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火葬場
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7月の空。
山の向こうには大きな入道雲が聳えていて、あと数時間もすれば、この畔の稲荷神社や赤いめがね橋、そして、星の里東京斎場一帯も激しい雨に見舞われるだろう。庄五郎はそんなことを考えながら、待合室から中庭を眺めていました。
ベンチでは、みたらしと雪之丞がうな垂れています。
気がかりでも、声をかけたりはしませんでした。
何故なら、人間社会とはそんな類のものだからです。
手元のアイスコーヒーの氷はすっかり丸みを帯びて、長時間放ったらかしにされたせいで、グラスにあいまいな層をつくっています。
意味もなく、役目を果たせないままのストローを、隣のマルグリーデがそっと抜き取ると、庄五郎はやっと気が付いて。
「あ、勿体ないね、せっかくだから頂こう」
「立派ですよ、あのふたりも子供達も、そしてみんなも・・・」
「うん。そうだね」
「時間は・・・不思議ですね。私も人間になって、初めて気にするようになりましたけど、これっていけないことかしら?」
「いやあ、自然ですよ」
「そうかしら?」
「そうですよ」
庄五郎は、味気のないアイスコーヒーを飲みながら、外から聞こえるセミの声に耳を傾けて言いました。
「生きているんだね・・・」
「はい?」
「セミだよ」
「ええ、そうですね・・・」
「どうしてかな、火葬場に来るといつも思うんだがね、夏が似合うと思わないかい?」
「・・・生と死が、同時進行している季節・・・昔、そう言ってましたね」
「うん、理不尽だけどね」
「擬人の死は、モノが壊れたのと一緒、私たちは人にして人にあらず・・・でしたっけ?」
庄五郎は表情を変えずに。
「それにも限界はあるね」
と言うと、ほっと息をついてカツラを外しました。
つるつるの頭は、LED蛍光灯の灯りを見事に反射して、神々しいまでに輝いています。
驚きの声をあげるマルグリーデをからかうように、庄五郎は頭をかきながらおどけて見せて。
「いつからだろうね、こんなに外面ばかりを気にするようになったのは」
そう言って笑う庄五郎に、マルグリーデは寄り添いながら微笑みました。その心には、微かな動揺と絶対的な安らぎとが混在していました。長年連れ添った亭主の変わりようと、終縁を共に迎えられる信頼関係がそうさせていたのです。
出逢った頃の庄五郎は、この世の全てのモノは金銭で解決出来ると思っていて、信用や愛情や、尊敬や従属も同じだと考えていました。擬人のなれの果てとは悲しき境遇で、親から子へと受け継がれた思想には、長年受けた差別や蔑視が根底に流れていたのです。
幸いなのは、庄五郎は純粋で競争が嫌いだったこと。
当時、代償取締役として経営していた輸入販売会社の運営には一切口出しをせず、その結果、外資系に乗っ取られても知らん顔をしていました。
多額の負債を抱えても、綾野姫実篤家の財力で丸く収めるやり口に、当時の室内猫だったマルグリーデはやきもきしていました。
産まれながらにして、ヒトの形をした擬人のなれの果て庄五郎。
そして、猫から人間に姿を変えた擬人、マルグリーデ。
そんなふたりの恋愛は、意外にも順風満帆に育まれました。
とりわけ庄五郎は聞き分けが良く、飼い猫だったマルグリーデの提案をすんなりと受け入れて、翔也とりりといった子宝にも恵まれたのです。
それまで伝統として受け継がれた、綾野姫実篤家の家政婦機動部隊を縮小し、最終的には解散に追いやって、ビジネスとして構築された主婦業の報酬を辞退する代わりに、最新鋭の調理家電を配備して、時間の有効活用を徹底させたりと、マルグリーデの改革はたちまちの内にご近所マダム界に拡散されました。
真似をして成功する者、失敗する者と、柳ねこ町3丁目のアダム世論は2極化が進み、小規模な小競り合いも起こりました。
ハウスメイカーパルチザン等と揶揄されても、マルグリーデは気にしませんでした。
普通の家族になりたかったからです。
翔也が小学校で描いた作文が、たいそうな賞を獲得した日の夜、お祝いにと称して、家族みんなでお風呂に入ると、マルグリーデの胸に熱いものが込み上げました。
「そんなに嬉しいの?」
そう言いながら顔を覗き込む幼い翔也に。
「うん。とっても」
と、答えたマルグリーデは、子供たちが寝静まると、庄五郎にほんとうのことをうち明けました。
飼い猫から人間に姿を変えたのは、KGB・第7局課長・ステファミング・ポチョムキンからの指示で、自分は日本に送り込まれた、ロシアの産業スパイ・キャットテイルのメンバー。
ところが、綾乃姫実篤家で暮らす間に、庄五郎に本気で恋をして、屋根裏で定期的に会っていたポチョムキン (この時、ポチョムキンは猫に姿を変えていたので、マルグリーでも猫になっていた訳だが、テンシキの儀を司るロシア担当の司祭はネズミではなく人間として出向していた為に難を逃れた) を引っ掻いて蹴飛ばして、落っことしたのがプーチン大統領の逆鱗に触れたことで、ロシアから国外追放を受けてしまった恐ろしい過去と、捨て猫だった遠い日の想い出・・・そんなたくさんの言葉を投げかけながら庄五郎の目を見ると、穏やかな海原に自分自身という小舟が浮かんでいるように思えて、マルグリーデはわっと声をあげて泣いてしまったのでした。
あれから四半世紀の時間が流れています。
隣の庄五郎の横顔は、一大決心を胸に秘めた逞しさに溢れて、つるつるの頭はキスをしたくなる程にチャーミングでした。
ふと後ろを振り返ると、翔也とりりが立っていて、すっかり若くなくなった両親を優しく見守ってくれていました。
「いらっしゃい」
そう言って笑うマルグリーデは、外に立ち上る真っ白な煙を眺めながら続けました。
「とても綺麗な空なの。すぅーっとね、ミキちゃんも虹の橋を渡って行けると思うの。見届けてあげなくちゃね、ミキちゃんだって一生懸命だったと思うから。だから、きっと、ずっと、もっと・・・大丈夫だから」
山の向こうには大きな入道雲が聳えていて、あと数時間もすれば、この畔の稲荷神社や赤いめがね橋、そして、星の里東京斎場一帯も激しい雨に見舞われるだろう。庄五郎はそんなことを考えながら、待合室から中庭を眺めていました。
ベンチでは、みたらしと雪之丞がうな垂れています。
気がかりでも、声をかけたりはしませんでした。
何故なら、人間社会とはそんな類のものだからです。
手元のアイスコーヒーの氷はすっかり丸みを帯びて、長時間放ったらかしにされたせいで、グラスにあいまいな層をつくっています。
意味もなく、役目を果たせないままのストローを、隣のマルグリーデがそっと抜き取ると、庄五郎はやっと気が付いて。
「あ、勿体ないね、せっかくだから頂こう」
「立派ですよ、あのふたりも子供達も、そしてみんなも・・・」
「うん。そうだね」
「時間は・・・不思議ですね。私も人間になって、初めて気にするようになりましたけど、これっていけないことかしら?」
「いやあ、自然ですよ」
「そうかしら?」
「そうですよ」
庄五郎は、味気のないアイスコーヒーを飲みながら、外から聞こえるセミの声に耳を傾けて言いました。
「生きているんだね・・・」
「はい?」
「セミだよ」
「ええ、そうですね・・・」
「どうしてかな、火葬場に来るといつも思うんだがね、夏が似合うと思わないかい?」
「・・・生と死が、同時進行している季節・・・昔、そう言ってましたね」
「うん、理不尽だけどね」
「擬人の死は、モノが壊れたのと一緒、私たちは人にして人にあらず・・・でしたっけ?」
庄五郎は表情を変えずに。
「それにも限界はあるね」
と言うと、ほっと息をついてカツラを外しました。
つるつるの頭は、LED蛍光灯の灯りを見事に反射して、神々しいまでに輝いています。
驚きの声をあげるマルグリーデをからかうように、庄五郎は頭をかきながらおどけて見せて。
「いつからだろうね、こんなに外面ばかりを気にするようになったのは」
そう言って笑う庄五郎に、マルグリーデは寄り添いながら微笑みました。その心には、微かな動揺と絶対的な安らぎとが混在していました。長年連れ添った亭主の変わりようと、終縁を共に迎えられる信頼関係がそうさせていたのです。
出逢った頃の庄五郎は、この世の全てのモノは金銭で解決出来ると思っていて、信用や愛情や、尊敬や従属も同じだと考えていました。擬人のなれの果てとは悲しき境遇で、親から子へと受け継がれた思想には、長年受けた差別や蔑視が根底に流れていたのです。
幸いなのは、庄五郎は純粋で競争が嫌いだったこと。
当時、代償取締役として経営していた輸入販売会社の運営には一切口出しをせず、その結果、外資系に乗っ取られても知らん顔をしていました。
多額の負債を抱えても、綾野姫実篤家の財力で丸く収めるやり口に、当時の室内猫だったマルグリーデはやきもきしていました。
産まれながらにして、ヒトの形をした擬人のなれの果て庄五郎。
そして、猫から人間に姿を変えた擬人、マルグリーデ。
そんなふたりの恋愛は、意外にも順風満帆に育まれました。
とりわけ庄五郎は聞き分けが良く、飼い猫だったマルグリーデの提案をすんなりと受け入れて、翔也とりりといった子宝にも恵まれたのです。
それまで伝統として受け継がれた、綾野姫実篤家の家政婦機動部隊を縮小し、最終的には解散に追いやって、ビジネスとして構築された主婦業の報酬を辞退する代わりに、最新鋭の調理家電を配備して、時間の有効活用を徹底させたりと、マルグリーデの改革はたちまちの内にご近所マダム界に拡散されました。
真似をして成功する者、失敗する者と、柳ねこ町3丁目のアダム世論は2極化が進み、小規模な小競り合いも起こりました。
ハウスメイカーパルチザン等と揶揄されても、マルグリーデは気にしませんでした。
普通の家族になりたかったからです。
翔也が小学校で描いた作文が、たいそうな賞を獲得した日の夜、お祝いにと称して、家族みんなでお風呂に入ると、マルグリーデの胸に熱いものが込み上げました。
「そんなに嬉しいの?」
そう言いながら顔を覗き込む幼い翔也に。
「うん。とっても」
と、答えたマルグリーデは、子供たちが寝静まると、庄五郎にほんとうのことをうち明けました。
飼い猫から人間に姿を変えたのは、KGB・第7局課長・ステファミング・ポチョムキンからの指示で、自分は日本に送り込まれた、ロシアの産業スパイ・キャットテイルのメンバー。
ところが、綾乃姫実篤家で暮らす間に、庄五郎に本気で恋をして、屋根裏で定期的に会っていたポチョムキン (この時、ポチョムキンは猫に姿を変えていたので、マルグリーでも猫になっていた訳だが、テンシキの儀を司るロシア担当の司祭はネズミではなく人間として出向していた為に難を逃れた) を引っ掻いて蹴飛ばして、落っことしたのがプーチン大統領の逆鱗に触れたことで、ロシアから国外追放を受けてしまった恐ろしい過去と、捨て猫だった遠い日の想い出・・・そんなたくさんの言葉を投げかけながら庄五郎の目を見ると、穏やかな海原に自分自身という小舟が浮かんでいるように思えて、マルグリーデはわっと声をあげて泣いてしまったのでした。
あれから四半世紀の時間が流れています。
隣の庄五郎の横顔は、一大決心を胸に秘めた逞しさに溢れて、つるつるの頭はキスをしたくなる程にチャーミングでした。
ふと後ろを振り返ると、翔也とりりが立っていて、すっかり若くなくなった両親を優しく見守ってくれていました。
「いらっしゃい」
そう言って笑うマルグリーデは、外に立ち上る真っ白な煙を眺めながら続けました。
「とても綺麗な空なの。すぅーっとね、ミキちゃんも虹の橋を渡って行けると思うの。見届けてあげなくちゃね、ミキちゃんだって一生懸命だったと思うから。だから、きっと、ずっと、もっと・・・大丈夫だから」
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