレ」
幸福の世界から絶望の世界へと叩きつけられた夢、幻想から現実を突きつけられた夢は悪夢よりタチが悪かった。
リシュカは目を覚ますと、脂汗をかき気分は凄まじく悪かった。
前世の頃から悪夢は定期的に見させられていた。今世になってもこびりついて離れないそれらは、約三十年以上にわたり彼女を苛ませいた。いくら何度も見ているとはいえ慣れるはずも無い悪夢の数々。
どうにか現実逃避する為に、リシュカはベッドからふらふらと起き上がると煙草を取り出して火をつけた。
大きく息を吸い込み、紫煙を吐き出す。絹生地の黒い寝巻きは汗が張り付いて気持ちが悪かった。
しかし着替える気も起きず、水差しからコップに水を移して一気に飲み干した。
「クソッタレクソッタレ……。こんな夢を見させられるのも」
あの忌まわしい元部下で今は英雄のせいだ。
とリシュカは悪態をつく。
リシュカの耳にアカツキの嫁たるリイナの出産の報告が入ったのは、割と早かった。
距離の問題から時間はある程度かかったものの、皇帝の特別相談役を仰せつかっているだけに耳に届くのは最も先だった。
あの野郎は自分だけ大切な人が出来て、あまつさえ愛の結晶まで産まれやがった。
世界を呪わずにはいられない。破壊し尽くしてたまらない彼女にとってはさぞかし最悪の報告だろう。妊娠報告の時点で流産してしまえと呪詛を吐きたい気分だったが、しかし世界はどこまでもアカツキやリイナに優しかった。
いや、いくら医療が前世と比較して未発達な今世とはいえ、貴族階層で手厚い医療体制が確約されているのだからそうそう流れる事は無い。
冷静な時のリシュカであればこの程度常識なのだが、相手が相手だけに、リシュカは冷静では無いのだろう。
持つものと持たざる者。されども世界はリシュカにとって残酷だった。
「おい、リシュカ。部屋から悲鳴が聞こえていたけどよ、大丈夫か?」
「…………大丈夫なわけないじゃない。いつものよ」
煙草を一本吸い終えたところで、ドアの向こうから声が聞こえた。この屋敷の主たる、ゾリャーギだった。
声音からは心配が滲んでいる。部屋に入ってこないのは彼なりの配慮だろう。
「……そうか。朝食の準備が出来てる。今日は陛下のとこには行かず魔法研究所に行く日だろ。食べる気分になったら下りてきな」
「分かった。先に行ってて」
ゾリャーギもリシュカと過ごす日が長くなってきたから、接し方も分かっていた。
理由は不明だが、アカツキとリイナとの子供が産まれた報告を彼女が聞いて以降、悪夢の回数が増えている。
何故かは分からないが、こういう時は下手に気を遣わない方がいい。酷い顔を見られたくないだろうし、彼女が重たすぎる何かを抱えているのはずっと前から知っているからだ。
リシュカにとって、この突き放したようにも見える態度は却って有難かった。
チョーカーによって妖魔帝国に居を移しても違和感の無い外見になったとはいえ、皇帝レオニードの脚本によって架空のストーリーがあるとはいえ、彼女は人間だ。しかも異世界から訪れた人間でもある。
それに、優しく接しられると依存しかねないのは目に見えて分かりきっていた。いっそ委ねてしまってもいいのだろうが、それは彼女自身が許さなかった。
「確か魔法研究所へ行くのは十一時半。馬車で三十分ちょっとだから、着替えなきゃいけないし、朝食は……、摂った方がいいよね……」
寝室兼書斎には着替えが収納してあるタンスもある。
彼女は使用人に湯浴みだけする事を伝え、風呂場へ向かう。妖魔帝国では風呂場があるのは上流階級くらいだがそこはゾリャーギ。当然屋敷の中には置かれていた。
どうやら彼が話を通してくれて、バスタオルと部屋着が着替え場に置かれていた。
汗を洗い流し、湯に浸かると少しだけ気分が落ち着いた。
三十分程で彼女は風呂場から出た。髪の毛を魔法で乾かし、緩いワンピースの部屋着に替える。手鏡で自分の顔を確認すると、案の定目の下にはクマが出来ていた。それが無い日の方が少ない彼女にとっては、いつもの事だった。
朝食は具沢山のスープとパンにサラダ、ヨーグルトのようなものもあった。
ゾリャーギはあえていつものように接してくれた。仕事のスケジュールだとか、夕飯はどうするだとか、酒としてリシュカが好んで飲む果実酒はどうだとか。
上の空で彼女が聞き逃す事があっても、ゾリャーギも使用人もいつも通りに振舞ってくれていた。
午前も十時を過ぎるとリシュカは特別相談役として着用する仕事着――特別相談役としての場合は軍服ではなく、彼女特注のゴシック風のフリルがあしらわれた洋服に特別相談役を現す紋章付ネックレスを首から提げている――に着替え、馬車は十時四十分にはゾリャーギとリシュカを乗せて出発した。
妖魔帝国の冬は早い。既に薄手のコートでは寒いくらいで、小雪がちらついてもおかしくない天気になっていた。
言論統制があるとはいえ、リシュカも加わった妖魔帝国は好景気。表情もそれなりに明るいのが増えていた。
「なあ、リシュカ」
「なに、ゾリャーギ」
リシュカはぼうっとした様子で窓の外の景色を眺めると、ゾリャーギはリシュカに話しかける。
「お前が言ういつもの夢、だけどよ。あまり辛いならたまには俺の所に来てもいいんだぜ? あの時は、話したら楽になったろ」
「ええ、確かに楽になったわね。話を聞いてくれるたのには感謝するわ、ゾリャーギ。けれどそれだけでいい。これは私だけの問題だもの」
「私だけの問題って……。でも今は」
「それ以上はご法度よ、ゾリャーギ。いくら御者が真相を知っている奴でもね」
「けどよ……。ちっとも良くなりやしねえじゃねえかよ……。屋敷にいる直轄の部下だって心配してるんだぜ」
「あらそう。じゃあ聞くけれど、私の内に抱える問題を、あんた達が、いいえあんたが解決出来るとでも思うの?」
「それは……」
リシュカの言葉にゾリャーギは言い淀む。
リシュカの抱える闇は今世の事件が人類諸国に対する裏切りのトリガーになったとはいえ、根は前世が起因している。
だからこそゾリャーギには手の尽くしようが無く、解決法も見つけられないでいた。
もし、リシュカの前世の時点で彼女にとって人を信じる何かが起きて傍らに必ず寄り添う人がいたのならば取り返しはついたのかもしれない。
だが、前世に続いて今世の事件。心の底から人を信じる事が出来なくなってしまったリシュカ。今ではもう何もかもが手遅れだった。
「まあ、別にこの身体を差し出すくらいなら構わないよ。あんたは種族的にメリットがあって、私も一時の気紛らわし程度にはなるからウィン・ウィンじゃん」
「いや、そうじゃなくてだな……」
「意外ね。快楽に溺れてもいいって私から言ってるのに。結局一度も私を抱きやしないんだから」
「…………」
今朝の夢が頭から離れない故に、リシュカの目線はいつにも増して冷たかった。
リシュカとてゾリャーギを全く信じていない訳では無い。自宅の一角を使わせてくれているのには感謝しているし、復讐のきっかけを作ってくれた点にはそれなりの恩はある。
だが、それはそれ。これはこれなのだ。
いくら裏切りを決意する時にあんな事を口走ったとしても、過去の呪縛からリシュカは逃れられないでいた。
「あんたは私の奥底に触れない方がいいのよ。その方が、絶対に幸せだから」
「リシュカ……。――分かった。けどよ、これだけは忘れんな。俺は味方だ。裏切らねえ」
「今はそれだけで十分。ありがと」
奥底が見えぬリシュカの心の深淵。覗き込もうとすれば彼女は許さず、けれどそれ以外は普通に接する彼女。
ゾリャーギはひたすらに歯がゆい思いをするしか無かった。
「悪かったよ、ゾリャーギ。仕事に集中しましょ」
「…………おう」
解決の糸口すらも見つからなかった不毛なやり取りをしているうちに、二人の乗せた馬車は妖魔帝国の魔法研究所に到着した。
ゾリャーギは思考を切り替える。これから見るものは帝国の最高機密たる兵器。リシュカが提案したとあるものの一つ。今はこっちに集中しようと。
リシュカも思考を切り替えた。彼女だってゾリャーギが身体目的で先の話を持ちかけてきた訳では無い事は感じている。自分の現状を心配しての言葉だとも分かっている。
しかし、もうどうしようもならないのだ。そして、自分は救われてはならないのだ。
だったら、復讐先を尽く滅ぼした末に身も滅んでしまえばいい。そうして終わらせればいい。
破滅的願望は、完治不能なのだから。復讐の末に、光なぞないのだから。
だったら私も含めて全部、滅んでしまえと。
リシュカは頭を振り払って、目付きを仕事の時のそれに変えた。
20??年
日本国内某所
リシュカは夢を見ていた。
そこは前世で、あったかもしれない世界で。けれども、叶わなかった世界だった。
前世のリシュカは、その名を如月莉乃。
日本において屈指の資産家で随分と昔には華族と呼ばれる類の家系、十二家が一つ如月家直系が一人だった。親族を亡くす不幸こそあったものの、以降の人生は悪いものではなく、むしろ良いものだった。
そこは日本でも東海と呼ばれる地方で、その地方でも第二の都市が彼女の居住地。老齢ながら健康体の祖父母と大きな庭付きの一戸建て、屋敷と言っても差し支えのそこで、大切な人とも過ごしていた。
季節は秋。紅葉が間もなく始まろうとする季節で朝晩は冷え込むとはいえ、昼間は暖かい。この日も広い庭で傍らに大切な人がいて、小さな少女が一人、祖父と遊んでいた。
「――も大きくなったよね」
「ね。健康に育っていて、来年で幼稚園も卒園だもん」
幸せに満ちた表情をしている前世のリシュカ。
傍らにいるのは長身のスラリとした男。かつて大学生時代は野暮ったさがあったが元々の顔立ちが整っていただけに、二十代後半の今はフォーマル寄りのスタイルがとても似合っている格好良い部類に入る男になっていた。
彼は穏やかな表情で莉乃に話し掛ける。
「莉乃」
「なあに、――」
「こうやって――がお義祖父さんと楽しそうに遊んでいて、お義祖母さんがそろそろ美味しい珈琲を淹れてくれて、傍らに莉乃がいる生活はとても幸せだ」
「ちょ、ちょっといきなりどうしたの。いきなりそんな事言われたら照れるじゃない」
「ごめんごめん。ふと思っただけさ」
「もー」
前世のリシュカは頬を膨らませながらも微笑んでいた。
前世とも今世とも違い、軍人とも無縁で戦争とも無縁な幻の世界。穏やかに過ぎ行く時間と、夫がいて娘と過ごす、祖父母と暮らす光と幸福に満ちた世界。
しかし、世界は突如として反転する。
幸せに包まれた世界は消え去り、彼女の目の前に広がるのは爆煙に包まれた、大都市の交差点。
名古屋市中村区、スパイラル型の超高層ビルがある交差点。
悲鳴と断末魔が支配する凄惨な光景。
彼女の目の前には、先程まで傍らにいて微笑んでいた夫の亡骸。四肢の一部が欠けており、口からは血が流れ二度と目を開かない大切な人。
「違う……! こんなの、違う……!」
世界は再び変わる。
次に現れたのは、日本ではない何処かの国にある建物の無機質な密室。
鎖に繋がれ、拘束された彼女は身に纏う衣服が無かった。
下腹部には感じたくない白濁とした液体が、コンクリートの地面にぽたぽたと流れている。
鉄扉が開かれ現れるは下卑た笑いの男達。自らを弄び、蹂躙したクソ野郎共。しかし抗う術もなく、部下達の最期の叫びを聞かされた挙句に三日三晩犯され続けた悪夢の日。
「こんなの、私の望んだ世界じゃない! タチの悪い夢だ!」
否、夢ではなく現実であった。
そして次に切り替わったのは彼女の最期の瞬間だった。
祖父は既に事切れていた。胸部に空いた銃痕が何よりの証。
自らも眉間に銃口を突きつけられ、そして――。
「どうして、どうしてっっ……!!」
慟哭が、広がった。
・・Φ・・
10の月22の日
午前7時25分
妖魔帝国・レオニブルク
ゾリャーギ私邸・リシュカ寝室兼書斎
「…………クソッタレ」
幸福の世界から絶望の世界へと叩きつけられた夢、幻想から現実を突きつけられた夢は悪夢よりタチが悪かった。
リシュカは目を覚ますと、脂汗をかき気分は凄まじく悪かった。
前世の頃から悪夢は定期的に見させられていた。今世になってもこびりついて離れないそれらは、約三十年以上にわたり彼女を苛ませいた。いくら何度も見ているとはいえ慣れるはずも無い悪夢の数々。
どうにか現実逃避する為に、リシュカはベッドからふらふらと起き上がると煙草を取り出して火をつけた。
大きく息を吸い込み、紫煙を吐き出す。絹生地の黒い寝巻きは汗が張り付いて気持ちが悪かった。
しかし着替える気も起きず、水差しからコップに水を移して一気に飲み干した。
「クソッタレクソッタレ……。こんな夢を見させられるのも」
あの忌まわしい元部下で今は英雄のせいだ。
とリシュカは悪態をつく。
リシュカの耳にアカツキの嫁たるリイナの出産の報告が入ったのは、割と早かった。
距離の問題から時間はある程度かかったものの、皇帝の特別相談役を仰せつかっているだけに耳に届くのは最も先だった。
あの野郎は自分だけ大切な人が出来て、あまつさえ愛の結晶まで産まれやがった。
世界を呪わずにはいられない。破壊し尽くしてたまらない彼女にとってはさぞかし最悪の報告だろう。妊娠報告の時点で流産してしまえと呪詛を吐きたい気分だったが、しかし世界はどこまでもアカツキやリイナに優しかった。
いや、いくら医療が前世と比較して未発達な今世とはいえ、貴族階層で手厚い医療体制が確約されているのだからそうそう流れる事は無い。
冷静な時のリシュカであればこの程度常識なのだが、相手が相手だけに、リシュカは冷静では無いのだろう。
持つものと持たざる者。されども世界はリシュカにとって残酷だった。
「おい、リシュカ。部屋から悲鳴が聞こえていたけどよ、大丈夫か?」
「…………大丈夫なわけないじゃない。いつものよ」
煙草を一本吸い終えたところで、ドアの向こうから声が聞こえた。この屋敷の主たる、ゾリャーギだった。
声音からは心配が滲んでいる。部屋に入ってこないのは彼なりの配慮だろう。
「……そうか。朝食の準備が出来てる。今日は陛下のとこには行かず魔法研究所に行く日だろ。食べる気分になったら下りてきな」
「分かった。先に行ってて」
ゾリャーギもリシュカと過ごす日が長くなってきたから、接し方も分かっていた。
理由は不明だが、アカツキとリイナとの子供が産まれた報告を彼女が聞いて以降、悪夢の回数が増えている。
何故かは分からないが、こういう時は下手に気を遣わない方がいい。酷い顔を見られたくないだろうし、彼女が重たすぎる何かを抱えているのはずっと前から知っているからだ。
リシュカにとって、この突き放したようにも見える態度は却って有難かった。
チョーカーによって妖魔帝国に居を移しても違和感の無い外見になったとはいえ、皇帝レオニードの脚本によって架空のストーリーがあるとはいえ、彼女は人間だ。しかも異世界から訪れた人間でもある。
それに、優しく接しられると依存しかねないのは目に見えて分かりきっていた。いっそ委ねてしまってもいいのだろうが、それは彼女自身が許さなかった。
「確か魔法研究所へ行くのは十一時半。馬車で三十分ちょっとだから、着替えなきゃいけないし、朝食は……、摂った方がいいよね……」
寝室兼書斎には着替えが収納してあるタンスもある。
彼女は使用人に湯浴みだけする事を伝え、風呂場へ向かう。妖魔帝国では風呂場があるのは上流階級くらいだがそこはゾリャーギ。当然屋敷の中には置かれていた。
どうやら彼が話を通してくれて、バスタオルと部屋着が着替え場に置かれていた。
汗を洗い流し、湯に浸かると少しだけ気分が落ち着いた。
三十分程で彼女は風呂場から出た。髪の毛を魔法で乾かし、緩いワンピースの部屋着に替える。手鏡で自分の顔を確認すると、案の定目の下にはクマが出来ていた。それが無い日の方が少ない彼女にとっては、いつもの事だった。
朝食は具沢山のスープとパンにサラダ、ヨーグルトのようなものもあった。
ゾリャーギはあえていつものように接してくれた。仕事のスケジュールだとか、夕飯はどうするだとか、酒としてリシュカが好んで飲む果実酒はどうだとか。
上の空で彼女が聞き逃す事があっても、ゾリャーギも使用人もいつも通りに振舞ってくれていた。
午前も十時を過ぎるとリシュカは特別相談役として着用する仕事着――特別相談役としての場合は軍服ではなく、彼女特注のゴシック風のフリルがあしらわれた洋服に特別相談役を現す紋章付ネックレスを首から提げている――に着替え、馬車は十時四十分にはゾリャーギとリシュカを乗せて出発した。
妖魔帝国の冬は早い。既に薄手のコートでは寒いくらいで、小雪がちらついてもおかしくない天気になっていた。
言論統制があるとはいえ、リシュカも加わった妖魔帝国は好景気。表情もそれなりに明るいのが増えていた。
「なあ、リシュカ」
「なに、ゾリャーギ」
リシュカはぼうっとした様子で窓の外の景色を眺めると、ゾリャーギはリシュカに話しかける。
「お前が言ういつもの夢、だけどよ。あまり辛いならたまには俺の所に来てもいいんだぜ? あの時は、話したら楽になったろ」
「ええ、確かに楽になったわね。話を聞いてくれるたのには感謝するわ、ゾリャーギ。けれどそれだけでいい。これは私だけの問題だもの」
「私だけの問題って……。でも今は」
「それ以上はご法度よ、ゾリャーギ。いくら御者が真相を知っている奴でもね」
「けどよ……。ちっとも良くなりやしねえじゃねえかよ……。屋敷にいる直轄の部下だって心配してるんだぜ」
「あらそう。じゃあ聞くけれど、私の内に抱える問題を、あんた達が、いいえあんたが解決出来るとでも思うの?」
「それは……」
リシュカの言葉にゾリャーギは言い淀む。
リシュカの抱える闇は今世の事件が人類諸国に対する裏切りのトリガーになったとはいえ、根は前世が起因している。
だからこそゾリャーギには手の尽くしようが無く、解決法も見つけられないでいた。
もし、リシュカの前世の時点で彼女にとって人を信じる何かが起きて傍らに必ず寄り添う人がいたのならば取り返しはついたのかもしれない。
だが、前世に続いて今世の事件。心の底から人を信じる事が出来なくなってしまったリシュカ。今ではもう何もかもが手遅れだった。
「まあ、別にこの身体を差し出すくらいなら構わないよ。あんたは種族的にメリットがあって、私も一時の気紛らわし程度にはなるからウィン・ウィンじゃん」
「いや、そうじゃなくてだな……」
「意外ね。快楽に溺れてもいいって私から言ってるのに。結局一度も私を抱きやしないんだから」
「…………」
今朝の夢が頭から離れない故に、リシュカの目線はいつにも増して冷たかった。
リシュカとてゾリャーギを全く信じていない訳では無い。自宅の一角を使わせてくれているのには感謝しているし、復讐のきっかけを作ってくれた点にはそれなりの恩はある。
だが、それはそれ。これはこれなのだ。
いくら裏切りを決意する時にあんな事を口走ったとしても、過去の呪縛からリシュカは逃れられないでいた。
「あんたは私の奥底に触れない方がいいのよ。その方が、絶対に幸せだから」
「リシュカ……。――分かった。けどよ、これだけは忘れんな。俺は味方だ。裏切らねえ」
「今はそれだけで十分。ありがと」
奥底が見えぬリシュカの心の深淵。覗き込もうとすれば彼女は許さず、けれどそれ以外は普通に接する彼女。
ゾリャーギはひたすらに歯がゆい思いをするしか無かった。
「悪かったよ、ゾリャーギ。仕事に集中しましょ」
「…………おう」
解決の糸口すらも見つからなかった不毛なやり取りをしているうちに、二人の乗せた馬車は妖魔帝国の魔法研究所に到着した。
ゾリャーギは思考を切り替える。これから見るものは帝国の最高機密たる兵器。リシュカが提案したとあるものの一つ。今はこっちに集中しようと。
リシュカも思考を切り替えた。彼女だってゾリャーギが身体目的で先の話を持ちかけてきた訳では無い事は感じている。自分の現状を心配しての言葉だとも分かっている。
しかし、もうどうしようもならないのだ。そして、自分は救われてはならないのだ。
だったら、復讐先を尽く滅ぼした末に身も滅んでしまえばいい。そうして終わらせればいい。
破滅的願望は、完治不能なのだから。復讐の末に、光なぞないのだから。
だったら私も含めて全部、滅んでしまえと。
リシュカは頭を振り払って、目付きを仕事の時のそれに変えた。
0
お気に入りに追加
146
あなたにおすすめの小説
英雄召喚〜帝国貴族の異世界統一戦記〜
駄作ハル
ファンタジー
異世界の大貴族レオ=ウィルフリードとして転生した平凡サラリーマン。
しかし、待っていたのは平和な日常などではなかった。急速な領土拡大を目論む帝国の貴族としての日々は、戦いの連続であった───
そんなレオに与えられたスキル『英雄召喚』。それは現世で英雄と呼ばれる人々を呼び出す能力。『鬼の副長』土方歳三、『臥龍』所轄孔明、『空の魔王』ハンス=ウルリッヒ・ルーデル、『革命の申し子』ナポレオン・ボナパルト、『万能人』レオナルド・ダ・ヴィンチ。
前世からの知識と英雄たちの逸話にまつわる能力を使い、大切な人を守るべく争いにまみれた異世界に平和をもたらす為の戦いが幕を開ける!
完結まで毎日投稿!
前世は悪神でしたので今世は商人として慎ましく生きたいと思います
八神 凪
ファンタジー
平凡な商人の息子として生まれたレオスは、無限収納できるカバンを持つという理由で、悪逆非道な大魔王を倒すべく旅をしている勇者パーティに半ば拉致されるように同行させられてしまう。
いよいよ大魔王との決戦。しかし大魔王の力は脅威で、勇者も苦戦しあわや全滅かというその時、レオスは前世が悪神であったことを思い出す――
そしてめでたく大魔王を倒したものの「商人が大魔王を倒したというのはちょっと……」という理由で、功績を与えられず、お金と骨董品をいくつか貰うことで決着する。だが、そのお金は勇者装備を押し付けられ巻き上げられる始末に……
「はあ……とりあえず家に帰ろう……この力がバレたらどうなるか分からないし、なるべく目立たず、ひっそりしないとね……」
悪神の力を取り戻した彼は無事、実家へ帰ることができるのか?
八神 凪、作家人生二周年記念作、始動!
※表紙絵は「茜328」様からいただいたファンアートを使用させていただきました! 素敵なイラストをありがとうございます!
公爵家長男はゴミスキルだったので廃嫡後冒険者になる(美味しいモノが狩れるなら文句はない)
音爽(ネソウ)
ファンタジー
記憶持ち転生者は元定食屋の息子。
魔法ありファンタジー異世界に転生した。彼は将軍を父に持つエリートの公爵家の嫡男に生まれかわる。
だが授かった職業スキルが「パンツもぐもぐ」という謎ゴミスキルだった。そんな彼に聖騎士の弟以外家族は冷たい。
見習い騎士にさえなれそうもない長男レオニードは廃嫡後は冒険者として生き抜く決意をする。
「ゴミスキルでも美味しい物を狩れれば満足だ」そんな彼は前世の料理で敵味方の胃袋を掴んで魅了しまくるグルメギャグ。
公爵家次男はちょっと変わりモノ? ~ここは乙女ゲームの世界だから、デブなら婚約破棄されると思っていました~
松原 透
ファンタジー
異世界に転生した俺は、婚約破棄をされるため誰も成し得なかったデブに進化する。
なぜそんな事になったのか……目が覚めると、ローバン公爵家次男のアレスという少年の姿に変わっていた。
生まれ変わったことで、異世界を満喫していた俺は冒険者に憧れる。訓練中に、魔獣に襲われていたミーアを助けることになったが……。
しかし俺は、失敗をしてしまう。責任を取らされる形で、ミーアを婚約者として迎え入れることになった。その婚約者に奇妙な違和感を感じていた。
二人である場所へと行ったことで、この異世界が乙女ゲームだったことを理解した。
婚約破棄されるためのデブとなり、陰ながらミーアを守るため奮闘する日々が始まる……はずだった。
カクヨム様 小説家になろう様でも掲載してます。
「お前のような役立たずは不要だ」と追放された三男の前世は世界最強の賢者でした~今世ではダラダラ生きたいのでスローライフを送ります~
平山和人
ファンタジー
主人公のアベルは転生者だ。一度目の人生は剣聖、二度目は賢者として活躍していた。
三度目の人生はのんびり過ごしたいため、アベルは今までの人生で得たスキルを封印し、貴族として生きることにした。
そして、15歳の誕生日でスキル鑑定によって何のスキルも持ってないためアベルは追放されることになった。
アベルは追放された土地でスローライフを楽しもうとするが、そこは凶悪な魔物が跋扈する魔境であった。
襲い掛かってくる魔物を討伐したことでアベルの実力が明らかになると、領民たちはアベルを救世主と崇め、貴族たちはアベルを取り戻そうと追いかけてくる。
果たしてアベルは夢であるスローライフを送ることが出来るのだろうか。
エラーから始まる異世界生活
KeyBow
ファンタジー
45歳リーマンの志郎は本来異世界転移されないはずだったが、何が原因か高校生の異世界勇者召喚に巻き込まれる。
本来の人数より1名増の影響か転移処理でエラーが発生する。
高校生は正常?に転移されたようだが、志郎はエラー召喚されてしまった。
冤罪で多くの魔物うようよするような所に放逐がされ、死にそうになりながら一人の少女と出会う。
その後冒険者として生きて行かざるを得ず奴隷を買い成り上がっていく物語。
某刑事のように”あの女(王女)絶対いずれしょんべんぶっ掛けてやる”事を当面の目標の一つとして。
実は所有するギフトはかなりレアなぶっ飛びな内容で、召喚された中では最強だったはずである。
勇者として活躍するのかしないのか?
能力を鍛え、復讐と色々エラーがあり屈折してしまった心を、召還時のエラーで壊れた記憶を抱えてもがきながら奴隷の少女達に救われるて変わっていく第二の人生を歩む志郎の物語が始まる。
多分チーレムになったり残酷表現があります。苦手な方はお気をつけ下さい。
初めての作品にお付き合い下さい。
転生したら脳筋魔法使い男爵の子供だった。見渡す限り荒野の領地でスローライフを目指します。
克全
ファンタジー
「第3回次世代ファンタジーカップ」参加作。面白いと感じましたらお気に入り登録と感想をくださると作者の励みになります!
辺境も辺境、水一滴手に入れるのも大変なマクネイア男爵家生まれた待望の男子には、誰にも言えない秘密があった。それは前世の記憶がある事だった。姉四人に続いてようやく生まれた嫡男フェルディナンドは、この世界の常識だった『魔法の才能は遺伝しない』を覆す存在だった。だが、五〇年戦争で大活躍したマクネイア男爵インマヌエルは、敵対していた旧教徒から怨敵扱いされ、味方だった新教徒達からも畏れられ、炎竜が砂漠にしてしまったと言う伝説がある地に押し込められたいた。そんな父親達を救うべく、前世の知識と魔法を駆使するのだった。
王宮で汚職を告発したら逆に指名手配されて殺されかけたけど、たまたま出会ったメイドロボに転生者の技術力を借りて反撃します
有賀冬馬
ファンタジー
王国貴族ヘンリー・レンは大臣と宰相の汚職を告発したが、逆に濡れ衣を着せられてしまい、追われる身になってしまう。
妻は宰相側に寝返り、ヘンリーは女性不信になってしまう。
さらに差し向けられた追手によって左腕切断、毒、呪い状態という満身創痍で、命からがら雪山に逃げ込む。
そこで力尽き、倒れたヘンリーを助けたのは、奇妙なメイド型アンドロイドだった。
そのアンドロイドは、かつて大賢者と呼ばれた転生者の技術で作られたメイドロボだったのだ。
現代知識チートと魔法の融合技術で作られた義手を与えられたヘンリーが、独立勢力となって王国の悪を蹴散らしていく!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる