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22.月夜

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 ──いやだ、嫌だ……嫌だ

  痛い、いたい

 こわい

    嫌だ

 ……行きたくない

  父上!


 頭の中で、様々な言葉が明滅する。


 トベルクは、力の入らない私を抱きかかえて、続き部屋の寝室に運んだ。広々とした寝台にそっと横たえると、こめかみに口づけを落とす。体がわななき、小刻みに震える。碧の瞳が一瞬心配気に揺らいだが、私は両手で顔を覆った。

「……殿下の手当てをせよ。誰も部屋に入れるな」

 トベルクはそう言い残して部屋から出て行った。
 私は、近づいてくる従卒にさけんだ。

「……来るな。私に触れるな!」

 絹の上衣には血が滲み赤く染まっている。噛まれた場所はずきずきと痛んで、鈍い熱を持つ。
 従卒の元に走り寄った小姓が、何かを必死に訴えていた。耳の奥で嫌な耳鳴りが続き、言葉がうまく聞こえない。

 寝室に入ってきた小姓は寝台の脇に座り込んで私の手を取る。小さな手は柔らかく温かい。小姓は大きな目を真っ赤にして懸命に話しかけてくれているが、少しも聞き取れなかった。

 たらいに水が用意され、小姓は湿らせた布で少しずつ、肌についた血を拭っていく。
 私は黙ったまま小さな手が忙しなく行き来しているのを見ていた。手当てを終えた小姓は、安堵したように笑う。汚れ物を持って小さな体が部屋を出ていくと、あっという間に力が抜けた。


 目を閉じれば、体がずっと重く感じる。

「フロイデン」

 はっきりと、その言葉だけが耳に響く。
 再び、王都の地を踏めというのか。


 ……チガウ

 ……ソコデハナイ

 ブブブ……と、小さな羽音がする。
 羽音の合間に不思議な音が聞こえてくる。高いような、低いような。それは、声と言うよりも音、だった。羽を震わせながら、何かが語り掛けてくる。

 ……アタラシイ

「新しい?」

 私はいつのまにか、柔らかなものの上に座っていた。
 金色のふかふかとした褥からは甘い香りが強く香っている。真上には青い空と眩しい光があり、心地よい風が吹いていく。
 どこからか、また羽音がする。

 ……マツ

「まつ……待つ?」

 ──何を? いや、誰を?

 ……ヲ

 ……オウヲ


 確かに聞き取れたと思った声は、いつの間にか遠くなっていった。

「殿下? 殿下、大丈夫ですか?」

 呼びかけに目を開けば、小姓の大きな瞳が目の前にある。
 耳鳴りの音は消え失せて、何事もなかったかのようにはっきりと聞こえた。いつの間に寝入っていたのだろう。
 
 体を起こせば、そこはトベルクの大きな寝台だった。急いで寝台から下りて立ち上がると、左の鎖骨の部分にずきりと痛みが走った。
 そうだ、噛まれたのだ。はっとして視線を走らせれば、患部は布で覆われ服には赤黒い染みが見えた。

「今は何時だ? 私はどれだけ寝入っていた?」
「もうじき昼になります。殿下は1時間ほどお休みでした」
「……トベルクはどうした?」
「王都に向けて、出立の準備を騎士たちに申しつけておいでです」

 寝室を出て、応接間の窓から外を覗く。
 騎士たちが慌ただしく行き来している姿が見えた。荷を運ぶ者、馬たちの調子を確認する者、宿屋の使用人たちは幾つもの包みを騎士たちに手渡している。あれは食料だろうか。

 扉に向かおうとすれば、青い顔をして従卒が止めた。

「部屋の外にお出しするわけには参りません!」
「着替えに戻る。……王子よりも宮中伯の言葉が大切か?」

 従卒の瞳が見開かれ、動揺が走った。主はトベルクでも、王家への畏敬の念は早くから教え込まれているはずだ。

「……し、しかし」
「出立まで時間がないのだろう? この血塗れの服のまま旅立つわけにはいかぬ」
「……こちらで」

「ちょっと! 殿下に宮中伯の部屋で着替えろって言うんですか? これから旅に出るのに、ろくな身支度もさせないってこと!?」

 私と従卒は、思わず小姓を見た。
 まるで頭から湯気が出そうな勢いに、本気で怒っていることがわかる。毎朝驚くほど丁寧に身支度を整えてくれていたのは、仕事熱心だったからなのか。

 小姓の剣幕に従卒は思わず頷いていた。ただし、今度ばかりは廊下の移動すらも騎士が付き切りだった。
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