賢者の失敗

小声奏

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10 囚われる

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想像していた通りだが、馬での移動は馬車より厳しかった。風があたるせいか酔いはしないが、落馬しないようにと力みすぎて、私はいくらも進まない内にへとへとになってしまった。

「力を抜いて。私に持たれていなさい」

 眼鏡の男はそう言って私の背中を自分の胸に預けさせようとするが、体はそうそう言う事を聞くものではない。
 しかも人目を避けるためか、街道ではなく林の中を進むものだから、当然足場は悪いし障害物だらけだ。巧みな手綱さばきで、鮮やかに木や枝を避けてくれるのだが、目の前に葉の生い茂った枝が迫る度に、体が強張ってしまう。

「あと、どのくらい移動するんですか?」

 まさかずっと移動生活じゃないよな。
 うんざりとして聞けば、眼鏡の男は少し首を傾げた。

「そうですね、明日の夕刻には着きますよ」
「今晩の宿なんかは……」
「ありません。夜間中移動しますから」

 では休息は日中に? と思ったが、すぐに考えを改めた。街道を通るのさえ避けている彼らが、宿などとるはずもない。なら野宿か。というと、そういうわけでもないのだろうな。私は彼らの馬に括り付けられた少ない荷物を見て、ため息を吐いた。恐らくこの集団は睡眠などとらないのだろう。冬の終わりかけの、まだまだ寒いこの季節に野宿をするにはそれなりの装備が必要だ。明日の夕方までずっと移動するのだという結論に辿り着いた私は、また溜息を吐いた。

「辛いですか?」
「はあ、まあ」

 辛いから降ろせと言ったら降ろしてくれるのだろうか。

「眠っていろ」

 いつの間にか隣で手綱を握っていたイヴァンが、在り難いアドバイスを寄越す。
 いつでもどこでも寝られた子供の頃なら可能だったかもしれないが、眠りの浅い今はとても無理だ。

「努力します」

 そっけなく言い返すと、イヴァンは「ああ」と何かを思い出したように呟いた。

「お前、名はなんという」
「荷物に名前が必要ですか」

 思わず聞き返すとイヴァンはにやりと笑う。

「ないのなら俺がつけてやろう」

 結構です。きっととんでもない名前になるに決まっている。
 しかし……と、私は考え込んだ。
 ユーンの乙女の名は大礼の折に、公示されるために、国中に広く知れ渡っている可能性がある。
もし、私が乙女だと知れたなら、彼らは莫大な身代金を要求しようとは思わないだろうか。いや、それならまだいい。受け渡し時は絶交の捕縛チャンスだろうし、接触を持てば彼らが軍に勝てるとは思えない。だが、残念ながらそれは、きっと彼らにも分かっているだろう。
 それよりも可能性が高いのは――――「サカキ・ケイコと申します」「どこかで聞いた名ですね。ああ、確か今代の乙女の一人がそんな名でしたか」「乙女? ちっ、面倒なのを引っ掛けちまったもんだ。おい、口封じに殺って埋めておけ」「イエッサー」――――脳内で音声化された想像に、私はぶるりと震えた。在り得る。大いに在り得る。
 本名は駄目だ。
 黙り込む私に、イヴァンが怪訝な目を向けているのに気付いて、慌てて口を開いた。

「相手に名を聞くときは、まず自身の名を告げてから……というのが私の国の礼儀なのですが」

 使い古された陳腐な台詞だし、そもそも眼鏡の男が名を呼んでいるから、白髪の男がイヴァンというのだととうに分かってはいるが、是非とも改めて自己紹介していただきたい。その間に名前を考えておくから。

「はっ、よく口の回る餓鬼だ」
「口から先に生まれた。とよく言われます」

 何が気に入ったのかイヴァンは声を上げて笑った。

「こいつは思わぬ拾い物をしたもんだ」

 帰るまで退屈せずにすむ。とイヴァンはいたく上機嫌に言い放つ。
 一頻り笑うと、イヴァンはペット兼荷物兼玩具に昇格した私を見て、口元を引き締めた。常に浮かべられている、顔面パンチをお見舞いしたくなるような、にやにや笑いが引っ込められると、精悍な容姿が際立って見える。

「これは礼儀を欠き申し訳ない。非常時ゆえ馬上での名乗りを許されよ」

 はっ? 私は眉を顰めた。 
 お前はどこの武将だ。と、突っ込みたくなるような威風堂々とした態度をとった次の瞬間には、イヴァンは口元を緩め、今度は艶やかに微笑だ。

「私の名はイヴァンと申します。月明かりのもと咲く小さな花よ。あなたの秘められた芳香に惑わされ、その身を独占したいと欲する愚かな私めに、どうか御名を与えては下さいませんか?」

 まるで思い人を前にした貴公子然とした態度に私は大いに引いた。どこまで人をおちょくれば気がすむのか。
 しかも、「明るい日の光の下では霞んでしまうちっぽけな雑草のうえに、性的に未発達で匂いもしないお前を助けてやったんだから、お前はもう俺の物だ。分かったらさっさと名乗れよ」と言われたような気がするんだけど。
 憮然として、今し方までの暴君めいた男とは別人のような、爽やかかつ色っぽいという器用な顔を見せるイヴァンを見詰めていると、頭上から静かな声がかかる。

「私はレオニードと申します。それで、あなたの名前は?」

 イヴァンの人を食った怪演を、あっさり無視した眼鏡の男改めレオニードのシンプルな自己紹介に、私はご丁寧にどうもと頭を下げた。
 半眼でレオニードを見るイヴァンの顔は、もう前の不遜な俺様に戻っている。
 つっと、その目を向けられて、私は思いついた名を述べた。

「私は『殿・天晴れ』といいます。どうぞトノと呼んで下さい」

 名の音を日本語でそう告げると、イヴァンは「名も変わっているな」とトノ=アッパレと口の中で繰り返した。笑い出さなかった自分を褒めてやりたい。
 呼びやすく我ながらいいネーミングだと思う。これでいくら俺様な態度をとられて下僕のような扱いをされようが少しは腹もおさまるだろう。

「では、トノ。眠くなくても目を閉じていろ。目さえ閉じていれば餓鬼は眠れるものだ。今のままじゃもたねえぞ」

 有難迷惑な助言に従い、私はそっと瞼を閉じた。
 イヴァンの馬が離れていく気配がする。
 レオニードにもたれ、眠る努力をしているふりをしながら、私は時折薄目を開けては、彼らをつぶさに観察した。
 男達は全部で11人。何れも筋肉質な体をもち腰に剣を下げている。
 動作は機敏で、長い時間を馬に揺られていても疲れを感じさせる者は一人もいなかった。
 シルヴァンティエでは盗賊の質は随分と高いものらしい。日本と違い(重さにもよるが)罪を犯せば即切り殺されても文句の言えないここでは、逞しく図太い者だけが残るのかもしれないが。
 レオニードの言葉どおり、夜通し、鬱々とした雰囲気の林の中を駆け、夜明け間近になって、漸く短い休憩が持たれた。
 お手洗いに……と藪の中へと消えようとすると、すかさず「逃げようなんて考えるなよ。一人になれば昼を迎えるまでに獣の餌だ」と釘をさされる。
 獣の餌とイヴァンのペット。どっちも御免こうむりたいが、どちらかを選ばなければならないとしたら、後者しか選択のしようがないだろう。
 脅しなのか真実なのか、獣の影に怯えながら、私は素早く用を足すと、レオニードの元へ戻った。
休憩といっても、火を熾すでも、横になるでもなく、男達は馬の側に立ち、飲み食いをするだけだ。

「どうぞ」

 レオニードが馬に括り付けられた袋を解き、筒に入った甘酸っぱい飲み物と、干し肉の欠片を渡してくれる。が、とてもじゃないが肉を食べる気にはなれなかった。

「ありがとうございます。あの、飲み物だけいただきます」

 そう辞退して、干し肉を返そうとするとレオニードの顔が僅かに曇る。
 受け取ってもらえぬ干し肉に戸惑っていると、背後に圧迫感のある大きな男が立った。

「無理やりにでも胃に収めろ」

 イヴァンだった。
 彼は背後から私を拘束すると、手の中から干し肉を奪う。何をする気なのかと見上げた視界に、歯で肉を噛み切る彼の顔が映る。
 食べろと言った割りに自分で食うのか? と眉を寄せる私の口に、イヴァンはあろうことか、前歯で挟んでいた小さくなった肉を右手に持ち替えて押し込んだ。
 塩辛い肉とともに太い指が口内に入り込む。頭を振って抵抗しようとすると、腰に回されていた腕を解かれて、顎を掴まれた。

「吐き出したら、次は咀嚼して口移しにしてやる」

 未だかつてこんなに恐ろしい脅しを聞いたことはない。
 私は目尻に涙を溜めながら、硬い肉を噛み、死ぬ気で飲み込んだ。
 その様子に気を良くしたのかイヴァンがまた肉を噛み切り、口に押し込む。
 結局私は、「自分で食べますから!」の一言も、言わせてもらえず、全ての肉をイヴァンの指で食べさせられたのだった。
 ペット生活は思ったよりも苦い……
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