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第15章 戦間期編2

第5話 リシュカの心は深淵の闇

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 ・・5・・
 20??年
 日本国内某所

 リシュカは夢を見ていた。
 そこは前世で、あったかもしれない世界で。けれども、叶わなかった世界だった。
 前世のリシュカは、その名を如月莉乃。
 日本において屈指の資産家で随分と昔には華族と呼ばれる類の家系、十二家が一つ如月家直系が一人だった。親族を亡くす不幸こそあったものの、以降の人生は悪いものではなく、むしろ良いものだった。
 そこは日本でも東海と呼ばれる地方で、その地方でも第二の都市が彼女の居住地。老齢ながら健康体の祖父母と大きな庭付きの一戸建て、屋敷と言っても差し支えのそこで、大切な人とも過ごしていた。
 季節は秋。紅葉が間もなく始まろうとする季節で朝晩は冷え込むとはいえ、昼間は暖かい。この日も広い庭で傍らに大切な人がいて、小さな少女が一人、祖父と遊んでいた。

「――も大きくなったよね」

「ね。健康に育っていて、来年で幼稚園も卒園だもん」

 幸せに満ちた表情をしている前世のリシュカ。
 傍らにいるのは長身のスラリとした男。かつて大学生時代は野暮ったさがあったが元々の顔立ちが整っていただけに、二十代後半の今はフォーマル寄りのスタイルがとても似合っている格好良い部類に入る男になっていた。
 彼は穏やかな表情で莉乃に話し掛ける。

「莉乃」

「なあに、――」

「こうやって――がお義祖父さんと楽しそうに遊んでいて、お義祖母さんがそろそろ美味しい珈琲を淹れてくれて、傍らに莉乃がいる生活はとても幸せだ」

「ちょ、ちょっといきなりどうしたの。いきなりそんな事言われたら照れるじゃない」

「ごめんごめん。ふと思っただけさ」

「もー」

 前世のリシュカは頬を膨らませながらも微笑んでいた。
 前世とも今世とも違い、軍人とも無縁で戦争とも無縁な幻の世界。穏やかに過ぎ行く時間と、夫がいて娘と過ごす、祖父母と暮らす光と幸福に満ちた世界。
 しかし、世界は突如として反転する。
 幸せに包まれた世界は消え去り、彼女の目の前に広がるのは爆煙に包まれた、大都市の交差点。
 名古屋市中村区、スパイラル型の超高層ビルがある交差点。
 悲鳴と断末魔が支配する凄惨な光景。
 彼女の目の前には、先程まで傍らにいて微笑んでいた夫の亡骸。四肢の一部が欠けており、口からは血が流れ二度と目を開かない大切な人。

「違う……! こんなの、違う……!」

 世界は再び変わる。
 次に現れたのは、日本ではない何処かの国にある建物の無機質な密室。
 鎖に繋がれ、拘束された彼女は身に纏う衣服が無かった。
 下腹部には感じたくない白濁とした液体が、コンクリートの地面にぽたぽたと流れている。
 鉄扉が開かれ現れるは下卑た笑いの男達。自らを弄び、蹂躙したクソ野郎共。しかし抗う術もなく、部下達の最期の叫びを聞かされた挙句に三日三晩犯され続けた悪夢の日。

「こんなの、私の望んだ世界じゃない! タチの悪い夢だ!」

 否、夢ではなく現実であった。
 そして次に切り替わったのは彼女の最期の瞬間だった。
 祖父は既に事切れていた。胸部に空いた銃痕が何よりの証。
 自らも眉間に銃口を突きつけられ、そして――。

「どうして、どうしてっっ……!!」

 慟哭が、広がった。


 ・・Φ・・
 10の月22の日
 午前7時25分
 妖魔帝国・レオニブルク
 ゾリャーギ私邸・リシュカ寝室兼書斎

「…………クソッタレ」

 幸福の世界から絶望の世界へと叩きつけられた夢、幻想から現実を突きつけられた夢は悪夢よりタチが悪かった。
 リシュカは目を覚ますと、脂汗をかき気分は凄まじく悪かった。
 前世の頃から悪夢は定期的に見させられていた。今世になってもこびりついて離れないそれらは、約三十年以上にわたり彼女を苛ませいた。いくら何度も見ているとはいえ慣れるはずも無い悪夢の数々。
 どうにか現実逃避する為に、リシュカはベッドからふらふらと起き上がると煙草を取り出して火をつけた。
 大きく息を吸い込み、紫煙を吐き出す。絹生地の黒い寝巻きは汗が張り付いて気持ちが悪かった。
 しかし着替える気も起きず、水差しからコップに水を移して一気に飲み干した。

「クソッタレクソッタレ……。こんな夢を見させられるのも」

 あの忌まわしい元部下で今は英雄のせいだ。
 とリシュカは悪態をつく。
 リシュカの耳にアカツキの嫁たるリイナの出産の報告が入ったのは、割と早かった。
 距離の問題から時間はある程度かかったものの、皇帝の特別相談役を仰せつかっているだけに耳に届くのは最も先だった。
 あの野郎は自分だけ大切な人が出来て、あまつさえ愛の結晶まで産まれやがった。
 世界を呪わずにはいられない。破壊し尽くしてたまらない彼女にとってはさぞかし最悪の報告だろう。妊娠報告の時点で流産してしまえと呪詛を吐きたい気分だったが、しかし世界はどこまでもアカツキやリイナに優しかった。
 いや、いくら医療が前世と比較して未発達な今世とはいえ、貴族階層で手厚い医療体制が確約されているのだからそうそう流れる事は無い。
 冷静な時のリシュカであればこの程度常識なのだが、相手が相手だけに、リシュカは冷静では無いのだろう。
 持つものと持たざる者。されども世界はリシュカにとって残酷だった。

「おい、リシュカ。部屋から悲鳴が聞こえていたけどよ、大丈夫か?」

「…………大丈夫なわけないじゃない。いつものよ」

 煙草を一本吸い終えたところで、ドアの向こうから声が聞こえた。この屋敷の主たる、ゾリャーギだった。
 声音からは心配が滲んでいる。部屋に入ってこないのは彼なりの配慮だろう。

「……そうか。朝食の準備が出来てる。今日は陛下のとこには行かず魔法研究所に行く日だろ。食べる気分になったら下りてきな」

「分かった。先に行ってて」

 ゾリャーギもリシュカと過ごす日が長くなってきたから、接し方も分かっていた。
 理由は不明だが、アカツキとリイナとの子供が産まれた報告を彼女が聞いて以降、悪夢の回数が増えている。
 何故かは分からないが、こういう時は下手に気を遣わない方がいい。酷い顔を見られたくないだろうし、彼女が重たすぎる何かを抱えているのはずっと前から知っているからだ。
 リシュカにとって、この突き放したようにも見える態度は却って有難かった。
 チョーカーによって妖魔帝国に居を移しても違和感の無い外見になったとはいえ、皇帝レオニードの脚本によって架空のストーリーがあるとはいえ、彼女は人間だ。しかも異世界から訪れた人間でもある。
 それに、優しく接しられると依存しかねないのは目に見えて分かりきっていた。いっそ委ねてしまってもいいのだろうが、それは彼女自身が許さなかった。

「確か魔法研究所へ行くのは十一時半。馬車で三十分ちょっとだから、着替えなきゃいけないし、朝食は……、摂った方がいいよね……」

 寝室兼書斎には着替えが収納してあるタンスもある。
 彼女は使用人に湯浴みだけする事を伝え、風呂場へ向かう。妖魔帝国では風呂場があるのは上流階級くらいだがそこはゾリャーギ。当然屋敷の中には置かれていた。
 どうやら彼が話を通してくれて、バスタオルと部屋着が着替え場に置かれていた。
 汗を洗い流し、湯に浸かると少しだけ気分が落ち着いた。
 三十分程で彼女は風呂場から出た。髪の毛を魔法で乾かし、緩いワンピースの部屋着に替える。手鏡で自分の顔を確認すると、案の定目の下にはクマが出来ていた。それが無い日の方が少ない彼女にとっては、いつもの事だった。
 朝食は具沢山のスープとパンにサラダ、ヨーグルトのようなものもあった。
 ゾリャーギはあえていつものように接してくれた。仕事のスケジュールだとか、夕飯はどうするだとか、酒としてリシュカが好んで飲む果実酒はどうだとか。
 上の空で彼女が聞き逃す事があっても、ゾリャーギも使用人もいつも通りに振舞ってくれていた。
 午前も十時を過ぎるとリシュカは特別相談役として着用する仕事着――特別相談役としての場合は軍服ではなく、彼女特注のゴシック風のフリルがあしらわれた洋服に特別相談役を現す紋章付ネックレスを首から提げている――に着替え、馬車は十時四十分にはゾリャーギとリシュカを乗せて出発した。
 妖魔帝国の冬は早い。既に薄手のコートでは寒いくらいで、小雪がちらついてもおかしくない天気になっていた。
 言論統制があるとはいえ、リシュカも加わった妖魔帝国は好景気。表情もそれなりに明るいのが増えていた。

「なあ、リシュカ」

「なに、ゾリャーギ」

 リシュカはぼうっとした様子で窓の外の景色を眺めると、ゾリャーギはリシュカに話しかける。

「お前が言ういつもの夢、だけどよ。あまり辛いならたまには俺の所に来てもいいんだぜ? あの時は、話したら楽になったろ」

「ええ、確かに楽になったわね。話を聞いてくれるたのには感謝するわ、ゾリャーギ。けれどそれだけでいい。これは私だけの問題だもの」

「私だけの問題って……。でも今は」

「それ以上はご法度よ、ゾリャーギ。いくら御者が真相を知っている奴でもね」

「けどよ……。ちっとも良くなりやしねえじゃねえかよ……。屋敷にいる直轄の部下だって心配してるんだぜ」

「あらそう。じゃあ聞くけれど、私の内に抱える問題を、あんた達が、いいえあんたが解決出来るとでも思うの?」

「それは……」

 リシュカの言葉にゾリャーギは言い淀む。
 リシュカの抱える闇は今世の事件が人類諸国に対する裏切りのトリガーになったとはいえ、根は前世が起因している。
 だからこそゾリャーギには手の尽くしようが無く、解決法も見つけられないでいた。
 もし、リシュカの前世の時点で彼女にとって人を信じる何かが起きて傍らに必ず寄り添う人がいたのならば取り返しはついたのかもしれない。
 だが、前世に続いて今世の事件。心の底から人を信じる事が出来なくなってしまったリシュカ。今ではもう何もかもが手遅れだった。

「まあ、別にこの身体を差し出すくらいなら構わないよ。あんたは種族的にメリットがあって、私も一時の気紛らわし程度にはなるからウィン・ウィンじゃん」

「いや、そうじゃなくてだな……」

「意外ね。快楽に溺れてもいいって私から言ってるのに。結局一度も私を抱きやしないんだから」

「…………」

 今朝の夢が頭から離れない故に、リシュカの目線はいつにも増して冷たかった。
 リシュカとてゾリャーギを全く信じていない訳では無い。自宅の一角を使わせてくれているのには感謝しているし、復讐のきっかけを作ってくれた点にはそれなりの恩はある。
 だが、それはそれ。これはこれなのだ。
 いくら裏切りを決意する時にあんな事を口走ったとしても、過去の呪縛からリシュカは逃れられないでいた。

「あんたは私の奥底に触れない方がいいのよ。その方が、絶対に幸せだから」

「リシュカ……。――分かった。けどよ、これだけは忘れんな。俺は味方だ。裏切らねえ」

「今はそれだけで十分。ありがと」

 奥底が見えぬリシュカの心の深淵。覗き込もうとすれば彼女は許さず、けれどそれ以外は普通に接する彼女。
 ゾリャーギはひたすらに歯がゆい思いをするしか無かった。

「悪かったよ、ゾリャーギ。仕事に集中しましょ」

「…………おう」

 解決の糸口すらも見つからなかった不毛なやり取りをしているうちに、二人の乗せた馬車は妖魔帝国の魔法研究所に到着した。
 ゾリャーギは思考を切り替える。これから見るものは帝国の最高機密たる兵器。リシュカが提案したとあるものの一つ。今はこっちに集中しようと。
 リシュカも思考を切り替えた。彼女だってゾリャーギが身体目的で先の話を持ちかけてきた訳では無い事は感じている。自分の現状を心配しての言葉だとも分かっている。
 しかし、もうどうしようもならないのだ。そして、自分は救われてはならないのだ。
 だったら、復讐先を尽く滅ぼした末に身も滅んでしまえばいい。そうして終わらせればいい。
 破滅的願望は、完治不能なのだから。復讐の末に、光なぞないのだから。
 だったら私も含めて全部、滅んでしまえと。
 リシュカは頭を振り払って、目付きを仕事の時のそれに変えた。
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