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6章.Tuba mirum

定まる

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 ミカエルは開け放たれた部屋でヤグニエからもらった楽器を打ち鳴らす。
 不思議な音色の心地良い残響が、広がって消えてゆく。この楽器はベル同士を打ち鳴らさずとも、それぞれのベルを揺らせば音が鳴るのだ。――けれどそれでは、味気ない。
 一緒にいてくれる相手がいたことが奇跡だった。今となっては、そんな風にも思う。誰もが異なる思いで生きていて、選択肢は無数に広がっている…。

 ――もっと話せばよかったな。

 頬を撫でる湿った風のしょっぱさよ。
 今日は部屋でぼぅっとしていようか。そう思っていると、ヤグニエがやって来た。

「そなたに会いたいと言う客人がいるんだが、会うか?」
「俺に客?」

 ミカエルは目を瞬く。

「アズラエルという商人だ。俺のところに、そなたを知らないか聞きに来た」
「……アズラエル…」
「知り合いじゃないのか? あの者は、俺の記憶にない日々のことを知っているようだったぞ」

 ミカエルは息を吐き、知り合いだと答えた。
 アズラエルには依頼をしている。ルシエルの居場所を突き止め、そこへ連れて行ってほしいと。――もうその必要はない。それについて、伝えるべきだろう。

「ここに来てんの?」
「そなたが会いたいなら連れてくる」
「……会う」

 ヤグニエはミカエルの顔をじっと見て、了解した。

 ミカエルは遠い海の美しい水面の煌めきをぼんやり眺める。
 そのうち、アズラエルが部屋に入ってきた。

「久しいですな。このような所におられるとは」
「よくわかったな。ここにいるって」
「商人ですから」

 アズラエルは絨毯の上で胡坐をかいているミカエルの近くまでやって来て、ミカエルの視線を追うように外へ目をやった。

「ほぅ。見事な」
「……おまえにしてた依頼、もう必要ねえ。経費は払う」

 視線が向けられる。
 ミカエルは遠くに目をやったまま。

「彼に会う気がなくなったのですか」
「あれから一回会ったんだ。あっちはもう、知らねえやつといた」

 バラキエルと同じだ。彼は彼で、新たな道を歩み始めたということなのだろう。一緒にいることをミカエルが望んだところで、どうにもならない。

「いつまでこちらにいるご予定で?」

 ミカエルはかすかに眉根を寄せる。
 ここは居心地が良い。わざわざここから出て、あの窮屈な日々に戻りたいなんて思えなかった。

「俺、なんで生きてんだろ」

 ぽろりと言葉が漏れる。
 アズラエルがよいせと隣に腰を下ろして片膝を立てた。そこに肘を置き、空と海の境界へ顔を向けている。

「私がここに来たのは、ザプキエルという者から依頼を受けたからです」

 ザプキエル。
 ウリエルの兄で、ルシエルが教会に囚われていたときに管理を任されていた者だ。前に一度、遭遇したことがある。

「なんであいつのお使いなんてやってんだ?」
「私も、貴方きほうをあの一神教の世界へ連れ戻したいと思っていたところでね」

 ミカエルは顔をしかめた。

「なんでだよ」
「あそこには、貴方とその剣が必要なのですよ。それはさておき、ザプキエル殿のご依頼です」

 これは話すつもりがないようだ。ミカエルは息を吐き、膝の上で頬杖をついた。

「あの野郎が、俺になんの用なんだ。教会のことか?」
「ルシファー…、ルシエル殿のことです」

 彼が何かして、ミカエルに仕留めるように命でも下ったのだろうか。

「ルシエル殿がどうして貴方のもとを離れたか、存じているか?」
「きっと呆れたんだろ。俺が、周りに振り回されてばっかで…」

 幻滅したのかもしれない。
 この世界では、ぜんぜん思うようにいかないから。

「彼は貴方を守りたかったのだろう」
「……守る?」

 ミカエルは静かな声に吸い寄せられるようにアズラエルの方を向く。

「同じ実験をほどこされた者が、貴方とまみえることのないように。その者がルシファーを欲したため、貴方のもとを離れたのだ」

 遭遇した日、ルシエルが共にいたのは、自身と同じ目に遭った人間だった――。

「あいつの他に、いるのか? デビルとブレンドされたのは、他に例はねえって、」
「いたのです。その者は、ルシエル殿より先に検体となった身で、研究者の納得のいく出来ではなかった。よって、捨て置かれたようです。ルシエル殿が知らなかったのも無理はない」

 ミカエルは初めて聞く話に言葉を失う。もしかしたら、その研究者はもっと多くの実験を重ねていたのかもしれない。そうしてついに、"ルシファー" を生み出したのだ。

「彼は教会に捕らえられ、拷問紛いの扱いを受けたといいます。その過程で精神が破壊され、存在を忘れ去られた。しかし彼は自我を取り戻しました。そうして研究所を飛び出した」
「……そいつが、ルシエルのところに?」
「実験が成功して最高傑作となった者に、興味を抱いたのでしょう」

 ルシエルがその人物をミカエルより身近に感じるのは当然かもしれない。

「俺といるのがイヤになったんじゃねえのか…」
「貴方はどう思っている。己の思いのままに生きるのが、貴方であろう」

 ミカエルはクシャリと顔を歪めた。
 離れたのが彼の意思なら仕方がないと思った。――突然いなくなって、別人みたいになっても。それが彼の意思なら尊重すべきだ。そうするべきだと、思っていた。

「まだ話していませんでしたな。ザプキエル殿のご依頼は、貴方を聖正教圏へ連れ戻すことです」
「それで、俺にあいつを殺せって?」
「あの者はルシエル殿を取り戻したいようですぞ。本来の彼に戻ってほしいのだとおっしゃった」

 ミカエルは目を瞬いた。
 そういえば、ルシエルはザプキエルを悪く言っていなかった。待遇も悪くなかったようだ。ザプキエルは、ルシエルのことを大切に思っていたのだろうか。

「……今のあいつはおかしいって、ザプキエルは思ってるんだな」
「重い感情に引っ張られ、自我を失っているのでは、と」

 ミカエルも、どこかでその可能性を考えていたと思う。けれど、直面したくなかったのだ。なぜなら、その先にあるのは――。

『俺がおかしくなったら、君が殺してくれ』

 頑なな声が脳裏に響く。
 その重圧こそ、ミカエルが逃れたかったものかもしれない。だって、そうだろう。ルシエルの命を奪うなんて、どうしてやりたいと思えよう。

 ――この今ですら、一緒にいられたらと思うのに。

 守るためだか何だか知らないが、同じ目に遭った人間に着いて行っておかしくなって、あんなにうとんでいたデビルを造りだすことにまで加担した。冷たい目でミカエルを見て、共に過ごした時間などなかったかのように――。
 思い出したらなんだか腹が立ってきた。
 ウダウダ悩むのも自分らしくない。

 ――それが、おまえの望んだことじゃねえなら。

「殺してやるよ」

 不敵に笑ったミカエルの頬を、透明な雫が流れた。


-6章 end-
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