上 下
61 / 361
第二部 1 ある三月の春の夜

九 東京駅の衝突

しおりを挟む
 午後二時前。
 東京駅。東海道山陽新幹線乗り場。
 エレベーターもエスカレーターも混雑しているので、お互いにそれぞれ小さいキャリーを手に、肩を並べて階段をあがっていく。

「おなかすいたね。多紀くんは大丈夫?」
「俺は大丈夫ですけど、和臣さん、朝飯少なかったですもんね」

 二人とも昼飯を食べていない。時間がなかったせい。俺は朝飯は結構食べたからいいけど。

「多紀くんとふたりきりになる時間のほうが大事だったのに」
「ごめんなさいしたのに。まだ言ってるんですか」
「いつまでも言うつもり……」

 しつこいな……。
 でも、誤解がないかを切り出せないまま、またエッチしてしまった。誤解だったとしても俺のほうが離れられるか不安だよ。ちゃんと身を引けるのかな……。
 ホームにあがって、指定車両の停まる位置を探す。数人の列ができていて、その最後尾に並ぶ。まだ清掃中で車内に入れない。
 ほんの少し時間がある。

「売店で何か買ってきますね。何がいいですか?」
「あ、じゃあお願い。多紀くんと同じものがいい。荷物見ておくよ」

 俺は売店を探しに行く。時間がないから急がないと。飛行機に乗り遅れたらしゃれにならない。
 羽田から関空に直接飛んだほうが早いから一人で行くように言ったのに、新大阪駅まで俺を送っていくっていってきかない利かん坊。バンコク行きに間に合わなくなったらどうするんだよ。
 と、売店でテキトーに弁当を見繕って清算を終えたときだった。

「相田くん?」

 と俺を呼ぶ声。誰だっけ。そんな風に思いながら振り返る。
 清算の順番待ちをしていたのは、元職場の上司。名前なんだっけ。ぱっと出てこない。四十代半ばのナチュラルパワハラ上司。スーツ姿。
 どこかに出張だろう。

「あ……お久しぶりです」

 と会釈する。逃げようとした肩を掴まれて、俺は立ち止まった。

「まずいことしてくれたよ。とんでもないやつだったんだな、相田くん」
「別に何もしてませんけど……」

 この人の大袈裟さを一気に思い出す。悪いことは特大みたいになって、いいことは過小評価。これのせいでやめていく人が多数いて、怒鳴る系の社長と、モラハラ系のこの人を反復横跳びするうちに洗脳が完了してしまう、そういう職場。
 俺は辞めるまで誠実に仕事をしたし、引き継ぎもしたし、その人が辞めても大丈夫なようにマニュアルを作って残していった。そこまですればいいでしょ。
 あ、違う。西さんに言わせれば、そんなことだってしなくていいんだった。辞めて困るような人材なら、心から残りたいと思わせなかった会社が悪い。

「何もしてなくてあれほど爆発するはずないだろ。社長の怒りは凄まじかったぞ」
「はは。社長って毎日怒ってたじゃないですか」

 いまこの瞬間だって怒ってるよ、きっと。

「一度戻って謝ったらどうだ? あれから二年近く経ってるからさ。今なら怒られても大したことないだろ」
「そんなことを言われても……もう関係ないです」
「お前もケジメとしてな。謝罪のひとつもしないと。謝るのは得意だっただろ。気が向いたら戻してもらえるかもしれないぞ。俺がかけあってやろうか」
「いえ……結構です」
「どうせ大した会社に勤めてないだろ。すぐやめるような奴はどこも勤まらないからな。身をもって思い知っただろうけど、逃げの転職なんていうのは底辺に落ちてくばかりなんだよ」
「あの、電車の時間が」

 と肩に置かれた手を振り払おうとしたとき、その元上司の手を掴み上げてねじりあげた人がいた。振り仰ぐ。元上司が痛がったので、すぐに放す。和臣さん。

「あ、お待たせしてすみません」

 俺が遅いものだから迎えに来たらしい。足元にスーツケース二つとも持ってきている。重いのに申し訳ないな。

「多紀くん。誰?」

 和臣さんはすでにキレてる。短い言葉と口調に詰まってる。

「あ、元上司です。前の職場の、直属の……」
「直属の? 話しかけられたの?」
「はい」

 和臣さんは、俺と元上司の間に割って入る。

「相田くんに何かご用ですか?」
「邪魔だよ。話してるんだけど」
「話しかけたんですね。ですが、相田くんと話してはいけませんよね。示談が成立していると思いますが」
「は?」

 あ、そうだ。
 会社との示談をしてくれた弁護士の先生からのメールに、社長や元上司を見かけても会話しないようにって書いてあった。見かけてもすぐ離れるようにって。
 前の会社を辞めるときはすったもんだあって、退職届を提出したけれど突き返されてしまった。
 どうしたらいいのかわからなくて葉子さんと野村さんに相談したら、法律事務所を紹介してくれて、内容証明郵便を送ったり、俺の代わりに会社と交渉をしてもらった。
 わりとすぐに解決して、ちょっとまとまったお金をもらってやめることができたのだ。諸々の費用を差し引いて、引っ越し代も出た。未払残業代だってさ。
 でもこのこと、和臣さんに話してない。なんで知ってんだよ。
 和臣さんが言う。

「あなたは、相田くんに話しかけてはいけないんですよ。接触連絡禁止です。あなたも示談書を一通持っているでしょう。違反した場合、違約金として金五十万円。まさか、示談書の意味内容を理解しないまま、署名捺印したのでしょうか」
「し、失礼な。お前は何なんだ。お前が示談書の内容を知っているのは、相田が口外禁止条項に違反したからだろうが。こっちが違約金を請求してもいいんだぞ」
「私は小野寺といいますが」

 さっと顔色を変えて、怯えるように元上司が走り去っていく。東京に帰ってきたところらしく、階段を駆け下りていった。
 あっという間の出来事。

「和臣さん」

 当然、示談書の内容も、和臣さんに話したことはない。示談そのものだって言ってないんだから。
 葉子さんや野村さんに聞いたのだろうか。それか西さん。三人に相談はしていた。
 だけどさすがに示談書の内容までは言っていない。俺だって細かい条項は覚えていない。覚えられないほど難しかった。
 一年半前の出来事だし、思い出そうとしても、とてもじゃないけれど思い出せない。

「ごめん、多紀くん。ちゃんと説明する。でもあとで。時間ない。あと一分」

 和臣さんが足元の荷物二つを取りながら先を促す。

「うわ、やばい」

 指定車両まで戻れそうにないので、二人で近くの車両に飛び乗った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

この噛み痕は、無効。

ことわ子
BL
執着強めのαで高校一年生の茜トキ×αアレルギーのβで高校三年生の品野千秋 α、β、Ωの三つの性が存在する現代で、品野千秋(しなのちあき)は一番人口が多いとされる平凡なβで、これまた平凡な高校三年生として暮らしていた。 いや、正しくは"平凡に暮らしたい"高校生として、自らを『αアレルギー』と自称するほど日々αを憎みながら生活していた。 千秋がαアレルギーになったのは幼少期のトラウマが原因だった。その時から千秋はαに対し強い拒否反応を示すようになり、わざわざαのいない高校へ進学するなど、徹底してαを避け続けた。 そんなある日、千秋は体育の授業中に熱中症で倒れてしまう。保健室で目を覚ますと、そこには親友の向田翔(むこうだかける)ともう一人、初めて見る下級生の男がいた。 その男と、トラウマの原因となった人物の顔が重なり千秋は混乱するが、男は千秋の混乱をよそに急に距離を詰めてくる。 「やっと見つけた」 男は誰もが見惚れる顔でそう言った。

元会計には首輪がついている

笹坂寧
BL
 【帝華学園】の生徒会会計を務め、無事卒業した俺。  こんな恐ろしい学園とっとと離れてやる、とばかりに一般入試を受けて遠く遠くの公立高校に入学し、無事、魔の学園から逃げ果すことが出来た。  卒業式から入学式前日まで、誘拐やらなんやらされて無理くり連れ戻されでもしないか戦々恐々としながら前後左右全ての気配を探って生き抜いた毎日が今では懐かしい。  俺は無事高校に入学を果たし、無事毎日登学して講義を受け、無事部活に入って友人を作り、無事彼女まで手に入れることが出来たのだ。    なのに。 「逃げられると思ったか?颯夏」 「ーーな、んで」  目の前に立つ恐ろしい男を前にして、こうも身体が動かないなんて。

親友だと思ってた完璧幼馴染に執着されて監禁される平凡男子俺

toki
BL
エリート執着美形×平凡リーマン(幼馴染) ※監禁、無理矢理の要素があります。また、軽度ですが性的描写があります。 pixivでも同タイトルで投稿しています。 https://www.pixiv.net/users/3179376 もしよろしければ感想などいただけましたら大変励みになります✿ 感想(匿名)➡ https://odaibako.net/u/toki_doki_ Twitter➡ https://twitter.com/toki_doki109 素敵な表紙お借りしました! https://www.pixiv.net/artworks/98346398

バイト先のお客さんに電車で痴漢され続けてたDDの話

ルシーアンナ
BL
イケメンなのに痴漢常習な攻めと、戸惑いながらも無抵抗な受け。 大学生×大学生

【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】

彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』 高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。 その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。 そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?

食事届いたけど配達員のほうを食べました

ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
なぜ自転車に乗る人はピチピチのエロい服を着ているのか? そう思っていたところに、食事を届けにきたデリバリー配達員の男子大学生がピチピチのサイクルウェアを着ていた。イケメンな上に筋肉質でエロかったので、追加料金を払って、メシではなく彼を食べることにした。

貧乏Ωの憧れの人

ゆあ
BL
妊娠・出産に特化したΩの男性である大学1年の幸太には耐えられないほどの発情期が周期的に訪れる。そんな彼を救ってくれたのは生物的にも社会的にも恵まれたαである拓也だった。定期的に体の関係をもつようになった2人だが、なんと幸太は妊娠してしまう。中絶するには番の同意書と10万円が必要だが、貧乏学生であり、拓也の番になる気がない彼にはどちらの選択もハードルが高すぎて……。すれ違い拗らせオメガバースBL。 エブリスタにて紹介して頂いた時に書いて貰ったもの

言い逃げしたら5年後捕まった件について。

なるせ
BL
 「ずっと、好きだよ。」 …長年ずっと一緒にいた幼馴染に告白をした。 もちろん、アイツがオレをそういう目で見てないのは百も承知だし、返事なんて求めてない。 ただ、これからはもう一緒にいないから…想いを伝えるぐらい、許してくれ。  そう思って告白したのが高校三年生の最後の登校日。……あれから5年経ったんだけど…  なんでアイツに馬乗りにされてるわけ!? ーーーーー 美形×平凡っていいですよね、、、、

処理中です...