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路上から見上げる男の星座<流刑地編>

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 私がコソ泥のマンキウィッツ・メンジンズキッギーと知り合ったのは、警備員のアルバイトをしていたときだ。とある町の大商人の店――何とか商会とか言ったが、もう名前は忘れた――の広大な敷地内を懐中電灯片手にグルグル回っていると大きな物音が聞こえた。私は怯えた。咄嗟に逃げようとしたのだけれど、手にした懐中電灯を落としてしまい、その懐中電灯につまづいて転んだところでパニックは収まった。夜警のバイトを始めて数日だが、その前はしばらく軍隊にいた。そのときだって基地の敷地内を夜間パトロールしていたのである。あのときも夜中に変な物音は聞こえたが、何事もなかった。あのときも武器は携帯していた――そして武器を使わなかったではないか! そう考えて自分を奮い立たせ、物音がした方へ向かう。
 私の担当地域は川岸の倉庫群で、その対岸は入り江の中州だった。そこには工場や発電施設があって夜景が綺麗な場所として一部の人間には知られていた。若者のデートスポットでもあった。ただし、ここに勝手に侵入するのは不法侵入だ。それを知ってか知らずか、入ってくる奴らが絶えないので、私のような臨時雇いの警備員が必要とされる。そういった連中を相手にするのなら、懐中電灯で照らして怒鳴りつけるだけでいい。腰に下げた警棒を振り回すこともないし、拳銃を引き抜くなんて絶対にありえない。そもそも私は兵隊の頃から銃の扱いが苦手だった。誰かを打つ前に自分の足を撃ちそうな予感がするので、そういう事態は御免被る……とまあ、そんなことを考えつつ立ち並ぶ倉庫の間を歩く。物音は、この辺から聞こえたかな。そう思い、角を曲がると倉庫の横に立つ平屋の家屋が見えた。倉庫で働く労働者向けの食堂だった。入り口の明かりが付いていた。その扉が開いている。嫌な予感が足の先から頭のてっぺんまで満ちてきた。私はトランシーバーで警備員の詰め所を呼び出し事情を説明した。警察に通報するよう要請すると、詰め所にいた奴は中に入って盗人がいるかどうか確認して来いと言う。冗談じゃない! 強盗と鉢合わせしたらどうすんのよ! と私は小声で抗議したが、向こうは取り合わない。そうするよう警備マニュアルに書いてあると言う。そんなことは知らん! と突っぱねたら相手もギャーギャー喚き出したので、こちらも負けずに大声を出した途端、食堂の扉の中から大きな物音が聞こえた。私は思わず悲鳴を上げてしまった。食堂の中に泥棒がいるとしたら、聞こえたに違いない。私は「近くに誰かいる、すぐに警察を呼べ」と言ってトランシーバーを腰のホルターに戻し、代わりに拳銃を手に取った。しかし、食堂に入る気にはなれない。相手が銃を持っていたら? 警備マニュアルに何が書いてあるのか知らないが、私はマニュアル人間じゃない。自分の意志で行動する。だから私は、警察が駆けつけてくるまで待つつもりだった。いつまで経っても誰もやってこない。私は懐中電灯と拳銃を片手に持ち、違う手でトランシーバーのスイッチを入れた。
「もしもし、警察はまだか?」
「警察には連絡していない」
「何で、どうして!」
「俺はマニュアル人間だからだ。マニュアルに書かれたとおりにやる」
「相手は武器を持っているかもしれないんだぞ! 中に入ったところを刺されたら、どうすんの。撃たれたら、誰が責任を取ってくれるの? 死ぬのは御免だ。やってられん。こんな仕事、今すぐ辞める。辞めてやる!」
 確か、そんな風に叫んでいたときだった(発言の全部を覚えているわけではないので、間違いがあったとしたら申し訳ない)。食堂の扉が大きく開いた。中から大きなドラム缶や一斗缶を幾つか満載した台車が出てきた。それを押す男は荷物運びが大変そうだった。体の前に中身がいっぱい入って膨れ上がったリュックサック、背中に冷凍肉の塊を背負った姿が入り口の明かりに浮かんだとき、私が真っ先に思ったのは「マシンガンやショットガンは持っていないな」だった。私は壁から顔と懐中電灯を出して叫んだ。
「動くな! こちらは銃がある。動いたら撃つぞ!」
 盗人は口にくわえていたパンの塊を落とした。私は続けて怒鳴った。
「その場に伏せろ! すぐにだ! さもないと撃つ! 言うことを聞け。動いたら撃つからな!」
 その場へ伏せた泥棒が手を伸ばした――落ちたパンを拾おうとしたらしい――ので、私は警告のために一発だけ空中に発砲した。銃声は大きく響いた。あまりに大きな音だったので対岸の工場街をパトロール中だった警官が異常に気付き警察署へ連絡してくれたそうだ。その警官が詰所にいたマニュアル人間の代わりに通報してくれなかったら、私は朝まで盗人と二人っきりの時間を過ごしていたかもしれない。他の警備員に案内された警官たちが私のところへ来てくれたので、私はお役御免となった……かというと、そうでもない。調書の作成のため警察署へ行かねばならなかったし、食堂から食料を盗もうとした盗人の顔をマジックミラーの向こうから確認しなければならなかった。
「夜で暗かったですし、一瞬のことでしたから、犯人の顔ははっきり見えませんでしたよ」
 私はそう言ったが、念のためということで面通しをさせられた。そのとき私は初めてコソ泥のマンキウィッツ・メンジンズキッギーの顔をじっくり眺めた。なんてことはない、普通の男だった。あの男です、と私は適当なことを言って警察署を離れた。それで私と彼の関係は途切れた、と思った。だが、そうではなかった。

§ § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §

 商店街の年末福引大会で無料の温泉旅行券一枚が当たった私は年明けに、とある旅館へ一泊しに出かけた。平日だったので旅館は泊り客が少なく、浴場は空いていた。大きな浴場の湯船に浸かり、浪花節をビバノンノンしていたら、話しかけてくる男がいる。自分は傷痍軍人だが、貴方とは以前どこかで会ったことがあり、軍隊の基地か野戦病院で会ったのではないかと考えたが確証はないけれど、そちらは覚えていないか? と聞いてきたので知らないと答えた。相手の男は私の返答を聞いた後も、しばらく記憶を遡っていたようだが、そのうち思い出すのを諦めたらしい。そんな昔のことを考えていてもきりがないだろうし、考え込んでも頭の傷に良くないだろうから、ボケっとしているのが一番だ。そうそう、ゆったりした気持ちで、のんびり古傷を湯治で癒すのも悪くない……なんて考えていたら、思い出した。隣にいる奴は、警備員のアルバイトをしていたときに食料を盗もうとして捕まった泥棒だった。名前は、何と言ったかな……と、思い出そうとしたが思い出せない。尋ねるのも何だった。何と言っても、こっちはこいつに拳銃を突き付けたのだ。それに、捕まったことを恨みに思っているかもしれない。私が悪いのではなく、こいつが悪いのだが、そう考えないのが盗人というものだ。そういう根性の人間が身を持ち崩すのだ。そんなことを考えていたら、隣にいる男が湯船から上がった。浴場をそそくさと出て行く。奴さんを捕らえた、あの日のことを思い出されても厄介なので、少々時間を開けて風呂から上がる。あの男は、まだ脱衣場にいた。まだ裸である。私を見ると「おや」という顔をして、それから服を着て脱衣場を出て行った。私は脱衣籠の上に置いていたバスタオルを手に取った。違和感が湧いてきた。バスタオルをあった場所が、私の置いた位置と違う気がしたのだ。着替えの置き方も変に思われた。一番上に置いていたはずの肌着が衣類の一番下にある。あの盗人の顔が頭に浮かぶ。まあ、貴重品は持ってきていないから……と思い、自室に戻る。念のために金庫の中を調べる。何も盗まれていなかった。
 夕食後、温泉街へ出た。赤ちょうちんに照らされたホロ酔い気分で歩き、湯煙が漂う川に架かる橋を鼻歌を歌いながら渡り、真冬の星明りを見上げたりライトアップされたダムを遠くから眺めたり、といった具合に散歩していたら建物と建物の間の木立から何者かが走って出てきた。大いに驚いた私は「うわっ!」と大声を上げた。飛び出して来た男は、私の叫びを聞いてビクッと震えて立ち止まった。照明が男の姿を照らし出す。私と男の目と目が合った。あの男だった。男は私に言った。
「悪い奴らに追われているんだ、誰かに聞かれたら、あっちへ行ったと言ってくれ、あっちだよ、あっち!」
 そう言って指で示した方向とは逆に突っ走る男を、私は唖然と見送った。やがて数人の男が、例の男が出てきた木立の中から走って出てきた。凶悪な面構えをした男たちだった。私に気付いて「今ここに逃げて来た男は、どっちに向かった?」と訊いてくる。私は正直に言った。人相の良くない男たちは、例の男が消えた方向へ走って行った。酔いがすっかり醒めた私は宿に戻った。寝る前に再び入浴する。あの男、また何かやらかしたのか? それとも本当に、悪い奴らに追われていたのだろうか? 風呂から上がり部屋に戻って寝床に入るまで、そんな疑問が頭の中をグルグル回り続けていたが、いつの間にか寝てしまい、答えが出ないまま朝を迎えた。
 翌朝、朝食の会場に向かう途中で、私は旅館の正面玄関前を通ったのだが、旅館の外に数台のパトカーが停まっているのが見えたので、フロントの従業員に「何かあったの?」と尋ねたら「客の中に泥棒の容疑者がいたようです」とのお返事で、ああアイツかと思った。
「何を盗んだんだろう?」
「詳しくは分かりませんが、暴力団の事務所に空き巣に入ったところを帰って来た暴力団員に見つかったらしいです」
 あの男を追いかけていたのは暴力団員だったのか! あいつらに捕まらなかったとしたら、幸運だったな、と私は思った。同時に、少々ホッとしていた。男の逃げた方角を私が正直に言ったせいで、あいつが暴力団員に捕まり半殺しにでもされたなら、泥棒とはいえ心苦しい。
 私はしばらくの間、その場に立ち止まっていた。あの男が捕らえられパトカーに乗せられる光景を見物しようかと思ったのだ。しかし、それは悪趣味な感じがしたので、朝食会場へ向かった。朝はバイキングだと聞いていたので、ここで食いだめして夜までもたせようとか、食べ過ぎると動けなくなるかもとか、色々と阿呆なことを考えていたら、手錠を嵌められた男と連行する警官たちと廊下の途中の曲がり角でバッタリ出くわした。
 手錠姿のあの男と警官の組み合わせを見て、私は男の名前を思い出した。マンキウィッツ・メンジンズキッギーだった。確か、そうだ。
 マンキウィッツ・メンジンズキッギーとかいう名前の男は私の顔を見て、またも「おや」と首を傾げたが、そのまま警官たちに連行されていった。私は朝食会場へ向かった。給仕の男性に「警官がいたけど、何があったの?」と訊くと「今さっき朝食を食べていた客が逮捕された」とのことだった。
 食べ終わってから逮捕されたのかと訊いたら、そこは分からないとの返答だった。食いかけで捕まったら可哀想だと感じた。それは、あの男が口からパンを落とした光景が目に焼き付いているからだ。しかし、どっちであろうが、私の知ったことではない。そんなことを考えながら朝食を食べ終えた。思いっきり食べたつもりだったが、昼過ぎには空腹を感じ、帰り道で食事を摂った。取調室で犯人が店屋物のカツ丼を食べるドラマを最近は見かけない、と思いつつラーメンを啜る。マンキウィッツ・メンジンズキッギーは取調室で何を食べているのか? とも、少し考えた。それは分からないけれど、いずれは臭い飯を食うことになると思った。前に逮捕されたときから、それほどの時間が経っていないが、監獄飯が忘れられないのだろうか。私には、よく分からない心理だった。
 夕食は食べないつもりだったが、結局は食べた。その頃にはマンキウィッツ・メンジンズキッギーの名前は忘れていた。

§ § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §

 マンキウィッツ・メンジンズキッギーとの三度目の出会いは、私が鉱山で働いていたときだ。海の底まで掘り進められていると皆に信じられている坑道の奥底で、私は落盤事故に遭った。幸いにも死なずに済んだが、手足の骨を折る重傷で長期にわたる入院生活を余儀なくされた。絶対安静を命じられ退屈な毎日を過ごす私の慰めとなったのは病室の窓から見える草花と回診に訪れる偽医者マンキウィッツ・メンジンズキッギーとの他愛のないおしゃべりだった。
 やっこさん、どこでどう手に入れたのか分からないが、医者の免状を持って鉱山に併設された診療所で働いていた。毎日やってくるのではない。たまにやってきて、怪しげな診療をやって、報酬を貰って帰るのだ。それで誰からも疑われず、当然だが捕まりもせずにいるのだから、金に困っている人間は医者の振りをして大金を稼ぐか医学部を目指すべきだろう。
 さて私と偽医者となっていたマンキウィッツ・メンジンズキッギーの再会は偶然で突然だった。ベッドの上で全身を固定され身動き取れずにいる私に看護師が「先生の回診です」と言ってきた。だからといって私に何ができるわけでもなく、いつものように黙って天井を眺めていたら、視界の端に黒ぶち眼鏡とマスクと額に大きな丸い鏡を付けた白衣の男が見えてきた。いつもの主治医ではない。代診なのか? と疑問に思いつつ、いつもの質問である「いつになったらギブスを外せるのか?」そして「いつになったら退院できるのか」を今回も尋ねたところで代診の医者なら
尋ねても「分かりません、主治医の先生にお尋ねください」で終わるかもしれない、しかしそれ以外に聞きたいことはないよな~とか悶々と考えていたら、いつの間にか回診は進み、自分の番が来た。
 ベッドの横に立った男の顔は大きなマスクで覆われていたし、黒ぶち眼鏡で目の周りの雰囲気が違っていたし、変に大きな丸い鏡で印象が前と違っていたせいで、これがあのコソ泥マンキウィッツ・メンジンズキッギーだとは一目で見抜けなかったものの、その声を聞いたとき記憶が蘇った。
「何か変わりはございませんか?」
 そう言った医者の顔を、私はじっと見つめた。向こうは私の顔ではなく手元のカルテを見ている。私はしばし沈黙してから「あなた以前に盗みをやって捕まっていますよね」と口に出しかけて、止めた。私の勘違いだと思ったのだ。誤解で失礼なことを言って向こうが機嫌を損ねたために入院が伸びたら大変だ。私はギブスを外す予定や退院についての質問もしないことにした。
「何もありません」
 そう答えるとマンキウィッツ・メンジンズキッギーは「お大事に」とおざなりなことを言って次のベッドへ向かった。回診後、看護師に「さっきの医者は見かけない顔だけど何者なのですか?」と聞いてみたら、普段いる先生方が出張で不在の時に応援に来てくれる医者だとの返事だった。その日常生活に関する質問をしてみると、普段は都会の方で開業しているとか、大きな病院の勤務医をしているとか、看護師によって答えがまちまちだった。
「そんなに気になるのなら、回診の時、直接聞いてみたらどう?」
 そう言われて私は質問を考えた。
「お前、前に盗人やってパクられたよな?」
 ストレートなクエスチョンをぶつけてみたらやっこさん、どういう顔をするのだろう? 黒ぶち眼鏡の奥で目を白黒させる様子を想像して、退屈な入院生活で落ち込みがちな気分を紛らしながら、偽医者マンキウィッツ・メンジンズキッギーの訪問を待つ。そして、その日が来た。
「何か変わりはございませんか?」
 そう言って私のベッドの横に立つ白衣の人物に、私は質問した。
「もう入院生活に飽きました。早く退院したいです。いつになったらギブスを外せるのでしょう? 骨折後のリハビリは大変だと聞きましたが、いつ頃から始められるのでしょうか?」
 私は普通の質問をしていた。偽医者のマンキウィッツ・メンジンズキッギーはカルテから目を上げた。
「それは主治医の先生と相談してください。それでは」
 私に一礼した後、マンキウィッツ・メンジンズキッギーは隣のベッドへ向かった。見ての通り、私の質問には何も答えていない。何も分からないものだから答えられないのだ。私は表情を変えなかったけれど、内心では笑い転げていた。お前は泥棒だろ! と急所に突っ込むより、あいつが答えられない難しい質問をした方が面白いと気が付いたのだ。
 私は奴の次の回診を楽しみにして入院生活を過ごした。気分がちょっと上向きになったせいか、窓の外の風景が何だか素敵に見えてきた。ちなみに窓からの眺めは、葉っぱの落ちた木々、それだけだった。季節は冬で、見えるのは裸の山とか落葉した樹木とか、たまに飛んでくる名前の分からない野鳥とか、そんなものを見ても面白くも何ともないものばかりだったのが、何だか不思議なことに興味が出てきて「あれ、この木の名前、何だろう?」とか「野鳥図鑑を買ってみるかな」とか思うようになったのだ。
 そんな中、またマンキウィッツ・メンジンズキッギー大先生の回診の日がやってきた。
「何か変わりはございませんか?」
 それ以外に質問はないのか? と思ったけれど、それはこの際どうでもいい。私は思い付いたことを片っ端から尋ねた。
「手足を骨折して動かさないでいると筋力が低下するっていうじゃないですか? 元の体力に回復するまでに要する時間って、どのくらいなのでしょう? 回復しないってこともありえますよね? 後遺症が残るかもしれないと聞きました。関節が固くなって可動範囲が狭まるとか、痛くて動かせなくなってしまうとか、ラジオを聞いていたら、元患者って人が言ってました。いえ、葉書きですから、言っていたのは葉書きを読むアナウンサーの人だったんですけど。その人は、ギブスを外した後、自分の足が細くなっていて、凄く驚いたとも言っていました。自分の足じゃなくなった感じがしたって。私も、そんなになっちゃうんでしょうか? まさか歩けなくなるってことはないですよね? 重い物を持てなくなる、何ていうのも困ります。落盤事故にまた遭うのが怖いんで、鉱山はもうこりごりなんですけど、他の仕事に就くったって、体が不自由になったら働き口が減ってしまいますもの。そう、働かないといけないです。そのためには、やっぱり早く退院したいですし、そのためには、こうして寝てばかりもいられない。で、ギブスを早く外したい、リハビリをしたい……と、頭の中は堂々巡りですね」
 私の話を聞き終えた名医マンキウィッツ・メンジンズキッギーはカルテに何やら記載してから言った。
「今のお話をカルテに記入しておきましたので、主治医の先生とよく話し合ってみてください。それでは失礼します」
 大先生は私に会釈して、次のベッドで彼を待つ患者の元へ向かった。
 その後ついにギブスの外れる日がやってきた。ずっと動かさずにいた手足は、やはり細くなっていたけれど、私が恐れていたように動けなくなっていたり、関節が曲がったまま固まっていた! なんてことは起きていなかった。早速リハビリが開始されたが、これがもう、予想より大変だった。動かすと痛い。すぐに疲れる。自分の手足じゃないみたいなのだ。それでも私はリハビリを頑張った。ずっと寝ているのには飽き飽きしていたのだ。
 そんな中で行われたマンキウィッツ・メンジンズキッギーの回診で、あいも変わらず尋ねられる。
「何か変わりはございませんか?」
 私は動かせるようになった手を見せながら言った。
「リハビリが始まりました。今のところ順調です。でも、まだまだ前のレベルには達していませんね。早く元通りになりたいです。できるだけ早く、できることなら明日にでも退院したいんです。そう言いますのは……ええと、こんなこと先生に言っちゃっていいのかと思うんですけど、言ってしまいますね。実は交際している女性がおりまして。女医さんなんですけどね。彼女との結婚を考えているんです。ただ、向こうの方が収入が上で、それがですね、結婚する上で、ちょっと問題になっているかな~と。私も、それなりの稼ぎをですね、向こうの親御さんに見せないと、いい顔されないかと思いまして。それで収入が良いって聞いた鉱山で働くことにしたんですけど、この怪我でしょう? どうしようかな、これからって悩んでまして。でも、まずは早く退院して、養生して、それからかな、と。これからのことを考えるのは。でも、でもですね先生、どうしたらいいんでしょうかね、私は。今後の人生を含め、入院中に色々と考えてしまいましたよ。いかに生きるべきなのか、今、悩んでいます」
 人生について尋ねられたマンキウィッツ・メンジンズキッギーは、主治医の先生と相談ですね、と言って去った。
 やがて私の退院予定日について主治医から話があり、今後のことなどを聞かれ、鉱山で働くのを止めようかと考えていると言ったら、それなら退院後に通院するのは新しい生活場所にある病院がいいね、と言われた。さあ、どうしよう、と考え込む。マンキウィッツ・メンジンズキッギーも主治医も、人生相談には答えてくれないのだ。忙しそうな看護師さんに聞くのも何だし、親しくなった入院患者だとか鉱山で働いている同僚に仕事を止めると言うのも、何だかな~と気が進まない。
 また回診で来るはずのマンキウィッツ・メンジンズキッギーに話してみるか。何も答えてくれないだろうが、話しているうちに自分の考えがまとまるかもしれない。そんなことを考えながら、様々なリハビリ用の器械が置かれた回復運動棟と呼ばれる建物と入院病棟をつなぐ渡り廊下を歩いていると、病院裏の職員用玄関にパトカーが停まっているのが見えた。私は職員用玄関の方へ急いだ。長い間、早く走れるほど回復していなかったので、途中で息が切れたが、パトカーが発進するのには間に合った。
 パトカーの後部座席に白衣のマンキウィッツ・メンジンズキッギーが乗せられていた。私の回診が始まる前にパトカーは大先生を連れ去った。看護師に後で聞いたところ、あの男は事務室にある金庫を開けようとしているところを見つかって、事務員や警備員に捕まったのだと言う。取り調べが進むと偽医者であることもバレたそうだ。その後どうなったのか、それは私が退院し鉱山を離れたので、知らずに最近まで過ごした。

§ § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §

 愛した女性と別れた私は夜汽車に飛び乗って旅に出た。行く先は決まっていない。飛び乗った電車が、どこへ向かっているのかも知らなかった。実際のところ、飛び乗りで良かった。心境的には飛び込みでもおかしくなかったのだ。そうだったら、ここに手記を投稿していなかっただろう。本当に良かったと思う。だが、そのときの私は、手記を書くような気分ではなかった。書くなら遺書、そんな感じだった。そんなとき私はマンキウィッツ・メンジンズキッギーと再会した。
 私が乗った夜汽車に乗客は少なく、しかもその誰も彼もが寝ていて、私に孤独を感じさせた。夜の旅の切なさとか寂しさとか悲しさに満ちた車両で、動いている人物が一人いて、それがマンキウィッツ・メンジンズキッギーだった。彼は寝ている乗客の荷物を漁っているようだった。次々と座席を移り、盛んに物色している。寝ている人間が目覚めたら、何と言い逃れするつもりなのだろう? そして、起きている私がいるのに気付かないのだろうか? 大胆不敵と言おうか、懲りない奴と言うべきか。そのうち向こうは私に気が付いた。近寄ってくる。何を言ってくるのだろう? 見逃してくれとでも言うのだろうか? あるいは逆に脅迫してくるかもしれない。強盗するつもりかも。刃物や銃を出してホールドアップで「金を出せ」とか?
 色々な想像をする私にマンキウィッツ・メンジンズキッギーは笑顔で手を振り、それから私の座る座席の通路を隔てた斜め向かいに腰を下ろした。小声で話し始める。
「お久しぶり。元気にしてた?」
 私は何といっていいのか分からなかった。とりあえず「ああ」と肯定する。
「これで会うのは三回目かな、四回目かな」
 私は正直に言った。
「数えていないんで分からない」
「そうだよな、そうだよ、うん」
 納得した彼は一人で頷き、それから変なことを言い出した。
「思うんだけど、あなたとは不思議な縁があるよ。こんなに何度も会わない、普通はね」
「そうだねえ」と私は頷いたが、会いたくて会っているのではない、と本音では言いたかった。
「こういう縁をさ、大事にしたいと思うんだ」
 まったく思わない、と言うのもアレなので、私は小さく頷いて見せた。
 マンキウィッツ・メンジンズキッギーは聞いてもいないのに身の上話を始めた。かなり眠かったので聞いているふりをしたが、半分以上は聞き流す。何を言っているのか理解不能な部分もあった。たとえば、こんなところ。
「こうして流刑地に追放された身だけれども、元の世界へ戻ることを諦めたわけじゃない。諦めきれないのさ、だってさ」
 人差し指の先を天井へ向ける。
「夜の路上で感じるわけよ、熱い視線を。見上げれば、そこには男の星座。あっ、見られている。そう感じるの」
 何を言ってんだコイツ、とは思う。けれども、私はこのコソ泥に、そこはかとない親しみを感じ始めていた。少なくとも、盗難の被害に遭ったかもしれない乗客を起こしてやろう、という気にはなれなかった。実にまったく、不思議なものだが。
 次の駅で降りる予定だが、あなたはどこまで行くのか? と尋ねられて、私は「決めていない」と答えた。
「それじゃ、一緒に行かない?」
 断れ、と私の中の誰かが命じた。だが私は、それに歯向かった。
「そうだな、うん、そうするか」
 私はマンキウィッツ・メンジンズキッギーと一緒に夜汽車を降りた。無人駅の弱々しい燈火が見えなくなるところまで歩くと、彼は夜空を見上げた。
「あれが男の星座だ。見えるかい?」
 何が何だか分からないが、上機嫌のマンキウィッツ・メンジンズキッギーに気を遣い、私は「見える」と嘘を吐いた。私の返答を聞いて男は喜んだ。
「やっぱりそうだ。この目に間違いはなかった」
「何が?」
「見えると思った、あなたなら、男の星座が」
 見えない。何が何だかさっぱりだ……と言えないまま、私は朝までコソ泥と歩き続けた。
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