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第一夜 肉吸い
第1話 怪僧 幽谷響
しおりを挟む源信一郎は、疲れた足取りで朝靄に煙る住宅街を歩いていた。
時刻は午前五時、有り体に言えば朝帰りだ。
朝日は昇りかけているものの、どことなく薄暗い。まるで夕暮れ時のようだ。俗に夕暮れ時のことを逢魔ヶ時というが、それは夕暮れに限らない。
陰と陽の境界があやふな時は、すべて逢魔ヶ時なのだ。
信一郎は朝靄の海を流されるように歩いていく。
一睡もせずに帰ってきた挙げ句、散々に問い詰められたのだ。疲れは骨の髄まで染み渡っており、顔色も芳しくないだろう。
それでも自宅前に辿り着くと、安堵の溜め息が漏れた。
祖父の遺した──実家とは無関係の別宅である。
どんな用途で建てられたのかは定かではないが、この住宅街の外れにある和風のこぢんまりとした屋敷は、今では彼の所有する唯一の財産だ。
固定資産税はバカにならないものの、帰る家があるのは助かっていた。
信一郎は疲れた顔で玄関の鍵を開ける。
「……朝帰りたぁ先生も隅に置けやせんねえ」
玄関の隅にうずくまる黒い塊が嗄れた声で迎えた。
信一郎は驚きもせず、その名前を鬱陶しさを隠さずに呼んだ。
「君か──幽谷響」
一応、それは人間だった。
うずくまっていた身体を立たせても、さして大きくない小男だ。その微笑む顔は少年のように若々しい。ボサボサな髪がより一層それらしくしていた。
頭には薄汚れた網代笠を被り、ほつれてボロボロの真っ黒な僧衣。その首には長い数珠を何重にも回してネックレスのようにかけ、両腕にも小さい数珠をブレスレット代わりにいくつも巻いている。
怪僧──幽谷響。
こちらは知人のつもりだが、彼は信一郎を同胞と呼んではばからない。
網代笠の下から覗く眼は、猛禽類のように鋭かった。
「なんぞ厄介事でもございやしたか?」
その厄介事を見透かしているような口振りだ。
信一郎は馴れたつもりでいたが、矢張り背筋がゾッとする。
──この男の声は怖い。
嗄れているのに独特の張りがあり、老いて渋いようで若くて力がある。
どのようにも聞き取れる変幻自在の声色だ。
言い返す言葉を呑んで、信一郎は疲れた手で玄関を開けた。
「入りなよ……どうせウチを宿代わりにするつもりで来たんだろう?」
「さすがは先生、話が早い」
民俗学者──源信一郎。
それが信一郎の肩書きだ。学者と言ってもまだ駆け出し。若輩ながら大学で准教授職にある先輩のツテで非常勤講師をやっている。
そんな信一郎と幽谷響の関係は単純極まりない。
類は友を呼ぶ、それだけだ。
幽谷響が信一郎を気安く同胞扱いする理由はそこにあった。
その理由とは──人にあらざる才能と技術。
幽谷響は人知の及ばぬ術を知り、信一郎も相通じる技を受け継いでいた。
望んだものではない。ある事情から受け継いだものだ。
それが縁で幽谷響と出会い、それ以来の腐れ縁な付き合いである。そうは言ったものの、これもまた信一郎が望んだ交遊関係ではない。
幽谷響からの一方的で押し付けがましいものだった。
「いやあ、雨風防げるどころか、畳と座布団まであるなんざ極楽ですぜ」
居間に通された幽谷響は網代笠を外すと、座布団に腰を据える。
出してやったお茶には目もくれず、懐から煙草を取り出すと年季の入ったジッポライターで一服しようとした。
それに火がつく前に、信一郎は煙草を取り上げる。
「私の前では吸うなと言っただろう」
「ははっ、こいつぁ失念しておりやした」
どうせまたすぐに忘れる、もう諦めている信一郎は自分も座った。
「それで、今回はどんな用件だい?」
前置きもなく、信一郎は本題から切り出した。
幽谷響が信一郎を訪ねるのは、この家を宿代わりにするだけではない。
何らかの騒動を持ち込むつもりなのだ。
幽谷響は様々な騒動を始末する仕事を請け負う。
それらの騒動は、真っ当な手段では片付けられないものだ。
表舞台には現れない裏社会は元より、そこよりも更に深い世界で起きたゴタゴタまで請負い、どうにかこうにか始末を着けるのを生業としている。
だが、それらの騒動に幽谷響は一人で対処しない。
必ず──協力者を求めるのだ。
幽谷響の協力者はあちこちにおり、信一郎もその一人に数えられていた。
厄介事でもありやしたか? などと聞ける分際ではない。
幽谷響こそが厄介事を持ち込む張本人なのだ。
「いやあ、今回はまだいいんでやすよ」
「ん? と言うと……」
「へえ、確かに拙僧は始末をひとつ請け負っておりやすがね。その件はまだ宜しいんでさ。向こうが動いてくれねえと拙僧も動けない状況でやしてねえ」
この小さな怪僧、自分のことを『拙僧』と称する。
名前と同じくこれまた古くさい。時代がかった言い回しだ。
「……また面倒な始末なのかい?」
幽谷響がやってきたということは、信一郎の異能を頼りにしている証拠だ。
それは即ち、今回の仕事は生死に関わることなのだろう。
信一郎が受け継いだ異能は、そういう類のものだった。
「なぁに、先生が手を貸してくれりゃすぐにでも片付く始末でさあ」
幽谷響は気軽に言ってくれる。
「ですが始末を着けるべき相手が雲隠れしちまいやしてね。途中までしか足取りを追えなかったんでさ。ここよりちと手前の町までは消息が知れやしたんですがね。そっから先はとんと行方が知れねえ」
「ひょっとすると、この町に潜んでるかもしれないと……?」
「先生のいる街に逃げ込むとは、こちらとしては好都合でやすよ」
幽谷響は歯の隙間から空気を抜いて笑う。
──怪しい。
幽谷響のことだ、そうなるように誘導したのかもしれない。あるいは追い込んだ可能性だってある。この小男ならやりかねないから恐ろしい。
「じゃあ、この町で決着を着けるつもりなのか?」
「そのつもりございやす。ですから先生、お力添えを頼みやすぜ」
謝礼は弾みやすから、と幽谷響は唇の端をつり上げた。
「……疲れてるんだけどなぁ」
信一郎は隈の浮かんだ目元を撫でて、卓袱台に突っ伏した。
「そういや先生、今日はなんでまた朝帰りでやすか?」
幽谷響は不思議そうに訊いてくる。
「例の『地上最強の民俗学者』さんとやらにお付き合いでもしてやしたか?」
「いいや、先輩なら南の島でフィールドワーク中だよ」
「では、なんでまた?」
「色々あったんだよ、さっきまで……」
寝不足で充血した眼を擦り、信一郎はあくびをしてから語り出した。
~~~~~~~~~~~~~
信一郎は巻き込まれたのだ。
先輩である『地上最強の民俗学者』と謳われる准教授。彼が研究旅行で外出中のため、先輩に輪を掛けて難物の教授は信一郎をアシスタントに選んだ。
その結果──膨大な資料の整理をやらされた。
ようやく仕事が終わり、帰されたのが深夜一時を過ぎた頃。
疲れた身体で帰る途中のことである。
「ほう──通り魔を目撃したんでやすかい?」
「そう、なんの因果かね」
月のない闇夜で現場との距離もあったが、信一郎にはそれがわかった。
もがき苦しむ男性と、それに覆い被さる何者かの影。
信一郎が声を上げて駆け寄ると、何者かは気付いて路地裏へと逃げ去り、現場には力なく横たわる男性だけが取り残されていた。
すぐに救急車と警察に一報を入れ、事態は迅速に運ばれた。
男に外傷はないが酷く衰弱しており、かなり危機的状況だったらしい。
そして、信一郎は警察まで同行を願われた。
「それで朝まで事情聴取でございやすか……?」
訝しむ幽谷響より早く、信一郎がうんざりした理由を明かした。
「被害者の人がね、譫言を繰り返してるんだとさ」
「譫言?」
もう何百回目になるだろう、信一郎は自分の容姿を恨んだ。
「『女が、美しい女が、美女が……』ってね」
幽谷響は意地悪そうに微笑んだ。
「なるほど。被害者がそんな繰り言を漏らして、現場にいたのは夜目にも美しい先生だ。警察としちゃあ真っ先に疑いますわなぁ」
信一郎の二十代の青年なのだが──その容姿に由々しき問題があった。
美貌なのは間違いない。自慢じゃないがそうらしい。
切れ長だが丸みを帯びた柔らかな双眸、目立たず奥ゆかしい鼻梁、自己主張しない口元、どれを取っても控え目だが造形は整っている。
そのどれもが──異常なほど女性的なのだ。
背中に届くまで伸ばした黒髪が、女性らしさに助長させている。しかし、切るつもりはない。これは尊敬する人物に憧れて伸ばしたものだった。
稗田礼二郎先生という、その筋で有名な学者に肖っていた。
上背はそこそこあるので、普段から黒いスーツを着こなしている。これで少しは男らしく見えると思えば、男装の麗人と勘違いされる始末。
この外見のため、信一郎はいつも女性に間違われてしまうのだ。
「おかげで男だと証明しても疑われたよ」
そりゃあそうでしょう、と幽谷響は声をあげて笑った。
「いくら男だと証明しても、先生の見た目は八方から眺めたって美女に見えやすからね。被害者が『犯人は女』と言えば警察もおいそれと帰せんでしょう」
「言われるまでもないよ。ああ、腹立たしい」
「ハハハ、だったら『私は女だ』と言い張りゃあ良うございましたねぇ。先生なら自分を女だと偽るのも容易いことでしょう?」
幽谷響は意味深にそう言った。
「……そうだな。そしたら君はまだ軒先で震えていただろうな」
信一郎は釘を刺すように言い返した。
「へへっ、手厳しくなりやしたなあ。にしても」
いつの間にか手にした煙草を指で弄びつつ、幽谷響は口元に運ぶ。
「その別嬪に襲われた被害者さんってのは、何をされたんでやすかい? 外傷がねえのに危機的状況ってのもよくわからねえんでやすがねぇ」
火を着ける寸前で、信一郎はまた煙草を取り上げた。
「いや、それが私にもさっぱりでね」
そもそも不可解な点が多いらしい。被害者も一人や二人ではないとか。
警察署での取り調べ中、信一郎は少しだけ事情を聞いた。
「なんでも人体に必要不可欠な成分が極端に減少していたとか……」
まるで吸い取られたように減っていた、とも聞いた。
だとしても、それが通り魔の仕業かは定かではない。そんなの猟奇染みてる以前に人の為せる技ではない。
できるとしたら──それこそ化物だろう。
「成分が極端に減っていた……んですかい?」
幽谷響の眼光が鋭くなり、それに射抜かれた信一郎は思い出す。
「ああ、そういえば被害者の男性が妙なことを呻いていた」
「妙なこと、とは?」
駆け寄った直後──男がこう口走ったのだ。
「うん、美女がキスをしてきたとかどうとかって……」
それを聞いた途端、幽谷響は立ち上がった。
「当たりでやすよ、先生」
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