傷女、失踪ノ先デ、

みつお真

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覚醒

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私はとうとうひきこもりになってしまった。
春の太陽も嫌いになった。
散り際の桜にも、心を奪われなくなった。
夏の刺激的な暑さも、プールの匂いも、スモッグに包まれた夜の都会も大嫌い。私の存在を無下にする人間達も、どっかに行っちゃえばいいのにと思う。
そんな私の唯一の楽しみといえば、真夜中に出かける近所のコンビニ。
社会と交わる最後の砦。
難攻不落の不夜城だ。
スマホや留守電には、ママやヤスから連絡がきていたけれど、私は完全に無視を続けた。
ただ、仕送りをお願いする時だけ、ママにはこっそりと電話をしていた……。
この頃になると、些細な感情の起伏でも傷が現れるようになった。
サスペンスドラマで人が殺さるシーンや、こどもが一生懸命にお買い物をしている番組を見ても、かすり傷みたいな跡が出来た。
凄惨な事件を伝えるニュースは、私の身体には致命傷だった。
首やおでこや顎、瞼にも傷は出来て、心と身体に激痛を伴った蛇が這いずり回っていく。
それ以来テレビは見ないし、ラジオもネットも繋がない。
音楽はジャズばかりを聴いて、昼はたっぷり眠って、夜に起きて活動する。
ふくろうみたいな毎日で、生命を守っていた。
出掛ける際は、首にスカーフを巻いてマスクを付けて、帽子を深く被って、だて眼鏡をかけた。
コンビニの若い店員は、眉間に皺を寄せながら私を見ていたけれど、ポテトチップやお茶やチョコレート、お弁当やファッション雑誌にアイスクリーム、冷凍の鍋焼きうどんやビールにカクテル、そして、焼き鳥串を大量にカゴに入れると、てんてこまいな顔をしながらレジを打ち始めて、私の外見を気にする余裕など無くなっていた。
沢山の荷物を抱えながら歩いていると、ある時、二人のお巡りさんに呼び止められた。
懐中電灯で私を照らしながら、痩せたお巡りさんがやさしく言った。

「これからお帰りですか?」

人と会話するのは久しぶりだったから、私は緊張で喉が渇いてしまって、はじめの一言がなかなか出せなかった。

「お家はこの辺なのかな?」

「……はい」

後ろで、年配のお巡りさんが無線で何やら話をしている。
私は、早くこの場を立ち去りたくて。

「あの、帰りたいんですけど……」

勇気を振り絞って発した言葉に、年配のお巡りさんが反応した。

「すみませんね、最近この辺りは痴漢の被害が多いものですから、こうして巡回しているんですよ」

「はい……」

「あの、ちょっとおねえさんの顔を確認したいんだけどね、いいかな?」

私はムッとした。
そして強い口調で言った。

「嫌です!」

年配のお巡りさんは、動じる様子もなくニコニコと続けた。

「え、どうして? この暗がりだとちょっとお顔が見えないんですよ、ちゃんとお話したいんでね、お若い女性が一人でさ、こんな夜中に歩いているなんて危なっかしいじゃない」

「それでも嫌なんです!」

「なんか理由でもあるわけ?」

包み込まれるような口調に、私は泣きだした。
今までの出来事が、フラッシュバックしていく。
元彼や、やっこやヤスのこと。
ローンの支払いや、淋しい毎日を送っている現実。
大学を辞めてしまったことまでも―。
年配のお巡りさんが言った。

「なにかあるんならさ、お話を聞くよ」

私は、マスクや帽子を取って。

「私、病気なんです…」

と、言った。
ポロポロと涙が止まらなかった。
二人のお巡りさんは、私の傷だらけの顔を見て明らかに戸惑っていた。
無線の声は聞こえなくなっていた。
私は、再び帽子を被ってマスクを付けた。
年配のお巡りさんは、パパのような口調で。

「どうしたのその傷、困ったことはない?」

「大丈夫です」

「お家はこの辺?」

私はこくりと頷いた。

「我々が送りましょう」

その言葉に反論する気はなかった。
なんとなく心細かったし、人との触れ合いも心地のいいものだったから――それに、このお巡りさんはとっても安心出来た。
いつもよりゆったりとした足取りで、私は歩き始めた。
自転車を押しながら、二人のお巡りさんもついて来てくれている。
軋んだペダルの音と足音が、風にのって頬をかすめていく。
ほんのりとした綿菓子みたいな感触、

「もう秋なんだ」

季節を感じた喜びと、たった今、出来たばかりの左肩の傷の痛み。
そして透き通る夜空の下、私の気持ちは穏やかだった。
お巡りさんは、病気のことを色々と聞いてくれた。
傷の話を聞いてもらったのは、初めてのような気がした。
お医者さんには話したのだけど、あの時と違って、お巡りさんは真剣に受け止めてくれている。
そんな気がする。

「僕にもあなたと同じくらいの娘がいてね、なんか気になっちゃったんだよ」

「そうなんですか?」

「うん、最近は口も聞いてくんないけどな」

年配のお巡りさんは笑った。
若いお巡りさんも、はにかみながら笑っている。
だから、私も笑った。
マンションの下まで来て、私は深々と頭を下げた。

「ありがとうございました」

年配のお巡りさんは。

「おお、ここかここか!」

と、言いながら私に名刺を手渡した。

「なにか困ったら、いつでも連絡してきてください」

その言葉に頷いて、私はエレベーターに乗った。
凹みっぱなしだった私の心のふうせんは、ちょっとだけ膨らんだようだ。
翌日には求人情報誌を買って、ついでに真っ赤な自転車も買った。
籐のかごのついた可愛い自転車―。
日差しの暖かな日を選んで、私はサイクリングに出掛けるようにもなった。
住み慣れた街が、私の両隣をすり抜けて行く。
タートルネックで首元を隠して、だて眼鏡とマスクで傷は隠しているけれど、清々しい開放感とそよ風は気持ちがよかった。
公園の自販機で買ったミルクティーを飲む。
お茶が並んでいなかったことに不満を抱きながら―。
イチョウの木々が黄色く染まった広場は誰もいなくて、錆付いたブランコがちいさく揺れていた。
この時期は風も強い。
冬の匂いが私をくすぐる。
陽のあたるベンチに腰掛けて、ぼんやりと空を見上げる。
背もたれに身体を預けて、私は思い切り仰け反った。
高すぎる空は、いくら手を伸ばしてみても届かなくて―私は、大好きな恋愛小説の一文を思い出していた。
何かを掴もうと、必死にもがく私の手。
その手は虚しく空を切るばかりで、役立たずのかわいい出来損ない。
今の自分とおんなじ……。
また嫌な気持ちになるのがたまらなかったから、私は立ち上がって空気を思いっきり吸い込んだ。
鼻の奥を、ツンとした空気が刺激する。
草木の匂いと、都会の香りが脳を目覚めさせてくれる。
やっこたち、どうしているのかな?
余計な感情まで覚醒させる素敵な午後。
左ふくらはぎに電流が走る。
新たな傷に。慣れっこになった私の現実。

「バカみたい……」

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