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第5章/緑の熱風 第7話『砂漠の夜の密会』
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一
「これは…本物…だ。本物の正妃の……。何故、何故これが…?」
カジム将軍の唇から呆然とした呟きがこぼれ落ち、水気を失った乾いた声で、将軍はラビンに尋ねた。
「これを……これを持っていた傭兵隊長は、どんな男だ?」
「は、まだ二十歳そこそこの若造です。ただ年に見合わぬ落ちついた物腰で、風格さえ感じさせます」
「特徴は? そうだ眼の色は……名は?」
「眼は見事な碧眼で、おそらくバルバロ人の血を引いているのではありますまいか。名はアサド───アサド・アハマルと申しておりました」
その言葉に、カジム将軍は眼窩から眼球が飛び出しそうなほど、見開かれた。。
「アサド……アハマル!」
一瞬、ビクッと全身を硬直させたカジム将軍は、次の瞬間にはヨロヨロと椅子の上にへたり込み、肩で息をし始めた。
顔はみるみる土気色になっていく。今にも心の臓の発作を起こして倒れそうだ。
自分が発した言葉が、ここまでカジム将軍に衝撃を与えようとは予想していなかったラビンは、慌てて布を水で搾るとカジム将軍に差し出した。
「将軍? いかがなされました、将軍!」
だがラビンの言葉も差し出された布も意識に無いように、カジム将軍は虚空を凝視していた。まるで切れ切れになった記憶の糸を、必死に撚りあわせているかのようだ。ジャンビヤを握りしめた両手が激しく震えている。
戦場にあって、その外見どおりの老いを全く感じさせなかった将軍が、急激に年齢以上に老け込んだかのような錯覚を、ラビンは感じた。
「敵の…傭兵隊長は奇妙な剣を振るっているとの事だが、どのような剣か?」
「は、長さは身の丈ほどの長剣で、峰の半ばまで両刃がある湾刀でございます。しかも柄の長さも一アマトゥ程もある実に奇妙な剣です。そしてバルート将軍を盾ごと両断した恐るべき斬れ味…」
「身の丈ほどもある……両刃の湾刀!」
カッと眼を剥くと将軍は立ち上がった。
「わしは会わねばならん。その男に……アサド・アハマルに!」
自分自身に言い聞かせるように呟きながら、将軍はフラフラと天蓋の外へと出て行く。
「将軍?」
そのあまりに老耄した様子にラビンは思わず声をかけたが───
将軍の後ろ姿は何者をも拒絶するように闇の中に消えていった。
二
闇の中でカジム将軍は虚ろな眼差しのまま、呟いていた。
「生きて…生きておられたのか……まさか…生きて……」
だがその言葉は大気に吸い込まれ、副司令官ラビン准将の耳には届かなかった。
そしてそのまま、カジム将軍は丸一日、アル・シャルク兵たちの前にその姿を現さなかった。幕僚が将軍の幕舎を訪ねても、入ることを許されず虚しく引き返した。
ラビンは案じていた。
昨夜の将軍の異常な様は彼が今まで見たことの無いものだった。
何かがある。
あのアサドと名乗る傭兵隊長とカジム将軍の間には、ラビンが伺い知れぬ何かがある。それは不吉な予感を伴う確信であった。ラビンは決心していた…会見の場で何が起ころうと己の使命はカジム将軍を守る事だと。
翌日の真夜中。
カジム将軍とラビンを始めとする数名の護衛が幕舎を出て、アサドとの会見の場所に向かった。
銀の月が濃紺の天空に高くかかり、砂丘のうねりに濃い影を落としている。
約束の場所には、既に人影が四つ佇んでいた。
アサドと彼の副官のサウド、そしてファラシャトとヴィリヤーの四人。
彼らの傍らには、簡素なテントが一張り。
アサド達の他に人影のないことを確認すると、ラビンは馬から降りた。だが彼の眼は周囲を厳しく見回している。
「ウルクル傭兵部隊隊長アサドである。カジム将軍、遠路よりのお越し、感謝いたします」
アサドの低いが良く通る声が、砂漠に響く。
カジム将軍は、馬から降りるとスタスタと無造作に歩き出した。
「将軍! 伏兵がおるやもしれませぬ。お止まりください!」
予想外の将軍の行動に慌ててラビンが制するが、将軍は構わずアサドの前へと歩み寄る。
「カジム、久しいのう……」
アサドの傍らに立つ、灰色の髭の隻眼隻足の初老の男が、親しげに将軍に声を掛けた。
「お、おぬしは……サウド? サウドなのか!」
三
カジム将軍の言葉に、アサドの副官のサウドが深く頷いた。
何か言おうとしたカジム将軍の唇がわななき、言葉が出る代わりにその両眼から熱いものが溢れだした。煌々とした月の光が、サウド副官の眼にも光るものを照らす。
「あの時、獄死したと聞いておったが……」
「右眼と右脚はなくしてしもうたが、こうして生きておるぞ、ほれ」
「なるほどな、あの塹壕はお主が掘らせたものであったか」
疑問が氷解したのか、カジム将軍の口元には笑みさえ浮かんでいた。
「お互い、歳を重ねたのぅ…」
がっちりと両手を握り会う二人の親しげな会話に、ラビンは当惑している。
将軍はこの隻眼の男を知っているのか?
ファラシャトとヴィリヤーも困惑を隠さない。
何故、傭兵隊の副官風情が、大国アル・シャルクの総司令官と親しげに話すのだ?
だが彼らの困惑をよそにカジム将軍は嬉しさを隠せぬようにサウドに問い掛けた。その声が幽かに震えている。
「死んだはずのおぬしが、今こうして生きているのならば、そのお方は……」
将軍の言葉にサウド副官は深く頷いた。
将軍は逸る心を無理に押さえつけるように、ゆっくりとアサドの前に立つと、月の光に浮かぶその端正な顔を見つめた。
皺に囲まれた茶色の眼と、高い空を思わせる碧い眼が、静かに見つめ合う。
大きく見開かれた茶色の眼がそのまま永遠に凍り付いたか…カジム将軍の顔は、微動だにしない。呼吸すら忘れたようだった。
二人の周囲の誰もが我知らず息をひそめ、砂漠に沈黙が満ちる。
「ううう……」
突然、溜息とも悲鳴ともつかない、絞り出すような声をあげて、カジム将軍はよろめいた。
咄嗟にサウドが、その肩を掴まなければ、前のめりに倒れていたであろう。
「将軍、大丈夫ですか?」
差し出したアサドの手を老人とは思えぬ強い力で握り返すと、将軍は彼を見上げて呟いた。その声がはっきりと涙に濡れている。
「ああ、風渡るアル・シャルクの空の色じゃ。懐かしい…アル・シャルクの碧い宝石と謳われた母上と、同じ眼の色じゃ…」
四
「アル・シャルク、アティルガン王家第一王子、カマル・アル・ザマン殿下。彼のお方に、我が贈りし諱は───」
老将はそのまま、その片膝を着き、剣を左手に持ち替えると背後に回した。
離れたところから見ていたラビンには、それが何を意味する動きかは、よくわからなかった。
それが、抜き差しならぬ場面において、密かに臣下の礼を顕す礼法であることなど、知るはずもなく。
「アサド・アハマル……赤き獅子!」
風が吹き始めた。
銀の月の面を灰色の雲が走り過ぎ、砂漠の砂がサラサラと移動する。
ウルクルの城邑の南にしつらえられたテントの中で、四人の人間がアサドの話しに聞き入っていた。
カジム将軍、サウド副官、ファラシャト、そしてヴィリヤー軍師。
時折ランプの炎が揺れ、テントに映る人影が奇妙な形に変化する。
テントの外でラビン准将は周囲に厳しい目を向けながら、その影に不吉なものを感じていた。
当然の如くカジム将軍に従ってテントに入ろうとしたラビンを、将軍はなぜか厳しく制し、彼は外に残された。
風向きの加減か、アサドの話し声は外のラビン達にはボソボソとしか聞こえない。だからといって風下に回り、中の会話を盗み聞きすることは武人としての誇りが許さなかった。何が話し合われているのか一向に予測できないことが、いっそうラビンの警戒心を強くしていた。
外に立つラビンたちの警戒心と困惑をよそに、テントの中の四人は呆然とアサドの言葉に聞き入っていた。
アサドの錆を含んだ低い声は、風の音に紛れることなく淡々と続いている。
「……あの夜のことははっきりと覚えている。忘れたくても忘れられない。いや、忘れるわけにはいかない……」
長い長い物語が、語られ始めた───
■第5章/緑の熱風 第7話『砂漠の夜の密会』/終■
「これは…本物…だ。本物の正妃の……。何故、何故これが…?」
カジム将軍の唇から呆然とした呟きがこぼれ落ち、水気を失った乾いた声で、将軍はラビンに尋ねた。
「これを……これを持っていた傭兵隊長は、どんな男だ?」
「は、まだ二十歳そこそこの若造です。ただ年に見合わぬ落ちついた物腰で、風格さえ感じさせます」
「特徴は? そうだ眼の色は……名は?」
「眼は見事な碧眼で、おそらくバルバロ人の血を引いているのではありますまいか。名はアサド───アサド・アハマルと申しておりました」
その言葉に、カジム将軍は眼窩から眼球が飛び出しそうなほど、見開かれた。。
「アサド……アハマル!」
一瞬、ビクッと全身を硬直させたカジム将軍は、次の瞬間にはヨロヨロと椅子の上にへたり込み、肩で息をし始めた。
顔はみるみる土気色になっていく。今にも心の臓の発作を起こして倒れそうだ。
自分が発した言葉が、ここまでカジム将軍に衝撃を与えようとは予想していなかったラビンは、慌てて布を水で搾るとカジム将軍に差し出した。
「将軍? いかがなされました、将軍!」
だがラビンの言葉も差し出された布も意識に無いように、カジム将軍は虚空を凝視していた。まるで切れ切れになった記憶の糸を、必死に撚りあわせているかのようだ。ジャンビヤを握りしめた両手が激しく震えている。
戦場にあって、その外見どおりの老いを全く感じさせなかった将軍が、急激に年齢以上に老け込んだかのような錯覚を、ラビンは感じた。
「敵の…傭兵隊長は奇妙な剣を振るっているとの事だが、どのような剣か?」
「は、長さは身の丈ほどの長剣で、峰の半ばまで両刃がある湾刀でございます。しかも柄の長さも一アマトゥ程もある実に奇妙な剣です。そしてバルート将軍を盾ごと両断した恐るべき斬れ味…」
「身の丈ほどもある……両刃の湾刀!」
カッと眼を剥くと将軍は立ち上がった。
「わしは会わねばならん。その男に……アサド・アハマルに!」
自分自身に言い聞かせるように呟きながら、将軍はフラフラと天蓋の外へと出て行く。
「将軍?」
そのあまりに老耄した様子にラビンは思わず声をかけたが───
将軍の後ろ姿は何者をも拒絶するように闇の中に消えていった。
二
闇の中でカジム将軍は虚ろな眼差しのまま、呟いていた。
「生きて…生きておられたのか……まさか…生きて……」
だがその言葉は大気に吸い込まれ、副司令官ラビン准将の耳には届かなかった。
そしてそのまま、カジム将軍は丸一日、アル・シャルク兵たちの前にその姿を現さなかった。幕僚が将軍の幕舎を訪ねても、入ることを許されず虚しく引き返した。
ラビンは案じていた。
昨夜の将軍の異常な様は彼が今まで見たことの無いものだった。
何かがある。
あのアサドと名乗る傭兵隊長とカジム将軍の間には、ラビンが伺い知れぬ何かがある。それは不吉な予感を伴う確信であった。ラビンは決心していた…会見の場で何が起ころうと己の使命はカジム将軍を守る事だと。
翌日の真夜中。
カジム将軍とラビンを始めとする数名の護衛が幕舎を出て、アサドとの会見の場所に向かった。
銀の月が濃紺の天空に高くかかり、砂丘のうねりに濃い影を落としている。
約束の場所には、既に人影が四つ佇んでいた。
アサドと彼の副官のサウド、そしてファラシャトとヴィリヤーの四人。
彼らの傍らには、簡素なテントが一張り。
アサド達の他に人影のないことを確認すると、ラビンは馬から降りた。だが彼の眼は周囲を厳しく見回している。
「ウルクル傭兵部隊隊長アサドである。カジム将軍、遠路よりのお越し、感謝いたします」
アサドの低いが良く通る声が、砂漠に響く。
カジム将軍は、馬から降りるとスタスタと無造作に歩き出した。
「将軍! 伏兵がおるやもしれませぬ。お止まりください!」
予想外の将軍の行動に慌ててラビンが制するが、将軍は構わずアサドの前へと歩み寄る。
「カジム、久しいのう……」
アサドの傍らに立つ、灰色の髭の隻眼隻足の初老の男が、親しげに将軍に声を掛けた。
「お、おぬしは……サウド? サウドなのか!」
三
カジム将軍の言葉に、アサドの副官のサウドが深く頷いた。
何か言おうとしたカジム将軍の唇がわななき、言葉が出る代わりにその両眼から熱いものが溢れだした。煌々とした月の光が、サウド副官の眼にも光るものを照らす。
「あの時、獄死したと聞いておったが……」
「右眼と右脚はなくしてしもうたが、こうして生きておるぞ、ほれ」
「なるほどな、あの塹壕はお主が掘らせたものであったか」
疑問が氷解したのか、カジム将軍の口元には笑みさえ浮かんでいた。
「お互い、歳を重ねたのぅ…」
がっちりと両手を握り会う二人の親しげな会話に、ラビンは当惑している。
将軍はこの隻眼の男を知っているのか?
ファラシャトとヴィリヤーも困惑を隠さない。
何故、傭兵隊の副官風情が、大国アル・シャルクの総司令官と親しげに話すのだ?
だが彼らの困惑をよそにカジム将軍は嬉しさを隠せぬようにサウドに問い掛けた。その声が幽かに震えている。
「死んだはずのおぬしが、今こうして生きているのならば、そのお方は……」
将軍の言葉にサウド副官は深く頷いた。
将軍は逸る心を無理に押さえつけるように、ゆっくりとアサドの前に立つと、月の光に浮かぶその端正な顔を見つめた。
皺に囲まれた茶色の眼と、高い空を思わせる碧い眼が、静かに見つめ合う。
大きく見開かれた茶色の眼がそのまま永遠に凍り付いたか…カジム将軍の顔は、微動だにしない。呼吸すら忘れたようだった。
二人の周囲の誰もが我知らず息をひそめ、砂漠に沈黙が満ちる。
「ううう……」
突然、溜息とも悲鳴ともつかない、絞り出すような声をあげて、カジム将軍はよろめいた。
咄嗟にサウドが、その肩を掴まなければ、前のめりに倒れていたであろう。
「将軍、大丈夫ですか?」
差し出したアサドの手を老人とは思えぬ強い力で握り返すと、将軍は彼を見上げて呟いた。その声がはっきりと涙に濡れている。
「ああ、風渡るアル・シャルクの空の色じゃ。懐かしい…アル・シャルクの碧い宝石と謳われた母上と、同じ眼の色じゃ…」
四
「アル・シャルク、アティルガン王家第一王子、カマル・アル・ザマン殿下。彼のお方に、我が贈りし諱は───」
老将はそのまま、その片膝を着き、剣を左手に持ち替えると背後に回した。
離れたところから見ていたラビンには、それが何を意味する動きかは、よくわからなかった。
それが、抜き差しならぬ場面において、密かに臣下の礼を顕す礼法であることなど、知るはずもなく。
「アサド・アハマル……赤き獅子!」
風が吹き始めた。
銀の月の面を灰色の雲が走り過ぎ、砂漠の砂がサラサラと移動する。
ウルクルの城邑の南にしつらえられたテントの中で、四人の人間がアサドの話しに聞き入っていた。
カジム将軍、サウド副官、ファラシャト、そしてヴィリヤー軍師。
時折ランプの炎が揺れ、テントに映る人影が奇妙な形に変化する。
テントの外でラビン准将は周囲に厳しい目を向けながら、その影に不吉なものを感じていた。
当然の如くカジム将軍に従ってテントに入ろうとしたラビンを、将軍はなぜか厳しく制し、彼は外に残された。
風向きの加減か、アサドの話し声は外のラビン達にはボソボソとしか聞こえない。だからといって風下に回り、中の会話を盗み聞きすることは武人としての誇りが許さなかった。何が話し合われているのか一向に予測できないことが、いっそうラビンの警戒心を強くしていた。
外に立つラビンたちの警戒心と困惑をよそに、テントの中の四人は呆然とアサドの言葉に聞き入っていた。
アサドの錆を含んだ低い声は、風の音に紛れることなく淡々と続いている。
「……あの夜のことははっきりと覚えている。忘れたくても忘れられない。いや、忘れるわけにはいかない……」
長い長い物語が、語られ始めた───
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