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3 ある八月の熱帯夜

十三 二度と会わない

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 午前六時。
 すっかり日は出ていて、暑い予感がする。だけど、少し秋の気配もする。ただ暑いだけではない、次第に消えていく夏の温度に、寂しいような気配が漂う朝だ。
 俺はカズ先輩を駅まで送っていった。駅に行くの若干怖かった。昨日あんなことがあったし。
 改札に向かう途中の柱の前の、人波の邪魔にならない位置で向かい合う。
 俺は言った。

「俺の連絡先、消しておいてください」
「うん」

 別にすぐじゃなくてよかったのに、カズ先輩はその場で携帯電話を操作して、ささっと削除した。そして苦笑しながら、自分の額を指さす。

「ごめん。電話番号も、アカウントIDも、なにもかも覚えてるんだよね……」

 それは困ったな。その記憶力、他のものを覚えることに活かしてほしいよ。
 俺は笑った。

「どうやったら忘れられるんでしょうね」
「忘れたくないから、難しいよ。だけど、押さないようにする。約束する――これだけは守るよ。……でも万一、電話をかけてしまったら……出ないようにね。よかったら着信拒否しておいて。電話番号を変えるのは無理でしょ」

 カズ先輩は作り笑顔で手をあげた。
 しんどそう。そんな顔で出勤して大丈夫だろうか。心配になる。

「じゃあね。ごめんね」
「はい。じゃあ」

 俺も作り笑顔で片手をあげる。ちゃんと笑えてないのは、お互いさまだな。
 カズ先輩は俺に背を向けて、改札を通って人混みに消えていく。
 すぐに見えなくなった。
 俺は改札に背を向けて歩き出す。今日も暑くなりそうだ。人が増えてくる。
 またとは絶対に言わないし、かといってさよならとか、決定的なことも言わなかった。これ以上念押しする必要もない。俺もわかってるし、カズ先輩も十分わかってると思う。わかってなかったら怒るよ、もう。
 二度と会わないほうがいい。すれ違うことだってないほうがいい。できれば俺は異動して、アパートはさっさと引き払って、東京には帰らない。
 歩く、歩く、歩く。
 早足になる。
 その場を逃げ出すように。
 もし異動させてもらえなかったら、すぐに退職して、別の街に住もうかな。もう二度と会わないように。
 違う街で生きれば、きっとすれ違いもしない。そこで仕事を探して、新しくやり直すんだ。
 ……カズ先輩の俺に対する恋愛感情って、カズ先輩の人生の邪魔だって。
 忘れたほうがいい。
 俺のためだけじゃない。
 十五歳のときに、一年間かかわって、二十歳のときに再会して、四年。
 月に一回か二回くらい、食事に行ってたんだよな。だいたい軽く晩飯。時々呑み。
 おごってくれることも多かったけど、そうじゃなかったとしても、行っていたと思う。金欠でも。
 ブラック企業のくだらない話に笑ってくれてたけど、心配そうにしていたのは、あれ、本当は、辞めろって言いたかったんだな。そりゃそうか。
 寂しいな。
 なんでこんな風になったんだろ。
 だけど、この寂しさは、恋愛感情ではないと思う。恋なんかしたことないけど、わからないけれど、わかる。俺はカズ先輩に恋はできない。
 あんな呟きをしなかったらよかったのかな。もしお見合いに正式に返事をした後だったら、きっと来なかったはずなのに。
 めちゃくちゃ無理矢理やられたし、今でも思い出すとショックだけど。
 でも、あの人、俺のことが好きだったんだよなあって思うと、憎めないんだよ。
 きっと、そんなに愛されたことないせい。俺のことが好きなのなんて、カズ先輩くらいでしょ。好きだってことは、十分すぎるほど、伝わってきた。痛いくらい。っていうか時々本当に痛かったな。
 しばらく走って、ふと立ち止まって、息を整える。
 で、携帯電話を取り出して、勢いのままに、カズ先輩を探して消していく。
 連絡先、ログ、つながり、ID、写真、スケジュールの履歴、何もかもを消していく。急に、唐突に、知り合いが一人消える。でもたぶん、ただの知り合いじゃない。
 俺がいちばん頼っていた、仲が良かった人。
 電話もメールもSNSも、全部つながってて、いちばんデータ量が多いんだもん。あれもこれも消さないといけなくて、痕跡を探すとどこからでも見つかってしまう。
 大好きだったのに。
 全部壊されちゃってさ。
 でも、俺にとって心地いい関係は、カズ先輩にとって、苦しかったはずだから。
 どうにもならなさすぎて、辛いな。

「でも、これでいいんだよ」

 と、ひとりごちた、そのときだった。
 前から歩いてきた人に声を掛けられて、俺は顔をあげた。
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