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第1章/青き咆哮 第5話『猛き傭兵部隊長』
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一
「……ヌン」
アサドは間髪入れず、ジャーヒルの伸びきった肘に「外側」から蹴りを入れた。
膝の時と同様ジャーヒルの肘関節は逆方向に曲がり、折れて砕けた尺骨が皮膚を突き破り、外に飛び出してきた。
ボクッ!
鈍い音とともに、あたりにパッと飛び散った血が、場の傭兵達に降り懸かる。
凄惨な光景に気弱そうな若い傭兵が嘔吐した。
「あ~あ~大将、ちょっと怒っちゃってるよ。サウド副官、止めないの?」
「冗談ではないわ。なにゆえ儂が危ない橋を、渡らねばならぬのだ?」
そうミアトに訊かれた年輩の髭の副官は、大仰に首を振った。
「だよね~、下手に止めたらトバッチリ、食うもんなぁ。オイラもやだな」
「オレもミアトに同じ」
「同意」
惨劇を目の前にしているとはとても思えない、のんびりした赤獅団の面々の会話だ。
「おい! アサドのやつ、本当に殺しかねないぞ! どうするのだ?」
たまらず、ファラシャトがミアトの肘をつついた。
「まあ、ここで死ぬのがあのデブ野郎の運命ということで」
「……太陽神のご加護がありますように」
「今度生まれてくるときは、綺麗な蝶々にでもなって…」
「無理だね。せいぜい蛾だな」
ファラシャトの狼狽をよそに、アサドの部下達は皆、ニヤニヤ笑いながらジャーヒルに向かって両手を合わせ始めている。死者の冥福を祈る動作だ。
アサドが握っていたジャーヒルの手を離すと、意志を持たないそれは、力無く下へと落ちた。
筋肉による支えを失った腕は、意外に重い。
肩を脱臼したときなど、初めて知る自分の腕の重さに、少なからず驚愕するものだ。
ジャーヒルは、ズシリとした自分の腕の重さに、今度こそ逃れられない自分の末路を知り、おののいた。
顔を上げると、そこには自分を見下ろすアサドの無表情な、しかし冷淡な目があった。
二
いや、表情は最初めから全く変わってはいない。
だがジャーヒルには、この世で最も恐怖を覚えさせる、無表情な目であった。
暗いアサドの瞳が、その秀麗な容貌と相まって人間ならざるもののように見える。
ガチガチと大きく震えて合わない歯の根を必死に押さえて、ジャーヒルは懇願した。
「だ、だ、だ、だじげ…で…くだざい……」
「さっきの…片耳の男もそう言ってたな。おまえは聞いてやったか?」
「ひぎぃ!」
アサドの右足が大きく跳ね上がった。
ジャーヒルの顎先にめり込んだそれは、少しも減速することなく上方へと駆け上がっていく。
と、限界まで跳ね上がった脚は、今度は蹴り出されたときと同じ速さで、振り下ろされてきた。
ドガアッツ!
蹴りあげられた反動で上を向いていたジャーヒルの鼻を、アサドの踵は正確に捉えていた。
「ヒッ!」
ファラシャトの口から短い悲鳴が漏れた。
アサドの蹴撃を受けて数秒間、ピクリとも動かなかったジャーヒルは、それからゆっくりと仰向けに倒れた。
アサドの靴の踵から、血がヌラリと糸を引く。
「死んだ…か?」
「死んだ」
「確かに死んだ…」
「生きてるわけねェだろ!」
傭兵達の間から、放心した呟きが聞こえた。
誰に言っているのでもない。
たった今、目の前で起こった惨劇を、言葉にしてなんとか理解しようとしているのだ。
「おい……」
呆然とした表情で、横たわるジャーヒルを見つめていた傭兵の一人に、アサドが声をかけた。
その男の周囲にいた傭兵達が弾かれたように飛びすさった。
一人ポツンと残された男は、何のため自分が指名されたのかもわからず、泣き出しそうな顔をして突っ立ている。今さら逃げられない。
「す…すいません…すいま…せん…すいません」
訳もわからず、繰り返している。自分自身、何に対して謝罪しているのか理解してはいなかっただろう。
「手加減しておいた、手当してやれ」
それだけいうと、何事もなかったかのように、アサドはファラシャトの方へと戻って来た。
三
「実力差ははっきりしていたんだ、最後の蹴りは余計だったのじゃないか?」
落ち着き払ったアサドのその顔に向かって、ファラシャトは思わずなじるように言った。
「部下の造反を防ぐには、何が必要かおまえ、知っているか」
突然のアサドの質問に、ファラシャトには彼の意図が理解できない。咄嗟に答えた。
「…それは信頼と寛容さだろう?」
「それだけでは不十分だ。圧倒的な力と恐怖、そして……」
「そして?」
「それは、直にわかる」
自分から訊いといて、それはないだろう!
何だか、莫迦にされたような感じだ。
本人にはそのつもりはないだろうが、どうも見下されているような…。
この男は苦手だ。
「服を脱いだ意味がなかったな」
両手に彼の上着を広げて見せながら、精一杯の皮肉を込めてファラシャトは言った。
力量の接近したもの同士が戦う時、たいていは殴り合いから組み合いに移行する。組み合いになった場合、相手に掴まれやすい衣服は不利。
ゆえに、戦いに参加したほとんどの者が上半身裸であったのだ。
だが、組み合うまでもなくアサドとジャビールの力量には大きな差があった。
服を脱いだ意味がないとは、そういうことであった。
「でもお姉ちゃんは、大将の身体が見られて、嬉しかったってさ」
「な…何を言ってるマセガキ!」
ミアトが勝手にファラシャトの感想をつけ加える。
思わずファラシャトはアサドの身体に眼を向けた。
均整のとれた上半身には余分な脂肪が全く無い。
だが獣のしなやかさを思わすピンと張った滑らかな皮膚に包まれた身体の胸、腹、首筋に、致命傷とならないのが不思議なほどの深い傷が走る。
刻まれた刀傷は、すべてが古傷であった。
それは、幼い頃からこの男が修羅場を駆け回っていたことを、そしてここ数年来この男に一撃を加えた者が存在しないことを示していた。
優美な身体の前面に比較して、背中は一転して荒々しい。
腰から背中にかけて、二本の筋肉が背骨の脇に大きく盛り上がり、肩胛骨の周囲を複雑な筋肉群が縦横無尽に走る。アサドのちょっとした動きにも反応して、皮膚の下に潜り込んだ蛇が蠢くように、筋肉がうねる。
四
──そして、肩から背中にかけて走る、古い刀傷。
右肩から左脇腹にかけて、まるでムカデが貼り付いたかのような巨大な傷。
ほとんど致命傷になるような傷を背負いながら、この男は生き抜いたのだ。
しかし、その傷さえも気にならぬほどに、確かにアサドの肉体は美しい……。
ただ形としての美しさではなく、実戦の中で鍛え上げられた肉体。
戦乱の世にあって、己の生命を守りうる本当に強い男を渇望する女ならば、一目で魅せられる肉体である。
ファラシャトはアサドを呆然と見つめている自分に気づいた。
あわてて目をそらしミアトの頭を小突くと、アサドの服を投げ返した。
彼女の顔は、耳まで真っ赤に染まっている。
「ジャーヒルに殺されてしまえば良かったのだ……」
なんだって私、こんな憎まれ口を……。
コントロールの利かない自分の心に、戸惑うファラシャトを知らぬげに、アサドは服を着た。
ふと、倒れたジャーヒルの方を見ると、傭兵達は誰一人として動こうとしていない。
片耳の男の死体と、ピクリとも動かないジャーヒルの身体を見つめたまま、凍り付いたように動かない。
いや、動けないのだ。
「うん? どうした、聞こえなかったのか? そいつの手当を……」
何かを思い出したのだろう、淡々とアサドが言った。
「ああ、大事なことを、聞き忘れていたな」
「誰か俺に、挑戦する奴がいるか?」
途端、傭兵達は弾かれたようにジャーヒルへと突進した。
まるでジャーヒルを手当しなければ、それがアサドへの挑戦の意志を表明することであるかのように。
皆、恐怖にひきつった顔で手当に励んでいる。
いくらジャーヒルが巨体とはいえ、数十人の人間でいっせいに手当することも、あるまいに……。
アサドは苦笑するでもなく、闘技場を後にした。
■第1章/青き咆哮 第5話『傭兵部隊長選出』/終■
「……ヌン」
アサドは間髪入れず、ジャーヒルの伸びきった肘に「外側」から蹴りを入れた。
膝の時と同様ジャーヒルの肘関節は逆方向に曲がり、折れて砕けた尺骨が皮膚を突き破り、外に飛び出してきた。
ボクッ!
鈍い音とともに、あたりにパッと飛び散った血が、場の傭兵達に降り懸かる。
凄惨な光景に気弱そうな若い傭兵が嘔吐した。
「あ~あ~大将、ちょっと怒っちゃってるよ。サウド副官、止めないの?」
「冗談ではないわ。なにゆえ儂が危ない橋を、渡らねばならぬのだ?」
そうミアトに訊かれた年輩の髭の副官は、大仰に首を振った。
「だよね~、下手に止めたらトバッチリ、食うもんなぁ。オイラもやだな」
「オレもミアトに同じ」
「同意」
惨劇を目の前にしているとはとても思えない、のんびりした赤獅団の面々の会話だ。
「おい! アサドのやつ、本当に殺しかねないぞ! どうするのだ?」
たまらず、ファラシャトがミアトの肘をつついた。
「まあ、ここで死ぬのがあのデブ野郎の運命ということで」
「……太陽神のご加護がありますように」
「今度生まれてくるときは、綺麗な蝶々にでもなって…」
「無理だね。せいぜい蛾だな」
ファラシャトの狼狽をよそに、アサドの部下達は皆、ニヤニヤ笑いながらジャーヒルに向かって両手を合わせ始めている。死者の冥福を祈る動作だ。
アサドが握っていたジャーヒルの手を離すと、意志を持たないそれは、力無く下へと落ちた。
筋肉による支えを失った腕は、意外に重い。
肩を脱臼したときなど、初めて知る自分の腕の重さに、少なからず驚愕するものだ。
ジャーヒルは、ズシリとした自分の腕の重さに、今度こそ逃れられない自分の末路を知り、おののいた。
顔を上げると、そこには自分を見下ろすアサドの無表情な、しかし冷淡な目があった。
二
いや、表情は最初めから全く変わってはいない。
だがジャーヒルには、この世で最も恐怖を覚えさせる、無表情な目であった。
暗いアサドの瞳が、その秀麗な容貌と相まって人間ならざるもののように見える。
ガチガチと大きく震えて合わない歯の根を必死に押さえて、ジャーヒルは懇願した。
「だ、だ、だ、だじげ…で…くだざい……」
「さっきの…片耳の男もそう言ってたな。おまえは聞いてやったか?」
「ひぎぃ!」
アサドの右足が大きく跳ね上がった。
ジャーヒルの顎先にめり込んだそれは、少しも減速することなく上方へと駆け上がっていく。
と、限界まで跳ね上がった脚は、今度は蹴り出されたときと同じ速さで、振り下ろされてきた。
ドガアッツ!
蹴りあげられた反動で上を向いていたジャーヒルの鼻を、アサドの踵は正確に捉えていた。
「ヒッ!」
ファラシャトの口から短い悲鳴が漏れた。
アサドの蹴撃を受けて数秒間、ピクリとも動かなかったジャーヒルは、それからゆっくりと仰向けに倒れた。
アサドの靴の踵から、血がヌラリと糸を引く。
「死んだ…か?」
「死んだ」
「確かに死んだ…」
「生きてるわけねェだろ!」
傭兵達の間から、放心した呟きが聞こえた。
誰に言っているのでもない。
たった今、目の前で起こった惨劇を、言葉にしてなんとか理解しようとしているのだ。
「おい……」
呆然とした表情で、横たわるジャーヒルを見つめていた傭兵の一人に、アサドが声をかけた。
その男の周囲にいた傭兵達が弾かれたように飛びすさった。
一人ポツンと残された男は、何のため自分が指名されたのかもわからず、泣き出しそうな顔をして突っ立ている。今さら逃げられない。
「す…すいません…すいま…せん…すいません」
訳もわからず、繰り返している。自分自身、何に対して謝罪しているのか理解してはいなかっただろう。
「手加減しておいた、手当してやれ」
それだけいうと、何事もなかったかのように、アサドはファラシャトの方へと戻って来た。
三
「実力差ははっきりしていたんだ、最後の蹴りは余計だったのじゃないか?」
落ち着き払ったアサドのその顔に向かって、ファラシャトは思わずなじるように言った。
「部下の造反を防ぐには、何が必要かおまえ、知っているか」
突然のアサドの質問に、ファラシャトには彼の意図が理解できない。咄嗟に答えた。
「…それは信頼と寛容さだろう?」
「それだけでは不十分だ。圧倒的な力と恐怖、そして……」
「そして?」
「それは、直にわかる」
自分から訊いといて、それはないだろう!
何だか、莫迦にされたような感じだ。
本人にはそのつもりはないだろうが、どうも見下されているような…。
この男は苦手だ。
「服を脱いだ意味がなかったな」
両手に彼の上着を広げて見せながら、精一杯の皮肉を込めてファラシャトは言った。
力量の接近したもの同士が戦う時、たいていは殴り合いから組み合いに移行する。組み合いになった場合、相手に掴まれやすい衣服は不利。
ゆえに、戦いに参加したほとんどの者が上半身裸であったのだ。
だが、組み合うまでもなくアサドとジャビールの力量には大きな差があった。
服を脱いだ意味がないとは、そういうことであった。
「でもお姉ちゃんは、大将の身体が見られて、嬉しかったってさ」
「な…何を言ってるマセガキ!」
ミアトが勝手にファラシャトの感想をつけ加える。
思わずファラシャトはアサドの身体に眼を向けた。
均整のとれた上半身には余分な脂肪が全く無い。
だが獣のしなやかさを思わすピンと張った滑らかな皮膚に包まれた身体の胸、腹、首筋に、致命傷とならないのが不思議なほどの深い傷が走る。
刻まれた刀傷は、すべてが古傷であった。
それは、幼い頃からこの男が修羅場を駆け回っていたことを、そしてここ数年来この男に一撃を加えた者が存在しないことを示していた。
優美な身体の前面に比較して、背中は一転して荒々しい。
腰から背中にかけて、二本の筋肉が背骨の脇に大きく盛り上がり、肩胛骨の周囲を複雑な筋肉群が縦横無尽に走る。アサドのちょっとした動きにも反応して、皮膚の下に潜り込んだ蛇が蠢くように、筋肉がうねる。
四
──そして、肩から背中にかけて走る、古い刀傷。
右肩から左脇腹にかけて、まるでムカデが貼り付いたかのような巨大な傷。
ほとんど致命傷になるような傷を背負いながら、この男は生き抜いたのだ。
しかし、その傷さえも気にならぬほどに、確かにアサドの肉体は美しい……。
ただ形としての美しさではなく、実戦の中で鍛え上げられた肉体。
戦乱の世にあって、己の生命を守りうる本当に強い男を渇望する女ならば、一目で魅せられる肉体である。
ファラシャトはアサドを呆然と見つめている自分に気づいた。
あわてて目をそらしミアトの頭を小突くと、アサドの服を投げ返した。
彼女の顔は、耳まで真っ赤に染まっている。
「ジャーヒルに殺されてしまえば良かったのだ……」
なんだって私、こんな憎まれ口を……。
コントロールの利かない自分の心に、戸惑うファラシャトを知らぬげに、アサドは服を着た。
ふと、倒れたジャーヒルの方を見ると、傭兵達は誰一人として動こうとしていない。
片耳の男の死体と、ピクリとも動かないジャーヒルの身体を見つめたまま、凍り付いたように動かない。
いや、動けないのだ。
「うん? どうした、聞こえなかったのか? そいつの手当を……」
何かを思い出したのだろう、淡々とアサドが言った。
「ああ、大事なことを、聞き忘れていたな」
「誰か俺に、挑戦する奴がいるか?」
途端、傭兵達は弾かれたようにジャーヒルへと突進した。
まるでジャーヒルを手当しなければ、それがアサドへの挑戦の意志を表明することであるかのように。
皆、恐怖にひきつった顔で手当に励んでいる。
いくらジャーヒルが巨体とはいえ、数十人の人間でいっせいに手当することも、あるまいに……。
アサドは苦笑するでもなく、闘技場を後にした。
■第1章/青き咆哮 第5話『傭兵部隊長選出』/終■
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