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第2章/黒き軍団 第4話『雁行の陣激突す』
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一
「ひゅ~、来たね来たね! あれでアル・シャルク軍が全部かい?」
はしゃぐミアトの目が潤み、頬が紅潮している。
愛らしい外見に似ず、好戦的な少年である。
地平線の彼方から大地を震わせ、砂煙を巻き上げて来るは、アル・シャルク北方方面軍。
総数三万の精強無比の歩兵と、中原では珍しい馬を使った戦車部隊からなる、アーバス朝アル・シャルクにおいて最強と謳われた軍団。
実際にその姿を眼にするまでは、想像することすら困難な、未知の軍団。
ウルクルの兵達の顔が緊張にこわばる。
初陣の兵は既に血の気をなくして青ざめている者も多い。
「来ましたぁ──っ! 左前方にアル・シャルク軍接近中です」
物見の兵の絶叫が響きわたった。ミアトの言葉よりだいぶ遅れての報告であった。
どうやらこの少年は並外れた視力の持ち主らしい。
ウルクル軍の1万人近い人間の眼が、いっせいに一点に吸い寄せられる。
剣を突きつけて命令しても、ここまで揃った動きはできまい。
地平線の彼方にポツンと見えた一筋の砂塵は、徐々にその幅を広げて近づいてくる。
圧倒的な軍勢。
巨大な獣のようなそれが、大地を微かに揺らしながら、接近してくるのである。
ウルクルの兵達の眼に、緊張の色が浮かぶ。
決戦の時が、迫っているのだ。
「太守殿……」
ヴィリヤー軍師が太守を見やる。その手には抜き身の半月刀が握られている。表面に金箔を押したそれは砂漠の強烈な日差しに煌めき、山吹色の光で兵を照らす。
二
太守は鷹揚に頷くと、輿の中で立ち上がった。
ヴィリヤー軍師が手渡した半月刀を、ゆっくりと蒼天に突き上げる。
大きく吸い込んだ息が、鎧の下の太守の貧弱な胸郭を膨らます。
胸にたまった空気の固まりを吐き出すかのように、太守の渾身の声がその唇を突き破って発せられた。
「全軍……」
手にした半月刀が虚空で切り落とされる。
「突撃ぃ!」
半月刀の煌めきが、決戦の合図だった。
いっせいに鬨の声を挙げた兵士達は、怒涛の勢いで突進を開始する。
……ウオオオオ………オオオ……オオ…オ……オ………オ…………
ウルクル軍の先鋒隊が一斉に突撃を開始した。
皆、決死の形相である。
だが、その軍の中にあって、鼻歌を歌いながら馬を駆る者がいた。
「大将、いよいよだね」
もちろん、ミアトである。
「おいら、この戦の始まる前の空気が一番好きだな、うん」
「ミアト、あんまり喋っていると舌を噛むぞ」
「どうせ、戦法はサウド副官が引き受けてんだから、おいら達は今日は最初は状況を見るのがお仕事…でしょ?」
ミアトの言葉どおり、アサドの赤獅団の傭兵達は、彼らの遥か前方を疾走している。
アサドとミアトは、サウド副官を両脇から護衛するように馬を駆る。
こうして、この副官が安心して戦いの状況を分析できるように、最大限の注意を払っているのだ。
「…危険な陣形でございますなあ」
「雁行の陣か……」
全軍の突撃を見守りながら、アサドはその先を見つめていた。これから始まるであろう、膨大な数の生と死の饗宴を…。
だがこの男の黒い眼は感情を映し出さない。
逆Vの字に組まれたその陣形は、左右からの射撃戦に最も適した戦法である。敵兵力を左右に分散することで、優位に戦うことができる陣形であった。
左右に大きく拡散したアル・シャルク軍に対して、これは必然的な陣形でもある。一か所に固まっていては、結局は敵に雁行の陣で包囲され、退路を断たれて全滅する危険性すらあるのだ。
軍師ヴィリヤーとしてみれば、当然の選択であった。ただし、双方の戦力がほぼ互角であれば、の話しだが……。
ウルクル兵達の未来は、この時点でほぼ決したといってよい。
三
ヴィリヤーはもちろん突撃して行く兵達自身も、自分の死が確実であることなど微塵も感じてはいない。
だが、戦いの前から既にそれを確信しているアサド達にとっては、悲痛な光景にしか見えない。
「おそらくはアル・シャルク軍は、あの戦法を使うでしょう。そうなったときに、ウルクル軍では防ぎきれませんな」
サウド副官が冷静に言った。
先の地震と、それに伴う土砂崩れによって、右脚を痛めたが、なんとか戦闘には参加している。
馬には乗れぬが、輿に乗って農民兵の担ぎ手が四人。
補佐のジャバーが、徒で付き従う。
「まず九割方、あれだろうな」
アサドもそれを肯定するように、眼を伏せた。
「あの戦法って何?」
ミアトがアサドとサウドの話しに割って入った。
興味津々のミアトに、サウドは苦笑しながらも説明してやる。
「通常、雁行の陣には雁行の陣で対応するのが得策だ。野戦では臨機応変に戦える陣形だし、兵力がほぼ互角ならばこれほど強力な陣形もないからな。だが、アル・シャルク北方方面軍が最強と言われるのは、雁行の陣に対して今まで絶対的な強さを誇ってきたからじゃよ、ミアト」
「アル・シャルク北方方面軍を統べるイクラース将軍の得意とする戦法……いよいよ、実践で拝めるんですね」とジャバーも武者震いしつつ、遠方を見つめる。
「それって何か特殊な兵器でも使う戦法なの?」
「いや、ごく単純な戦法だよ。だが、それを実行できるのはアル・シャルク北方方面軍だけであろうな」
「むむ? 何だか良くわかんないなぁ~。サウド副官、もったいぶらないで教えてよ」
「イクラース将軍の戦法を実際に見た者は少ない。敵軍を殲滅されるため、実体が良くわからないのだよ。こんな戦法ではないかとの予測はあるのだがのう……」
そこに、戦況を見守る伝令の声が、ミアトとサウド副官の耳に滑り込んできた。
「アル・シャルク軍が徐々に後退していますッ!」
「凄いじゃない。アル・シャルク軍もあんがい、大したことないね」
ミアトの言葉に、だがアサドは応えなかった。
敵の動きを凝視していたアサドが、サウド副官にゆっくりと頷いた。
「わざと退き陣形を長くする。しかも左右に広がって後退している」
アサドの言葉どおり、アル・シャルク軍は徐々に後退を開始している。ウルクル軍も、この期に乗じて追撃の手をゆるめない。
四
前線の戦車部隊に比べ中盤の歩兵は迅速には前進できない。
後方の本陣は最初から全く動く気はない。
必然的に、ウルクルの雁行の陣は前後にだらしなく伸びた巨大なV字を作っていた。
「見ろ、あれが蛇亀の陣だ!」
サウド副官の声が飛んだ。
見よ
アル・シャルク軍の、それまで大きく広がっていた陣形の中央が突如として一本の筋となって突撃を開始してきたではないか。
ウルクル軍の雁行の陣の中心、そう左右に分岐した部分に向かって!
「やばいよっ! 今一番、守りが手薄なとこじゃんか」
「……先鋒に最強の兵を配した場合、中心部の守りは必然的に弱くなる」
先鋒の強固さに比べ中央の兵は易々とアル・シャルク軍に蹴散らされてゆく。
「歩兵を主体とした軍勢では、本陣が攻められてもすぐには引き返せない、わかるなミアト」
サウドの言葉に、ミアトはこくりと頷いた。
突然の敵軍の動きに、ヴィリヤー軍師は慌てて命令を出していた。
「退却! すぐに太守殿の守りを固めろ」
軍師の声が、軍全体に動きを指令する大太鼓の音で伝えられる。
もたもたしながらも、ウルクル軍は後退を始めた。
戦況を見守るサウドは眉をひそめる。
「まずい……あれでは敵軍の思うつぼだ。こちらの退却に乗じて、敵軍の反攻が始まるぞ!」
アル・シャルクの動きに翻弄され、ウルクル軍は大混乱に陥った。
それは、悪戯が見つかって叱られた子供が、必死に事態をごまかそうとして、見え透いた嘘をついているような、無様な光景であった。
百戦錬磨のアル・シャルク北方方面軍は、ウルクル軍の混乱に乗じて、進撃の手をゆるめない。
翻弄されたウルクル軍に、更なる混乱が追い打ちをかける。
混乱が混乱を呼び、ウルクルの敗色はますます濃厚となっていく。
■第2章/黒き軍団 第4話『雁行の陣激突す』/終■
「ひゅ~、来たね来たね! あれでアル・シャルク軍が全部かい?」
はしゃぐミアトの目が潤み、頬が紅潮している。
愛らしい外見に似ず、好戦的な少年である。
地平線の彼方から大地を震わせ、砂煙を巻き上げて来るは、アル・シャルク北方方面軍。
総数三万の精強無比の歩兵と、中原では珍しい馬を使った戦車部隊からなる、アーバス朝アル・シャルクにおいて最強と謳われた軍団。
実際にその姿を眼にするまでは、想像することすら困難な、未知の軍団。
ウルクルの兵達の顔が緊張にこわばる。
初陣の兵は既に血の気をなくして青ざめている者も多い。
「来ましたぁ──っ! 左前方にアル・シャルク軍接近中です」
物見の兵の絶叫が響きわたった。ミアトの言葉よりだいぶ遅れての報告であった。
どうやらこの少年は並外れた視力の持ち主らしい。
ウルクル軍の1万人近い人間の眼が、いっせいに一点に吸い寄せられる。
剣を突きつけて命令しても、ここまで揃った動きはできまい。
地平線の彼方にポツンと見えた一筋の砂塵は、徐々にその幅を広げて近づいてくる。
圧倒的な軍勢。
巨大な獣のようなそれが、大地を微かに揺らしながら、接近してくるのである。
ウルクルの兵達の眼に、緊張の色が浮かぶ。
決戦の時が、迫っているのだ。
「太守殿……」
ヴィリヤー軍師が太守を見やる。その手には抜き身の半月刀が握られている。表面に金箔を押したそれは砂漠の強烈な日差しに煌めき、山吹色の光で兵を照らす。
二
太守は鷹揚に頷くと、輿の中で立ち上がった。
ヴィリヤー軍師が手渡した半月刀を、ゆっくりと蒼天に突き上げる。
大きく吸い込んだ息が、鎧の下の太守の貧弱な胸郭を膨らます。
胸にたまった空気の固まりを吐き出すかのように、太守の渾身の声がその唇を突き破って発せられた。
「全軍……」
手にした半月刀が虚空で切り落とされる。
「突撃ぃ!」
半月刀の煌めきが、決戦の合図だった。
いっせいに鬨の声を挙げた兵士達は、怒涛の勢いで突進を開始する。
……ウオオオオ………オオオ……オオ…オ……オ………オ…………
ウルクル軍の先鋒隊が一斉に突撃を開始した。
皆、決死の形相である。
だが、その軍の中にあって、鼻歌を歌いながら馬を駆る者がいた。
「大将、いよいよだね」
もちろん、ミアトである。
「おいら、この戦の始まる前の空気が一番好きだな、うん」
「ミアト、あんまり喋っていると舌を噛むぞ」
「どうせ、戦法はサウド副官が引き受けてんだから、おいら達は今日は最初は状況を見るのがお仕事…でしょ?」
ミアトの言葉どおり、アサドの赤獅団の傭兵達は、彼らの遥か前方を疾走している。
アサドとミアトは、サウド副官を両脇から護衛するように馬を駆る。
こうして、この副官が安心して戦いの状況を分析できるように、最大限の注意を払っているのだ。
「…危険な陣形でございますなあ」
「雁行の陣か……」
全軍の突撃を見守りながら、アサドはその先を見つめていた。これから始まるであろう、膨大な数の生と死の饗宴を…。
だがこの男の黒い眼は感情を映し出さない。
逆Vの字に組まれたその陣形は、左右からの射撃戦に最も適した戦法である。敵兵力を左右に分散することで、優位に戦うことができる陣形であった。
左右に大きく拡散したアル・シャルク軍に対して、これは必然的な陣形でもある。一か所に固まっていては、結局は敵に雁行の陣で包囲され、退路を断たれて全滅する危険性すらあるのだ。
軍師ヴィリヤーとしてみれば、当然の選択であった。ただし、双方の戦力がほぼ互角であれば、の話しだが……。
ウルクル兵達の未来は、この時点でほぼ決したといってよい。
三
ヴィリヤーはもちろん突撃して行く兵達自身も、自分の死が確実であることなど微塵も感じてはいない。
だが、戦いの前から既にそれを確信しているアサド達にとっては、悲痛な光景にしか見えない。
「おそらくはアル・シャルク軍は、あの戦法を使うでしょう。そうなったときに、ウルクル軍では防ぎきれませんな」
サウド副官が冷静に言った。
先の地震と、それに伴う土砂崩れによって、右脚を痛めたが、なんとか戦闘には参加している。
馬には乗れぬが、輿に乗って農民兵の担ぎ手が四人。
補佐のジャバーが、徒で付き従う。
「まず九割方、あれだろうな」
アサドもそれを肯定するように、眼を伏せた。
「あの戦法って何?」
ミアトがアサドとサウドの話しに割って入った。
興味津々のミアトに、サウドは苦笑しながらも説明してやる。
「通常、雁行の陣には雁行の陣で対応するのが得策だ。野戦では臨機応変に戦える陣形だし、兵力がほぼ互角ならばこれほど強力な陣形もないからな。だが、アル・シャルク北方方面軍が最強と言われるのは、雁行の陣に対して今まで絶対的な強さを誇ってきたからじゃよ、ミアト」
「アル・シャルク北方方面軍を統べるイクラース将軍の得意とする戦法……いよいよ、実践で拝めるんですね」とジャバーも武者震いしつつ、遠方を見つめる。
「それって何か特殊な兵器でも使う戦法なの?」
「いや、ごく単純な戦法だよ。だが、それを実行できるのはアル・シャルク北方方面軍だけであろうな」
「むむ? 何だか良くわかんないなぁ~。サウド副官、もったいぶらないで教えてよ」
「イクラース将軍の戦法を実際に見た者は少ない。敵軍を殲滅されるため、実体が良くわからないのだよ。こんな戦法ではないかとの予測はあるのだがのう……」
そこに、戦況を見守る伝令の声が、ミアトとサウド副官の耳に滑り込んできた。
「アル・シャルク軍が徐々に後退していますッ!」
「凄いじゃない。アル・シャルク軍もあんがい、大したことないね」
ミアトの言葉に、だがアサドは応えなかった。
敵の動きを凝視していたアサドが、サウド副官にゆっくりと頷いた。
「わざと退き陣形を長くする。しかも左右に広がって後退している」
アサドの言葉どおり、アル・シャルク軍は徐々に後退を開始している。ウルクル軍も、この期に乗じて追撃の手をゆるめない。
四
前線の戦車部隊に比べ中盤の歩兵は迅速には前進できない。
後方の本陣は最初から全く動く気はない。
必然的に、ウルクルの雁行の陣は前後にだらしなく伸びた巨大なV字を作っていた。
「見ろ、あれが蛇亀の陣だ!」
サウド副官の声が飛んだ。
見よ
アル・シャルク軍の、それまで大きく広がっていた陣形の中央が突如として一本の筋となって突撃を開始してきたではないか。
ウルクル軍の雁行の陣の中心、そう左右に分岐した部分に向かって!
「やばいよっ! 今一番、守りが手薄なとこじゃんか」
「……先鋒に最強の兵を配した場合、中心部の守りは必然的に弱くなる」
先鋒の強固さに比べ中央の兵は易々とアル・シャルク軍に蹴散らされてゆく。
「歩兵を主体とした軍勢では、本陣が攻められてもすぐには引き返せない、わかるなミアト」
サウドの言葉に、ミアトはこくりと頷いた。
突然の敵軍の動きに、ヴィリヤー軍師は慌てて命令を出していた。
「退却! すぐに太守殿の守りを固めろ」
軍師の声が、軍全体に動きを指令する大太鼓の音で伝えられる。
もたもたしながらも、ウルクル軍は後退を始めた。
戦況を見守るサウドは眉をひそめる。
「まずい……あれでは敵軍の思うつぼだ。こちらの退却に乗じて、敵軍の反攻が始まるぞ!」
アル・シャルクの動きに翻弄され、ウルクル軍は大混乱に陥った。
それは、悪戯が見つかって叱られた子供が、必死に事態をごまかそうとして、見え透いた嘘をついているような、無様な光景であった。
百戦錬磨のアル・シャルク北方方面軍は、ウルクル軍の混乱に乗じて、進撃の手をゆるめない。
翻弄されたウルクル軍に、更なる混乱が追い打ちをかける。
混乱が混乱を呼び、ウルクルの敗色はますます濃厚となっていく。
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