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第Ⅳ章 天国へ至る迷宮

リリィ 10

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「夕飯の準備のために水汲みに行ってくるよ」

桶を持った俺が、野営地を背に林の先にある川に向かって歩き出すと、イーサーが声を上げた。

「えっ、先輩? もう水は汲んで……」

戸惑うイーサーの声に被さるように、ラスクの声が背後から聞こえてきた。

「イーサー、いいから。――それじゃあ、すみません。お疲れのところ悪いんですが、水汲みお願いしますね、フウマさん」

俺は、とりあえず川で水を汲んだ後、何度か顔を洗った。

目元を拭い、川面に映る自分の顔を確認する。

よし。大丈夫だ。

俺が立ち上がるのを待っていたかのように、少し離れたところに立っていたリリィが声をかけてきた。

「助けてもらったのは、これで2ね」

意味のわからないセリフに、俺は戸惑って見つめ返した。

「もしかして最初に見逃した時のことを言ってるのか? あれは、リリィが正直に事情を話したからで――」

「違うわ。……以前、私やミーシャ、ローシャ、そして他の血の繋がらない妹や弟たちをあなたは助けてくれたことがあるのよ。――私たちが無事だったのは、あの男の振り上げた剣の前に、立ち塞がったあなたがいてくれたからだわ」

「……悪い。言ってることがよくわからないんだが」

俺が首を傾げると、リリィは微笑んだ。

「ねえ、勇者アレクサンダーが持っていた『伝説の英雄の剣』は、なぜ名前がないか知ってる?」

リリィが唐突に思えるタイミングで尋ねてきた。

俺は、アレクサンダーの剣が「伝説の英雄の剣」としか呼ばれていないのは知っていたが、その理由までは知らなかった。

リリィは説明した。

「元の持ち主は〈教会〉に邪神認定された存在だったのよ。名前があれば歴史を辿られる。だから、あらゆる歴史書から剣の名前も抹消されたの」

「そうだったのか……」

王国史情報室で働いていたのは伊達ではないらしい。さすがは元女スパイだ。

「剣は紛れもない名剣だったから、王家としては捨てるわけにも、死蔵するわけにもいかなかったってわけ。……まあ、持ち主は一時期は英雄扱いされていたそうだから、まったくのデタラメってわけでもないけどね」

「ところで、リリィはこれからどうするんだ?」

「そうねえ……王国史情報室の仕事は廃業だし、魔法兵の立場も危ういから……いっそ野盗でもしようかしら?」

冗談めかしたリリィを、俺はわざとらしく睨んだ。

「冗談よ。――野盗はもうこりごり。昔、私たち全員、野盗団の奴隷として働いていたの。その時思ったのよ、こんな仕事はしたくない、って」

リリィの言葉に、記憶が刺激された。

どこかでリリィの声を聞いたことを思い出した。

「たぶんあなたは、自分で気づかないうちに何人もの人を救っているのね」

俺は大きく首を振った。

「そんなことないよ」

燃え盛る宗教都市ロウが脳裏に浮かんだ。

焼け死ぬ民衆……兵士たちの怒号……きらめく血塗れの剣……。

救えなかった記憶が蘇る。

「もっと自信を持って」

「そう言われても、誰かを助けられた記憶なんてないし……」

「記憶に残らないのは、それがあなたにとって当たり前の行動だからよ。けど、それで救われた人も大勢いるはず」

リリィが歩いてきて、俺の目の前に立って見上げてきた。

まっすぐな綺麗な目だ。

俺はどう答えていいかわからず、草地に視線を落とした。

そこに、仲良く寄り添うように小さな花が咲いていた。

どちらもよく似ていたが、色だけが違う。

その赤と青の花を見つめていると、リリィがその花の前にしゃがみ込んだ。

「ミーシャとローシャね」

「え?」

突然双子の名を呼んだリリィに、俺は戸惑った。

「その花の名よ。……よく一緒に咲いてるし、色が違うだけで似てるから、『双子花』の異名でも呼ばれてるの」

「そういえば、リリィも花の名だったな」

「よく知ってたわね」

「幼馴染みにいろんなことを知っている少女がいたんだ……」

「そう。……私たちは名前もないような生まれだったから、自由になった後、全員、花の名をつけたの」

リリィの声が少し湿り気を帯びた。

俺からはリリィの表情は窺えない。

見えるのは、かすかに風に揺れる金髪のポニーテールくらいのものだ。

「花の名、か……」

年の近い少女と2人で花を見るというシチュエーションが刺激になったのか、久しぶりに白昼夢を見た。

これまでに見たものと違い、優しい夢のようなものだった。

「ねえ、フウマくん。この花の名前知ってる?」

10歳ほどのアイリーンがしゃがみ込んで、毒草でも薬草でもない花を指差した。

動きやすいように後ろで1つに束ねていた桃色がかった金髪ストロベリーブロンドがかすかに揺れる。

残念ながらその花の知識は、シノビの訓練でも学ばなかった。

「なんて名前なんだ?」

「この花の名前はね、『アイリーン』っていうの。……王都の庭園でしか咲いているのを見たことがなかった。……けど、こんな辺境でも咲いてるのね――」

驚いたわ、と呟きながら、花を愛でるアイリーンの姿は絵になっていた。

しばらくして立ち上がったアイリーンは、決意を秘めた視線を俺に向けた。

「決めたわ」

「何を?」

「私、やっぱりことにする」

アイリーンが何を決めて、どのように頑張ると決意したのか、俺にはわからなかった。

ただ、「きっと大輪の花を咲かせてみせるわ」と宣言したアイリーンの美しさに、俺は一気に惹かれた。

胸がどきどきした。

この出来事の後、アイリーンが「蜘蛛が出た」と言って風呂場から飛び出してきて、抱きつかれたりした。

けれど、そんな時よりも、この時の決意を秘めたアイリーンの瞳の方に胸が高鳴ったのだ。

「……ああ。……アイリーンならきっとできるよ」

昔の記憶をなぞるように、俺の唇が勝手に動いた。

アイリーンが亡くなってから、初めて大粒の涙がいくつもこぼれた。

立ち上がったリリィは、何も言わず、優しく俺の頭を抱きしめて、何度も髪を撫でてくれた。

まるで弟の頭を撫でるような慣れた手つきだった。
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