嘘つきの婚約破棄計画

はなげ

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プロローグ

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 煌びやかな皇宮にある、広い庭園。
 幼いカノアが皇太子の侍従を解任されたのは、つい先刻のことだ。
 自分がとても不器用で、要領が悪くて、間抜けなことは自覚していた。それでも皇家から選ばれた以上、これまでの自分は封印し、しっかりお仕えしようと気合満たんだったのに。
 その決意からほんの一週間後、花々の前で泣くことになるなんて。
 皇太子の日常着は足踏みで洗ってはいけないなんて、誰も教えてくれなかったじゃないか。
 黄金の眸にたっぷり涙を浮かべてうずくまっていると、ガゼボのほうから声が聞こえてきた。
 誰がいるのか気になり、ガゼボ近くの柘植に隠れて、こっそり覗いてみる。そこには、優雅に茶を飲みながら読書をする少年と、彼の従者と思しき初老の男がいた。
 日差しが透けて銀色のように照る白い髪、本の文字を追う紅い眸はまるで宝石のよう。
 その美しい特徴から、彼がこのレフダン皇国の第二皇子――シオン・ルアー・レフダンだと、すぐに分かった。

「陛下は酷いお方です。まだ立太子の前ですのに」
「むしろ、よく我慢したほうだろう。どうせ皇位を付与するつもりがないんだ。母の願いがなければ、赤子のときに捨てられていたさ」
「捨てられるだなんて」
「同じことだろう」

 シオンは器用にも本から目を離さずに、従者と会話をしている。自分と同じくらいのはずなのに、まるで大人を見るような気持ちになった。難しい話をしているところも、大人とそっくりだ。

「そういえば、ラガンダ皇太子殿下の侍従が解雇された話はお聞きで?」

 しばらくシオンの美しさに見惚れていると、突然、話柄が自分のことになり、思わずびくりとした。と、シオンはようやく視線を持ち上げて、

「侍従って、あいつのことか?」

 と、柘植に隠れていたカノアを指さしてきた。
 まさか気づかれていたとは思わず、驚いたカノアは「わああー」と情けない悲鳴と共に、後ろに倒れこんだ。

「なんと。盗み聞きなどはしたない」
「やめろ」

 従者の叱責を軽く制し、シオンは尻もちをついたカノアに近寄ってくる。
 高貴な方の御前で倒れたままなんてマナー違反だと思いつつ、赤い宝石に見つめられると、まるで魔法にかかったように動けなくなってしまうのだ。

「お前、名はなんという」

 シオンの規格外な美しさに見惚れていたが、声をかけられてハッとする。カノアは慌てて立ち上がった。

「レフダン皇国の太陽にごあいさつ申し上げます。カノア・ヴィ・フィオレンツァです」
「堅苦しいのはよせ。俺は皇族の身分を剥奪された身だからな」

 会話を聞かれていたのなら隠していても仕方ないとばかりに、重大な情報を打ち明けられる。実際は、話の内容に全然ついていけていなかったのだけれど。

「じゃあ、ぼくとお揃いですね」

 カノアの返答に、シオンはぱちりと長い睫毛を瞬かせる。

「お揃い?」
「ぼくもこれから皇宮を出ていくんです。皇太子殿下のお洋服を足踏みで洗っちゃって……」
「皇太子の服を、足踏み……?」

 鸚鵡返しをしたシオンは唖然とし、その後ろでは従者が絶句している。
 やはり自分がしでかしたことは重罪なのだ。この罪は今後の自分の人生にいつまでも絡みつき、うちの家門は迫害されるに違いない。牢屋ってねずみがいるって聞くけど本当かな。
 そう思いびくびく震えていると、やがてシオンが「ふっ」と笑いを吹き出した。

「ふっ、はは、はははっ。それは傑作だな」

 シオンがけらけらと笑い出す。大人びた印象のシオンだが、相好を崩すと、やはり自分と変わらない子供だ。従者が額に張りつく汗をハンカチで拭いながら「笑いごとではありませんぞ」とたしなめている。

「皇太子の奴、性格が悪いだろう。召し物を踏みつけるくらいしてやればいいんだ」
「坊ちゃん!」

 従者の制止も聞かず、シオンはくっくと笑い続ける。
 水やりをしたように、土壌がびしょびしょになるくらい泣いていたはずなのに、シオンが笑ってくれるなら、それでいいような気がした。
 涙はすっかり渇き、胸の中を埋め尽くしていた泥のような悲しみは、いつの間にかシオンへの甘い疼きに入れ替わっていた。

「久しぶりに笑ったな。礼にこれをやる」

 シオンは胸ポケットに手を入れる。取り出したのは、四葉のクローバーだった。

「さっき見つけたんだ。幸せの象徴なんだろ」

 どうしても「幸せ」が欲しくて、四葉のクローバー探しに明け暮れていたことがある。結局、どれだけ探しても見つけ出すことができなかった。
 それが今、目の前にある。しかし。

「い、いりません。欲しくありません」

 欲しくてたまらなくても、大金持ちでも、それは簡単に手に入るものではない。せっかく手にした幸運を、他の人に渡すべきではないと思った。
 そんな自制とは裏腹に、幼いカノアの目が、シオンの持つ小さな草を物惜しげに追ってしまうのは許してほしい。
 そんなカノアをどう思ったのか、シオンは強引にカノアの手を引き寄せて、四葉のクローバーを握らせた。

「欲しくなくても持っておけ。泣きすぎて目を腫らしてる奴が遠慮するな」

 笑っている姿は子供らしかったのに、シオンの言葉はやはり大人のようだ。
 カノアは四葉のクローバーを優しく抱き寄せて、じっとシオンを見つめた。

「ぼく、殿下にも幸せになってほしいです」
「約束するよ」

 胸の疼きが、どんどん音を奏でていく。甘くて、少し息苦しいような。形のなかった曖昧なものが、急速に固まっていく。
 それが、カノアの初恋だった。
 家に帰ると、皇太子の侍従を解雇された件で、父にはかんかんに叱られたけれど、四葉のクローバーをしまっていた胸のあたりはぽかぽかと温かかった。
 四葉のクローバーはベッド脇のチェストに保管した。何度も取り出して眺めているうちに枯れてしまったが、胸の中で花開いたシオンへの恋心は、優しくて、心地よくて、四葉のクローバーが枯れても、幸せが続いていた。



 シオンと再会したのは、それから三年後のこと。その日は大粒の雪が降っていて、ひときわ寒く、カノアは自分の手のひらに息を吐きながら、お忍びで妹のおつかいをしていた。
 妹――ベリーツィアは、最近アクセサリーにご執心だ。本日発売される新作が欲しいそうだが、この大雪で馬車が出せず、兄であるカノアに泣きついてきたのだ。
 寒さで真っ赤に染まった手のひらに息を吐きかけながらブティックに向かう途中。近道である路地裏を通りかかると、いくばくか成長した姿のシオンが真っ青な顔で倒れこんでいていた。
 意識はなく、呼吸が浅い。ぐったりとした体に雪が募りはじめている。黒い外套に生暖かい血が染みついていることに気づき、ぺらりめくってみると、腹部からじわじわと血液が溢れ出していた。
 このままではシオンが死んでしまう。
 こういうときどうやって手当をするんだっけ。カノアはよく修道院の手伝いをしているが、重症者の手当はしたことがない。まだ幼いカノアは、難しい仕事は任せてはもらえないのだ。しかし、諦めるわけにはいかない。
 シオンを失うかもしれない不安と恐怖に押し潰されそうになりながらも、震える手で自分が着用していたベストを脱ぎ、患部に押さえつけて圧迫する。理屈は分からないが、修道院の大人たちはよくこうしていた。

「誰かっ、誰かいませんか!」

 声の限り叫ぶが、いつも賑わっている広場も、今日は大雪の影響で閑散としている。カノアの声はしんしんと降る雪に溶けていくだけで、誰の耳にも届かない。
 カノアは生気のないシオンを見やり、奥歯を強く噛んだ。

「もう少しだけがんばってください」

 出血の勢いが弱くなると、シオンの腕を自分の肩に回して、患部を刺激しないように気をつけながら近くの修道院へと急いだ。すごく重たいし、積雪で足がもたつき、何度もずり落ちそうになったが、歯を食いしばってなんとか耐えた。
 やっとの思いで修道院に駆け込むと、院長先生は冬なのに汗と涙で顔がびしょびしょのカノアと、その肩にうなだれているシオンを見るなり、急いで治療をしてくれた。
 シオンの発見が早かったことと、カノアが施した応急処置のおかげで、シオンはなんとか一命を取りとめた。院長は「よくやりましたね」とカノアを褒めてくれたが、シオンの意識が戻る気配はない。
 シオンの傍を離れたくなかったが、院長に諭されて渋々帰宅した。ベリーツィアは喜々としてカノアを出迎えてくれたが、手ぶらであることを知ると、新作のアクセサリーを楽しみにしてたのに、とわんわん泣きはじめてしまった。
 ごめんね、と必死で謝っていると、なんの騒ぎだと父と兄がやってきて、兄なんだから妹を泣かせるな、と叱責された。
 部屋に戻ると、視界がにじんだ。家族に叱られて悲しいのではない。シオンが酷い目に合って意識を失っている一方で、妹のおつかいを放棄して叱られる自分の世界がとてもちっぽけに思えて、シオンの力になれない自分が恨めしかった。
 翌日も修道院を訪れたが、シオンは目を覚まさないままだった。このままでは衰弱して命が危ないと、大人たちが話しているのを聞いてしまった。
 皇族の身分を剥奪されたシオンは、家臣に下った。
 ヴィスコンティ公爵家。
 皇家に絶対忠誠を誓う家門だ。何代も前の皇帝が玉座に就けなかった皇弟に爵位を授けたのが始まりなので、皇家との繋がりは深い。
 シオンの痛々しい傷は、そんな家柄が関係しているのかもしれない。ふと、そんなことを勘ぐってしまう。シオンを守れる力のない自分が、とても悔しい。
 修道院からヴィスコンティ公爵家にシオンの容態を伝える手紙を送ったが、天候は酷く荒れはじめ、手紙が届くのは遅くなるだろう、とのことだった。
 カノアはいてもたってもいられなくて、吹雪の中、修道院の庭で四葉のクローバーを探した。
 この大雪で足止めをくらい、家族も、友人も、従者も、誰もシオンのお見舞いに来ることができない。でも、カノアならいる。シオンの家族でも、友人でも、従者でもないけれど、シオンを大切に思う気持ちなら負けたくない。だから、シオンの元へ駆けつけたくとも叶わない人たちの代わりに、シオンがつらいときに傍にいてほしいと願う人たちの代わりに、カノアができる小さなことを、何百でも、何千でも、数えきれないくらいたくさんしよう。
 冷気がちくちくと肌を刺して痛い。手がかじかんで感覚もない。それでも四葉のクローバーを探し回り、なんとか見つけ出した歪なそれを、シオンの手に握らせた。幸せを取りこぼさないように、ぎゅうっと、力強く。
 しかし、カノアの努力も虚しく、シオンが目を覚まさないまま三日が過ぎた。院長先生によると、今夜中に峠を越えなければ、最悪の事態を覚悟しなければならないらしい。
 そんなときだ。リゼルと出会ったのは。

「なにしてるの?」

 修道院の庭に這いつくばって、もくもくと四葉のクローバーを探していると、頭上から少女がカノアを覗き込んだ。
 併設されている孤児院の子だろうか。
 初めてリゼルを見たとき、あまりの可憐さに目を奪われた。
 光を吸い込んだようなハニーブロンドの毛束が、少女を見上げたカノアの頬をくすぐる。不思議そうにこちらを見下ろす翠色の眸は宝石そのもののようだ。

「どうして泣いてるの?」

 シオンが心配で夜も眠れず、目の下に隈をこさえて、ぼろぼろ泣いている自分は、とても酷い顔をしていたのだろう。

「し、しおんさまが、死んじゃうかも。そんなの、やなのに」

 言葉にしてしまうと、もう駄目だった。
 不安と恐怖が洪水のように溢れ出して、なんとか心の中身を抑えていた蓋があっという間に流されていく。
 そんなカノアを、リゼルはじっと見つめる。その視線があまりにも眩しくて、まるで光に吸い込まれてしまいそうだ。

「リゼルね、ひみつがあるんだよ」

 辺りをきょろきょろと見回し、誰もいないことを確認してから、リゼルが声を潜めて耳打ちする。

「ひみつ?」
「うん。先生がだれにも言っちゃだめって」
「それをぼくに教えてくれるの?」

 どうして? と訊く前に、答え合わせをされる。

「リゼルね、痛いのばいばいできるんだよ」

 予想だにしていなかった告白に、カノアはぽかんとする。

「痛いのって……、けがを治せるってこと?」
「そうだよ」
「じゃあ、シオンさまのこと、助けられるの?」
「うん。たぶん、できるよ」

 そんなの信じられない。
 けれど、リゼルが自信満々に頷くものだから、一縷の希望を見つけたカノアの心に、かすかな光が差し込んだ。
 ずっと不安に縫いつけられていた心が、やっとほつれていく。
 カノアは乱暴に涙を拭うと、リゼルをシオンの元に案内した。
 リゼルの「ひみつ」を守るため、誰にも見つからないように、窓から忍び込んだ。
 固いベッドに横たわったままのシオンを目の前にすると、リゼルという希望を手に入れたはずの心がまた不安に絡めとられていく。
 そんなカノアの不安を拭い取るように、リゼルは躊躇なくシオンの手を握りしめた。
 すると。
 ぱあっと、リゼルの手の中から光が溢れ出した。
 あまりにも温かくて、眩しくて、リゼルは小さな太陽を持っているんじゃないかと思った。
 その光はやがて雨粒のようにシオンに降り注ぎ、皮膚にすうっと吸収されていく。と、みるみるうちに青ざめていたシオンの顔に血色が戻ってきた。
 やがて、石のように固く閉じた瞼が、ぴくりと震えた。
 そして、ついに。
 シオンの瞼がゆっくりと持ち上がり、紅の眸が現れる。
 とたん、緊張がほどけて、カノアの涙腺が千切れた。
 ようやく、シオンの意識が戻った。よかった。本当によかった。嬉しくて、涙を拭いもせずシオンを呼びかけようとしたが、目の前の光景に、思わず身動きが取れなくなった。
 シオンのきれいな眸が、まっすぐにリゼルを見据えている。

「……俺は生きてるのか」
「うん。リゼルが痛いの飛ばしたよ」
「君が?」

 シオンの視線に熱がこもったのを、カノアは見逃さなかった。
 分かっている。自分がどれだけシオンの無事を祈ろうが、がむしゃらに四葉のクローバーを探そうが、なんの役にも立たなかったことを。
 シオンを助けたのは、カノアではなくリゼルだ。だから、シオンが命の恩人であるリゼルを特別視するのは当たり前だ。意識が戻った彼の眸の中にカノアがいないのは、当たり前。
 分かっているのに、シオンがカノアを見てくれないことが悲しい。
 シオンを助けてくれたリゼルに嫉妬している自分が、卑しくて嫌になる。
 まるで足がその場で縫いつけられているかのように動かなくて、リゼルとシオンの距離が縮まっていくのを、ただ眺めることしかできなかった。



 あの吹雪が嘘のような、清々しい快晴。
 シオンを迎えに、ヴィスコンティ公爵家の馬車が到着した。
 迎えがきたことを伝えるためにシオンを探していると、彼は聖堂にいた。主祭壇の前でリゼルと向かい合い、何やら真剣な雰囲気だった。
 幼いながらに、全てを察してしまった。
 心臓がばくばくとうるさい。
 見たくない。聞きたくない。なのに、なぜかその場を離れることができなかった。

「リゼル、俺はもっと強くなる。この国で、いや、大陸で一番の騎士になると約束しよう」
「シオンさま、かっこいい!」

 リゼルの無垢な笑顔に、緊張していたシオンの頬がふっと和らいだ。

「そうしたら、君を迎えにきてもいいだろうか」

 がんっ。
 予想していたはずなのに、まるで心臓を潰されたかのような衝撃だった。痛い。苦しい。頭がぐわぐわと揺れる。
 耐えられなくて、カノアは自分の心を守るように、その場にうずくまった。

「むかえ? いっしょに遊ぶの?」
「はは。それもいいかもな。大きくなったら、また伝えにくるよ」

 シオンの告白に気づかないリゼルの鈍感さも、それ以上は迫らないシオンの優しさも、全部が鋭い刃のようにカノアの胸を抉る。
 きっと大人は、子供どうしのかわいい約束だと微笑むのだろう。
 たとえ子供だとしても、シオンの言葉は本気なのに。
 カノアが彼に抱く恋心は、切実なのに。
 この恋が叶うと思っていたわけではない。それでも、好きな人が他の誰かに心を奪われるところを目の当たりにして、何も感じないほど達観していない。
 大きくなったら、シオンは大陸で一番の騎士になる。リゼルを迎えにいくために。そして、プロポーズするために。
 それは二人きりの、将来の約束なのだ。


 
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