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3 ある長期休暇の頃

十五* 一緒にいたい

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 雨の中、ふたりで歩いていく。
 マンションの方角。二駅程度しか離れてないから、歩いてでも帰れる距離。

「途中で、どこかに寄って食べようよ」
「……そうですね。何にします?」
「多紀くんは?」
「えー……どうしようかな……」

 飲食店を眺めようとするけれど、ぴんとこない。どうしようか迷ってる。
 食べたいものじゃない。
 記憶を取り戻したことを伝えるタイミング。まだ言ってない。

「カズ先輩の気分に合わせますよ」
「んー、どうしようねー?」

 言えない理由はわかってる。
 言えないことばっかりだ。
 それは、俺がずるいせい。
 俺のことが好きになったというきっかけを確かめないまま、二人暮らしを始めたりして。
 本社勤務に変えてもらえて、二人暮らしをしたいっていわれて、具体的に話し始めたころかな。
 訊かないといけないのに訊けない。その理由を考えてた。
 匿名の差し入れがあったんじゃないか。
 それを俺がやったって、勘違いしたんじゃないか。
 だけど、これらを質問してしまったら、その人が俺ではないことを認識させてしまう。
 嫌だって思ったんだよ。
 この人が他の人のものになるのが。
 そうでもないんじゃないかって思いながら、少しでも、和臣さんが離れてしまう可能性が、一パーセントでもあるんだったら、嫌だって。
 だから訊けなかったんだ。壊れてしまわないように。
 ずるい俺。
 でもたぶん、見知らぬ人からもらった差し入れなんか、怖くて食ってないんでしょ。それ早く言えよ。
 そうはいっても、俺、天使なんてガラじゃない。天使って誰だよ。わけわかんない。
 だけど今は、それも間違いじゃないって思えてくる。信じたいからかもしれない。
 あ、そうだ、と和臣さんは切り出した。

「すぐじゃないんだけど、俺、仕事を辞めようと思うんだ」

 俺は驚愕。

「え、ええええ!? な、何かあったんですか!?」
「めっちゃ驚くね……。しばらくは社会人しながら挑戦してみるつもりだけど、勉強と両立できそうになければ、試験のほうを優先しようと思うんだよ」
「そうなんですか……」

 ずいぶん思い切った決断だなあ……。
 海外赴任していたせいだけど、去年の年収一千五百万円超えだよ。
 賃貸契約の審査のとき、年収を書く欄があって、目ん玉飛び出るかと思った。俺の三倍以上あるじゃん。
 日本に戻っても一千万円だって。俺だったら辞められないよ。

「もし……多紀くんが一人暮らしに戻りたければ……、そのタイミングで実家に戻るのもありかなって。しばらく、母親とお手伝いさんしかいなかったんだけど、父親と妹が実家に戻ってるらしいんだよ。予備試験を受けるって言ったら、勉強を教えてくれるって。実家なら生活費もかからないし」
「じゃあ、むしろ、早いうちに実家に帰ったほうが……いいんじゃないですか?」
「んー、どうだろ? あの人たち、頭の出来が違うんだよね……。大学院も予備校も、東京のほうがいいかなぁ。オンラインでもいいけど……」
「へえ……」
「いま二つのルートがあってね。予備試験と、大学院に二年か三年行く方法と」

 隣を歩く和臣さんを仰ぐ。きれいで大人びた横顔。
 俺は何も考えていないけど、和臣さんは目標を持って、色々挑戦しようとしてるんだな。
 この暮らしがずっと続くものだと思っていたのは俺だけだ。ずっと一緒にいてねっていう言葉を真に受けて、この立場に甘んじてた。
 好きになったきっかけを解きほぐそうとしなかった罰なのかな……。
 俺は訊ねる。

「一緒に暮らしつづけるって選択肢もあるんですか?」

 はっきりするべきだったんだよ。愛されてるから大丈夫だなんて思わずに、もっと自分のほうが伝えていくべきだったんだよ。
 好きなのは間違いなかったよ。
 俺、和臣さんのこと、あんなことがあっても嫌いにならなかった。それからも色々あったけど、離れようともしたけれど、やっぱり好きだった。
 だけど、恋人として好きだってことを認めるのは、言葉にするのは、なんとなく怖かった。避けてた。恋なんて知らないし。
 自然がある場所を歩く。歩道には緑が繁っていて、雨のせいで人通りは少ない。
 雨が強くなってくる。

「…………俺は多紀くんと暮らしたい」
「俺次第ってことですか? 勉強はいいんですか? 邪魔になりません?」
「ならないよ。多紀くんと一緒にいるほうが、眠れるし勉強も捗るんだ。多紀くんが傍にいてくれると、ほっとする。だから大丈夫。多紀くんがいるからなんだ。受けようって思えたのは」
「じゃあ、俺――カズ先輩と一緒にいたいなって思うんですよね……」

 と言うと、和臣さんは立ち止まった。
 数歩進んでいた俺は、立ち止まって振り返る。
 急に、なんて顔してんの。また泣きそう。
 というかもう泣いてる。ぶわって泣いてる。涙もろいよ。
 和臣さんは、泣きながら言った。

「多紀くん、大好き。俺も一緒にいたい」

 傘を持っていないほうの手を、伸ばしてくる。
 俺の手を取る。手をつなぐ。
 ただ、それだけ。
 和臣さんは、真っ直ぐに俺を見つめる。涙を流しながら。
 記憶を失くしている俺に。

「本当は、本当はね。離れたくない。でも、記憶を失くす前の、多紀くんの本当の気持ちを、思い出されるのは、怖い。不安なんだ。それに、思い出さないほうがいいって思ってる。傷つけたから」

 そうだな。

「俺との関係の始まりを、思い出してほしいなんて、とても言えない。それでも、もう一度、多紀くんの恋人になりたい。バンコクまで来てくれたこと、空港まで来てくれたこと、指輪を買いに行ったこと。散歩したり、一緒にごはん食べたり。俺と多紀くんがちゃんと恋人同士だった部分だけ、思い出してくれないかな……」

 そう、いい思い出だってちゃんとあるよね。
 何気なく過ごしてきた日々も。
 和臣さんの横暴のせいで、俺はバンコクに行ったっていうよりも和臣さんの家に行っただけ。遠いっつーの。
 指輪を買いに行った。俺たちが付き合ってるの、他人に初めて言った。見知らぬ店員さんは親身になって相談に乗ってくれたな。
 指輪は俺が取りに行って、俺の大阪のワンルームで交換したとき、和臣さんは一生外さないって言ってた。
 そのわりにあまり付けてるところ見てないな。なんでやねん。俺のほうが会社でも家でも付けてる。
 大阪も結構歩いたなあ。食べ歩きもたくさんしたよね。
 一緒に住むと決めたときは、和臣さんめちゃめちゃ喜んでたな。本社勤務にしてもらえたし。
 引っ越し初日、ずっと一緒にいてねって、幸せそうに言ってた。ずっとだよって。
 今は目の前で泣いてる。
 あまりにも泣きすぎて、手の甲で自分の顔を拭うことに精一杯の和臣さんは、俺の様子には、気づいていないだろうけれど。
 俺も、もらい泣きしてる。
 ずっと一緒にいるつもりだったよ。何も言わなかったけど。
 本当の気持ち。伝わってなかったのも無理ないか……。

「俺が君を傷つけたことは、お願い、一生思い出さないで。大切にする。大事にする。心から、俺のことを好きになってほしい……」

 戻ってるよ、記憶。思い出してる。
 言えない。
 気にしていないようで気にしてたんだな。俺を強姦したこと。ストーカー行為は反省してないと思うけど。
 傷つけたことで傷つくなら、最初からするなって俺は思うよ……。
 思い出さないでなんて、ずるくない?
 そりゃ許してなかったけどさあ。二年、ちゃんと付き合ってたじゃん。
 俺の四年だってなかったことにするわけ?
 でも、思い出していないほうが、和臣さんにとっては、気に病む必要がない。

「好きです。俺。――カズ先輩のこと」

 俺は言った。
 傷つかなくてもいいよ。
 柔和で気弱そうなイケメンで、優しくて超泣き虫で何考えてるかわからなくて、俺に対して変なことばっかりしてる、不思議な先輩。そこまでこだわってくる理由なんか全然わかんない。俺、この人に何かしたっけ? ほんと謎。
 なぜなのかはわからないけれど、とにかく全力。度々空回り。
 俺のことが好きなんだなあ、と思うと憎めなくて、仕方ないなあと思ううちに、いつの間にか傍にいて、一緒にいるのが当たり前になろうとしてる。

「一緒にいたいです」

 和臣さんは、その場にしゃがみ込んで、俺の手を握って悲しそうに泣いてる。
 きっと、傷つけたことの中身がひどすぎて口に出せないくせに、また恋人になりたいと望んでいるせい。
 俺も泣けてくるのは、今までの思い出を捨てて、記憶のない自分を選んだせい。
 でも和臣さんに、傷ついてほしくない。

「説明できなくて、ごめんね、多紀くん。ごめん……」

 俺も、ごめんね。
 二十三歳のままの俺の口を借りないと、好きだって言えないんだ。




 <次の章に続く>
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