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成鶏の孵化
しおりを挟む石畳の上を小さな少女の足が駆ける。使い古された皮の靴。少し色の褪せた白い麻のワンピース。三つ編みでまとめられた深緑の髪が後ろで揺れる。少女は急いでいた。いつも練習が終われば遊びに出ていいと言われているのだが、今日はいつもより時間がかかってしまった。特別な日に限っていつも変なところでドジを踏んでしまうところがある。今日から始まるマルシェに早く行こうと決めていたのに、予定より遅くなってしまった。月に一度開かれるマルシェは、街に住む人々が広場に自分のお店を設ける催しだ。普段は好きなことをして過ごしている人たちも、この期間は必要なものを買い込んだり特別な買い物をしたりする。もちろんマルシェの期間以外でも個人で物のやり取りをすることはあるけれど、この時にしか買えないものがあるのがマルシェの特徴だ。花屋さんが取り扱う蜜蝋だったり、服屋さんが出す新作だったり。何より、今回は珍しく旅人さんが来ていると噂されていた。普段は街の外から人が来ることはない。来たとしてもこのマルシェを目当てに隣町からやってくる人が稀にいるぐらいだ。外から旅人が来るのは本当に珍しく、私にとっては初めてのことだった。街の外の人はいつも珍しいものを持ってきてくれるから一番に見に行きたかったのだけれど、この時間ではもう商品は残っていないかもしれない。そんなことを考えながら、少女は中央広場へと足を早めていた。
少女が広場に着いた頃、時間はもうお昼すぎになっていた。マルシェはまだ盛況な様で、どの店も賑わっていた。いつもは家から出てこない人もこの時期だけは楽しくお喋りをしたり、買い物をしたりしている。人並みを分けながら歩いていると、ポツリと一箇所だけ、お客さんのいない店が目についた。少女がそこを覗き込むと、見覚えのない人が店裏の在庫を確認しているのか何か作業をしている。間違いない、ここが旅人さんのお店だろう。自分以外にお客さんらしき人がいないのが気になるが、勇気を出して声をかけてみることにした。
「あ、あの!」
少し裏返った少女の声に、店主が振り返る。その人は、美しい女の人だった。腰まであるウェーブした栗色の髪。自然を思わせる綺麗な肌。紺色のワンピースに、刺繍でミモザ柄があしらわれたエプロン。そして何より、深い輝きを秘めた琥珀のような蜜色の瞳。その瞳に吸い込まれるように、少女は自分から声をかけたにもかかわらず何も言えなくなってしまった。少女がほうけている間に、女性は手を止めて少女の方へと歩みを寄せた。まだ幼い少女の目線に合わせるようにしゃがみ込んで、ゆっくりと声をかける。
「お客さん、かな?」
女性の声で意識を引き戻されたのか、少女は小さく声を漏らした。元来人付き合いもそこまで得意ではない少女は、急に恥ずかしくなりさらに小さく縮こまってしまった。もしかしたら迷惑だったかもしれない。突然知らない人に話しかけられて困ったかもしれない。そもそももうお店を畳んでしまっていたかもしれないのに、声をかけたのは失礼だったのでは?そんな考えが少女の頭をぐるぐると回る。それでも何か言わなければいけない気がして口を開こうとしたその時、ぐぅと何かが鳴る音がした。しばらくの間、少女も女性も瞳をきょとんと丸くして、見つめあっていた。はっと少女はそれが自分のお腹から聞こえた音だと気づいて、頬を赤らめた。そういえば朝から何も食べていなかったのだ。自分から声をかけたくせに返事もできず、体ばかりは空腹を主張したのが恥ずかしく、顔を伏せた。そんな少女の姿を見て、女性は店の奥に戻っていく。もしかしたら幻滅されたかもしれない、変な人だと思われたかもしれない。そう思いながら少女は顔を上げられずにいた。あんなにうるさかったまわりの喧騒が遠く聞こえる。人混みの中にいるのに、自分1人しかいないような感覚に陥る。ぐるぐるとまとまらない考えが頭の中で渦を巻き続ける。そんな中、突然、目の前にずいと何かが差し出された。
反射的に顔を上げれば、先ほどの店主の女性が少女に目線を合わせるようにしゃがみ込んでいた。差し出された女性の手には美味しそうなサンドイッチが握られていた。
「お昼、私もまだなの」
女性はにっこりと笑って、少女に話しかけた。
「もしよかったら、一緒に食べない?」
少女と女性は広場の中央にある噴水の縁に座り、一緒に昼食を取った。女性はレイと名乗り、長い旅をしていてこの街も目的地の一つだと少女に語った。もらったサンドイッチは小さめのバタールに野菜とローストチキンが挟まっていて、バジルのソースが絶品だった。程なくして二人ともサンドイッチを食べ終わると、レイは口を開いた。
「それで、お店に用があったって言うことは、何か買いたいものがあったのよね。ごめんなさいね、こんなにお客さんが集まると思っていなくて、初日の分はもう売り切れてしまったの」
申し訳なさそうにするレイに、少女はぶんぶんと首を振った。
「いえ、この街に旅人さんが来るのがみんな珍しいからだと思います。お姉さんのお店は何を売ってらっしゃったんですか?」
少女にそう聞かれると、レイは首をかしげてうーんと唸った。
「それが、特別変わったものでもないはずなのよね。主に扱っているのは生活雑貨のようなものばかりだし」
コップにお皿、カトラリー、調理器具、と口に出しながら指折り数えてラインナップを見返してみても、特段変わったものはないはずだ。
「それでも、外から来た方が作るものはどれも値打ちがあるんですよ。新しい価値がこの街に持ち込まれるということですから。それにお姉さんのその刺繍されたエプロン、すごく繊細で素敵ですから、きっとお姉さんの作ったものはどれも綺麗なんだとわかります」
「本当?褒めてもらえて嬉しいわ。外との交流の少ない街ってそういうものなのね。確かに、私もお代にもらったものはどれもこの街らしいものが多かった感じがする。この街の特色というのかしら、どれも精巧で、細部まで作り込まれたものばかりで素晴らしいと思ったの」
レイにこの街のことを褒められると、少女はなんだか自分まで褒められたような感じがして嬉しかった。
「この街の魔法使いはみんな、素敵な魔法を使うのね」
自分も必ず、将来街のみんなのような、立派な魔法使いになるのだと。今はまだ一人前に遠く及ばなくても、いつか必ずなって見せるのだと。そう心に決めた思いを抱えて、少女は笑顔で頷いた。
次の日も、そのまた次の日も少女は足げなくレイのお店に通うようになった。レイはマルシェが終わる一週間後までこの街に滞在するらしい。
レイのお店に並んでいた商品はどれも少女の目にもわかるほどの一級品だった。その評判は街でもすぐに噂になったのか、少女がお店に着く頃にはいつも商品のほとんどが売り切れた状態だった。等価交換を基本とするこの街ではレイの商品に釣り合うほどのものを少女が差し出すことはできなかった。レイは貰う物の質なんて気にしないと言うが、少女は自分が納得できないのだと首を振った。不揃いなものばかりの自分の手持ちをいくつ差し出してもレイさんの商品の価値には遠く及ばない。だから、今は眺めるだけと決めたのだ。そんなことを考えながら、少女は店頭に並んだ最後の一つが他の魔法使いに買われていくのを今日も見送っていた。レイのお店は毎日盛況で、いつも昼前には店じまいしてしまう。その後、一緒にお昼を食べるのが二人の日課になっていた。最初に会った次の日、サンドイッチのお礼に少女がお弁当を持って行くと、レイは大喜びでおいしいと言って完食した。それから、毎日のように交代でお昼ご飯を持ち寄って一緒に食べるようになった。レイが作る昼食は、食材は街のものだが味付けが珍しいものが多かった。普段食べ慣れている食材や香辛料でも、組み合わせが違えばこんなに変わるのだと少女は目を輝かせながら食べていた。反対にレイにとってもこの街の味付けや料理は新鮮で、独特な風味を感じながら味の研究をしていた。ある日、いつもと同じように昼食を終えた後、ふと少女は思い出したように口を開いた。
「そういえば、街の外に悪い魔法使いが現れたっていう噂を知ってる?」
そう問われたレイは少女が持ってきた食後のお茶を味わいながら、首を振った。
「いえ、お客さんからもそう言った話は聞いてないわね。いつ頃からなの?」
「ほんの数日前から。それこそマルシェが始まってすぐくらいの頃だよ。街の外と言っても少し離れた森の方だし、みんな寝ている夜にしか動かないっていう噂だから大丈夫だと思うけど。街には結界もあるから。でも旅人さんが街から出る時に出くわしてしまったら大変だと思って」
少女がそう言って不安そうな顔を俯かせると、レイは少女の頭をそっと撫でた。
「教えてくれてありがとう。街を出る時は気をつけるわね」
その言葉を聞いて、少女は少し表情を和らげた。それから一息つくと、あっと声を出した。
「お姉さんにね、聞きたいことがあったの」
街の外の人と話せるなんて滅多にないチャンスだ。これを逃してしまったら、次いつ来るかわからないくらい。だから、聞いてみたいことがあった。少女はレイの瞳を見つめて、勇気を出して口をひらく。
「どうしたら、魔法を上手く使えるようになる?」
それは少女がずっと抱え続けている悩み。街の魔法使いたちが皆自由に使っている一日のうち、半分を未だ魔法の練習に費やしている理由だった。魔法を習い始めて長年経った今でも、魔法が上手く使えないのだ。自分より年下の魔法使いたちのほとんどが既に一人前になっているのに、自分はいつまで経っても一人前になれない。
「大人たちは『自然とお話しするんだ』って教えてくれるけど、なかなか上手くできないの。決まり事だってちゃんと守っているし、夜だって魔力を貯めるためにちゃんと月明かりを取り込んで寝てるのに……。同じようにやっているのに、どうして私だけできないのかな……」
悩みを話しているうちに、段々と言葉に力がなくなっていく。少女は膝上で小さな手をぎゅっと握った。街の大人に聞いても、練習あるのみだとか、君もきっといつかできるようになるとしか言われない。いつだって同じ言葉の繰り返し。街の人の声がやけに大きく聞こえる。一人前の魔法使いたちの声。優しく、美しく、自然と寄り添い、自然に愛され、自然の力を借りることのできる人たち。
ああ、でも。レイさんもそうだ。街の人たちと同じ、いやそれ以上の「すごい魔法使い」なのだ。レイさんにこんな質問をするなんて、困ってしまったかもしれない。さっきの言葉は取り消して、今日はもう家に帰ろう。そうしようとして立ち上がった時、パッと後ろ手を掴まれた。少女が振り返れば、レイは口を開いたまま、迷ったような表情をしていた。
「えっと、その、そうねぇ……なんて言えばいいのか……。何を言っても慰めや同情になってしまいそうで……。そう、例えば、どんなふうに魔法を上手く使えないのか聞いてもいい?」
レイは少女の手を両手で優しく包むと、そう言った。少女はその言葉に驚く。そんな風に聞かれるのは初めてだった。想定外の質問に少女は戸惑いながら、緩やかに口を開いた。
「お洋服を作るのが好きなんだけれど、例えば、このスカートとか」
少女は握っていた手を開いて、スカートの裾をつまんで広げて見せた。
「この部分の柄が綺麗にならないの。頭の中ではイメージがあるのに、それが綺麗に作れなくって。何度も作り直したけれど、結局これが精一杯だったの」
少女のスカートには白色で小花柄が散りばめられている。だが所々、柄に寄りがあったり、途切れているところが目につく。下地の水色も均一ではなく所々むらができてしまっていて、柄が見えなくなっているところがある。下地だって本当は青色にしたかったのに、渋々むらが出ても気づきにくい水色に変えたのだ。少女はそう説明すると、持っていたスカートの裾をぱたりと手放した。今だって目に入るレイさんのエプロンは、綺麗なミモザ柄の刺繍が均一にあしらわれている。どんなに自分が望んだって、きっとこれと同じようなものは作ることはできないだろう。
「どこも上手くいかなくて、本当に作りたいものは何にもできないの」
顔を上げた少女は、どこか諦めたような表情をしていた。その表情を見てレイは、ぎゅうと少女の手をもう一度しっかりと握った。
「あなたが作りたいものを、作れる方法を教えてあげる」
突然の申し出に驚いて、少女は何も言えなくなった。レイさんは今何と言ったのだろう。私が作りたいものを、作れるような方法が、私にできる方法があるのだろうか。聞きたいことが溢れかえって口を開いた瞬間、レイは自分の手を少女の手から離して、人差し指を立てて少女の口元へと当てた。溢れてくる少女の言葉を見透かすように。そしてそれを、とめるように。
「ただし、条件が一つだけ」
レイの蜜色の瞳が輝く。その瞳に少女の視線は吸い込まれる。
「私は明日の朝に急いでここを出ないといけないの。だから教えてあげられる時間は今夜しかない。今日の夜、この場所に一人で来て。街の決まり事を破って、闇への怖さも克服して、ここに来ること。それだけが条件」
いつの間にか、何かを言おうとしていた口はきゅっと閉じていた。息をするのも忘れて、少女はレイの言葉一つ一つを脳内で噛み砕いていた。レイさんが明日にもいなくなってしまうこと。夜に一人でお出かけしないといけないこと。守り続けてきた言いつけを破ること。自分がどうすればいいのかわからなくなって、ただ言われた言葉が頭の中を回っていた。気がつけばレイはマルシェの喧騒の中に消えていた。まだ明るい昼なのに、少女の頭の中には薄暗いもやが渦巻いていた。そんな少女をよそに、街の人々は非日常のお祭りを楽しんでいる。空を仰げば、痛いくらいの太陽の日差しがチカリと少女の目を刺した。
魔法使いたちは、決して夜に出歩かない。夜は魔力を貯める時間だからだ。日中に使った魔力を月灯りの元で寝ることで取り戻す。だからどの家もカーテンを開け放して、部屋を真っ暗にして眠りについている。月の明かりが弱まる新月の頃は皆んな元気があまりなくなり家から出る人も減る。反対に、満月の頃には街が活発になり、交流も盛んになる。だから、マルシェが開かれる時期の月は一際大きく、強く輝いている。雲ひとつない夜空に煌めく月を見ながら、少女は足音を立てないように歩いていた。夜に外に出るのはもちろん初めてだった。誰もいない街はひどく静かで、しかしどこか幻想的でもあった。月の光だけを頼りに、広場の方へと歩みを進める。広場に辿り着くと、昼間と同じようにレイは噴水のへりに座って待っていた。レイは少女を見つけると立ち上がり、少女の方へと近寄った。
「こんばんは、言いつけ通り一人できたんだね」
「こんばんは……?」
「……そうか、そうだったね。『こんばんは』っていうのは、夜の挨拶よ。朝がおはよう、昼はこんにちはなのと同じ」
聞き馴染みのない挨拶を教えるレイさんの姿は、どこか昼間と雰囲気が違うように感じられた。姿も服装も同じなのに、暗いせいでどことなく表情がわかりづらいからかもしれない。少女がそんなことを考えながらレイの顔を見つめていると、レイは少女の手を優しく握った。
「じゃあ、行きましょうか」
レイはそう言って歩き出す。返事をする間もなく、手を引かれるままに少女も足を踏み出した。静かな街の中を二人きりで歩く。月だけが二人を見ている。昼間はあんなに騒がしかった広場も、普段通るはずの道も、自分の家の前すら知らない街の様だった。歩いている間、レイは一言も喋らない。やがて、街を歩き続けているうちに少女は不安と違和感を感じ始めた。一体どこへ向かっているのか、街の中に目的地があるのか。もしそうでないなら、この先にあるのは。聞きたいことはあるのに口がうまく開かない。少し後ろをついて歩く少女からは、レイの顔を見上げても逆光で表情がよくわからなかった。しかし、しばらく歩いているうちに少女の違和感はやがて確信に変わった。
「お、お姉さん……このままだと街を出ちゃうよ……?」
見えるのは街の終わり。そして森の始まり。
少女の震える声に、なんでもないように、うん、とレイは答える。そのレイの言葉に少女はぎゅっと握っていたレイの手を引いた。
「だ、だめだよ街を出るなんて危ないよ!それに、こっちの方角は悪い魔法使いが出るってみんなが」
「そうだね」
少女の声を遮るようにレイは言い、少女の方を振り返った。逆光で表情が見えない中、蜜色の瞳が少女を貫く。
「この先には悪い魔法使いがいるかもしれない。街の結界の外は危ない世界かもしれない。でもね、あなたが求めるものはこの街の中にないのかもしれない。もちろん探し続ければ見つかるかもしれない。反対に探し続けても見つからないかもしれない。じゃあどうしたらいいと思う?」
矢継ぎ早に言葉を続けるレイさんに少し怖さを感じる。不思議と輝く瞳に貫かれた少女の心は、何も言えずただそこに立ち尽くしていた。
「もちろん、選ぶかどうかはあなた次第。無理強いはしない。私にできるのはただ、手を引いて先を行き、道を教えるだけだもの」
そう言ってレイは少女の手を離すと、街の結界から出て森へと足を踏み入れた。結界を挟んで少女とレイが向かい合う。レイは結界の外から少女の方へ手を差し出した。
「選ぶのはあなた自身よ」
俯いてレイの手を見つめたままの少女の頭の中を、ぐるぐると自分の声が駆け巡る。今振り返って走ればまだ間に合う。家に帰って、布団に潜って、何事もないように眠りについてしまえば、誰にもバレることなくこれまで通りの生活を送ることができる。ここを出たら、結界の守りは効かない世界だ。知らないような危険が、恐ろしいものがいるかもしれない。そんなものを見るくらいなら、これまで通りの生活の方が____
本当にそれでいいのだろうか?「これまで通り」はいつまでも「出来損ない」から変わらないかもしれない。私が一人前の魔法使いになれる日なんて来ないかもしれない。私の前には手が差し伸べられている。道標となる手が。二度目があるかわからない道標を、知らぬふりできるほど少女の悩みは浅くはなかった。魔法使いとして生まれて百年、抱え続けてきた悩みは少女の背中を押した。
レイの手を握ると同時に、少女は自ら足を踏み出した。特異な感覚もなく結界を抜け、生まれて初めて街を出た。踏みしめる地面は舗装された石畳から、凸凹した土に変わっていた。自分の足で地を選んだ少女の表情を見て、レイはにっこりと笑った。再び少女の手を引いて歩き始める。街を背に、深い森の中へと進んで行く。しばらく歩き続けると、やがて森の中にぼんやりと灯りが見え始めた。近づいていくと、地面が大きくえぐれたように窪んだところに辿り着いた。そこにはテントと小さな焚き火、小さな椅子が二つ、そして布がかけられた何かがあった。焚き木はぱちぱちと音を立てて燃え、木の皮の香りが微かにした。
「ここは……?」
「私の寝床。まぁ、街の魔法使い風に言うなら悪い魔法使いの寝ぐらかな」
そう言ってレイは少女の方を見てにっこりと笑った。暖かな焚き火に照らされたレイの表情は昼間と変わらない、優しいお姉さんの表情だった。レイの突然のカミングアウトに何も言えないまま、少女は手を引かれ焚き火の前の小さな椅子に腰掛けた。焚き火は暖かく、暗い森の中でも何かに包まれているような安心感があった。隣の椅子にレイも座り、何から話そうか、と呟いた。
「だ、だってお姉さんの魔法はすっごく綺麗で一流の魔法だって、街の人もみんな言ってたよ」
思い出したように少女は言う。そうだ、レイさんが悪い魔法使いだなんて、きっと何かの冗談だ。しかしそう思う少女の心とは反対に、レイは首を横に振った。
「あなたは、『悪い魔法使い』ってなんだと思う?」
レイのその問いに、少女は首を傾げる。
「魔法を使って悪いことをする人……とか?」
「悪いことってどんなこと?」
「えーと、えっと……物を盗んだり、壊したり、人に迷惑をかけたり……?」
必死に絞り出して考え、指折り数える少女の姿にレイは小さく頷いた。
「うん、確かにそれも悪いことだね。でも、皆が言う『悪い魔法使い』にはもう一つ意味があるんだよ」
レイはそう言って立ち上がると、布がかけられた物体の方へと歩く。レイが布を取り外すと、その下から幻想的に彩られたキャンバスが現れた。紺色の空間に緑や紫が混ぜ込まれたリボンのようなものが舞っていて、その下には白い地面に立つ人の後ろ姿が描かれている。綺麗な絵に少女は釘付けになるが、見つめているとどことなく違和感を感じ始めた。
「これは私が描いた絵なんだけどね、私が、一から手で描いたものなんだよ」
レイのその言葉に、少女は先ほど感じた違和感の正体を理解した。
「え、じゃあ魔法は……」
「使ってない。私が布を貼って、絵の具を作って、混ぜて、キャンバスに色を載せて描いた絵。でもこれも、今の魔法使いたちにとっては『悪いこと』だとされているよね」
そう、魔法使いたちにとって、「魔法を使わないこと」は禁忌にも等しいことだ。それこそ魔法を使って悪さをするより、ずっと悪く、決して行ってはならない、方法すら伝え聞いてはいけないと言われているほどの、生まれた時から身に刻まれた理。
「じゃあどうして、魔法を使わないことは悪いことだとされているか知ってる?」
考えを巡らせる少女に、レイは合間を置かず質問を続ける。
「それは、魔法は自然の力を借りて使うもので、自然と対話せず勝手に何かをするのは自然の怒りを買うからダメだって……大昔の人たちはそれで自然を壊したから……」
「そうだね、確かにその発展の影響で自然が大きな被害を受けたのも事実。それが言われ始めたのは大体二千年前くらいかな。それ以前はむしろ自然の力を借りて行う魔法の方が珍しくて、多くの人、というか人類は魔法を使わないで発展を続けていた。魔法使いも、そうでない人たちも。その頃はここも辺り一面海でね、冬なんかとっても寒かったんだから。もう今では随分と昔の話で、覚えている人はほとんどいないのだろうけれど」
そう言いながらレイはどこか懐かしむ表情でキャンバスを撫でた。レイの瞳は、きっとここではないどこかを見ている。二千年、いや、それ以上前にあったはずの景色を見ているのかもしれない。
「今では絵を描くのも、炎を生み出すのも、食材を作り出すのも全て魔法。魔法を使えばイメージしたものがそのまま出来上がる。完成を知っていれば、それを作る過程は全て魔法がやってくれる。確かにそれは便利なものだし、素晴らしい力でもある」
レイは話を続けながら、キャンバスから離れ、今度はテントの方に向かって歩く。
「でもね、私はそれが必ずしも最善の方法ではないと思ってる。もちろん魔法は便利だし、私だって普段はよく使う。自然を壊さない方法だとわかっているし、自然を無闇に使い壊すのは悪いことだと思う。それでも、人類が培ってきた技術や手法は決して無駄なものではなかったと思っているし、それらの方が素晴らしい物を生み出すことだってある。自然と共存していた人類が生み出した文化は美しかった。私はそう感じるよ」
レイはテントの中から何かを取り出すと、それを持って少女の横にしゃがみ込んだ。それは両手に収まるくらいの木箱だった。
「行為そのものを目的や娯楽にしなくなってから、自然は元に戻っても魔法使いの世界に文化的な発展は無くなってしまった。だからこれはもう骨董品だし、貴重品でもある。そんな私のお下がりでよければ、あなたにあげる」
レイがそう言いながら箱の蓋を開ける。中には色とりどりの糸と針、布、そして本が数冊入っていた。
「これは……」
少女は箱の中身を見つめながら、口をひらく。少女にとってそれは初めて見るものだった。縫い付けられる前の糸も、無地のただの切れ端のような布も、何かになる前の物を見るのは初めてだった。それらを繋ぎ合わせるための針も、伝聞のための書物も。魔法使いたちに無用とされ、文化から削ぎ落とされてきたものがそこには詰められていた。
「これが私があなたに教えてあげられる、『作りたいものを作る方法』。魔法より時間も手間も遥かにかかる。でも、これは確かにあなたが自分でやりたいことをできる方法だと私は思うの」
レイはそう言って、箱の蓋をぱたりと閉じた。
「この方法を選ぶかどうかは、じっくり考えていいからね。箱はここに置いておくし、もう『悪い魔法使い』もいなくなるからいつ取りにきても安全よ」
レイは立ち上がると、古い裁縫箱を岩陰の裏に隠した。少女はなんだかぼんやりとしたまま、レイの姿を目で追っていた。焚き火の灯りは心なしか先ほどよりも弱まっていて、火種が燻るような音が聞こえた。
「もうすぐ日が昇りそうね。私ももう行かなくちゃ、お別れの時間だわ」
焚き火が弱くなっても、いつの間にか森の暗さは感じられなくなっていた。それが昇りはじめたという太陽のせいなのか、ぼやけた意識のせいなのか。そんなことも考えられないくらい少女の思考はまとまりを失い、どれだけ必死にかき集めようとしても散らばる一方だった。レイの声が遠く感じられる。視界は霞がかっていて、耳にはカーテンがかかったみたいだった。体の感覚が遠のく。椅子に腰掛けていたことすら忘れていく。ただその意識の中で、レイの「お別れ」という言葉だけが強く少女を引き上げた。
「その……絵……」
ほとんど無意識に発された少女の声にレイが振り向いた。その表情すら少女にはもうわからない。そもそも、自分が何かを言っているのか、その声がレイに届いているのかすらも。それでも少女の喉は、確かに意識を持って音を響かせた。
「すごく……綺麗で、すき……です」
その言葉を最後に、少女の意識は途絶えた。
少女がはっと目を覚ますと、いつもの布団の中にいた。恐る恐る布団から這い出てみても、そこはいつもと変わらない少女の部屋だった。いつも通りカーテンは開け放されていて、窓から見える街もいつもと変わらない、どちらかといえば賑わっている風景だ。昨日の夜の出来事は夢だったのかもしれない。そう考えながら、でも脳裏には確かにあの焚き火の暖かさと、美しい絵が焼きついているのを感じた。いつも通り、朝食を食べてから日課の魔法の練習をする。不思議な体験をした後でも、魔法の技術は一ミリたりとも変わっていなかった。がっくりと肩を落としながら、いつものように家を出る。今日はマルシェの最終日で、これまでより一層賑わっていた。しかし、どこにもレイの店はない。道行く人に聞いても、今日は見かけていないと言う。一緒に昼食を食べた広場の噴水のところにも、いるのは街の人ばかりだった。もしかしてと思い、少女は駆け出した。石畳の上を、小さな少女の足が駆ける。使い古された皮の靴。曲がったストライプ柄のシャツに、歪なラインのスカートをはためかせて少女は走る。もはや街を抜け出すことに抵抗などなかった。気づけば足元は硬い石ではなく柔らかい土になっていた。三つ編みでまとめていた深緑の髪は知らない間に解けていた。道標などなくても、少女は確かに真っ直ぐにそこに辿り着いた。
「確か……この辺りに」
少女が岩陰を漁ると、足の長い草の間に木箱が置かれていた。恐る恐る木箱を持ち上げて蓋を開けると、記憶の通りたくさんの色の糸が目に飛び込んできた。その美しさに、少女は息を呑んだ。
「夢じゃない、本物だ」
息を吐くと同時に声が漏れる。昨日の夜の出来事は夢などではなかった。確かにここにいたのだ。あの絵も、レイさんの姿も、焚き火の暖かさも今ならありありと思い出せる。木箱の蓋を閉め、少女は踵を返して走り出した。木箱も思い出も落とさないように、大事に抱きしめて。大事な思い出が色褪せないように形にしよう。あの煌めきが薄れてしまう前に、あの色を忘れないように。服を作ろう。美しい緑と紫が混ざったスカートに、輝く星を蜜色の刺繍であしらおう。頭の中で思い描いたものが魔法で作れなくても、とびきりの方法が自分の手の中にあるのだから。今ならなんだってできるような気がして、少女は森の中を跳ねるように駆けた。
少女の最後の言葉を確かに聞いたレイは、一瞬目を瞬かせて、ふ、と柔らかな笑みを落とした。
「最後に嬉しいこと言ってもらっちゃったな。勝手に魔法で帰らせたのは悪かったかも」
微かに残っていた焚き火を土で掻き消した。絵は大事に布で包み、リュックに入れる。椅子もテントも折りたたんで荷物に詰めて、辺りを綺麗にする。そこにはもう、レイ以外誰もいない。そうしているうちに、森の奥から微かにちかりと日の光が見えたような気がした。
レイは大きなリュックを背負って、先ほどまで焚き火があったところにしゃがみ込むと地面に片手を当てた。もうここを出なければいけない。しばらくすればこの辺りも自然が還り、何もかもが元に戻るだろう。土地の記憶が消える前にここに来ることができて本当によかった。彼女との懐かしい思い出をもう一度思い起こして、絵に残すことができたから。満足の行く絵の具を作り出すまで随分と時間がかかってしまった。失われてしまった技法を探し回るのにはとてつもない苦労があった。でも、あの時のことを形にするのにどうしても魔法に頼りたくなかったのだ。頼ってしまえば想い出から煌めきが消えてしまう気がして。だから思い出をここに埋めて旅をし始めた。そんな自己満足の旅の果てに、あの子と出会えたのは奇跡かも知れない。
「あの子はきっと、いい仕立て屋になるよ」
レイはそう呟く。街がある方を、遠くを見るように目を細める。その先にある、遥か先に輝く未来を確かめるように。
「布を染めて、形を切って、針で縫って、刺繍をして、その工程一つ一つをきっと、あの子は愛せるようになる。だって」
魔法使いとはいえ、過去の記憶を思い起こすことはできても未来は見えない。それでも、レイには確信があった。
「最初に出会った時に、私のエプロンをじっと見てたから。私が大昔に一針ずつ縫ったミモザの刺繍をあなたが褒めてくれたの、年甲斐もなく嬉しかったわ。ありがとう、マチ」
少女の名を呼んで、レイは微笑んだ。魔法使いにとって名は命だ。だから魔法使いはよほどのことがないと名前を人に教えることも、誰かの名前を呼ぶこともない。それなのに彼女は初めて会った日に名前を教えてくれた。私が名前を教えたから、等価交換だと。そんな大事な名前を、誰に向けるでもなくただ笑みを浮かべてもう一度口の中で繰り返した。背に暖かさを感じて振り返れば、もう太陽が顔を出し始めていた。朝が来る。やがてあの子は目を覚まし、選択するだろう。どちらを選んでもきっとあの子は進んで行ける。そういう子だと私は思う。そう信じている。だから私も進んで行こう。ここで終わるはずだった旅も、今はまだ目的はなくとも足を踏み出すことはできる。踏みしめた土は柔らかく、生い茂った木の香りが鼻をくすぐる。雪解けはなくとも、春の訪れを肌が感じている。耳をすませば、小鳥のさえずりに乗って、二千年前の波の音が聞こえたような気がした。
卵の親を知らぬ者よ。
肉の生を知らぬ者よ。
母の胎内を知らぬ者よ。
今はまだ何も知らぬ、少女の姿をした立派な魔法使いよ。
やがてあなたが知る者になり、良きものを見つけられますように。
その名が、道標となりますように。
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暴走族のお姫様、総長のお兄ちゃんに溺愛されてます♡
五菜みやみ
ライト文芸
〈あらすじ〉
ワケあり家族の日常譚……!
これは暴走族「天翔」の総長を務める嶺川家の長男(17歳)と
妹の長女(4歳)が、仲間たちと過ごす日常を描いた物語──。
不良少年のお兄ちゃんが、浸すら幼女に振り回されながら、癒やし癒やされ、兄妹愛を育む日常系ストーリー。
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