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火曜日の部

朝練君と園芸部ちゃん

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 夏の大会が近い。
 最近、朝早く起きすぎてしまう。明るくなるのが早いのもあるけれど。
 俺は小さいころからスポーツ少年で、野球、サッカー、空手と様々な競技を行き来して、高校2年のこの夏、陸上中距離の選手として大会に出ることになった。
 結局、単純に体を動かすのが好きなだけで、たくさん全力疾走ができる八〇〇メートルは結構気に入っていた。
 でも思い入れってむずかしい。
 争うのは大会だから仕方ない。気持ちよく走るだけではダメらしいから、コーチの先生とか、家族とか、チームメイトとも顔を合わせたくない時がある。
「お、まだ校庭誰もいないか。よし、狙い通り」
 そんな時は校庭に一番乗りして、足跡のまだないトラックを独り占めに走り抜くのだ。
 しめしめと校庭の端に荷物を置いてストレッチを始める。
 体をひねった瞬間に、大きめのキャラクターマスコットのくっついた学校鞄が控え目に校庭に置いてあることに気付いた。
「……あれ、こんなに早いのに誰かいるのか?」
 これは女子の鞄に違いないが、陸上部の女子では見たことがない。猫をデフォルメした感じのマスコットだろうか。
 誰かがいても走るつもりではいたから構わないが、同じ陸上部でトラックをわけあって走りっこするのは何か嫌だ。変な噂でも立てられたらと思うと顔が歪んだ。
「ちょっと、そこに立たないで! 逃げちゃうから」
 ストレッチをするのは、部活動の時間でも同じ場所でやるようにしている。そこは砂の校庭とは違って、芝が敷いてあるちょっとしたところだ。その生垣から女子の声がした。
「うわっ、なんだよお前……あ、草野さん?」
「静かに」
 草野さんはみつあみを二つ下げた大人しそうな見かけでありながら鋭く、早口で低くしゃべる。
 この女子は同じクラスだから知ってる。草野桃くさの ももっていう園芸部だった。
「こんなとこで何してんだよ。覗き?」
「そんなところ」
 それはダメだろ。
 陸上部のテリトリーでそんなことは許さない、俺が。
 ていうか、こんなところで何を覗く必要があるんだ?
 俺はちょっと興味が出てきて、草野さんの隣におなじように屈みこんだ。
「何見てんだよ」
「猫」
「ネコ?」
 ちょっとした草原の生垣。生垣ともはや一体化しているかのようなフェンス。その向こうを草野さんは見ているらしい。
 猫だって?
 フェンスの向こう側は、園芸部のテリトリーのビオトープとやらが広がっている。小さな人工池と色とりどりの花、実を成らす木なんかが生い茂っていて、野鳥の為の巣箱が設置してあったりする。
「しーぃっ……見て、いたよ。お母さん猫が仔猫の世話をしてるの。心配だから見に来たんだ」
「うわ、本当にちっこいな……」
 フェンス越しなのがもどかしいけど、これがあるからこそ猫たちは俺達に見られてもそこにいてくれるんだろうな。なんとなく、少年団でバットを振ってた頃の、ネット越しに心配そうな顔をしていた母さんを思い出した。
 初めに見えたのは母親の猫だったが、そのミニチュアかと思う大きさの何とも頼りないくったりした毛玉がもそもそしてるのが把握できるようになった。それが仔猫だ。母親の猫と同じ毛皮だったり違う模様だったり。小さな毛玉は四匹いるみたい。
「誰かエサあげてんのか」
「わかんないけど……耳がカットされてないし、赤ちゃんも産んでるってことは、この辺りにやって来たばかりの女の子なんじゃないかな……」
「耳がカット!?」
 大声を出した俺に、また草野に静かにしろというじろりとした視線をもらってしまった。
「ゴメン……」
「猫たちが不本意に妊娠して野良猫が増えすぎないように、地域でTNRをやっていたりするの。TNRっていうのは野良猫に不妊手術すること。そうすれば、かわいそうな猫が減るし、猫たちも健康寿命が延びたり、人間の生活も野良猫と寄り添いやすくなる。それでTNRされた野良猫は区別しやすいように、耳を桜の花びら見たいな形にちょっとだけカットされて元の場所に戻されるの」
「へえ。知らなかった」
 俺が夏の大会で走る高い太陽の下の焼けつくようなレーンを想像している近くで、そんな小さな営みが粛々と行われていることに驚いた。俺はギラギラした太陽の下で惜しむ汗など無く力の限りを尽くすことしか考えていなかった。でも目の前の生まれたばかりの目の開かない仔猫たちは、土地勘のない母猫だけを頼りに俺たちと同じ太陽の下で生き抜かなければならない。それは最後のベルを聞きながら乾きそうな息を継ぎ足して全力疾走する、あの瞬間よりもキツイ事のように思えた。気が遠くなってしまう。
「園芸部が世話してんのか?」
「んなわけないでしょ。先生に追い出されるよ」
「え!? 大丈夫なのか、あの猫たちはこのままで」
「さあ……誰かがあのお母さん猫を捨てたのか、詳しいことはわからないけど私たちが目を離したそのあとも、あの子たちは懸命に生きるしかないと思うよ。地域猫のコミュニティにうまく加われればごはんが食べれるかもしれないね」
「でもさ、仔猫って大きな猫が食ってるもん食えるのか? あんなにちっこいんだぞ?」
「仔猫は大人猫が食べるカリカリなんかはまだ食べれないと思うよ。本当ならお母さんからひと時も離れず、おっぱいをもらえる安心できる環境が好ましいんだろうけど」
「やっぱそうだよな……」
 俺は草原から立ち上がった。ふくらはぎにちくちくした感触が増える。
「ちょっと……! 猫が怖がるよ」
「俺、あの猫たち連れて帰るよ。これから暑い夏が来るんだ。死なせたくない」
「本気?」
「もちろん。草野さん、怖がらせずにつれて帰れる方法、教えてくれ」

 早く起き過ぎたのは、良かったのかもしれない。
 草野さんに指示されて、急いで自宅からタオルや猫が入っても丈夫そうなカゴなんかをかき集めて、さっきの場所へとんぼ返りした。ずっと走って往復の移動だったけど、そんなの腕の中の温かな重さの前では何とも思わない。競技中も猫を抱えて走れるんだったらいくらでも走れそうなくらいだ。と、俺はタオルを敷いた段ボールの中にいる小さな仔猫たちを見てふくく、と笑いを漏らした。
 草野さんはなぜか持ち歩いているという猫用のペースト状おやつを母親猫に与えている。草野さんは嬉しそうだった。
「ずっと心配してたんだよね。知らない場所で大切なものを取りこぼさないように生きていくってしんどいもん。よかったねぇハナピン、美味しいかい?」
「ハナピン?」
「あ、私が勝手に呼んでた名前。ほら、この子のお鼻ピンク色だから」
「略してハナピンね」
「そう」
 ハナピンはおおきな目を細くしておやつをちゃむちゃむと食べていた。
 今日からは俺がハナピンの幸せの守護者になる。
 ハナピンは人間にはわからないように笑っているのかもしれない。でもやっぱり俺にはわからないから、もっとハナピンのことを知って行かないとな。
 ひり出したおやつもなくなってしまい、少しだけハナピンは落ち着いた様子に見えた。
「じゃあ遅刻しないように、気を付けてね」
「おう、まかせとけ。遅刻してもハナピンと子供たちは無事に連れて帰る」
 話聞いてたか、と草野さんは笑っていた。
 教科書やらが入ってる学校鞄は草野さんに教室まで託し、俺は再度自宅までの道を行く。
「これからよろしくな、ハナピン。一緒に暑い夏を駆け抜けようぜ」
 ロードワーク用のシューズはやわらかくコンクリートに着地できる。猫の肉球もそういうものらしい。
 急ぐ必要のある時間だけど、それでもこの時間だけは彼女たちのために俺は使いたい。
 ハナピンはカゴの中でスフィンクスのように、俺と同じ道の先を見ているようだった。
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