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三流調剤師とパトロン候補
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ラグナルの涙と、ノアの言葉に負けてしまった。
しかし、さすがに盥に入ると二人で使うには小さすぎるとわかってくれたらしい。ラグナルは上機嫌で湯に浸かり体を洗っている。
頭は私が洗ったが、体は洗う練習をしようねと言い聞かせると、素直に頷いてくれたのだ。
「イーリスお姉ちゃん、背中に手が届かないよ」
前面を洗い終えたラグナルは、小さな手を一生懸命うしろに回そうとしてじたばたしていた。その様子があまりに可愛くて、頭を撫でまわしたくなるが、この子は宵闇の冴えた月(笑)なんだと思ってなんとか耐えた。
「洗ってあげるから、うしろ向いて」
「うん!」
ラグナルは嬉しそうに返事をしてくるりと体の向きを変える。
私は彼から受けとった石鹸とタオルを手にして、背中を擦りはじめた。
その手をすぐに止める。
「うそ……」
ラグナルの背中の印が変化していた。
全体ではない。私が昨日解呪を試みた一番端の一文字。その両隣の文字がほんの僅かに色を変えていた。まるで解呪された文字に引きずられるように薄くなっているのだ。
――なぜ?
イーの一族が持つ解呪の力。これは血に宿る力だ。それも正しくは祖トヨ・アキーツではなく、彼女の次の世代から受け継がれたものである。人には本来なし得ない他者の刻んだ印に干渉する異能。占者トヨ・アキーツが大罪に身を染め、子供に継がせた力を他に持つ者がいるはずがない。
例え一族から離反した者が過去にいたとしても、それがダークエルフであるラグナルに継がれるはずもない。とすれば考えられる可能性は一つだけ。
魔力で内側から印を食い破ろうとしているのだ。私が作った綻びを呼び水として。
人間には到底不可能な力技。しかし膨大な魔力を秘めるダークエルフなら、出来るのかもしれない。
そんなことが可能だと思わせるダークエルフの魔力が恐ろしい。
「どうしたの?」
ラグナルが仰ぎ見るようにして私の顔を覗き込んだ。
「え? いや、えーと、お湯が冷めてきたなと思って。ほら急いで洗っちゃおう」
私は笑顔を浮かべてごまかすと、桶でお湯をかけた。
石鹸を流し終えると、水気を拭き取り、服を着せる。
一足先にベッドの住人となったラグナルは壁にもたれて座り、ぼんやりとしていた。私と一緒に寝るために待つつもりらしい。しかし、とっくに限界を超えているのか、何度も瞼が落ちかけている。
ラグナルが眠りに落ちるのを待つために、ゆっくりと盥の湯を張り替えた。
思った通り、支度を終える頃にはすっかりラグナルは夢の中だった。
私は手早く身を清め寝巻きを着込むと、髪の雫を拭きながら、うつ伏せで眠るラグナルにランタンを持って近づいた。
頰を撫でてもピクリともしない。眠りが深いのを確認し、そっと服を捲る。
やっぱり見間違いなどではない。
合わせて三つの文字の色がうっすらと薄くなっている。
もしかしたら、時間はかかっても、いずれ全て消えるのかもしれない。
私は箪笥から金平石を包んだ薬包紙を取り出し、ラグナルの隣に腰掛けた。
指先の皮膚を裂き、血を金平石になじませる。
昨晩と同じ箇所に働きかけるべきか、それとも一つ飛ばした先の文字を解くべきか。迷ったすえ、私は薄くなった文字に指を這わせた。
特に根拠はない。完全な勘だ。
金平石はこれをいれて残り九つ。
ダークエルフの魔力の甚大さを再確認した今、戸惑いは大きいが、大丈夫だ。まだ時間はある。
指先に力を集める。ラグナルの魔力がどのように作用しているのか知りたかったけれど、余計なものを見ようとすれば失敗するのは分かっている。
私は何も考えないようにして、ただ力を注いだ。
時間にしてほんの数分。それが限界だった。コツはなんとなく分かってきたはずなのに昨日より進まなかったと感じるのは、疲れているせいだろうか。
ランタンを引き寄せて確かめるが……
「すこーし。薄くなった、かな?」
程度の変化だ。
私は後始末を終えると、ラグナルの隣に横になった。
何か夢を見ているのか、ラグナルは眉間に皺を寄せて、しかめっ面をしていた。長い睫毛がぴくぴくと震えている。
指先で力の入った眉間を撫でてやると、表情が緩み、だらしのない笑顔になった。
明日、起きたらまたラグナルに変化が起きているのだろうか?
それが楽しみなような怖いような。
そんな気持ちで眠りについた。
「イーリス姉ちゃん」
体を揺すられて意識が浮上する。
「さっさと起きろよ。もうとっくに朝だぞ」
うっすらと瞼を開けると、戸板の隙間から入る光が目に入った。薄暗い光だ。てっきり明け方に近いのかと思ったが、そうではないと雨の音で気付いた。そういえば雨になるって言ってたっけ。
「おい、寝坊助、起きろって」
失礼な。私は疲れているのだ。なんたって昨日は……
――昨日は?
私は勢いよく身を起こした。
デジャビュもいいところである。
視線を感じて目を向ければ、ベッドの横に立って、呆れを浮かべた顔でこちらを見下ろす子供。少し癖のある銀の髪に黒い瞳。
「ラグナルだ。あれ? 変わってない?」
「は? 朝っぱらからなに寝ぼけてんの」
――思いっきり変わっていた。
主に中身が。
「どうせ、朝飯の用意ないんだろ? 食べにいこうぜ」
私は半目でラグナルを見つめた。
昨日、可愛らしく頰を膨らませて空腹を訴えていた子供は、今朝になって今度は小生意気な態度の子供になっていた。
しかし、さすがに盥に入ると二人で使うには小さすぎるとわかってくれたらしい。ラグナルは上機嫌で湯に浸かり体を洗っている。
頭は私が洗ったが、体は洗う練習をしようねと言い聞かせると、素直に頷いてくれたのだ。
「イーリスお姉ちゃん、背中に手が届かないよ」
前面を洗い終えたラグナルは、小さな手を一生懸命うしろに回そうとしてじたばたしていた。その様子があまりに可愛くて、頭を撫でまわしたくなるが、この子は宵闇の冴えた月(笑)なんだと思ってなんとか耐えた。
「洗ってあげるから、うしろ向いて」
「うん!」
ラグナルは嬉しそうに返事をしてくるりと体の向きを変える。
私は彼から受けとった石鹸とタオルを手にして、背中を擦りはじめた。
その手をすぐに止める。
「うそ……」
ラグナルの背中の印が変化していた。
全体ではない。私が昨日解呪を試みた一番端の一文字。その両隣の文字がほんの僅かに色を変えていた。まるで解呪された文字に引きずられるように薄くなっているのだ。
――なぜ?
イーの一族が持つ解呪の力。これは血に宿る力だ。それも正しくは祖トヨ・アキーツではなく、彼女の次の世代から受け継がれたものである。人には本来なし得ない他者の刻んだ印に干渉する異能。占者トヨ・アキーツが大罪に身を染め、子供に継がせた力を他に持つ者がいるはずがない。
例え一族から離反した者が過去にいたとしても、それがダークエルフであるラグナルに継がれるはずもない。とすれば考えられる可能性は一つだけ。
魔力で内側から印を食い破ろうとしているのだ。私が作った綻びを呼び水として。
人間には到底不可能な力技。しかし膨大な魔力を秘めるダークエルフなら、出来るのかもしれない。
そんなことが可能だと思わせるダークエルフの魔力が恐ろしい。
「どうしたの?」
ラグナルが仰ぎ見るようにして私の顔を覗き込んだ。
「え? いや、えーと、お湯が冷めてきたなと思って。ほら急いで洗っちゃおう」
私は笑顔を浮かべてごまかすと、桶でお湯をかけた。
石鹸を流し終えると、水気を拭き取り、服を着せる。
一足先にベッドの住人となったラグナルは壁にもたれて座り、ぼんやりとしていた。私と一緒に寝るために待つつもりらしい。しかし、とっくに限界を超えているのか、何度も瞼が落ちかけている。
ラグナルが眠りに落ちるのを待つために、ゆっくりと盥の湯を張り替えた。
思った通り、支度を終える頃にはすっかりラグナルは夢の中だった。
私は手早く身を清め寝巻きを着込むと、髪の雫を拭きながら、うつ伏せで眠るラグナルにランタンを持って近づいた。
頰を撫でてもピクリともしない。眠りが深いのを確認し、そっと服を捲る。
やっぱり見間違いなどではない。
合わせて三つの文字の色がうっすらと薄くなっている。
もしかしたら、時間はかかっても、いずれ全て消えるのかもしれない。
私は箪笥から金平石を包んだ薬包紙を取り出し、ラグナルの隣に腰掛けた。
指先の皮膚を裂き、血を金平石になじませる。
昨晩と同じ箇所に働きかけるべきか、それとも一つ飛ばした先の文字を解くべきか。迷ったすえ、私は薄くなった文字に指を這わせた。
特に根拠はない。完全な勘だ。
金平石はこれをいれて残り九つ。
ダークエルフの魔力の甚大さを再確認した今、戸惑いは大きいが、大丈夫だ。まだ時間はある。
指先に力を集める。ラグナルの魔力がどのように作用しているのか知りたかったけれど、余計なものを見ようとすれば失敗するのは分かっている。
私は何も考えないようにして、ただ力を注いだ。
時間にしてほんの数分。それが限界だった。コツはなんとなく分かってきたはずなのに昨日より進まなかったと感じるのは、疲れているせいだろうか。
ランタンを引き寄せて確かめるが……
「すこーし。薄くなった、かな?」
程度の変化だ。
私は後始末を終えると、ラグナルの隣に横になった。
何か夢を見ているのか、ラグナルは眉間に皺を寄せて、しかめっ面をしていた。長い睫毛がぴくぴくと震えている。
指先で力の入った眉間を撫でてやると、表情が緩み、だらしのない笑顔になった。
明日、起きたらまたラグナルに変化が起きているのだろうか?
それが楽しみなような怖いような。
そんな気持ちで眠りについた。
「イーリス姉ちゃん」
体を揺すられて意識が浮上する。
「さっさと起きろよ。もうとっくに朝だぞ」
うっすらと瞼を開けると、戸板の隙間から入る光が目に入った。薄暗い光だ。てっきり明け方に近いのかと思ったが、そうではないと雨の音で気付いた。そういえば雨になるって言ってたっけ。
「おい、寝坊助、起きろって」
失礼な。私は疲れているのだ。なんたって昨日は……
――昨日は?
私は勢いよく身を起こした。
デジャビュもいいところである。
視線を感じて目を向ければ、ベッドの横に立って、呆れを浮かべた顔でこちらを見下ろす子供。少し癖のある銀の髪に黒い瞳。
「ラグナルだ。あれ? 変わってない?」
「は? 朝っぱらからなに寝ぼけてんの」
――思いっきり変わっていた。
主に中身が。
「どうせ、朝飯の用意ないんだろ? 食べにいこうぜ」
私は半目でラグナルを見つめた。
昨日、可愛らしく頰を膨らませて空腹を訴えていた子供は、今朝になって今度は小生意気な態度の子供になっていた。
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