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第3章/白き神官 第4話『大神官の部屋で』

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   一

「あんたの本職が大神官だったとは、知らなかったよ──ワディ」
 アサドの言葉にワディ大神官は、にんまり笑うと。
 杯の中の白濁した酒をグイッと飲み干した。
 重い銀の杯には、蔓科の植物の意匠が浮き彫りにされている。
 その杯にあわせるかのように、部屋の装飾も豪華であった。
 大神官が巡幸してきたときのみ使われる、特別な部屋。

 床に敷かれた最上級のじゅうたんに座り、二人は向き合っていた。
「初めて合ったときにそう言うたはずじゃがのう。まさかお主、冗談だと思ったのか? にじみ出る気品は、隠し仰せないと思うたが」
「あれほど金に執着する神官なんて、いるものか。因業商人にしか見えなかったよワディ。実際の所、今でもあんたが大神官だなんて、信じちゃいないがね」
「ふぉふぉふぉふぉふぉ」
 皺だらけの顔をいっそうクシャクシャにして、ワディが笑った。

 アサドの言葉に、むろん刺などない。
 むしろ旧友との再会を、喜ぶふうだ。
 無愛想なこの男にしては、どこか言葉が温かい。
「まあ、儂の正体の詮索はこの際おいといて…。それよりも、あの場でミアトが爆発せんかとわしゃ、冷や冷やしたぞい」
「あいつが本気で暴れ出したら、誰も止められないからな。王宮が消し飛ばなくて幸いだったよ」
 そういって、二人は大笑いし始めた。
 どこまで冗談か、本気か、わからない。

 ひとしきり笑って、ワディ大神官は、別の話に切り替えた。 
「しかし、咄嗟にあれだけの演技ができるとは、お主も大した役者じゃのう」
 ワディ大神官がアサドに珈琲ガフヴェの小さな杯を渡しながら、微笑んだ。
「自分は酒で、俺には珈琲か? たいした大神官殿だな」
「これは酒ではない、獅子の乳じゃよ」
 東方で好まれるラク酒は、水を加えると白濁することから、獅子の乳異名を持つ。
 喉を焼く強い酒ゆえ、水で割って飲むのが一般的である。


   二

「あそこでわしが出なんだら、どうするつもりだったんじゃ?」
「どうもしない」
「あのままでは、牢にでもぶち込まれておったじゃろうに」
「それもいっきょうだな」
 絨毯にごろりと仰向けになり、思い切って身体を伸ばしたアサドは淡々と答えた。
 その言葉に、ラク酒を注ぐワディの手が止まった。
 真顔になって、問いかける。

「本気かの? おまえさん」
「あんな杜撰な戦法と戦さ慣れしていない兵士達では、ウルクルなど三日も保たん。そうなれば向こう──太守のほうから牢にいる俺に、頭を下げてくるだろうさ」
 傲慢不遜である。
 確かに、戦い慣れたアル・シャルク軍に対して、ウルクル軍は烏合の衆である。
 それにしても、見下しが酷い。大神官はたしなめるように、言葉を発した。

「じゃが、その前にウルクルが完全に占領されたら、どうするつもりじゃ?」
「…逃げるさ」
「ふむ、牢獄から逃げるのは得意中の得意だったからのう、おまえさんは」
 アサドとワディは顔を見合わせた。
「あのときは、あんたの手引のおかげさ。今度も頼む」
「あれはサウド副官の鬼謀と、おまえさんの恐るべき粘りと胆力が成したことじゃ。儂の力など微々たるもの。……じゃが、あれは楽しい経験であったのう」
 何かを思い出したのか、二人の顔に同時に軽い含み笑いが浮かぶ。

 だがすぐに、真面目な顔に戻った。
「アサド、おまえさんにとってはウルクルなんぞ、大望への第一歩でしかないじゃろう。だが、その杜撰な戦法と戦さ慣れしていない兵士達しかいないこの国を、自家薬篭中の物にせねば、大願の成就は難しい。わかっておろうな?」
 アサドはどこか、遠い眼をしていた。
「…別に、この国を見捨てるつもりはない」
「なら、いいんじゃ。ここの太守を見ればわかろう? 力だけでは民はついてはこんぞ」
「だが……力の無い王にも、民はついてはこない…そうだろう、ワディ?」



   三

 アサドの言葉に、今度はワディが言葉を無くした。
 その言葉はこの男がくぐってきた過去が言わせた、彼の身体の奥から滲み出る言葉であり、否定できない重みを持っていた。
 ワディ大神官の言葉を信じるなら、この男は何やら腹に一物持ち、この必敗が噂される城塞都市にやってきたのだ。
 なぜ?
 どうして?
 なんのために?
 だが、大神官は問わず、傭兵隊長も語らない。

「アサド、わしゃ、おまえさんが大好きなんじゃ。つまらんことで命を落として欲しくないんじゃよ。どうかすると、おまえさんは死にたがっているように見える時があるからのう」
 ワディの言葉に、アサドは薄く笑みを浮かべながら頷いた。
「俺だってまだ死ぬ気はないさ。己の器量はわかっているつもりだ。しばらくは大人しく、せいぜい人望を集めるために、頼りがいがあって鷹揚おうようだが、少し怖い傭兵隊長を演じるさ」
 傲慢にも聞こえる言葉を、しかし気負いも照れもなくアサドは言い切る。
 その言葉を聞くとワディの眼には、満足そうな笑みが浮かんだ。

「しかし、太守に偽りの報告をしたのは誰じゃろうな? あの若い軍師かのう」
「違うな。あいつは真面目な秀才だが、そんな権謀術数はやらんだろう。本に書かれた理想を現実と勘違いする秀才ほど、潔癖なものさ」
 ワディ大神官は首をかしげ、ブツブツと自身の推理を反芻はんすうする。
「それでは、おまえさんの存在をねたんだ将兵か……」
「それも違う。あの強力な敵刃てきじんの下をくぐった兵は、俺に救いを求めこそすれ、窮地に追い込もうとは想わんだろう。それだけの利用価値が、俺と俺の部隊にはあるはずだからな」
「確かにの……ふむ、とするといったい誰が?」
「太守だ」

 一瞬の空白の後、ワディが裏返った声をあげた。
「ななな、何じゃとぉ~?」
「俺を陥れようとしたのは、太守だと言ったんだよ」
 絨毯から上体を起こすと、ワディの瞳を見つめながら、アサドは冷たく言い切った。
「なんと……解せんのう。何故に太守がそんな莫迦ばかな真似をせねばならん?」
「理由はわからん。だが、さっきの太守の眼の奥に俺に対する殺意を感じた。過去にも何度か経験したことがあるが、あれは───」
「あれは?」
「……まあ、いいじゃないか。あの商人上がりの太守、単に運と時勢だけで今の地位についた訳じゃないということだ。それなりに能力はあるはず。軍議への参加を簡単に認めたのも、何か企てがあってのことだろう。用心するさ」
 アサドは答えをはぐらかした。



   四

 アサドは器に残った珈琲を、一気に飲み干した。
 だいぶ冷えたそれは、底にドロリとした粉を残し、からになった。
「どれアサド、器を見せてみよ。大神官が直々に、珈琲占いをしてしんぜよう」
 器の底に残った珈琲の粉末が描く模様を見て、吉凶を占うのは西方から東方まで、広く行われている占いである。ただ、高位の大神官がやるようなことではない。
「こ、これは……」
「凶が現れたか?」
「大凶じゃ。下手すれば、おまえさんも死ぬ。儂の長い人生でも、ここまで禍々しいは出たことがない。

 朝採は絨毯から立ち上がると、片膝をついて大神官への礼の型を、そつなく演じた。
 さんざんワディ大神官を、あんたと呼び捨てにしてきた男の、皮肉な礼法である。
「アル・シャルク軍とは明日からもっと、過酷な戦いが始まる。この戦いを勝ち抜けなければ、俺には天運がなかったということだな。楽しみにしていてくれ」
「まったく、どうしてそんな生き方をしたがるかのう。もっと他の平穏無事な生き方もあろうに……」
「平穏無事を望んだ弟は、どうなった? 俺は常に薄氷を踏んで生き延びてきた。それが、俺が学んだ人生の真実だ」
 
「まあ、多くを持って生まれついた者は、また多くを背負う事にもなるものじゃが…」
 ワディの呟きを無視するようにアサドは席を立った。扉を押しながら背中越しにワディに声をかける。
「ワディ、始めて会った時のことを覚えているか? あの時の誓いを俺は、今でも忘れてはいない。俺の宿願の前に立ちふさがる者は全て叩き潰す。それが誰であろうと…だ」
 アサドの言葉に、ワディは絶句した。
 殺気がアサドの肉体から吹き出し、部屋に満ちる。
 そこには…たとえあんたであっても例外ではない…という強い意志が込められているのを、ひしひしと感じたからである。

 大神官用の部屋から外に出るアサド。
 一瞬膨らんだ殺気は、跡形もなくなくなっている。
 どこか、泣いているような背中にさえ見える。
「珈琲、旨かったよ。ありがとう、ワディ」
 部屋を出ようとするアサドに、ワディはもう一度さっきの言葉を繰り返した。
「わしゃ、おまえさんが大好きなんじゃ。つまらんことで命を落として欲しくないんじゃよ」
 アサドに届いたのか届かなかったのか、その言葉に対する返答はなかった。



■第3章/白き神官 第4話『大神官の部屋で』/終■
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