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マメ

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4 side:蒼

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 すごく眠くて仕方がない。
 早く目を覚まさなければいけない気がして、必死にまぶたを開こうと力を入れた。
「……はれ?」
 目を開けると、自分の部屋の天井が見えて、それはいつもと変わらなかった。
でも何か窮屈な気がする。身体を動かそうとしたが、なぜか動かない。
 とりあえず、首だけでも動かそうと左を向けば、なぜかそこには阿知波の寝顔があった。
「は……?」
 腕を巻きつけるようにして蒼の身体を抱え込み、足は蒼の腰を挟んでいる。かろうじて腕枕は逃れているが、これでは苦しいはずだ。 
 なんとか逃げようと力を入れたが、全く外れる気配はなく、阿知波が起きるのを待つしかなかった。
「……」
 自分でベッドに入った記憶が無い。
 では、こいつが運んできたのだろうか。
 昨日は確か、家に帰ってから全てを話して、それから……何があったっけ。
 まだぼんやりとする頭で、昨日の事を思い起こそうとした。
「……あ?」
『俺の恋人になって下さい』
『ずっとそばで守らせて下さい』
『俺を、好きになってくれて……ありがとう……』
 そして浮かんできた言葉の数々に、ただただ呆然とするばかりだった。
「もしかして……俺、こいつと……?」
 恋人になってと言われて、頷いたような気がする。夢じゃなかったのか。
 昨日は頭が混乱していて、こいつの言葉巧みに乗せられてしまったような気がしないでもない。だが、これは間違いなく現実だ。自分の記憶がそう語っていた。
「マジか……」
 まさか自分が男と付き合う事になるなんて。しかも、顔も見たくないほど嫌っていたこいつと。人生何があるか分からない。
 しかも、昨日の自分を思い返すと本当に恥ずかしい。あんなに人前で泣いたのは初めてかもしれない。忘れてくれないだろうか。
「あー……消えたい……」
 恥ずかしさに顔を覆っていると、隣で阿知波が身体を動かした。
「……蒼ちゃん……? 起きたの……?」
「……」
「蒼ちゃん……?」
「起きてる」
「ん」
 とりあえず返事をしたら、身を起こした阿知波は眠たそうにしながらも蒼の唇にキスをしてきた。
「おはよう蒼ちゃん。よく眠れた?」
「……」
「昨日の蒼ちゃん……超、超、超可愛かった……」
 そして、蒼の身体に覆い被さり、ぎゅっと抱きしめてきた。
「……」
 なんだこれは。
 こいつ、こんなに甘いセリフを言う男だったのか?
 何も反応しない蒼に気づいたのか、阿知波が身体を離して顔を覗き込んできた。
「蒼ちゃん? どしたの?」
「いや、お前……女にいつもそんな事言ってんのか……すげえな」
 自慢ではないが、自分は恋人に対して甘いセリフを吐いた記憶があまりなかった。もう少し言ってやれば良かったと、いつも別れてから後悔していた。
「はあ? 消耗品にそんなの言うわけないじゃん。蒼ちゃんにしか言わねえよ」
「……」
「だいたい女と朝まで同じベッドで寝た事もねえし。誰かにくっつかれるとウザいしさあ」
 じゃあ、なんでお前は俺にぴったりくっついてんだ。今までも散々触りまくってきたくせに。
「……その言葉、そっくりそのまま返す……離れろ、重い」
「酷い……昨日の可愛い蒼ちゃんはどこ行っちゃったの?」
 阿知波が責めて来たが、こいつの言う事と行動があまりにも矛盾しすぎているから仕方がない。
「くっつかれるのは嫌なんだろ? 離れろって」
 髪を掴んで引き離そうとしたが、力いっぱい抵抗されてかなわなかった。
「だから~、蒼ちゃんとはくっつきたいんだって。なんで分かってくれないかな~」
 むすっとした顔で阿知波が拗ねるが、デカい男がそんな顔をしたってちっとも可愛くはない。
「俺は触られんの苦手なんだって」
「そうだと思ってたけどさ、俺には慣れてよ。恋人の特権て事で」
「……」
「ね?」
 にっこりと微笑まれ、それを見たらなぜか頷いていた。
「……ちょっとずつなら」
「ありがと蒼ちゃん!」
「ぐ……」
 再び蒼に抱きつき、本当に嬉しそうに頬ずりをしてくる阿知波を見ていると、こいつは本気で自分を好きなのだと実感してしまう。そして、頑なに認めようとしなかった自分に嫌気が差した。
 きっとこいつは、今までも同じように想いをぶつけてきていた。自分が気づかなかっただけで。
 少し視野を広げるだけでこんなに世界が変わるのだ。まだまだ気づいていない事がありそうで怖かった。
 はあ……と思わずため息を漏らしてしまうと、阿知波が眉を寄せた。
「蒼ちゃん?」
「……俺、まだ気づいてない事あるのかな……」
「気づいてない事?」
「チームの事、舞の事、裏切り者の事……詳しい事はみんなお前に教えてもらってる。うちでも調べてるけど……まだ知らない事がありそうで……」
「俺がサポートするから大丈夫だよ。BLACKも蒼ちゃんの味方だから。ちゃんと言い聞かせとく」
「ん……ありがとう」
 阿知波の言葉に素直に頷くと、いきなり両腕を押さえつけられ、のしかかられた。
「蒼ちゃんが素直で可愛い……ちょっとキスしようか」
「は!?」
「煽ったお前が悪い」
 そう言って顔を近づけてきた阿知波だが、キスされる寸前で蒼が顔を背けると、不満そうに口を尖らせた。
「なんで逃げんだよ。いいじゃんキスくらい」
「体調悪いしそんな気分じゃない」
「ちょっとだけ、ね?」
 阿知波はやはり話を聞かず、無理やりキスをしようと唇を寄せてくる。
「やめろって……!」
 そして、無理やり迫る阿知波をどけようと身体を動かした。
 すると。
「痛っ!」
 右足に激痛が走り、あまりの痛さに叫んでしまった。
「蒼ちゃん?」
「足……痛い……頼むからどいてくれ」
 痛みに呻き、冷や汗をかいた蒼を見るなりヤバいと思ったのか、阿知波が身体を離して大人しくなった。
「う゛う゛……」
「ごめん、ちょっと足見るね」
 阿知波は蒼のジャージを捲って何かを確認している。それを見ようとなんとか身体を起こして足を見ると、右足首には湿布の上から包帯が巻かれていた。見覚えのないものだ。
「お前がやったのか?」
「うん……て言いたいけどハズレ。上原がやった」
「上原が? 戻ってきたのか?」
 昨日の最後の記憶は、阿知波に抱きしめられた所で終わっている。あの後何があったんだろう。
「白坂と二人で戻ってきたよ。蒼ちゃんてば俺に抱きついたまま寝ちゃってたからさあ……二人ともびっくりしてた」
「……」
「ちゃんと付き合う事になったって言っといたからね?」
「う、うん……」
「白坂なんか面白かったよ。“奇跡が起きた”ってはしゃいでたな」
「……」
「ま、二人には全部話したからさ。上原に“病人に暴力を振るうなんて何考えてんだ”ってすげー怒られたけど。あいつ本気で怒ると敬語外れんだな」
「うん……」
 そんな事があったなんて知らなかった。意識がなくて良かったと思う。
 自分はあまり見た事はなく、怒りの対象になった事もないが、上原は怒ると怖い。普段の敬語が外れるせいか、別の人格なのではと思うほどで、はたから見ていて相手が可哀想になってしまう。
「ま、あいつの言う通りだったからな……俺ももう蒼ちゃんを泣かせたくないし、気をつけるから……捨てないでね?」
「……ん」
「……やっぱ嬉しいな。こうして蒼ちゃんがちゃんと返事してくれるのって。あ、包帯外すね」
「……」
「げ」
 弾んだ声を出しながら包帯を外していた阿知波だが、現れた足を見るなり顔色が変わった。
「蒼ちゃん……本当に本当にごめん……」
「……」
 どうりで痛いはずだ。足首は昨日よりも激しく腫れていて、青痣も範囲が広がっている。きっと阿知波が殴ったせいだろう。今もまだ鈍い痛みは続いている。この様子だと動かす事はできるが、いつも通り歩くのは難しいかもしれない。
「蒼ちゃん……ほんとごめん……」
「……許さない」
「なんでもするから……ごめん……」
 大事にすると言いながら、自分のせいで傷つけた。
 その事実を突きつけられた阿知波はただ謝るばかりで、自分のした事に動揺している。本当に珍しい。
「どいて」
「蒼ちゃん……まだ怒ってる……?」
「違う。病院行くから着替える」
 時計を見たら朝の七時だった。病院は隣街だが、今から支度すれば午前中の診察にも間に合いそうだ。
「俺も行く」
「いいよ一人で。お前が来たって何もする事ないだろ」
「じゃあ、その足で一人で行けるの? 動かすのも辛そうなのに。病院てどこの病院?」
「……隣の市の柊(ひいらぎ)病院てとこだけど。そこでいつも薬貰ってて、整形外科もあるから」
 いつも行く病院は隣の市にあり、内科と心療内科、それに整形外科が併設されている。中学の頃から世話になっている場所だ。
「柊? 電車じゃないと行けないじゃん。危ないから俺が送る」
「危ないって……子どもじゃないんだから」
 電車くらい一人で乗れるし、そこまで過保護にならなくてもいいような気がする。大袈裟すぎる男にため息が漏れてしまった。
「ダメだよ。何があるか分かんねーし。送り迎えだけでもいいからさせて」
「……」
 この様子だと、何を言っても聞いてくれないだろう。いつも通り阿知波のペースになっている。それに慣れてしまうのは怖いが、怪我をしている今は仕方ないと思う自分がいた。
「分かった。本当に送り迎えだけでいいからな」
「うん。悪いけど一時間くらい待てる? いったん家戻って用意してくる。蒼ちゃんも着替えといて?」
「ああ」
 蒼が返事をするのを聞いて立ち上がった阿知波だが、何かを思い出したのか部屋を出る時にこっちを向いた。
「……一人で着替えられる?」
「できる。早く行けって」
「……すぐ戻る」
 どことなく残念そうなのは気のせいじゃないと思う。
 阿知波は名残惜しそうな顔をして、部屋から出て行った。



 阿知波がいなくなった部屋は、急に静かになった。
 本当にあいつは俺を何だと思ってるんだ。心配しすぎな気がする。そんな事を思いながらタンスから服を出していると、ある事に気がついた。
「あれ……俺、いつ着替えたんだ……?」
 今はTシャツにジャージという普段寝るときの格好をしている。だが、昨日の最後の記憶は制服を着ていたはずだ。
「……誰が着替えさせたんだ?」
 白坂はたぶん無い気がするので、きっと上原か阿知波だろう。
 なんとなく嫌な予感がして、Tシャツを捲ってみた。するとそこには、消えかけの赤い虫さされのような痕がいくつも残っていた。よく見ると腕にもいくつかある。
「何だこれ」
 いつの間にこんなに蚊に刺されたんだろう。でも痒くはないし痛くもない。何かの病気も持っていない。
「……まさか」
 こういう鬱血には見覚えがあるが、寝ている間につけられたなんて信じたくない。
「……着替えるか」
 深く考えない方がいい。自分の中の何かがそう告げていた。
 でも、やっぱりため息が漏れてしまった。






 
 今日は病院に行くだけなので、シンプルなシャツに黒のカーディガン、それにベージュのカーゴパンツといったラフな服装にした。
「はあ……」
 少し動くだけでも物凄くだるかった。まだ熱もある気がする。
 着替えを終え、洗面所に向かって鏡を見ると、そこには酷い顔をした自分の姿があった。
「うわ……大丈夫かこれ」
 殴られた頬の周辺には、痛々しい痣が出来ていた。しかしこれは自分でも予想していたので諦める。けど、まぶたも少し腫れていた。いかにも泣きましたと訴えているかのようだ。
 このまま外に出るのはすごく恥ずかしい。何があったんだと誰かに会う度に聞かれそうだった。
 元凶の阿知波にどう当たってやろうか考えていると、玄関のドアが開く音がした。
「蒼ちゃんお待たせ。準備できた?」
「ああ」
 現れた阿知波は黒のカットソーにジーンズというシンプルなスタイルで、首元にはシルバーのアクセサリーが光っていた。
「へえ……蒼ちゃんの私服ってカジュアルなんだね」
「お前は学生に見えないな」
「それって大人っぽいって事?」
「いや……なんか怖い。闇の世界の住人て感じ」
「ひでえ」
「本当の事だろ」
 阿知波は口を尖らせふてくされているが、やはり制服を着ていないと高校生には見えない。なんとも言えない迫力があり、正直知り合いでなければ自分から近寄りたくはない。
「ま、蒼ちゃんになら何言われてもいいや。もう行ける?」
「ああ」
「じゃ、行こっか」
 阿知波の肩を借りてアパートを出ると、なぜか裏に隣接された駐車場に向かって歩いて行く。そこにはオートバイが置かれていた。
(あれで来たのか?)
 そうだとしたら、体調のせいで乗っていられる自信がない。それほど体力が無くなっていた。
「なあ、あれで来たのか? 悪いけどつかまってられる自信がない……」
 悪いけど、歩きにしてもらおう。
 バイクを指差して訴えると、阿知波が首を振った。
「違うよ。バイクじゃない」
「え? じゃあ……」
「今日はあっち」
 阿知波の視線を追ってみると、視線の先には黒のスポーツカーがあった。それは見覚えのあるもので、どこかで見た事があるような気がする。
「まあ乗って」
「え……どういう事……これって……」
「いいから」
 車のそばまで来ると、阿知波がドアを開け、強引に車に押し込められてしまった。
 一体どういう事だ?
 免許は?
 戸惑う蒼を置いて運転席に座った阿知波は、手際良くエンジンをかけている。
「おい」
「これね、雅宗さんの車。見覚えない?」
「雅宗さんの?」
 そう言われてよく見たら、いつも上原を迎えに来る時に乗っているものと内装が一緒だった。自分も何度か乗った事がある。
「そう。ちょっと借りてきた。今日は使わないみたいだから」
「……免許は? まさか無免許じゃないだろうな」
 説明してくれるのはいいが、根本的な問題が解消されていない。蒼が問うと阿知波は笑った。
「んなわけないでしょ。ちゃんと免許あるよ」
 ほら、と見せられたものを見ると確かに「運転免許証」と書いてあった。
「誕生日来たのか?」
「まだだよ。12月だし」
「じゃあなんで……」
 高三だから十八歳にはなるはずだが、免許は誕生日を過ぎないと交付されなかった気がする。
「俺さあ、一年留年してんだよね。今年十九歳になるの。免許は去年取って」
「へ?」
「高校入ってすぐに、家の都合で海外行くハメになってさ、日数足りなくて留年しちゃった。だからほんとは蒼ちゃんより一つ年上なんだ。黙っててごめんね?」
「年上……?」
「そう。年上の彼氏だよ。頼りがいあるでしょ?」
 びっくりして阿知波をじっと見ると、嬉しそうな表情を浮かべている。
「びっくりした?」
「ああ……年上か……だからか」
「ん?」
「さっきも言ったけど学生に見えない」
「ははっ、ひでえ……白坂にも初めて会った時言われたんだよな」
「あいつは言いそうだな……」
 白坂は歯に衣着せぬというか、正直に物を言うタイプだ。なんとなく分かるような気がした。
「でしょ? まあそういう奴だから一緒にいるんだけどさ。楽だし」
 そう言って阿知波は笑い、車は静かに発進した。
 阿知波の運転は、慣れているのか危険は全く感じなかった。振動もあまり無く、乗っていて心地が良い。しばらく黙っていたが、阿知波が再び話しかけてきた。
「大丈夫? 俺の運転怖くない?」
「ああ……運転上手いな」
「本当? 蒼ちゃんにほめられると嬉しいな」
 さっきから阿知波はずっと笑顔を浮かべている。これも自分のせいなんだろうか。「そばにいるだけでいい」と言ったのは本当なのかもしれない。
「……」
 今まですごい事を言われ続けていたのだと、そう考えたらちょっと恥ずかしくなってきた。
「蒼ちゃん? 大丈夫?」
「……大丈夫」
 少し顔が火照ったような気がして、慌てて外へ顔を向けてしまった。








 病院に着いたのはそれから40分ほど後の事だった。
 駐車場に車を停めると、なぜか阿知波も降りようとしてくる。
「受付するまで付き合うよ」
「……送り迎えだけでいいって言ったよな?」
「だって、蒼ちゃん一人で歩けないでしょ? さっきも肩貸したし」
「う……」
「ね」
 阿知波はさっさと降りて助手席のドアを開けてしまった。
 仕方なく車を降りて肩を借りようとしたら、すかさず腰にも手を回してきた。
「やめろって」
「この方が楽でしょ」
 確かに楽だが、このまま病院に入るのは抵抗があった。そこまで重傷ではないし、ヘタに注目を浴びたくはない。
だが、阿知波は最初から蒼の言葉を聞くつもりは無いらしく、蒼の身体を引きずるようにして入口へと向かって行ってしまった。
 平日のせいか、病院はさほど混んではいなかった。ほとんどが老人や年配の常連、それに親子連れだ。何度か見た事のある人もいる。
 柊病院は規模が小さく、アットホームな病院で、何度も来ていると誰が常連かも分かってくる。蒼も患者から声を掛けられる事が度々あった。
「ちょっと待ってて」
「うん」
 阿知波を待たせて受付に行くと、年配の女性が座っていた。病院を開業した時から勤めているらしく、いつもその笑顔に患者は癒やされている。
「おはようございます吉井(よしい)さん」
「あらあ蒼くんいらっしゃい……って、どうしたのその顔! 痛そうねえ……」
 声に反応してこちらに顔を向けた女性は、蒼の顔を見るなり顔をしかめさせた。やはり痛々しく見えるらしい。
「ちょっと、ケンカに巻き込まれまして……足も痛めちゃって」
「ああもう、せっかくの綺麗な顔が……うちの病院、蒼くんのファンが多いんだから大事にしなきゃダメよ?」
「え? はあ……」
 ファン? 何の事だ。
 少し引っかかったが、吉井さんはいつもと同じように話を続けている。
「今日はいつもの診察と……怪我してるんじゃ整形外科もかしら?」
「あ、はい」
「じゃあ座っててね。順番来たら呼ぶから」
「分かりました」
 やはり気のせいかもしれない。
 そう思いながら阿知波の元へ向かうと、なぜか不満そうな顔をしていた。
「お待たせ……って、どうした?」
「……蒼ちゃんのタラシ」
「はあ? 意味分かんね……」
「ところかまわず愛想を振り撒かないでよ。俺、心配で帰れない」
「愛想……?あ の人は受付なんだからしょうがねえだろ」
「……そうだけどさ」
 ただ会話をしただけなのに文句を言われるなんて、ちょっと厳しすぎるような気がする。こいつはこんなに心の狭い奴だったんだろうか。
「心の狭い奴は嫌いだぞ?」
「……」
「終わったら連絡するから帰っていいぞ?」
「すぐ終わるかもしれないだろ? 待ってる」
 阿知波はふてくされたまま蒼の隣に座ってしまった。こうなったら言うことを聞かないかもしれない。
(やっぱりこうなるのか……)
 再び心の中でため息が漏れてしまった。



「望月さん、中に入って下さい」
 少し待っていると名前を呼ばれ、診察室に入るように促された。
「じゃ、行ってくる」
「うん」
 心配そうな阿知波を置いて中に入ると、いつもと変わらない先生の姿があった。
「お願いします」
「はい、こんにちは」
 この病院の院長でもある柊先生は、受付の吉井さんと同じように物腰が柔らかく、とにかく話していて安心できる。
 たぶん四十代だと思われるが、その経験と知識で人を和ませる力を持っていると思う。
 あの事件の後、蒼は精神的にもショックが酷かったせいで、話も出来ない状態にあった。そんな自分の心をカウンセリングで少しずつ溶かし、救ってくれたのが柊先生だ。
 最初のうちは、外傷の治療で大きな病院に入院していたが、そこに精神的な専門の医師がいなかったせいで回復が遅れてしまい、緊急医で来ていた先生を紹介されたのが出会いだった。
 先生がいなければ、今の自分はいなかったかもしれない。上原と同じくらい頭の上がらない相手でもある。
「調子は……悪そうだね。何かあった? その顔……」
 柔らかな笑みを浮かべ、先生が聞いてくる。何があっても急かす事は絶対にせず、こちらが話すのを待ってくれる。それがありがたかった。
「ちょっと、ケンカに巻き込まれて……足も怪我しました」
「ちょっといいかい? そこに乗って」
 先生は診察台に乗るよう促すと、巻いていた包帯を外し始めた。
「「……」」
 包帯を外すと、朝見た時より青く腫れ上がった足が現れた。
「うわ……これは酷い。一体何をしたんだい?」
「……殴られて、倒れそうになった所でバランス崩しました」
「レントゲン撮っておこうか。今、他の人がやってるから、その間話をしよう」
「はい」
 先生が看護師に伝え、順番が来るまで近況を伝える事になった。これは中学の頃から変わらないもので、今は月に一度、薬を貰いに来た時に行っている。カウンセリングの延長みたいなものだ。
「まあ……体調悪そうだけど、風邪? それとも何かあった?」
 何て説明したらいいんだろう。
 自分でも何が起こっているのか分からないし、何が原因かも分からない。
「何が原因か分からなくて……」
「熱は? 食欲はある?」
「熱は……三十八度以上あって……食欲は、無いです……食べてもお粥とか、うどんとか……」
「うーん、風邪……か?他に気になる事は?」
 先生が症状をカルテに素早く書いていく。普通に聞けば風邪の症状だが、あの突然の涙も言った方がいいだろうか。 
「あの、もう一つ……気になる事が……」
「いいよ。何でも言って」
「その、突然悲しくもないのに涙が出て止まらなかったりしました……原因が分かんなくて」
 それを告げると、先生の動きが止まった。
「……それで?」
「涙もろくなって、些細な事で涙が出るんです。今まで怖いと思った事のないものが突然怖くなったり……」
「……」
 そこまで言うと先生が考え込み、ぽつりと呟いた。
「まずいな」
「え?」
「望月くん、その涙が止まらない時って、死にたいって思った?」
 蒼の目をのぞき込むように見つめ、先生が聞いてくる。
「……いや、思わなかったです」
 何かは分からないが、死にたいと思った事はなかった。
「そう、ならまだ大丈夫」
「?」
 先生は何かをカルテに書き込み、デスクに設置されたパソコンを操作した。
「君はちょっと疲れてるのかもしれない。眠れてる?」
「あ……あまり眠れないです。友人が泊まりに来た時は眠れますけど……暑さのせいかなって」 
「最近忙しい?」
「……はい。ちょっといろいろあって……」
「いろいろ? ちょっと聞かせてもらっていいかな?」
 先生は窺うようにこちらを見つめている。
 チームの事、舞の事……きっと自分を追い詰めているのは舞だろう。でも、それを言った所で信じてもらえる可能性は低いような気がした。
「えっと、最近……友人同士のケンカというか、ゴタゴタに巻き込まれてしまって……」
「うん」
「俺は何もしてないのに、全部俺のせいにされて攻撃されたと言いますか……逆恨みっていうのかな……俺が友人といるのが気に入らない奴がいる? みたいな……」
 だいたいはこれで合っているだろう。改めて考えると本当に酷すぎる。
「その怪我もそれが原因? そのお友達は何て?」
「はい。それでケンカをふっかけられて。友人は全部自分のせいだって謝ってくれました。これからはちゃんと守るからって」
「まあ……そう言ってくれないと困っちゃうよねえ」
 あははと笑う先生を見ていたら、思わず自分も笑ってしまった。時には笑わせ、時には厳しく。こういう所が先生が慕われる要因だろう。
「ですよね……」
「まあ、これからはそのお友達にたっぷり甘えて何でもやって貰いなさい。俺を巻き込んだ罰だ! ってね」
「はあ……」
「そのお友達も悪いと思ってるなら何でもやってくれるだろうから」
「……」
 阿知波に甘える……先生はあいつを知らないはずだが、まさか先生の口からその言葉が飛び出すなんて思わなかった。自分に出来るかも不安だ。
 考え込んでしまった蒼を見て、先生が笑いながら言葉を掛けてくる。
「また巻き込まれたらどうしようって思ってる?」
「……はい」
「先の事を考えても心に負担がかかるだけだよ。明日の事だけ考えなさい」
「明日の事……」
「そう、明日の事。望月くんは特にいろいろ考えちゃうタイプだから、余計な事は考えちゃいけないよ」
「……できますかね」
「君なら出来るよ。心が疲れているみたいだから、本当はトラブルの原因から離れるのが一番の薬なんだけど……友達じゃ無理だよね?」
「……はい」
「だよねえ」
 先生は柔らかに笑うと、蒼の頭をポンポンと優しく叩いてくれた。
「ま、無理に頑張っちゃダメだからね? 自分で自分を追い詰めないように。自分が自分の一番の味方でいるようにね。何かあったらまわりに助けを求めなさい」
「はい。ありがとうございます」
 返事を聞いた先生は満足げにパソコンを操作している。何回かマウスをクリックすると、画面に薬が表示された。
「食欲ないって、気持ち悪い?」
「はい」
「じゃあ……いつものと、胃薬と……解熱剤……あと……これにするか」
 いくつかをクリックして拡大されたのは、使った事のある薬と初めて見る薬だった。
「胃薬と解熱剤は前に使った事あるよね。あとは、新しい薬を出してみるから」
「新しい薬……?」
「いつもの薬と同じ精神安定剤だけど、こっちの方が強いかな。これ眠くなるから睡眠剤の役割もあるんだ。最初は起きた時フラつくと思うけど慣れだから」
「はい」
「一週間分出して様子見たいから、また来週来てね?」
「分かりました」
 素直に頷くと、先生も「よし」と言って笑っていた。先生の前ではいつまでも中学生のままのようだ。
「食事が取れてないんじゃ体力無いでしょ。顔色悪いし点滴してく?」
「はい……できれば」
 今のままではいつ倒れてもおかしくはない。少しでも回復するなら縋りたかった。
「じゃあレントゲン撮ってからにしようか。まだ時間かかるだろうから、ちょっと外で待っててね」
「はい。ありがとうございました」
 診察室を出ると阿知波が看護師の女性二人に話しかけられていた。
 やはり目立つんだなと思っていると、こちらに気づいた阿知波が女性を振り切り、心配そうな顔で近寄ってくる。
「蒼ちゃん、どうだった?」
「とりあえずレントゲン待ち。点滴もするから時間かかるっぽい」
「そう……」
 阿知波はまだ安心出来ないと思っているのか、険しい表情を浮かべている。だが、これから時間がかかりそうだし、このまま待たせてしまうのは申し訳ない気がした。
「だから帰っていいぞ? まだ時間かかるし」
「うん……実は、さっき白坂からチームの奴が何かやらかしたって連絡来てさ、ちょっと顔出さなきゃダメみたいで……ちょっと確認しに行ってくる」
「チームの奴が? 大丈夫か?」
 阿知波に連絡が来るという事は相当まずいのではないか。
「うーん……隣のチームの奴と何かあったみたいでさ、俺が行かなきゃいけないくらいだからヤバいかも。でも連絡くれたら迎えにくるから」
「ああ、分かった。ありがとな。気をつけて」
「一人で帰るなよ?」
「ああ」
 本当は行きたくないんだろう。何度もこっちを見ては名残惜しそうな顔をしていたが、手で早く行けと促したら諦めて病院を出て行った。 
「隣のチーム……何だっけ?」
確かいくつかあった気がするが、BLUEはBLACK以外と揉めた事が無いから詳しくなかった。後で阿知波に聞いておこう。

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弟子×師匠 歴史に名を残す功績をあげた、最高位の魔術師に与えられる栄誉、「シリウス」の称号を持つ、宮廷魔術師ニト・テトラ。 オライエン王国の筆頭宮廷魔術師として、国王の覚えもめでたく、王立研究所の所長を務めていたニトは、天才の称号をほしいままにし、魔術師として輝かしい将来を約束されたも同然の若者だった。 しかし、あるとき、王国の人々の生活のためにと、心血を注いで開発した魔術が、異種族の排斥を目論む国王によって公然と行われた虐殺に利用されたことを知る。 罪の意識に苛まれたニトは、自らのシリウスの称号を返上し、研究所を去ることを選んだ。 そして、生涯を賭しても償いきれない罪に向き合うため、彼は、残りの人生を、迫害にあっている異種族「リュプス族」の人々のために使うことを決意し、王都を発った。 隔離政策によって、オライエン王国の国境沿いの一角、ベスティア自治区に押し込まれたリュプス族の人々は、まともなインフラも整備されていない、福祉どころか、自給自足すら望むべくもない土地で、原因不明の疫病や、深刻な飢えに苦しんでいた。 自身の資産や、不労所得の殆どを擲って、ベスティア自治区に診療所を開いたニト。 原因不明であった疫病の治療法を確立し、多くの人々を苦しみから救ったことで、リュプス族の人々から信頼され、慕われるようになる。 しかし、そんなニトの前に、「貴方の秘密を知っている」と言う、謎めいた青年が現れる。 「周囲にバラされたくなければ、俺に魔術を教えろ」と迫られ、ニトは恐怖のままに、シグマと名乗ったその青年を弟子に取ることになったのだが――――。

短編まとめ

あるのーる
BL
大体10000字前後で完結する話のまとめです。こちらは比較的明るめな話をまとめています。 基本的には1タイトル(題名付き傾向~(完)の付いた話まで)で区切られていますが、同じ系統で別の話があったり続きがあったりもします。その為更新順と並び順が違う場合やあまりに話数が増えたら別作品にまとめなおす可能性があります。よろしくお願いします。

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