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第九夜 守宮
第3話 隠れ里を夢見た一族
しおりを挟む隠れ里──というより楽園を求めたらしい。
信一郎は蔵の資料の天日干しを手伝いながら、目についた資料をサッと流し読みして、幸典の曾祖父がやろうとしていたことを探ってみた。
他にも気になる資料があれば読んだり、後で貸してもらうつもりでいた。
そういったもののチェックを欠かさずに調べてみる。
神仙術、仙人の修行法、不老長生、桃源郷、胎息術、仙界……。
楽園で長生きしたい、そんな願望が見え隠れするラインナップだった。
信一郎が読んだこともない古書を始め、奇書や珍書を集めるのが趣味な大金教授の書庫でもお目に掛かったことのない稀覯書まである。
後ほど了解を得てからコピーか写真だけでも撮らせてもらおう。民俗学者としてのワクワクが止まらない。もっと蔵を漁りたくなってくる。
3つの蔵は入り口をどれも入り口を全開にしている。
格子付きの窓も開けて、換気も行っていた。
しかし──屋敷の奥にある蔵はまったくの手付かずだった。
あそこにもお宝な資料が……信一郎が固唾を呑んで期待していると、幸典がそれを察したのか笑いながら注意してきた。
「奥にある蔵は開かないぞ。開かずの蔵ってやつさ」
「開かずの……何か謂われでもあるのかい?」
開かずの部屋は曰く付きの場合が多い。
そういう怪異譚にも事欠かないので好奇心が湧いた。
「おまえの望むような怪談話はないよ。単にその蔵を開ける鍵がないだけさ。祖父さんが持ってたはずなんだが……どこにもなくてな」
「遺品管理はしっかりしないとダメだろ。そうだ、昨今こういった開かずの扉を開けてくれるTV番組が……」
「断る。そういうのが嫌いなのは知ってるだろ」
学生時代のノリで持ち掛けてみたのだが、幸典は乗らなかった。
この男、信一郎に輪を掛けて真面目なのところがある。
「大体、そんなTVに出たがるミーハーがこんな山奥に引き籠もらんよ」
「それに──幸典は自分の領域を荒らされることを好まない」
よくわかってるじゃないか、と幸典は否定せずに認めた。
「そりゃ大学時代からそういうところがあったからな、おまえは……」
信一郎は残念そうにぼやいて済ませることにした。
天日干しを進めている古書だけでも膨大な数だ。読んでみたい資料も指折り数えて足らないくらいだ。まずはこちらを賞味させてもらおう。
……いずれ教授や先輩を連れてこよう。
あの2人なら「幸典のところに見たこともない民俗学的資料がわんさかある」と言えば、取るものも取りあえず駆けつけるに違いない。
先輩なら開かずの扉でもこじ開けられる。
彼の『地上最強の民俗学者』という触れ込みは伊達ではないのだ。
「なんせ指先ひとつでダウンどころか、山を割って谷にしたなんて噂されるくらいの豪傑だからなぁ……あの人、本当に人類なのか?」
惑星ベジータ出身、と言われても信じられる。
学生時代に戻った感覚で幼稚な考えを膨らませながらも、1人の民俗学者として目の前に広がる古書の群れには心躍らされていた。
あれもこれも気に掛かる──熟読したい。
そんな欲求を抑えて作業をしていると、妙なことに気付いた。
「なにこれ……赤ちゃんの手形?」
資料のあちこちに、小さな手形がついているのだ。
指の配置や掌の形からして、紛れもなく人間のものである。
しかし、あまりにも小さい。
赤ん坊くらいか、大きくても子供のものだ。
そういった小さな手形が古本にいくつもペタペタと押し当てられていた。子供が遊び半分でつけたように見えなくもないが、手形の位置や指紋の場所から考慮すると読んでいたとしか思えない。
「これは一体……?」
よく調べようと手を伸ばしかけたところに声が飛んできた。
「改築の見積もり終わりましたー」
鳴子が見積もり資料を束ねたファイルを胸に抱き、もう片方の手をブンブン振り回して戻ってきた。小走りにやってくる彼女を幸典とともに迎える。
「お疲れさま、鳴子ちゃん。どんな感じだった?」
信一郎が尋ねると、鳴子はファイルをめくりながら喋り出す。
「はい、おおよその目処は立ちました。あちこち老朽化が進んでいますが、造りや基礎がしっかりしているので問題なさそうですね。このまま古き良き風情を残して改築するのもありですし、もっと近代風にリフォームするのもありです」
鳴子は自分用のは別に、お客さん用の見積書も用意していた。
それを幸典に営業スマイルで手渡す。
「ひとまず、5パターンの改築例と費用を計算させていただきました。これを元に『これはやりすぎ』とか『これはいらない』とか『ここはこうして』というご要望をいただき、井戸様のお求めになる最良のリフォームを提案できればと」
「ありがとうございます。拝見させていただきます」
幸典はそれを手に取ると軽く目を通した。
その引き締まった口元が微かに緩んだのを信一郎は見逃さない。想定よりも安い額が提示されていたから安堵したように見える。
しかし、一通り確認すると不安になったのか、鳴子に重ねて尋ねた。
「……本当にこの金額でいいのかな? 思った以上に……」
「はい、勉強させていただきましたから」
鳴子の快活な返事に、幸典は「助かります」と小さく頭を下げた。
「ただ、ちょーっとネックがあって……」
鳴子はバツが悪そうに目元を伏せると、どう説明したものかと躊躇う素振りを見せながら人差し指でこめかみをポリポリと書いた。
幸典はもう一度見積書を流し読みして、鳴子の態度を察したらしい。
「……井戸、ですかね」
「……井戸、なんです」
苦笑する幸典が自分の姓を告げると、鳴子も苦笑いで返すしかない。
幸典は「屋敷にある井戸を全て埋めてほしい」と頼んでいた。
しかし、その費用はまだ見積もられていないようだ。
井戸端会議ではないが、3人は一番大きな井戸の近くで話し合う。
「井戸を埋めるのは色んな意味で大変なんですよね。ひとつ埋めるだけでも難色を示す業者は多いんです。職人さんたちにも怖がられちゃうし」
「嫌がるのは手間が掛かると? しかし、怖がるというのは……?」
不思議そうな幸典に信一郎が説明する。
「井戸を掘る時はあまり取り沙汰されないが、埋めるとなると験を担ぐことが多いんだ。疎かに埋めたりすると祟られるなんて話はごまんとある」
彼はそういった方面にあまり詳しくない。
幸典は民俗学でも習俗などを熱心に研究したタイプ。
一方、信一郎は土俗信仰や妖怪を専門にしたタイプ。
同じ民俗学の権威に学んでも、傾向がやや異なるのだ。
井戸にまつわる奇談は少なくないが、その埋め方にまつわる話は現代でも枚挙に暇はなく、時として怪談みたいに扱われることもある。
信一郎は井戸を覗き込みながら語る。
「井戸を埋める時は、井戸の神様のために空気穴を用意すること。これは竹の節をくりぬいて筒状にしたものが使われるそうだ。そして、埋める前には井戸へ御神酒を注いで埋めることを神様に申し上げ、梅と葦を一緒に埋めたりもする」
「御神酒や断りを入れるのは礼儀として……梅と葦というのは?」
何かのお呪いか? と幸典の着眼点はいいところを突いていた。
「そう、言葉遊びを絡めたお呪いだな」
梅と葦──うめとよし──うめてよし──埋めて良し。
語呂合わせから来る呪いの一種である。
「それはまあ験担ぎですよね。本質的には地鎮祭みたいなものです」
話している信一郎の横に鳴子がヒョイッと並び、井戸の縁に手を掛けると身を乗り出すように覗き込んだ。思わず抱き留めそうになってしまう。
「職人堅気な作業員さんも多いんで、そういうのも蔑ろにはできませんけど、業者的には現実的な被害の心配もあるんですよね」
子供みたいな鳴子だが、その説明内容は本職だった。
「井戸は地中の水脈を掘り当て、そこから水を汲み上げます。なので、下手に埋めちゃうとその水脈まで塞いでしまうことがあり、それが他の井戸や河川へ悪影響を及ぼす恐れが無きにしも非ずなんすよねー」
だんだん営業トークが崩れて地が出てきた。
しかし、そこに目くじらを立てるほど幸典はうるさくない。
「……つまり、ウチの井戸を埋めてしまうと水の流れが途絶えてしまい、たとえばここより下にある井戸が涸れてしまう可能性があると?」
「はい、オフコースっす」
あくまでも可能性っすけどね、と鳴子は繰り返した。
「井戸を埋めたって水脈はビクともしないことのが多いんすけど、まれにそういうケースが発生するんで、そうなると二次三次の被害が出まくるからちょいと慎重にならざるを得ないんすよねー。業者としては」
怖い物知らずの子供がするように、ピョンピョン跳ねながら井戸を覗き込む鳴子だが、傍にいる信一郎は落ちそうで気が気がじゃない。
すると、鳴子は井戸から少し離れて屋敷の裏手を指差した。
「そういう観測機器も持ってきてたんで調べてみたんですけど……」
言い訳みたいな前置き──これは嘘だ。
鳴子も『家鳴』という立派な魔道師。触っただけで健康診断するみたいに家屋の状況を手に取るように把握する異能の持ち主だ。
その能力を応用して、辺り一帯の地質を調べたらしい。
「こちらのお屋敷がある山よりもずっと奥。深山幽谷と呼びたくなるような山奥に水源があって、そこから流れてきた水脈がこの山に溜まってるみたいッス」
「この山に水が溜まってる?」
信一郎は貯水タンクを想像してしまった。
「そうっす。この御山、丸っこいんで貯水タンクみたいっすよね」
「……まんまだった」
調べてきた鳴子自身、そんな感想を抱いたらしい。
「ですが、この山と深山幽谷の間であちこち土砂崩れが起きているみたいで、水脈が塞がっているっぽいんですよね。水こそ流れていますけど」
まだ井戸に溜まるくらいの水量こそ保てているが、水脈という通路が潰れかけているので、いずれ枯れるかも知れないという。
「土砂崩れ……そういえば、あったかもな」
「思い当たることでもあるのか?」
信一郎が訊くと幸典は目線を中空に漂わせて思い出す。
「ここに越してきてすぐ、夏になったばかりの頃だ。ほら、全国的に大雨が降ったことがあったろ。ここいらも酷い土砂降りでな」
真夜中に大きな地鳴りがあったらしい。
しかし、ネットやテレビでは地震速報のニュースが流れず、調べてもこの地域はおろか日本のどこでも地震は起きていなかった。
「……思い返してみると、それが土砂崩れだったんじゃないかな」
「多分、それっすね」
鳴子は一も二もなく断定した。
「かなり広範囲が地滑りして、山奥のあちこち連鎖的に崩れているみたいっすね。それが水脈の通路を塞いでいると思われるっす。まあ、幸いにも水を通す土や砂で塞がれているだけなので、水の流れは断たれてないみたいっすね」
「なんにせよ、これらの井戸はもう使いませんからね」
しっかり埋めてほしい──それが幸典からの頼みだった。
使わない井戸の底でボウフラなどの虫が湧いたり、先の山崩れではないが井戸の周辺から地盤沈下でもしたら大事だ。
諸々の心配から、幸典はいくつもある井戸を埋めたいらしい。
「そうですね。このお屋敷には水道に使っている近代式のポンプ井戸がちゃんとありますし、あれらの井戸は無用の長物っすよね」
「あのポンプ井戸は親父が遺してくれたものでね」
おかげで水道代に関してはタダだ、と聞いた覚えがある。
「金に糸目はつけない……と見栄を張れませんが、ちゃんとお支払いします。手間が掛かるかも知れませんが、お願いできませんか?」
「OKっすよ。ベテランを見繕わせていただくっす」
幸典が改めて願い出ると、鳴子は二つ返事で請け負った。
「ちゃんと専門の職人さんを手配すれば、験担ぎの作法も含めて抜かりなくやってくれちゃいますからね。どうぞお任せあれ」
鳴子は信一郎に振り向いて確認を求めてきた。
「先生、ご学友さんとまだ旧交を温めていきますよね?」
質問の意図を察した信一郎は予定を交えて答える。
「夕方過ぎてもお邪魔するつもりだったから大丈夫だよ」
わかりました、と鳴子は自分の車へと歩いて行く。
「じゃあ念のため、もうちょっと周辺地域を調べてくるっす。麓の町で井戸を使っているところがないかとか、水脈の繋がり方とか、ここら辺の地質にあった埋める素材をどうするかとか……あちこち見て回ってきますね」
それだけ早口で捲し立てると車に飛び乗り、「行ってきま~す!」と窓から手を振って山を下りていった。行動力の塊みたいな女の子だ。
「日が暮れた頃には戻ってくるッスぅ~~~……」
走り去る車から、鳴子の甲高い声が尾を引くように聞こえてきた。
「……こういう時って『日が暮れる前』じゃない普通?」
手を振りながら見送る信一郎はツッコんでしまった。
~~~~~~~~~~~~
「あの山の地主さん──井戸って一族についてわかりやしたぜ」
幽谷響はスマホを僧衣の袂に収める。
車内で失礼とは思ったものの、兵は迅速を尊ぶという兵法に則って知人の情報通に連絡を取り、この辺りの魔道師絡みの案件を電話で聞き出したところだ。
車の後部座席、横に座っていた氷室は閉じていた目を薄く開けた。
「情報屋も飼っているのか? 本当に用意周到だな」
「情報屋なんて大層なものを飼える身分じゃござんせんよ。持ちつ持たれつ、知りたいことがあったら教え合う知人ってところでさぁ」
地元警察の覆面パトカーに乗車する幽谷響と氷室。
先ほどの刑事が案内役と運転手を買って出てくれたので、一家4人が惨殺されたという殺人現場の舞台となった民家へ向かっているところだ。
幽谷響が協力者とスマホで情報のやり取りをする横で、氷室は腕を組んで足を組んで目を閉じて、眠るように静かにしていた。
「それで──井戸とかいう山の地主については?」
幽谷響の会話に聞き耳を立てていたかと思えば、本当にうたた寝でもしていたらしく説明を求めてきた。それとも、改めて口頭で問い質したいのか?
普段なら「お聞きになってたのでは?」としたり顔で返すところ。
しかし、相手は氷の女王もかくやという美女。
後輩の周介からも「ナメた態度を取ると骨の髄まで氷漬けにされますよ」と忠告をもらっていたので、ここは丁寧に応対させてもらおう。
「へい、井戸一族というのはですね……」
やはり──魔道に関わりのある一族だった。
「……とはいうものの号名を得るほど熱心だったわけじゃなく、魔道の力を借りて悲願を叶えようとしていた、一風変わった血族の集まりだったそうでやす」
「一族の悲願、というのは?」
「それがなんでも……『楽園を作る』ことだそうで」
明治前後──井戸一族はあの山を買い取って移住してきた。
周囲には「新天地を作る」とか「ここを楽園とする」などと息巻いていたというが、魔道的には桃源郷や仙境と言い表すべきだろう。
「とにかく、彼らは自分たちだけの世界を作りたかったんだそうで」
「理想郷ねぇ……くだらない夢を見たものだ」
どこだろうと住めば都──それが人間ってものさ。
「今いるところに不満があるというなら、逃げるも良しで変えるも良しだ。それもせずに“楽”しかない場へ逃げ込もうとする、その根性が気に入らない」
氷の女王は皮肉も冷たい。
だが、幽谷響も氷室の意見には全面的に賛成できた。
「どこぞの名言に『逃げた先に楽園などありはしない』なんてのがありやしたが、楽園ってのは夢幻に謳うもんでございやすからねぇ……」
本物を求めてはいけない──作ろうとするなど以ての外。
「……ま、だからこそ魔道の力を借りてでも成し遂げようとしたって魂胆が見え隠れしてやすがねぇ。実際『隠里』なんて号名の魔道師もおりやすし」
「どいつもこいつも度し難いな……まったく」
苛立ちを紛らわすためなのか、氷室は煙草ケースを取り出すと細い煙草を取り出して口にくわえた。一段落するまで火をつけないのはお約束である。
「それで、その井戸一族とやらは御山でどうしてたんだい?」
「へい、魔道師界隈でも昔からそこそこ噂に上っていたようでしてね。楽園を作るために魔道を学びたがる一族がいるってことで……」
自分たちのためだけに楽園を作る。
そう豪語しようとも、人間である以上は人と人との繋がりなくして生きてはいけない。これはどんなに人嫌いの魔道師だろうと割けて通れない道だ。
「彼らは深山幽谷に通じる山を買い、その中腹を拓いて生活を始めたそうで」
なるべく自給自足の生活をしつつ、山からもっと深い山奥へと分け入り、楽園を作るための下準備を行っていたという。ただし、その詳細は不明。
「自給自足の生活じゃあどうしても足りねぇ物資は麓の町……つまりここいらまで買いに降りてきていたそうでございやすな」
「物資はどうやって調達してたんだ、お金なぞ持っていまい?」
氷室の疑問は当然だが、答えは簡単だった。
「そもそも、井戸一族ってのはどうも山暮らしの長い……山の民とか言うんでしたかね。そんな気質なので、山の幸を集めるのはお手の物だったそうでやす」
山菜、薬草、鳥獣の肉に皮──麓の民が珍重しそうな収穫物を麓に売りに来て、お金を手に入れては必要物資を買っていったらしい。
「そういう話──聞いたことありますわ」
運転に専念していた地元刑事が、会話の切れ目で口を挟んできた。
彼の方がよっぽど聞き耳を立てていたらしい。
「御山の連中が降りてくる……と、月一ぐらいで噂になっておりました。彼らしか持ってこない山の珍品もあったんで重宝されたとかどうとか……」
「裏付けも取れやしたな」
幽谷響が氷室の顔を窺うが、彼女は別のことが気になったらしい。
「井戸の一族が買っていった必要物資というのは?」
「塩などの調味料、金属製品やら衣類やら……山じゃ自給自足しにくいものだったようでございやすね。それと、古本屋が贔屓だったそうで」
「古本? 山中生活での数少ない娯楽かな?」
さて、本の中身までは……と幽谷響は言葉を濁した。
古本屋で何らかの文献を漁っていたことは間違いないのだが、その種類に関してまでは伝わっていなかった。とはいえ、楽園作りを夢見た連中の求める本など大抵は想像がつく。恐らく、参考資料を求めたのだろう。
桃源郷、理想郷、隠れ里……そういった類の書籍に違いあるまい。
確証は得られていないので説明は差し控えさせてもらった。
あまり仮説や推測で話を進めたくない、幽谷響の性分みたいなものだ。
「楽園を求めながらも俗世との縁は断ちきれなかったようで……」
さもありなん、と氷室は細い煙草を揺らす。
「俗世から離れるという意味では、我ら魔道師と相通ずるものがある。しかし、我らとて人間に紛れて暮らす身……人の縁とは深いものだよ」
人の縁──という氷室の言葉に嫌な予感を覚えた。
「その井戸一族なんですがね、どうも……」
井戸一族について教えてくれた情報通が、気になることを口にしたのだ。
『井戸一族は魔道に見切りをつけようとしていたと聞いている。魔道の力では彼らの求める楽園を作れそうにないからだ。だから、彼らはまったく別の方法で楽園へのアプローチを始めたらしい。それは…………』
それは──道を踏み外す悪手だった。
「井戸一族が……なんだい?」
「いえ、何でもありやせん──まだ憶測でございやす」
憶測は語りたくない。幽谷響は目を伏せて態度で示した。
代わりに、思わせ振りな話題を振っておく。
「本当に俗世を離れたいんであれば、正真正銘の理想郷を求めるのであれば、もっと思いきりをつけなきゃならんかったんでやしょうよ」
それこそ──人間を辞める覚悟で──。
「そうやってバケモノになった魔道師もおりやすし、外道に墜ちた人間もいやすからね……まあ、井戸一族はそうなる前に途絶えちまいやしたがね」
「途絶えた? 後が続かなかったのか?」
「いえね、辺鄙なところで一族だけで暮らしてたから数が減ってきたってのもあるのでしょうが……数十年くらい前に本家の長男が山から下りて都会に出て行っちまったそうで。そっちは行方知れずとのことでさ」
いつしか御山から下りてくる者も減ったという。
「少なからず取引のあった業者が気になって人をやって訪ねてみたところ、本家はおろか一族の屋敷までもぬけの空になっていたそうで……」
人っ子1人──いなかったそうだ。
飛ぶ鳥跡を濁さず、という言葉を思い出さずにはいられないくらい、整然と片付けられた家々があったという。
「争ったりした形跡はなかったわけだな?」
氷室も警察官のはしくれ、事件性を疑ったらしい。
疑り深い幽谷響とて同じこと。情報源から子細に至るまで聞き出した。
「津山30人殺しじゃありやせんが、殺人鬼が出たにしろ一族郎党で殺し合ったにしろ、そういう修羅場の痕跡ってのは生中に消せるもんじゃございやせん。素人目だって『なんかあったんじゃね?』って気付きまさぁ」
だが、井戸一族の暮らした家々にはそれがなかったという。
忽然と姿を消してしまったらしい。
氷室は赤い唇で煙草を弄びながら疑問点を連ねていく。
「閉塞的な環境を嫌った長男が出て行ったのはわかるとして……本家や一族の家がもぬけの空とはどういうことだ? 親族は全員亡くなったのか? 葬式は? 檀家制度はともかく、公的な死亡届は出さざるを得まい?」
「そこら辺はもうちょい調べにゃ難しいでやすねぇ……」
なんにせよ、と幽谷響は車窓を覗いた。
この位置からでも井戸一族が暮らしたという御山は見えるし、山の中腹に開けた場所があり、数軒の家屋敷が並んでいることも窺える。
かつて、そこで楽園を夢見た者たちを想像しながら幽谷響は言った。
「皆さん楽園に旅立った、とオチがつきゃあ楽なんでやすがね。さもなくば、もっと山奥に分け入って行方知れずに……そっちのがリアルかも知れやせんな」
違いない、と氷室は相槌を打って笑った。
こういうところは後輩の周介より付き合いやすそうだ。
「……しかしな幽谷響、曲がりなりにも私は公僕なんだよ。この一件を警察という大本営に折り目正しく報告書という形で提出する義務がある」
話にオチがついた程度では済まされない。
「話にオチがついたら席を立てるのは落語家だけだ。警察は一件落着するまで休みもままならんよ。そこは弁えているんだろうな?」
「無論、事の始末までお力添えいたしやすよ」
幽谷響は目付きの悪い三白眼を弓なりに曲げて、人より大きめな口で歯をむき出しにして笑うと、人差し指と親指で○を作って氷室に突き付けた。
「しつこい男は嫌われるぞ」
ちゃんと払うさ、と氷室は苦笑して後部座席にもたれかかった。
~~~~~~~~~~~~~
幽谷響は怪しい──外見からしていかがわしい。
それは自他共に認めることだ。
子供と見間違いかねない小男、身に付けるのは破れた僧衣に網代笠。全身に無数の数珠をジャラジャラと巻き付け、身の丈を越える錫杖を携える。
良くて不良坊主、下手をすれば不審者だ。
世が世なら差別用語で罵られかねない格好だという自負もある。
そんな幽谷響が警視庁特別事例対応課の警部である氷室と行動を共にしていることに、どうして県警に務める所轄の刑事は不審に思わないのか?
時折、バックミラー越しにこちらを窺っている。
だが、その視線には不思議と畏敬の念が織り込まれていた。
「……君のことは凄腕の拝み屋と触れ込んである」
氷室が愉快そうに小声で伝えてきた。
恐らく確信犯である。幽谷響もつられておかしそうに微笑んだ。
「なるほど、今回の事件はバケモノじみてやすからね」
道理で、地元の刑事からの視線に恐れと敬いが入り交じるわけだ。
氷室とともに覆面パトカーをタクシー代わりに使おうとも、その後部座席でふんぞり返ってても許されるのも道理である。こいつは楽チンでいい。
「周介にも氷室女史ほどの裁量がありゃあ良かったのに……」
「本当に杓子定規だよね、あいつ……力法を学んでいた頃からああなのか?」
左様で、と幽谷響は嘲るように唇を歪ませた。
「正義を語る青二才ってだけならまだしも、やることなすこと律儀で潔癖と来てやがるから融通が利かねえ……ま、拙僧が仕込んでやったおかげで、ちったあマシになりやしたがね」
「あれでマシになったのか……私的にはまだまだかな」
もっと──矯正してやろう。
ほくそ笑む氷室の瞳には嗜虐的なものが宿っていた。
他愛ないことを話しているうちに、覆面パトカーは件の現場へ到着した。
一家が惨殺されたという殺人現場だ。
家族の遺体はどれも先の小川で水没していた死体のように、無数の噛み傷によって激しく損傷しており、屋内はそこかしこが血塗れだったという。
しかし、この民家は水源から離れている。
先の死体が発見された小川は元より、例の“井戸家所有”の貯水タンクみたいな山からも離れていた。精々、家の前をドブが流れる側溝があるくらいだ。
犯人は水流を移動経路にしている──これは見当違いか?
まだ犯人の全体像が掴めていない。
予想だけで決めつける先走った真似は控えておくべきだろう。
幽谷響は車から降りると網代笠を被り直して、錫杖をジャランと鳴らした。
氷室は口にくわえた細い煙草に火をつけたそうにしているが、一段落しない限りはつけないという自分ルールを曲げるつもりはないようだ。
一家4人が暮らすのに適した、ありきたりの一軒家。
庭付きの一戸建てはそこそこの年季が入っており、やや寂れた風情がある。地方の片田舎にあるから尚更かも知れない。
「屋内は我々や鑑識が一通り調べましたが……酷い有り様でしたよ。まだ年若い、この家の子供たちの手足などバラバラにされ、家のあちこちに……」
その時の光景が目から離れないのか、地元の刑事はしきりに瞬きを繰り返していた。目を閉じれば瞼の裏に思い出してしまうし、目を開けていれば現場である家の外観を拝んでしまう。どちらも辛くて仕方ないようだ。
耐えかねた彼は、汗を拭くハンカチで口元を覆って俯いた。
「ここで待っていてください。私たちで見てきますから」
氷室が気遣うように短い言葉で伝えた。
人の良さそうな刑事は申し訳なさそうに頭を下げるだけだった。
まだ張られたままの“立ち入り禁止”という黄色いテープ。
それを潜って邸内の調査に入る。
玄関に入る前、庭から漂ってくる空気に幽谷響は眉を顰めた。
「最近、雨でも降りやしたか?」
「いや、ここ最近は全国的に水不足となるくらい快晴が続いている。この近辺も雨どころか夕立もなかったはずだ」
ならば、この湿気はおかしいことになる。
折からの猛暑に蒸されたような熱気となっており、もう少し冷えれば湯気でも立ちそうな湿り具合だ。庭の草木に目を遣れば露を帯びているものもある。
家の壁面や屋根もどことなくジメジメしており、所々が濡れていた。
どうにも妙だと思った幽谷響は、坊主なりの商売道具として持ち歩いていた法具の独鈷杵を取り出すと、その先端で近場の水溜まりを突いてみた。
水溜まりはわずかに糸を引いた。
「粘液……みてぇなものがこの湿り気を維持しているようでございやすね」
不用意に指で触らなくて良かった、内心ホッとする。
毒でもあったら一大事だ。信一郎がいれば解毒してくれたかも知れないが、生憎と今日はお留守である。
この警告を受けた氷室も、迂闊に水気に手を伸ばさなくなった。
「そういえば鑑識からの報告書にもあったかな。『どの死体も随分濡れていた』と……この得体の知れない粘り気が原因なのか?」
「保湿成分たっぷりなんじゃございやせんかね?」
今回の下手人は、水と縁深いことは間違いないらしい。
水気に気を払いながら玄関前まで来た幽谷響は、氷室に目配せしながらじっとりしたドアノブに手を掛けた。警戒を怠らずにそっと開ける。
屋内からあふれ出してくる、閉じ込められていた空気。
滞留していた空気は湿り気に侵されており、鼻を突くほどの生臭い悪臭になりかけていた。生乾きの洗濯物が山ほど詰め込まれているような感じだ。
そこに血生臭い死臭が混ざっているのだから溜まらない。
幽谷響も氷室も、咄嗟に手ぬぐいやハンカチで口元を覆ったくらいだ。
恐る恐る扉を開けて玄関を覗き込むと、そこもまた水浸しだった。乱された形跡がないことから、警察の鑑識が入った後に濡れたとしか思えない。
現場検証後──ここを訪れたモノがいる。
でなければ、ここまで水浸しになっているのはおかしい。故意でなければ、これほど水に濡れるはずがない。自然になったとしたら超常現象、それこそ怪奇現象で片付けるしかない。
「本当に怪奇現象だったらどうする?」
「肉に齧り付く幽霊はおりやせんよ。そんなことするのは……」
バケモノだけでさぁ、と幽谷響は氷室の冷やかしを鼻で笑った。
玄関内でも惨劇があったのか、血痕が見て取れる。
それらの血痕にも水気が染み込んだのか、丹念に舐め取られたかのように滲んでしまっていた。壁も床もしとどに濡れていた。
「犯人は現場に戻ってくる、なんて格言もありやすが……」
「この悪臭に粘ついた水……マーキング? 縄張りにでもするつもりか?」
なるほど、犯人が動物に近い存在ならそれもアリだ。
こうして現場に舞い戻ってきて、我が物顔で水浸しにしていくことだっておかしくはないし、今もこの建物内に巣食っていることさえあるだろう。
「縄張りどころじゃないかも知れやせんぜ」
幽谷響は錫杖を構えたまま、独鈷杵を投げれるように持ち直した。
この家は玄関からまっすぐ廊下が走っており、途中で階段や応接間へと繋がっている。明かり取りの窓が少なく、昼間だというのに薄暗い。
その薄暗い廊下の奥に──何かの気配が潜んでいる。
ひとつやふたつではなく複数、野良猫や野良犬の大きさではない。
あちらが動くよりも先に──氷室が動いた。
不審者だろうが不審物だろうがお構いなし、先手必勝とばかりに動き出した氷室は土足のまま廊下に一歩踏み出すと、右手を素早く振り上げた。
その手には数本の銀色に輝くナイフがあった。
装飾のないシンプルなデザイン。大きさも小振りだ。
投げナイフというより棒手裏剣みたいな形状をしている。
どこから取り出したかもわからない手業で、10本のナイフを扇状に広げたまま右腕を振るう。ナイフは過たず廊下の奥へと突き進んでいた。
それらは肉を貫く音をさせ、次いで床や壁に突き立つ音を響かせる。
小さな悲鳴めいた声が漏れると、気配の持ち主たちが波を引くように逃げていくのがわかった。途端に悪臭が薄れたような気もするぐらいだ。
「逃げられたか……しかし、手応えはあった」
悔しそうに舌打ちする氷室だが、何体かはナイフで串刺しにしたので捉えただろうという確信があった。犯人の面を拝んでやろうと邸内に踏み込む氷室に、幽谷響も注意を払いながら薄暗い廊下を進んだ。
「……残念、振り切られていた」
壁につき立った銀色のナイフ。
赤い血を滴らせてはいるものの、そこに縫い止められていたはずのモノの姿はなかった。獲物を逃がしたことに氷室は落胆している。
滴る血を見つめる幽谷響は別のことを悔やんでいた。
「こういう時、先生がいれば正体の見当がつくんでやすがね」
源信一郎──『木魂』を号する魔導師。
彼の能力は生命全般を調べるも操るも自由自在。
この残された血液から、相手の正体を知ることなど造作もない。
「今回は断られちまったからなぁ……無理にでもお願いするんでしたぜ」
「仕方ない。一応、鑑識に回してみるとしよう」
氷室は慣れた手付きで血液を採取する。
綿棒で丁寧にすくい取り、試験管みたいな容器に血を採っていく。
途中、彼女は納得いかなそうに眉を曲げた。
「しかし、得心がいかないな……手応えは間違いなくあったんだ。かなり深く刺したはずだし……ほら、これを見てごらん」
氷室は壁に刺さった投げナイフを指差した後、引っ張って見せた。
ちょっとやそっとではビクともしない。
いくら氷室が女性の腕力とはいえ、かなりの力を入れても抜けなかった。
「刺さった直後、私の能力でナイフの刃先が根を張るように仕込んである……だから、手応えがあった後、壁に縫い止めたと思ってたんだ。なのに……」
自信喪失とまでは行かないが、当てが外れて氷室は不満そうだ。
一方、幽谷響は妙なことに気付かされる。
「どうして──壁にナイフが刺さったまんまなんでやしょうかね?」
人間ならば手で引き抜き、獣だとしても身を捩って、このナイフをどうにかして引き抜いてから逃げるはずだ。
なのに、このナイフは壁に刺さったままである。
「こいつはね、自らの肉を引き裂いて逃げたんでございやすよ」
そんな逃げ方をする動物はいない──幽谷響の顔から笑みが消えた。
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