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ゼロ文字からの逆転劇
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ゼロ文字だ。
何度見ても、何回見ても、書かれた文字の数はゼロ、ゼロ、ゼロだ。
戯作者チャーガワー・バキンズは机に置かれた白紙原稿を前に頭を抱えた。大ピンチだった。目を血走らせて呟く。
「本当なら、とっくに出来上がっていたはずなのに、とうの昔に完成していたはずなのに、それが……どうして、どうして、こうなった」
絶望のあまり呑気に座ってなどいられなくなったチャーガワー・バキンズは顔を強張らせて立ち上がった。発作的な動きだった。急に立ったので、弾みで腰かけていた椅子が後ろに倒れる。思いのほか大きな音がした。彼は驚いて振り返った。部屋のドアが開いたものと錯覚したためだ。ドアは開いていなかった。椅子が背後に引っ繰り返って倒れているだけである。ほっと溜息を吐いて転んだ椅子を元通りに戻す。座りかけて止める。やはり呑気に座っていられない。そんな気分には到底なれないのだ。真っ白な紙に目を落とす。彼は天を仰いだ。白い天井へ向けて白目を剥く。またも呟く。
「もう終わりだ。私の人生は終わった、終わった」
もはや素面ではやってられない!
そう思ったチャーガワー・バキンズは戸棚へ駆け寄った。一番奥に隠した酒瓶を取り出す。栓を取って陶器のカップに酒を注ごうとするも、何も出ない。思い出す。昨夜、全部、飲み干したのだった。翌朝から酒を断ち新たな気分で執筆しようと心に誓い、その晩は最後のつもりで、しこたま飲んだ。そして空になった酒瓶を、とても大切な宝物か何かのように戸棚の奥へ入れたのだった。
落胆したチャーガワー・バキンズは一瞬、空の酒瓶を床に叩きつけて割ってやろうかと考えたが、止めた。酒瓶だって、ただではない。それを持って酒蔵へ行けば、中に酒を詰めてもらえる。そんなことを考えていたら、また思い出した。昨夜も同じことを考え、酒瓶を戸棚に入れたのだった。
進歩がないことに気落ちしてチャーガワー・バキンズは椅子に腰を下した。誘惑に弱く、そそっかしい。それがずっと続いている人生だった。
それでも、そのヘッポコな人生がこの先もずっと続いてくのなら、まだ良い。
問題は、ここで人生が終わってしまいかねないことだった。
心の中に焦燥感の嵐が瞬間最大風速毎秒百メートルを若干下回る程度の勢いで吹き荒れた。ちょうどそのとき部屋のドアが開いた。胸の内で荒れ狂う強風が心の隙間から体外に漏れたのではない。ノックもせず扉を開けて勝手に入って来た人間がいたのだ。
誰の断りもなく部屋の中へズカズカ入って来た男は言った。
「いやあいやあ我こそは遍歴の騎士ミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンド。成功を約束された白皙」の吟遊詩人チャーガワー・バキンズよ。未来の桂冠詩人チャーガワー・バキンズよ。栄冠が頭上に輝くこと間違いなしの貴殿のために祝杯を挙げようではないか。さあ、太陽の下へ行こう、そして日差しを浴びながら美味い物を食べ、美酒を思う存分飲み尽くそう。我々はそのために生きている。この一瞬、このひと時を逃してはならない、さあ行こう、さっさと行こう」
白皙というより末成りの瓢箪にような風貌のチャーガワー・バキンズは、いつもよりも青ざめた顔で振り向いた。ミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドは目を丸くした。
「どうしたどうしたどうしたってんだいチャーガワー・バキンズその面は。常よりも白く青い、普段よりも青くみずみずしい。まるで取れたての新鮮な野菜か、捕まってリンチにかけられる直前の泥棒のようだ。どこか具合でも悪いのか? 頭か? 心臓か? それとも腹か? 大事な場所か? もしも二日酔いだとしたら、拙者に任せたまえ。ん、なーに、治療法は簡単なんだ。迎え酒だ。飲みゃ治る。さ、グイっといこう、さあ行こう」
青白かったチャーガワー・バキンズの顔が、さらに真っ青になった。
「ごめんだよ、それはごめんこうむる。わが友ミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドよ、僕は今、酒のことなんかこれっぽっちも考えたくない心境なんだ」
「なにを愚かなことを言っているんだい、チャーガワー・バキンズ! 酒を飲まない人生に価値があると思っているのか? このクソ面白くもない世に生きる価値が何かあるとすれば、それは酒を飲むことをおいてほかにない。違うか?」
「勘弁してくれ、もう堪忍しておくれ、酒の話題は、もう結婚」
「そうか、結婚するのか、おめでとう」
「違う違う違う、健康」
「健康に気をつけようってことか?」
「ああ違う、酒の話は、もう結構。そう言うことだ」
「なんだ、これからは健康第一の人生を送るってんじゃないのかよ。それなのに、酒とは金輪際おさらばする、もう一生飲まないというのか?」
チャーガワー・バキンズは言葉に窮した。酒とは一生縁を切る、なんて考えてはいない。ただ、今のところは、酒の話は聞きたくないというだけなのだ。
「とにかく、酒の話は止してくれ。酒で人生を踏み外しそうなんだから」
真剣な面持ちのチャーガワー・バキンズに負けず劣らずの深刻な表情でミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドは言った。
「自分が真っ当な人生を送って来たかのような言い方で笑える。酒のせいで道を踏み外したって? それは言い訳。だが、その件について語り合うのは、またの機会としよう。オーケイ、ちょっといいか。椅子を一つ借りるぜ」
壁際の椅子を持って来て背もたれを前にして置き、ミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドは大股を開いて逆向きに座った。
「さて、相棒。何がどうしてどうなって、酒を断つ決意を固めるに至ったのか、よく分かるよう説明してくれ」
「実は、かくかくしかじか」
「そうか、分かった。いや待て、さっぱり分からん。それじゃ何が何だか分からないって」
察しの悪い奴だ、と思いつつチャーガワー・バキンズは説明した。
「物語の締め切りが迫っている。このままだと絶対に提出期限に間に合わない」
まったくの他人事であるからしてミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドは上辺だけの同情を見せた。
「それはお気の毒様だ。何とかならないのか?」
「ならない。だからこうして絶望しているんだ」
「完成していないと言ったらどうだ」
「言ったら私は破滅だ」
「事実だろ。いつも酒を飲むと言っているじゃないか。自分は破滅型の作家だとか何とか。それで女を口説いてるだろうが、毎度パッとしない結果だけど」
「それは言葉の綾だ。とにかく、ここままじゃ大変なことになるんだよ」
「どんなふうに」
「金を返せと言われるだろうね」
「金を貰ったのか?」
「前金を貰った。もう売約済みなんだ」
「謝ったら許してもらえるかもよ」
「そんなわけない。金を返せって詰め寄られるだけだ」
「返したら」
「もうない。皆、酒に使った」
そう言ってチャーガワー・バキンズは俯いた。ミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドは呆れた。
「これを破滅型の作家と言わずして何と呼ぶべきか。何も書いてないのだから作家の肩書を外し、破滅型の人間でどうだろうか」
「人間ではなく、ただの屑と言われないだけ良かった」
「いんや、人によっては呼ぶよ、ただの屑だと。しかし金を返せないんじゃしょうがない。素直に詐欺罪で逮捕されろよ。裁判の時は友人代表として弁護側の証人になるよ。少しでも刑が軽くなるよう、精いっぱい頑張るからさ」
「よしとくれ。裁判抜きで殺されるかもしれないってのに」
殺されると聞き、ミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドは目をぱちくりさせた。
「死刑になるくらいの大金をせしめたのなら、奢ってくれても良かったんじゃないかな」
「そんなに貰ってないから、だけど、返せと言われたら困る。私は無収入だ。返せる額じゃない」
働けよ、とミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドは思った。しかしチャーガワー・バキンズに働かれると暇潰しに付き合ってくれる友人がいなくなってしまう。
「夜逃げするか。黙っていてやるよ」
「相手が悪い。逃げきれない」
「どこの誰から金をがめたんだ?」
「人聞きが悪いな。がめたわけじゃない」
「同じことだろ、言えよ」
苦虫を噛み潰したような表情でチャーガワー・バキンズは言った。
「アルファポリスだ」
ミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドは驚いた。
「アルファポリスだと? ここか? この都市国家アルファポリスか!」
チャーガワー・バキンズは黙って頷いた。ミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドは頬の無精髭を撫でた。
「この悪名高きアルファポリスか。これは面倒だな。本当にまあ、面倒な奴らと関わってしまったもんだな」
虚ろな眼のチャーガワー・バキンズが呟く。
「契約前には、大丈夫だと思ったんだ。これは書けるってね。でも、だめだった。本当に困ったよ」
アルファポリスの人間は残虐な刑罰を好む。衆人環視の中で罪人を拷問し、皆で楽しむのだ。そしてアルファポリスにおいては、盗みは死刑である。盗人チャーガワー・バキンズの処刑は最高のショーとなるだろう。
「本当に悲惨なことになってしまう。何しろアルファポリスの人間は残酷だからね。どんな目に遭うか、知れたものじゃないよ」
実際、創意工夫を凝らした刑罰を罪人に与えることでアルファポリスは有名だった。見世物のショーとして観光資源にもなっている。
「アルファポリスの人間が好む小説や戯曲は陳腐なものばかりだけど、彼らの考え出すリンチに関しては前衛的で、しかも面白い。エンターテイメントの最高峰だね」
ミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドがそう言うと、チャーガワー・バキンズは真っ青になった。
「どうしたらいいんだ! 僕は一体どうしたらいいんだよ!」
「まず落ち着け。それから考えよう。何か良い方法はないかってね」
チャーガワー・バキンズは椅子から立ち上がった。
「逃げよう。遠くまで逃げるんだ」
座るように促してからミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドが言った。
「アルファポリスの人間は人狩りが得意だぞ。奴らのマンハントで取っ捕まった不運な奴をみたことがある。とてもじゃないが見られるものじゃなかった」
口の脇に吹いた泡が溜まっていることを気付きもせず、チャーガワー・バキンズはさらに泡を吹いた。
「ま、ま、落ち着け。チャーガワー・バキンズよ、お前は詩人だろう? ヘッポコかもしれないが吟遊詩人なんだろう? それなら、何か書けよ。何か書けば、どうにかなるさ」
「そうは言っても」
「いつも言っているじゃないか。自分は破滅型の作家だって。それなら、その生き方でも書けよ。メチャクチャだけど、どうせ破滅するんから、そのままでいいだろう。とにかく何か書いてマス目を埋めとけ」
「実は内容を予告する文章を書いている。その通りに書かないといけない」
「なんて書いたんだ?」
「ノルマを課せられたヒロインが奮闘します。期限は一か月です。そう書いた」
「それじゃ語り手は女性にしろ。とりあえず、何か書いておけ」
「どんなものを書いたらいいのか……アイデアが」
「アルファポリスの連中が好きなのは陳腐、ありきたり、流行遅れ、パクリ。そんなのだ。だから人と同じような話を書いておけ」
チャーガワー・バキンズは鼻の頭を撫でた。
「そんな作品を、私は書きたくない。ワンパターンな話を書くなんて、私のプライドが許さないよ」
ふんぞり返るチャーガワー・バキンズ大先生を、ミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドは冷たい目で見た。
「命よりもプライドが重いのなら、白紙を提出しとけよ。アルファポリスの読者は、誇り高き文筆家を喜んで縛り首にすると思うぞ」
チャーガワー・バキンズは小さくなって言った。
「それは困る。心の底から勘弁して下さいという心境だ」
ミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドは腕を組んだ。
「それならさあ、やるしかないって。今から書こう。こっちもできる限りの協力は惜しまないよ」
暇だからな、とミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドは心の中で付け加えた。
「何から始めようか。エールを送るか? それとも耳元で応援歌を歌うのがいいか? いや、逆に子守歌かな。眠れない日が続いているだろうから。それとも思念を送るか。テレパシーだよ。送ったことないけど」
「ネタを提供してくれ」
チャーガワー・バキンズは揉み手をせんばかりの卑屈な姿勢を示した。
「還暦の騎士ともなれば人生経験が豊富だから、色々な面白い話を知っていることだろう。何か教えてくれないか?」
ミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドは仏頂面で言った。
「遍歴の騎士だ。六十までは何年かある」
「四捨五入すれば六十だろう。それだけ長い時間を、この世で過ごしてきたんだ。何かあるだろう、ネタになりそうなことがさあ」
必死に説得するチャーガワー・バキンズも年齢は五十を過ぎているのだが、それはこの際どうでもいい。いい年をしたオッサン二人が、原稿用紙のマス目を埋めるために、ほぼ空っぽの頭から何かを引きずり出そうする作業が始まったという事実、それが大切なのだ。
「ネタはあることにはある。だが、それがアルファポリスの連中に好まれるかどうか分からない。需要を把握したうえで話を書く方が効率的だ」
ミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドの提案にチャーガワー・バキンズは同意した。
「これを見てくれ。参考になると思うから」
チャーガワー・バキンズは机の上に置いてあったメモを取り上げ、ミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドに渡した。
そこには、下記の文章が書かれてあった。
☆テーマ別賞
・ジョブ・スキル賞
異世界ならではの職業についたり、オリジナリティのあるスキルを手に入れたりと、独創的な力を持った主人公が活躍する作品。
キャラクター賞
・追放冒険者に勘当王子、悪役令嬢、天才幼女などなど、パッと読者の目を引く、個性的なキャラクターが登場する小説。
・バトル賞
手に汗握るアツい戦いや爽快感のある無双シーン、弱い主人公の大逆転劇など、心躍る展開を描いたバトルファンタジー。
・癒し系ほっこり賞
人々との心温まる交流や、愛くるしいモフモフの活躍など、異世界での楽しい暮らしを微笑ましく描いた物語。
・ヒロイン賞
誰もが憧れるヒロインやユニークな女性主人公、物語に彩りを加えるサブキャラクターなど、魅力的な女性キャラが描かれた作品。
「個別の賞が用意されているんだ。こういった話を書けば好意的に受け入れられると思う」
チャーガワー・バキンズはニヤッと笑って、そう言った。
アルファポリスは複数の小説家(アマチュアを含む)に執筆のオファーを出していた。その中で最も優秀な作品に大賞が贈られることになっている。その他にもテーマ別賞というものがあった。それが上に記した各賞である。
ミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドはメモに書かれた文面を眺めて唸った。
「こういうのがウケるのか……弱ったな、上手い具合にフィットするネタがないぞ」
チャーガワー・バキンズの笑顔が凍りつく。
「そんなことは言わないでよ。ぴったりフィットするネタでなくてもいいさ。ちょうどいい具合になるよう、脚色すればいいんだから」
そう言ってチャーガワー・バキンズは、還暦手前の遍歴の騎士に話を促した。
「そうだなあ、まあ、超適当で陳腐な物語なんだけれども、こんなのがあるんだよ」
そんな前置きをしてから、ミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドは語り始めた。
§ § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §
ムー超王朝第四百二十七代皇帝リドッサク八十六世の治世というから二万年以上前だろうか。
金星へ亡命した反逆者シュールスを血祭りに上げるため、暗殺隊が組織された。
記録に残る暗殺隊メンバーは以下の通りである。
シュカール・トラウブウム:元コマンド部隊隊長。暗殺隊リーダー。
ラシェ・ジョジュオラグブ:元諜報員。語学の天才。
マントハ・デ・ラ・ラムモ:才覚のある貴族の貴公子。職歴無し。
”警備員の”クアンルンリント:流刑囚。退役軍人。
これ以外の詳細は伝えられていない。メンバーの人選を行ったのは第四百二十七代皇帝リドッサク八十六世だと史書には記されているが、これはありえないだろうと言われている。リドッサク八十六世は心優しい人物で殺人を禁忌とする穏健な宗教の熱心な信徒だった。謀反を起こした大罪人シュールスその他の反逆者や裏切者たちに恩赦を与えようとしたとも伝わっている。金星へ亡命したシュールスの家族に年金を支給したり、他の逃亡者の家族の生活が困らないよう財務官に命令した記録も残っている。金星にいるシュールスに無罪放免とするから帰還せよと秘密の手紙まで送っている。他の政治的な犯罪者――もっと危険な者たち――にも法的な名誉回復を与えようと模索していた節も見受けられる。そんな人物が、わざわざ暗殺隊を金星に送り出すだろうか?
シュールス暗殺計画を立案し、暗殺部隊のメンバーを集め、部隊を金星まで輸送する宇宙ロケットを用意したのは宰相ルッケリング・ブイスミスの周辺だと政権内では当時から噂されていたようだ。ルッケリング・ブイスミスは異世界からの転移者グループのリーダーだった。彼ら異世界転移者グループは、渡来系と呼ばれるムー大陸以外からの移住者の集団と手を組み、ムー大陸土着の民族集団と権力争いを繰り広げていた。その暗闘に敗れ、ムー大陸の国外へ逃れたのがシュールスだった。しかし追っ手が迫ったので、テレポーテーションの超能力をフル稼働させて、遥か金星にまで逃れたのである。
当時の金星は太陽系内で唯一の惑星統一政権が樹立されており、さすがのムー超王朝も、金星政府の庇護の下にあるシュールスに手を出しかねていた……のだが、やはり許してはおけぬとリドッサク八十六世――の名を騙った宰相ルッケリング・ブイスミス――が決断した。集められた暗殺部隊は不死鳥岬の先端にある名もなき無人島で訓練後、無縁仏砂漠のロケット発射台から大型ロケットに乗って宇宙へ飛び出した。
そして、そのまま行方不明になったのである。
エーテル化燃素分解式核融合イオンエンジンを搭載した最新鋭ロケットの遭難事故は当局にとって大問題だった。秘密の発射だったので事故原因調査究明委員会は秘密裏に開催された。秘密裏の調査は難航し、原因は不明という結果をまとめた報告書が宰相ルッケリング・ブイスミスの元へ届けられた頃、そのロケットが地球周回軌道上に出現した。突然の出来事に、人々は消息不明になった時よりも驚いた。
自動制御のロケットはプログラムされた飛行計画を実行し、本来の着陸予定地である労働者記念公園の荒野に降り立った。暗殺部隊回収の任を帯びた要員が着陸したロケットに近づく。その扉が開いた。中から宇宙服を着た乗組員が出てきた。乗組員たちは苦労してヘルメットを脱いだ。その顔を見た地上の回収要員たちは驚いた。
ヘルメットを脱いだ乗組員たちの顔に謎の黒い印が書かれていたのためである。
回収要員らは恐る恐る近づき、あらかじめ取り決めていた符丁を言った。
「山」
「川」
その返事を聞き、回収部隊の面々が安堵したのは言うまでもない。宇宙船から出てきたのは確かに、暗殺部隊のメンバーだった。
暗殺隊員とロケットは直ちに回収された。そして徹底的に調べられた。
ロケットに異常は認められなかった。しかし、運行データを記録するフライトレコーダーには、行方不明となっていた間の情報が残されていなかった。その部分だけ保存されていなかったのである。これが最初から保存されなかったのか、一度は保存されたが後から何者かによって消去されたのかは分からなかった。
暗殺団のメンバーも入念に調べられた。健康面での異常は認められなかった。顔その他の体表には変化があった。彼らの全身には、黒い謎の文様が記されていたのである。調査の結果、それは文字であり、その連なりには何らかの意味のあるものと予想された。ただし、研究機関は内容の解読には至らなかった。
その後しばらく、暗殺隊員の体に書かれた文章は謎のままだった。進展が見られたのはムー超王朝末期、前述した金星への亡命者シュールスの子孫で、これまた反逆者の烙印を押され永蟄居の刑に服していた財務総監”懲りない男”シュールス・ルッケリング・ブースミス提督(この人物は前述した宰相ルッケリング・ブイスミスの子孫でもある)が、ムー文明に先行する超古代文明の遺跡から発見された量子関数電卓を用い、その一部の読解に成功したのである。
これから”懲りない男”シュールス・ルッケリング・ブースミス提督が解読した文章の一部を紹介する。彼が解明した部分は全体の五パーセント弱であり、残りの大部分はまったく読めないことから、その解読方法は誤っているとの指摘があることをご承知いただきたい。
最初に表示するのは暗殺隊リーダーだったシュカール・トラウブウムの体に記されていた文章の中から、解読に成功した部分である。
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1 シュカール・トラウブウム:元コマンド部隊隊長。暗殺隊リーダー。
さようなら、あのヒト。そう呟く女の声を、私は確かに聞いた。声の方を見る。通勤客で混雑する駅のホームに、その女が佇んでいた。後ろ姿しか見えない。取り立てて目立つところのない普通の会社員のように思えた。だが、気になる。隣に立っているわけでもないのに、どうして私は彼女の呟きが聞こえたのだろう? それにどうして、私は彼女の呟きだと思ったのだろう?
私は彼女から目を離せなくなった。もっとも、通勤通学の時間帯なので混雑が酷く、やがて人込みに紛れて女の後頭部や肩の辺りしか見えなくなったので、それを注視し続けたと言い切るのは正しくない! と声高に指摘されたら、そりゃごもっとも! であり当方に反論の余地なしだ。しかし、私は彼女を見つめていた。だから、断言しよう。彼女はホームに立つスーツの男を見て、軽く手を振った。次の瞬間、その男はホームに設置された転落防止用の柵を軽々と乗り越え、ほぼ同時に構内へ滑り込んできた電車に身を投げた。
検討を重ねている数百のM&Aに関する調査報告書と別れの手紙と薬の効能書きに目を通しつつボイスレコーダーに録音された男の声を聴いていたケイ氏は、最後まで聞き終えると珈琲を飲み干し手紙を再読しながら音声を最初から聞き直した。どちらも意味が分からなかったからだ。一度に多くのことをやりすぎるから訳が分からなくなるのだ、という手厳しいアドバイスは秀才のケイ氏にとっては無用不要のご指導ご鞭撻……のはずだったが、やっぱり二度目も意味不明だった。深呼吸で心を落ち着かせ、手紙を三度、読み返す。やはり納得できないけれども、エヌ氏が自分に伝えたい想いは分かったような気がしなくもない。ボイスレコーダーに残されたエヌ氏の話は相変わらず謎のままだ。内容は概ね上記の如し。何とも奇怪な話だが、怪談の一種と捉えたら了解不能というほどでもない。分からないのはエヌ氏が、ボイスレコーダーを別れを告げる手紙の上に置いていたことである。さよならを告げる手紙と一緒に置くくらいなのだから、大事な話が収録されているかと思いきや、語っているのは鉄道自殺の目撃証言だ。
自殺を仄めかしているのだろうか? そうだとしたら、放ってはおけない。とても心配なので会って話したい――と素直な気持ちになって伝えられたら良いのだけれど、ケイ氏にも意地とプライドがある。というより、知能優秀で億万長者のケイ氏には、そういった性質が多分にあった。それが彼の味方を減らし、潜在的な敵を無駄に増やしている理由の一つとなっているが、本当に賢い人間なら自我を抑制しなければならないだろう(彼ほど賢くない人間でもやっていることだ)。とはいえ、同情すべき点もある。大富豪であるがゆえに寄って来る者は多いが、擦り寄ってくる人の正体がダニや蚊と変わらないことを鋭敏な彼は察していた。それが彼の孤独を深め、元から歪んでいる自意識をさらに捻じ曲げていた、といえよう。
しかし彼に助言できる立場にあったとしても、だ。幼少時から人間離れした神童と畏怖され十代前半で世界有数のIT長者となり十六歳の現在は自らが築き上げた巨大財閥を率いる辣腕経営者である天才に対し、謙虚であれと凡人風情が言うのも気が引けてしまうだろう。神に選ばれし者の恍惚と不安は、誰からも選ばれなかった屑には理解不能なのだ。ケイ氏の周囲は結局、心を持たないイエスマン&ウーマンだらけとなる。そんな人形たちの中にあって唯一「奢り高ぶるなかれ」と教え諭した人間がエヌ氏だった。
そんなエヌ氏と恋愛関係になったことは、必然だったとケイ氏は信じている。同性愛だったことは偶然に過ぎない。先のことは断定できないけれど、この愛がある限り、二人の関係は続いていく……という幸福な蓋然が誤りだったのは想定外だ。自身の頭脳に絶対の自信を持ち、かつエヌ氏との愛は絶対不変だと思い込んでいるケイ氏にとっては、認めたくない過ちである。だが彼は、過ちては改むるに憚ること勿れ、という格言が正しいことを知っていた。ミスを認めなければ次のステップへ進めないのだ。こんな悲劇的な過ちに、どうして自分は気付かなかったのか? 別離を防ぐ方法は何か無かったのか? 今からでもやり直すことは出来ないのか? とケイ氏は自問自答する。
恋愛の難問は、天才ケイ氏をもってしても、答えを出すまでに時間が掛かりそうである。
その間、本サイトにおける投稿小説のカテゴリーに関して感じたことを作者が書き連ねる愚をご容赦願いたい。
恋愛とBLが別のジャンルに分類されているのは、同じ愛情である異性愛と同性愛を分断することで同性愛者を差別しているのみならず、同性愛者という社会的弱者に対する性的搾取に相当するのでは? という疑問が生じた。
マーケティング戦略の一環であり差別を助長する意図は皆無であるとの抗弁は通用しない。その悪辣な商魂が差別を生み出すのだと叩かれるのが落ちだ。書店で専用スペースを確保するまでに膨張した各種ヘイト本と同じく消費者の要望に応じただけ、と読者に責任を転嫁する厚顔無恥な言い訳は出版・表現の自由を損ねる結果となるだろう。従って供給側がBLを恋愛から隔離している現状の是正が求められる。
一方、需要の側は恋愛とBLの棲み分けをどう認識しているのか? 同性愛の歴史は古く、それに関係する文化も昔から存在していた。我々の先祖は恋愛とBLの境を緩く捉えていた半面、時と場所によっては禁忌として封じ従わないのなら社会的制裁でもって応じた。同性愛は自然な感情であるという寛容さと、不自然で歪な異常であるという不寛容の二面が昔から存在していたわけだ。さて、現状に話を戻そう。BLが太古から続く同性愛文化の後継者の一つであることに間違いないだろう。ただし、同性愛者の間から自然発生した文化と私は言い切れない。現在のBLの直接の祖先は雑誌『JUNE』と思われるが、その読者層の中心は真の同性愛者よりカルチャーとしての同性愛愛好者ではなかったか、と考えているためである。雑誌『JUNE』を源とする流れは、同性愛の当事者ではなく傍観者がメインストリームだった、と私は認識している。傍観者たちにとって自分たちが立つ岸辺にある恋愛と、向こう岸のBLは最初から分かれていたのだ。そこに差別の意識は乏しい(元々BLを好む人々なのだ)。だからこそ無意識の差別に気付いていないと言えよう。恋愛とBLの同一化を図るには、BLを愛好する読者層の意識改革が必要なのである。
しかしBLコア層が現代の風潮に合わせて自分たちの意識を改めようと決意するかというと、それは望み薄のような気がしてならない。フィクションと現実の境目は曖昧な人間が少なからずいるクラスタだと根拠を示さず推測するが、この集団にとって恋愛とBLのボーダーレス化に重要な意義があるかというとそんなこと、どうでもいいのである。そこに興味はないのだ。読書中の脳を測定すれば大脳皮質より大脳辺縁系の方が活動は高まっていて、人間らしい高度な精神と知能の働きが期待できない状態にあるようにも思える。
外部からの働きかけが無ければ出版側は変化しないと思われるので、恋愛とBLのカテゴリーが融合するのは当分先のことになりそうだ。これがBLというジャンルの存亡に関わる大問題に発展しないことを願うばかりである。
同性であるエヌ氏との恋愛問題に苦悩するケイ氏に話を戻そう。愛に関する悩みを解決できず、それを彼は一時棚上げにした。そして心の傷を癒す一番の薬は仕事、と言わんばかりに買収を検討している企業の資料を読み込む。だが、内容が頭に入ってこない。心の師にして愛人を喪失したケイ氏の嘆きと悲しみは、それほどまでに深かった。書類の棚をデスクに叩きつけて立ち上がりグランドピアノへ向かう。闇の奥から溢れ出て止まぬ激情の命じるままにショパンを弾いて気持ちを落ち着かせる。デスクに戻る。床にまで散らばった書類を拾い集める。買収を検討している博物館の資料が目に入った。そこにエヌ氏が行きたがっていたことを思い出す。
息苦しくなったケイ氏は新鮮な海風を求めてベランダに出た。赤道直下の大西洋を吹く風は熱気と湿気を含んでおり、空調の効いた屋内の方が涼しくて快適だったけれど、気分転換にはなる。潮の香りを胸いっぱいに吸い込み吐き出したときには考えがまとまっていた。自分にエヌ氏が本当に必要な人間なのか評価検討しよう、と。そのためには、何をするべきなのか……ケイ氏はデッキチェアに腰かけ、水平線の彼方へ広がる南北両半球を眺めながら考え始めた。
作者だ。ケイ氏が思いを巡らせている間に、私が思い巡らせたことを書く。BLが好まれる点の一つとして愛に打算が無いことはありそうな気がする。異性間の恋愛には、愛情以外の計算が働く。友人たちに見せびらかして自慢できる見た目とか、資産や家柄、あるいは他人には分からない良さがあるっつーか自分に都合の良い相手だから、みたいな要因が存在するわけだ。それでも最終的なポイントとなるのは一般の恋愛小説と同様に実際のBLも愛情だけれど、物語のゴールが異性愛に比べると結婚エンドになりにくいため、生活を安定させる社会経済的な要素の果たす役割はノンケ同士の恋愛小説より相対的に低くなるように思える。それを純愛度が高いと表現しても構わない。もっとも時代が変わったので、同愛愛のカップル間でパートナーの扶養に入る者がいるだろうから、愛情以外のファクターも重要となる一般的な恋愛小説との違いとして打算の有無が挙げられなくなってきたかも、とは思う。しかし結婚はしないけれど無気力で生活能力に乏しいため自活できず愛玩動物に等しいペット型愛人となることでハッピーエンドとなる、みたいな羨ましいったらありゃしない幕切れも、結婚でハッピーエンド! の何とも言い難い圧迫感が無い分、BLの美点と捉えることが可能なのではあるまいか。結婚がすべての幸せではないはずなのに、恋愛したら結婚がセットとなってしまっていることに対しての反論、とまではいかなくとも違和感を表明する場としても、BLは意義深いように思われる。二人が結婚して、めでたしめでたし……で終わる一般向け恋愛小説のアンチテーゼとしても、BLは存在し続ける価値があるのでは、と思った次第である。あ、恋愛とBLを統合せい! という前の発言とは別の意見としてお聞きいただければ幸甚に存じます。
ところで、ケイ氏の思案はどうなったのだろうか? 幸せの意味を己に問い掛けても答えを得られなかったケイ氏は玉虫色の結論を出した。エヌ氏の面影を追い求める旅に出てみよう。その旅路の果てに、自分の本当の気持ちが見えてくるはずだ――要は自分探しの旅に出ようと決意したということである。超大金持ちだが十六歳の青少年に過ぎないケイ氏は、今まさにモラトリアムの季節を迎えていた。
愛と青春の旅立ち、予測変換で出てくるほどにメジャーな作品とは何の関係も無いけれど、何かちょっとそれっぽい気分に足の先まで浸りつつ機上の人となったケイ氏は、そのまま帰らぬ人となった。飛行機事故が起こったのだ。ケイ氏が操縦するプライベートジェット機は海上空港を離陸後にエンジントラブルを起こして失速、赤道と本初子午線の交点つまり経度0度にして緯度0度の洋上に同氏が建設中の宇宙エレベーター、通称<ケイ氏の世界塔>に激突した。爆発炎上し、大海原に四散した機体の残骸からケイ氏の遺体が回収された。短くも激しい生き方だったと人々は彼の死を悼んだ。
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次はラシェ・ジョジュオラグブの体に残されていた文章である。これは解読された文章の中で最も長く、解読者の”懲りない男”シュールス・ルッケリング・ブースミス提督は六つに分割している。本稿はそれに従う。
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2 ラシェ・ジョジュオラグブ:元諜報員。語学の天才。
A
上手くいかない人生をリセットするのは良いことだ。無事に再起動できるとしての話だが。同様に、どうしようもなくなった世界を一度ぶっ潰し、一から再建するのも悪くない。世界をやり直しても肝心要の創造主が同じなら、また同じ失敗を繰り返すに違いない! なんて外野の意見に耳を貸すな。インターネットの無記名投稿なんてものは放っておけ。信用して良いのは自分の感性だけ、それを忘れたらおしまいだと思え。
世界の主である私の発言は、概ね上記のような内容に要約される。聴衆の反応は鈍かった。表明するべき態度に困っているというか、隣の者の顔を窺っている。
私はわざとらしく深い溜息を吐いてから再び発言した。
「生まれ変わっても、また他人の顔色を窺って生きるのか? そうじゃないだろ! 何のために異世界に転生したんだよ」
私に罵倒されても皆の表情は特に変わらない。奴らは死んだような顔をしている――まあ、一度は死んだ者たちだから、当たり前っちゃ当たり前だが。
その中にあって生きのいい者は目立つ。長い金髪の武骨な男が、私に冷酷な視線を送っている。私と目が合うと、男は片手を上げた。
「異世界転生者向けの講習会と聞いてきたが、俺の場合それに当てはまるのか、質問したいのだが」
質問は講習会の後で……と言いかけた司会進行役を片手で制して、私は言った。
「話を聞かせてくれ。まず、君の名前は?」
男は立ち上がった。かなりの長身だった。服の上からでも逞しい体格だと分かる。前世は兵士、プロレスラー、あるいはボディービルダーと私は踏んだ。
男は名乗った。
「カール・ゴルドゥノフ、職業はバレエ・ダンサー、スパイ、犯罪者だった。それに亡命者でもある」
バレエ・ダンサーとは意外だった――私は頷いて、話を続きを促した。男は自分の半生を語り始めた。
男はソビエト連邦時代のシベリアに生まれた。幼い頃からバレエを学んでいた彼はレニングラード国立バレエ団の特待生となり、やがてソビエト連邦で最高のバレエ・ダンサーと呼ばれるまでに出世し、西側諸国にも名が知られるようになった。だが、それは表の顔に過ぎない。裏ではシベリア・マフィアとつながりを持ち、さらに西側のスパイとしても活動していた。
そんな危険な生活が、遂に終わりを告げるときが来た。ソ連の秘密警察KGB(Komitjet gosudarstvjennoj bjezopasnosti pri Sovjetje Ministrov SSSR、国家保安委員会)が、彼の正体に気付いたのだ。彼は妻を連れて逃亡した。目指すは西側の国境だ。彼の妻もバレリーナだった。二人は抜群の運動神経の持ち主だったので、走る列車から飛び降りたり逆に飛び乗ったりして逃亡を重ねた。高度一万メートルを飛ぶ旅客機のタイヤにしがみついて半分ぐらい冷凍状態のまま移動したこともある。苦労の甲斐あって、二人は西側への亡命に成功した。新しい人生の始まりだ! と夫婦二人で乾杯した直後、彼は意識を失った。酒に毒が入っていたのだ。妻は乾杯しただけで一滴も飲まなかったので無事だった。祝杯のグラスを干した夫は死に、やがて蘇った。この異世界に、異世界転生者として。
「俺は聞きたいのは、異世界転生者は元の世界へ戻れないのかってことだ。俺は元の世界に未練がある。俺はここでスローライフや成り上がりのユニークな異世界ライフを送るつもりはないし、爽快バトルをやる気はないし、人生をやり直したくもない。この世界で癒されたくもないし、婚約破棄された令嬢の復讐なんかに興味もない。俺は元いた世界へ戻って、俺を殺したソ連に復讐したい。ただそれだけなんだ」
私はソビエト連邦は既に崩壊していることを告げた。カール・ゴルドゥノフは自分の死後つまり現世に転生してから元の世界で起こったについて何も知らなかったようだ。それでも、表情が変わったのが一瞬だけで、すぐにポーカーフェイスに戻ったのは見事だった。彼の記憶が事実だとすれば、前世で有能なスパイだったのは間違いなかろう。
だが前世の記憶が蘇り混乱しているのも、また事実。そうでなければ、私の講習会に来ることはなかったはずだ。元の世界へ戻りたい、そのための方法を教えてほしいと聞かなかったことから察するに、以前のスリリングであり過ぎる生活へ逆戻りするのも不安なのだろう。迷いがあるのだ、と私は判断した。その上で問いかける。
「元の世界に戻ってどうする? ここで暮らしていくのが一番だ。異世界転生者は、選ばれた者なんだ。ここでもう一度バレエ・ダンサーをやってみたらどうかなあ? そういう異世界転生ものは、まだやってみる余地があると思うんだ」
カール・ゴルドゥノフは考えさせてくれと言い、それから質問に答えてくれたことの礼を言って座った。
転生前は犯罪者だが、礼儀正しい男だった。
私は聴衆を見渡した。そして彼らに伝える。
「講習の途中でも、質問があれば受け付ける。どんどん手を上げてくれ」
B
人生が二度あればと井上陽水は歌う。その歌詞に異議は無い。けれど自論は有る。同じ人生を繰り返して面白いのか? と感じない日は無い。同じ人生が二度あれば嬉しい! なんて奴には異世界に転生する資格が無い、と私は確信している。その幸せな思い出を胸に、あの世で永遠に寝ていろよ、と思うのだ。同時に、同じ味を二度も噛みしめるのは反芻動物に任せておけ、とも言いたくなる。確かに、ループものには抗しがたい魅力がある、それは分かる。だが、新しい人生に一からチャレンジする、それもまた堪えきれない魅力がある。今までとは違う人生を、転生した異世界で過ごすこと。これが再チャレンジの本当の理念であり、そのためのあらゆる支援を惜しまない。それが本講習会を開催する理由の一つである……といった趣旨の発言をした私に向かって、おずおずと挙手した者がいる。風采の上がらぬ中年男だった。
自信なさげな様子だったので、安心感を与えようと、私は笑顔で大きく頷いた。中年男は立ち上がり話し始めたが、声量が足りない。司会が小走りに駆け寄ってマイクを手渡す。中年男はマイクを握る手の小指をピンと立てて話を再開した。鈍臭くて使えない職場の役立たずっぽい風貌なので嫌な予感がしたら案の定マイクがハウリングを起こす。それが全く気にならないのか、なおも話を続けようとするので、司会が男をスピーカーから遠ざけさせた。
能無しが自分の名前を名乗る。何の興味も無いけれど回答時に必要なので手元の紙にメモしておく。その後、男は何事かに気付いたらしく、慌てた様子で言った。
「すみません、今の名前は間違っていました。私は自分の戸籍を売ってしまいましたので、今はもう、名無しです」
戸籍を売買したからといって名前まで失うわけではないだろうが、社会的にはそうなったも同然だ。私は男の名に斜線を引きながら問うた。
「それでは何とお呼びしたらよろしいでしょうか?」
男は、しばし考えた。
「名無し、名無しでお願いします」
戸籍売買は、この世界では犯罪に該当する。ここに司法当局の関係者がいたら、ここにおわす名無しはお縄になるのだ。それを知ってか知らずか、講習会の会場に漂う雰囲気は変わらない。この珍妙な問答に無言で耳を傾けている聴衆の胸中は如何に? と考え私は心中で答えを導き出した。この者たちもまた、名無しと似たような境遇にあるのだろう。だからこそ、自分が異世界から転生した者であるという思いに囚われて、そこから離れられずにいるのだ。
「質問と申しますのは、異世界への転生者は、元の世界に再転生することはあるのですか、という質問なのですが」
頭と尻の両方で質問という言葉を使っているせいか回文みたいになっているが回文でも何でもない。あえていうなら怪文か。
「異世界への転生者が元の世界へ再び転生することがあるのか、というご質問ですね」
私の質問に中年男は頷き、アイドル歌手か選挙の立候補者か何かのようにマイクを両手で握った。
「私は金欠で苦しみ、自殺を考えています。ですが、死んだ後に自分がどうなるか不安なのです。もし以前の世界に転生するのなら……あの世界に生まれ変わってしまうのなら、死ぬよりも恐ろしいことが私を待っている予感がするのです。そう考えると怖くて、死ぬに死ねないのです」
名無しは前世で王族の一員だったという。物心が付いて最初の思い出は王位をめぐる争いに敗れた一派の処刑シーンなのだそうだ。柵に囲まれた刑場に手足を縄で縛られた罪人が放り込まれ、続いて猛獣が放たれる。獅子や狼の群れであったり飛べない巨大な怪鳥や二足歩行の爬虫類であったり、時と場合によって死刑執行役は変わる。そのときはゾンビの大群だった。初めて目にした処刑の思い出は、自分を可愛がってくれた親戚のお兄さんやお姉さん、それに遊び相手だった友達全員がゾンビに食い殺されるもので、何分幼児なので何が何だか事情は分からないが阿鼻叫喚の惨劇を目の当たりにして普通ではいられない。引き付けを起こし倒れてしまう。それを見て新王となった父親が怒り出し「失神するとは我が子ながら情けない奴だ、父の敵が皆殺しになるところを近くで眺めよ!」と叫んで意識の無い娘を柵の近くへ抱いて運び、特等席で捕食の光景を見させようとしたら動きの素早いゾンビが新王の腕を肩から引き千切ってしまった。それが致命傷となり即位して一週間も経たず崩御して、王位在位日数の最短記録を更新したのだが、父の後を継いで王に即位した長男が何者かに一服盛られて死亡し、これが新記録となったのも束の間のこと。我こそは王にふさわしいと好き勝手に即位する輩が王族のみならず卑賎な生まれだが実力のある者まで次から次へと年寄りの顔のシミの如く湧いて出ては消え、どれが正式な在位最短記録になるのかも分からなくなってしまった。そんな中でも猛獣による人食いショーは絶えることなく続けられ、これだけ殺していたらいつか人がいなくなってしまうのではあるまいか、と危惧する者まで現れた。それが誰あろう、引き付けを起こして父の死因を作った幼児、すなわち現世の中年男の前世の姿である。その頃には十代手前の少女となっていたが、成長を喜ぶ者もいれば、父王の血を引く王位継承者である彼女をライバル視する敵もいて、その宮廷生活は危険がいっぱい、猛獣のいる柵の中で毎日を過ごすのと大差なかった。
そんなとき、新たなる大事件が勃発する。仲間割れしているので攻めやすいと判断したのだろうか、隣国が攻めてきたのである。宮廷は大混乱だった。そのときの王は少女の異母兄で、この人物は異母妹に対し病的な敵意を抱いていなかったのは彼女にとって幸運だったといえよう。都へ外国軍が迫るという非常事態にあって、異母兄の王は異母妹を田舎に疎開させようとした。彼女の母は早くに亡くなっていたが、その実家は地方に領地を持っていたので、ここに異母妹を預ければ、まずは安心との考えである。
安心できないのは異母妹つまり中年男の前世である少女だ。宮廷を追い出された者が最終的にどうなってしまうのか、彼女は悲惨な例を数多く知っていた。異母兄の方も、異母妹の安全を第一に考えて疎開させたわけではありまい。近くに置いておくと、いつ寝首を掻かれるか分からない。まだほんの小娘なので、そんな陰謀を企むとは思えないが、何が起こるか分からないのが政治の世界。先に布石を打っておくのが長生きの秘訣――と、兄妹の双方が思った。
兄は妹を厄介払いし、攻め込んできた外国軍との戦争に精力を傾けた。妹の方は、兄と外国軍の両方を殲滅する方法の研究に着手した。簡単にできることではない。常軌を逸した奇策を用いねば勝てないだろう。だが、様々な本を読んでも、これといった良策が書かれていない!
そんな中、解決のヒントとなる一冊が見つかった。天下三分の計が書かれた『三国志演義』である。彼女は諸葛孔明を召喚し、自軍の軍師に招こうとしたが、彼女の黒魔術では孔明を長い時間この世界に留めておくことが不可能だった。せいぜい一夏が限度だろう……ならば、その間に孔明をこき使って、兄と外国軍の両方を滅ぼすのだっ!
そんな虫の良い話が上手くいくはずがなく、召喚した孔明は三顧の礼で迎えなかった無礼者の彼女に仕えることを拒否した。ただし、戦略戦術の講義はして差し上げようと言ったので、彼女はそれで手を打った。かくして女王を目指す少女の夏季集中講義が始まる、その日の朝。彼女は目を覚まさなかった。何者かが先手を打ち、毒殺を試みたのだ。孔明の治療が功を奏し死を免れたとはいえ、意識を取り戻すまでには至らない。死んではいないが意識の無い彼女の魂が、何処にあるかというと、異世界の冴えない中年男の体内である。
その中年男が言った。
「ある日、私は気が付いたのです。自分は異世界の女王となるべき少女の生まれ変わりであると。そしていつかきっと元の世界へ戻り、自分を取り戻すだろうと」
それからマイクを持つ両手で顔を覆った。
「しかし、私が行く世界は修羅の世界です。血を分けた肉親が憎み殺しあうのが常態化している獣の道です。そんな恐ろしいところへ、私は行きたくありません。優しくて温かみのある人間らしい幸せな世界へ転生したいのです」
最良のアドバイスとは言えないが――と前置きしてから私は言った。
「悪役令嬢が弱肉強食の修羅の国でスローライフを目指す、というのはありだと私は考える。難しいと思うが」
中年男の頬に一筋の涙が流れた。
「私にできるでしょうか? この世界では落ちこぼれでした。それに私はロスト・ジェネレーション世代の典型と言われています。社会的には落第だと、上の世代からも下の世代からも笑われて……」
中年男の泣き言にうんざりした私は、きつめのセリフをかました。
「元の世界の君が目覚めないのは、君自身がそれを望んでいるからなのかもしれない。目覚めることのない異世界の娘さんには気の毒だが、それが君の望みならしょうがないね。困難の待つ運命に立ち向かうのは、負け犬の君には荷が重すぎるよ」
自殺を考えている人間に言うのはどうかと自分でも思ったが、自殺した後に別の異世界へ転生するとして、そこが眠る少女の中だとしたら、目覚めるや否や嫌でも運命を戦わねばならなくなる。そこから逃避すべく自殺を試みることは、まずあるまい。そうとも、悪役令嬢は自殺しないだろ(多分)。
中年男はさめざめと泣きながら礼を述べ、司会にマイクを返してから席に座った。
私は聴衆を見渡した。そして彼らに伝える。
「講習の途中でも、質問があれば受け付ける。どんどん手を上げてくれ」
C
否定的な意味合いで使われることの多い言葉に<旅の恥は掻き捨て>がある。自分を誰も知らない場所でなら、何をしても大丈夫なので好き勝手なことをしよう……という意味だと思われているが、その通り、実に正しいことを言っている。羞恥心に負けて自分を抑え込むのは恥ずかしいことだ。もっと、もっと、もっと己をさらけ出すべきなのだ。剥き出しの自我に陽光を、ときに寒風を、またある時は熱湯を浴びせろ。その刺激が、人を大きくする。公衆の面前で、満座の席上で、自分を見せつけろ。逮捕されそうになったら、すぐ逃げろ。
概ね上記のような発言をしていたら手を上げる者がいた。垢抜けない中年女だった。地味な顔で小太り、そしてツインテールが異彩を放ち、只者ではない雰囲気も、あるにはある。女は勝手に話し始めた。マイクの要らない野太い声だった。
「前世あーし、現世あーし、来世あーし。この三つのあーしがいて、それぞれ名前が違うんでげすが、今の自分の名を語るのは控えさせてもらいますです。あーしはバレンシア・オレンジの産地で生まれましたんでバレンシアと呼ばれていました。ああっと、そう呼ばれていたのは前世あーし、転生前のあーしです」
文字起こしされた発言を読むと分からなくもないが、彼女が話し始めたときは混乱した。彼女の話し方は呂律が回っていないのに早口だったので聞き取りにくかったし、おまけにこちらの困惑などお構いなし、説明抜きで固有名詞を繰り出してくるコミュニケーション戦のインファイターだった。
「アーシャとアーチャーはアッシャー家公認の恋人同士だったんだけど転生前の前世あーしは二人の仲を妬んでアーチボルト家に取り入ってアッシャー家に圧力をかけて二人を別れさせようとしたんでげすよ、ところが怒ったアーチャーが前世あーしに弓矢を射かけてアーシャが転生の呪いをかけたものだから現世あーしに転生したんですけど、これっておかしいですよね」
アルファポリス主催の異世界転生者向け講習会だというのに、なろう系小説にありがちな長ったらしくて粗筋の代用と化した刺激に乏しいタイトルみたいなセリフになってしまっているが、それは私の責任ではない。アルファポリスそのものが、なろうのエピゴーネンだからだ(おいおい)。
「人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて何とやら、という都々逸は前世になかったのかな? 都々逸のある文化圏ではなかったのかもしれないが、念のためにお尋ねしておくよ」
これが皮肉であると理解できるかどうか……彼女の返答次第で私の回答は変わってくる。質問の内容が分からないのなら、それに応じた答えしかできない。
「ごめんなさーい。ドイツには行ったことがありません。でも、その隣のオランダにはチューリップ・バブルの頃に行きましたです」
彼女に知性の欠片はあるようだ。私は心の中で安堵の溜息を洩らした。
チューリップ・バブルの崩壊による経済恐慌ついては経済学者の間で意見が分かれているようだが、異世界の泡宇宙は破れておらず、その多元性が無限である限り存在は否定されない。バレンシア・オレンジの誕生がチューリップ・バブルの時代より後年であることも同様だ。だからといってジャガイモ警察を揶揄するのは愚かしい。ある宇宙のある時代の、とある土地においては、ジャガイモが存在しなかったのは事実なのだ。ありとあらゆる可能性を否定できない、それが異世界の本質だ。
だから私は、あーし即ち転生前はバレンシアと呼ばれていた中年女の話を否定せず、傾聴……したいところではあるものの、訳が分からないので質問する。
「アーシャが転生の呪いをかけたので、この異世界に転生した。そして死後は来世へ行くことが決まっている、ということかな?」
「如何にもタコにも」
「そういった輪廻のサイクルに不満があると?」
「だって、あーしとアーシャは来世では絶対一緒になろうねって約束したのに、あーしだけこの異世界に飛ばされて、しかも次の来世は何だか分からない何かに生まれ変わるって決まっているですげすよ。それって酷くねって話っすよ」
「……未来は完全に決まっているわけではないよ。生まれ変わった先が何処で、自分が何になっているのかなんて、誰にも分からない」
中年女は首を横に振った。
「転生の呪いの恐ろしさを、講師の先生がご存じないとはねえ。何だかガッカリっすよ」
大袈裟に溜息を吐くところがわざとらしくて腹立たしい。文句があるならとっとと出てけ! と言いたいところをぐっとこらえて下手に出る。
「興味深い事例のようですね。詳しいお話を伺いたいです」
言葉遣いを改めて尋ねると、あーし御大は機嫌よく話し始めた。
御大将あーし様は鼻の陽性だったそうだ。間違えた。これでは末期の梅毒患者だ(待て待て)。花の妖精である。梅ではないよ(しつこいな)。バレンシア・オレンジの産地で生まれ冬の間は土に埋もれた球根の中でぬくぬくと眠る怠惰な毎日を送っていたあーしは、春が間近なある日、球根ごと船に積み込まれた。気が付くと、そこはオランダだった。風車と木靴とチューリップでお馴染みのオランダは、その当時の世界で最も繁栄した経済大国だったそうだ。ビジネスだけでなく文化芸術分野でも他国をリードし特に絵画は制作過程が先進的だった。個人のアトリエよりもむしろ資本家が経営する工房で生産される工芸品と化していたのだそうだ。その制作システムは分業制となっており高品質の作品を大量に生産可能とし、そこで生まれた絵画は後の時代に強い影響を与えた――と、あーしは語っていたが無限に存在する異世界の中には、そういう歴史を有するオランダがある、ということだけであって、これを覚えたところで読者が存在している異世界の歴史の試験勉強のためには何の役にも立たないと忠告しておこう。
とりあえず話の背景となっているのは、あーしがいたオランダは資本主義経済の先進地域であり、そこには美術の産業化に目覚めた商人階級がいて、そういった連中が芸術作品を作る工房を数多く運営していて、そういった工房の経営者の中にアッシャー家があり、そのお抱え女流画家がアーシャだった、ということらしい。春の訪れと共に目覚めたあーしは、あちこち飛び回って花々を咲かせた(それが花の妖精の主な仕事らしい)。そんなとき、咲きほころぶ花々をうっとりと見つめる美女アーシャを一目見て、あーし様は恋に落ちた。アーシャこそが自分の花粉を受粉すべき唯一の女だと確信したのだ――あーしは女なのか男なのか、よく分からない読者は多くいることだろう。あーしが言うには両性具有らしい。確かめる気になれないので、鵜飲みにするしかあるまい。さてアーシャの鼻粘膜から彼女の体内に入り込んだあーしは、内側から洗脳を開始した。手始めにアーシャの脳細胞を調べ上げ、彼女の最も好みのタイプに成りすまして、夢の中に現れたのだ。アーシャは痩身で女性的な外見の男性を好んでいたので、そういった形になり、夢の中で愛を囁いた。
気高い芸術家の魂は霊的な存在に高い親和性を持つようだ。優れた画家のアーシャが夢の中に幾度も現れる理想の男性(あーしが自らをバレンシア・オレンジの産地で生まれたと紹介したものだから、アーシャはあーしをバレンシアと呼ぶようになっていた)へ急速に傾斜していったのは無理からぬこと。ニンフのように優美な姿と化したバレンシアことあーしは愛の言葉を絶え間なく囁く。そうなると人は夢と現実の区別がつかなくなってしまうものらしい。二人でバレンシア・オレンジの産地へ行き、そこで結婚式を挙げようといった戯言まで真に受けるようになる始末。そればかりか、来世そして次の来世も一緒にいようと約束するありさまである。あーしことバレンシアはほくそ笑んだ。後は実体化してアーシャに種付けするだけだ。
その間にも、アーシャの現実世界での時は流れ、問題が発生する。まだ見ぬ恋人と夢の中で幾度も逢瀬を重ねるうちに、本業がおろそかになってしまったのだ。それに苦情を申し立てたのがオランダの有力な貴族アーチボルト家だった。
うら若き女流画家アーシャの名声を聞いてアーチボルト家はオランダ議会のエントランスホール真正面に飾る特大の絵画をアッシャー家に注文していた。納期までに注文品が納められないので、アーチボルト家の家令アーチャーが様子を見に工房へやってきた。そこでアーシャとアーチャーの二人が顔を合わせてしまったのが、あーし最大の誤算だった。アーチャーは、あーしことバレンシアと瓜二つだったのだ。アーシャは運命の男性と自分が巡り合ったと確信した。猛烈なアプローチを開始する。無論アーチャーはアーシャと夢で逢ったとか言われても困惑するだけだ。相手にするなよ! とアーシャの体内から殺気の入ったガンを飛ばしていたあーし様だったが、華奢な体つきでもオランダ独立戦争の英雄として知られる武闘派のアーチャーには効力が乏しく、いつしかアーシャとアーチャーは恋仲になってしまった。二人の仲を引き裂きたいあーしはアーチャーの雇い主アーチボルト家の当主アーチボルト・マクリッシュ・コーチャン氏の鼻腔から脳内に入り込み、あることないこと吹き込んだ。アーチャーは仕事の邪魔をしているからアーシャは注文の絵を描かない――この段階では、これは事実と化していた――等の夢の中の讒言を信じるほどコーチャン氏は愚劣ではなかったけれど、前金を払った以上は納品を求めるのが普通なので、アッシャー家に圧力を掛けたし、アーチャーには恋人の仕事を進ませるよう促した。
その一方で、絵画工房のアッシャー家は新たなるビジネスチャンスの到来を感じていた。アーシャは恋人のアーチャーを題材とした官能的な男性美の絵画を大量に描くようになっていたのだが、これが国内外で異常な評判を呼び、注文が殺到していたのである。とはいえアーチボルト家から依頼を受けたオランダ議会正面の絵画を放置させておくわけにはいかない。創作意欲が霧散しないよう注意しつつ、アーシャに仕事を急がせる。
こういった状況で、あーしは何をしていたかというと、恋敵アーチャーの体内に入り込み、その肉体を攻撃していた。アーチャーを殺し、その死後に現れて、今度こそアーシャをものにしようというのだ。愛の世界で官能に酔いしれる二人への怒りで頭がどうにかなりそうだったあーしは、なかなか死なないアーチャーに業を煮やし、禁じ手を発動させる。まずは魔力で地盤沈下を起こし、アッシャー家の屋敷を崩壊させた。次いであーしの匿名の密告で、アーチボルト家は他国への贈賄が発覚してしまう。重要参考人として議会で証言したコーチャン氏の権威は失墜、その手足となって動いたアーチャーは牢獄へ収監される恐れが出てきた。高跳びを試みるアーチャーとアーシャに、魔物へ実体化した花の妖精あーしが襲い掛かった――のに、返り討ちにあった無念は如何ばかりか。あーしの正体を知った恋敵アーチャーに弓矢で射られ、大好きなアーシャには異世界へ転生するよう呪われ、さらに来世の来世で何だか分からない何かに転生して絶対に姿を現すな! と罵られた自分って、可哀想すぎるっしょ……というのがあーしの話だった。
その通りですね、と私は言った。なおも何かを言おうとするあーしに司会が「まだ講習会が続きますので、この話はここまでをさせていただきます」と告げて、無理やり話を打ち切った。
私は聴衆を見渡した。そして彼らに伝える。
「講習の途中でも、質問があれば受け付ける。どんどん手を上げてくれ」
D
命より大事なものは無いという人がいる。それは本当だろうか? それというのは<命より大事なものは無い>の部分であって『命より大事なものは無いという人がいる』の文章全体を指していないつもりだが、講演の草稿を書いているとき、不安を抱いた。講演を聞く聴衆は指示代名詞を分かっているのだろうか? 分かるだろう! と絶対の確信を抱けないのが異世界転生者向け講習会での講演の難しさだ。元の世界では何者だったのか予想が付かない。まともな国語教育を受けていたのか、それすら分からないから厄介なのだ。ちなみに今『それすら分からない』と書いた中の指示代名詞「それ」は「まともな国語教育を受けていたのか」を示している……と書いておきながら、心配になってきた。それで、本当に正しいのだろうか? 左記の文の『それで、本当に正しいのだろうか』の「それ」は何を指示しているのか、と問われたら、何と答えれば良いのか。書いている本人も『それで、本当に正しいのだろうか』の「それ」が示すものを明確にできないのは、どうしたことか! ううむ、書いている自分の国語能力も怪しくなってきた。面倒だ、次行ってみよう! で済ませたくなる。それで済まして良いのか? 良いのだ。そう割り切ってしまえれば、どんなに楽か。でも考えているうちに、分かったような部分がある。指示代名詞は基本、前の言葉に掛かる。「後のそれ」と書いてあったとしても、この「それ」は前に存在する……はずである。知らん。やはり、分からない。それでも<命より大事なものは無い>という命題の答えは分かる。命より大事なものは在る。それは異世界だ。異世界無くして異世界への転生者はありえない。そして異世界が無ければ異世界転生者向け講習会は成り立たない。そうなると私に講演料が入らない。→→ここで笑い。そんな草稿を書いていて、思った。<命より大事なものは無い>は正しくない。<自分の命より大事なものは無い>が正解。他人の命ぃ? どうでもいいのだ、そんなものは!
そんなことを講習会で言ったら大ブーイングだろうなあ……と講演の草案を書いているときに考えたことを今、男性質問者の話を聞きながら思い出した。
「私は、この異世界に来る前は、野見宿禰と名乗っていました。日本という国号を有する皇国に生まれ育ち、当時の支配者に仕えておりました」
若い頃の彼は腕自慢の猛者で怖いもの知らずだったという。当麻蹶速なる剛の者との一対一の勝負で相手を蹴り殺した武勇伝は後々までの語り草となったらしい。そんな彼も、永遠に若くはいられない。他の連中と同じく、次第に老いていく。そして、いつしか彼は死について深く考えるようになった。
「昔は死ぬことなんて全然怖くありませんでした。いつだって全開バリバリです。どんな戦いだって平気、だからこそ勝てたんだと思います。それは一種の平常心ですからね。ですが、体にガタが来るようになると、そうもいかなくなって」
平常心を以(っ)てすれば死の恐怖を克服できるかと思いきや、心頭滅却すれば火もまた涼しの高みには達せず、老いと病と死に対する不安が頭から離れない。眠れぬ夜を過ごすうち、彼は若き日の死闘にまで思い及んだ。
「私が戦った当麻蹶速は、ベテランの試合巧者でした。もう若くありませんでしたが、ペース配分が上手くて、戦いを長引かせて、こっちが疲れてくるのを待つ作戦だったようです。その裏をかいて、ラッシュをかけて倒しました。そう、私は勝ったんです。でも、年を取るにつれて、試合には勝ったのに勝負に負けてしまったような気がしてきたんです」
かつて野見宿禰という最強の戦士だった男は、疲れた顔で咳を一つした。
「失礼。当麻蹶速は大和の国の最高の力士として、その絶頂期に戦いの場で死にました。一方、その後を継いだ私は、その後も勝利を重ねましたが、いつの間にか老いて、格闘技をする体ではなくなっていました。これは戦う男として恥ずべきことです。鍛えて鍛えて、鍛え抜いた体を失った私に、何が残されているというのでしょうか。何もありません。無残な老害がいるだけです」
男は再び咳をした。また謝って、話を続ける。
「それ以上、醜態をさらし続けることは、私には耐えられませんでした。ですから死のうと思ったのです。しかし普通の死は私の誇りが許しませんでした。栄誉ある死こそ、私にふさわしいと思いました」
まもなく宮廷を悲劇が襲った。支配者の妻が亡くなったのである。有力者や、その肉親が亡くなると殉死が普通に行われる時代だったので、その準備が整えられた。その支配者自身は殉死を好ましく思っていなかったが、長く続いた風習を変えることを好まぬ保守派が殉死の継続を強く主張したので、政局運営の関係上、彼ら保守派の意見に従わざると得なかった。
殉死の風習を変えないからこそ国家は安泰であり続けるのだ……という主張に科学的根拠は無いに等しいが、因習とは常にそういったものである。意見する者は国体を揺るがす反社会的勢力として排除されるのが筋というものなので、誰も表立って反対はしない。死ぬのが自分でさえなければ良いのだ。
そんな中でただ一人、野見宿禰は殉死に反対した。その理由を以下に挙げる。
①亡くなられたお妃様は、とてもお優しく、そして気高く、死を恐れるようなお方ではありませんでした。死出の旅路に共は無用とおっしゃられるに違いありません。
②殉死によって有用な人材を失うのは国家の安定を揺るがしかねません。それこそ、お妃様が望まれることではないでしょう。
③かつて、この島国に暮らしていた先住民は土偶という聖なる人形を死者と共に埋葬したと聞き及んでおります。現代においては焼き物の技術が発達しておりますので、土偶より精巧な像が作れると思います。これを以(っ)て殉死者の代わりにすべきかと存じ上げます。
当時の支配者は野見宿禰の進言を取り上げた。守旧派は反対したが「そんなに殉死を望むなら、お前たち全員が殉死せよ」と主人に言われたのか、最終的には殉死の停止に同意した。かくして殉死の悪習は終わり、代わりに埴輪と呼ばれる踊る人形が死者の魂に安らぎを与えるようになったのである――が、それはこの際どうでもいい。
「私は喜びました。これで私に、私だけに殉死のチャンスが巡ってきたのです。私は自殺を試みました。ですが、死にきれなかったのです。何度も死のうと思いましたが、怖くて死ねなかったのです」
死ぬに死ねなかった野見宿禰は、やがて病気になって死んだ。死の床で彼は思った。
「自分のエゴで殉死を止めさせたにすぎませんが。でも、私は死にかけながら考えました。これって、結果オーライじゃね。俺もしかして、凄くイイことしたんじゃね……そう思って、死んでいったんです」
彼はまた咳をした。酷い咳だった。それから口元をハンカチで拭った。私は彼に少し休まれたらいかが、と休憩を勧めた。彼は、もう少しだから、と話を再開した。
「殉死は良くないこと。私のかつての主人は、そう信じていました。私の進言は、主人の意を汲んでのものにすぎませんでしたから、殉死に良いも悪いも無いと思っていました。要は、自分だけの特別な死を迎えられたら良かったのです」
しかし、この異世界に転生し、またも死の病になって苦しむようになると、殉死に対する考え方が変わったのだという。
「故人への弔意を示すために殉死するのは自然なことです。それを止めようとすることは不自然なのです。いえ、亡くなった者に対してだけではなりません。生きている者に対して、自分の命を捧げる。これは気高い行為です、人間にしかできない、尊い、尊いことです。人に対してだけではないです。例えば思想、例えば国家、例えば宗教、例えば家族同然の動物。金のためなら命を捨てると断言する者だっているでしょう――主に他者の命でしょうが。とにかく命を捧げるべき対象は人それぞれですが、そのどれもが尊い行為であることに変わりありません。しかし、今の時代、殉死は禁じられています。殉死を心から願っているのに法律が許さないのです。これは法改正が必要です。変えなければならないのは、他にもあります。子供でも殉死はできるのに、大人がそうさせない。教育が大切です。何も知らない子供たちに命の大切さを教え、殉死の素晴らしさを伝える。それが異世界に転生した私の義務だと思うのです。ですが、私に、それだけの時間が残されているのか……」
最後の声はかすれていた。私は講習会場の外のロビーで休まれた方が良いと言った。水分を取り、ゆっくり休んで、それでも体調が戻らないときは、お帰りになった方が宜しいかと思いますと司会が言い、会場の後ろに控えていた係りの者たちに目で合図した。係りの者たちが、前世では野見宿禰だったという男を会場の外へ連れ出した。会場の後ろの扉が開き、静かに閉まる。
私は聴衆を見渡した。そして彼らに伝える。
「講習の途中でも、質問があれば受け付ける。どんどん手を上げてくれ」
E
セイガクさんセイガクさん、大それた夢を持っちゃア、いけないよ。身の丈ってものを考えないと駄目駄目ね。ヤドカリは自分の体に合わせた巻貝を背負うもんらしいけど、奴らは正しいね。もしかしたら人間様より、ずっと賢いかもしれんやね。結局さ、自分の器にあった生き方を目指せってこと。その生き方にフィットした相手を選ぶってこった。これ大事なとこね。それが一番、相性がいいんだよ、長続きするんだよ。付き合う相手だって、そう。ランクを考えないと、自分のランクを。デートするときだって同じ。見栄を張って借金して、高い店に連れて行くなんて無理な事、無理は言わない、やめときな。それが続くかい? 続かないだろ? 幸せなんてものはね、手のひらに載るぐらいがちょうどいいんだよ。こぼれるくらい持ってみな。指の隙間から落ちる幸せがもったいないってんで、全部を拾おうと四苦八苦しているうちに、すべてが落っこちてしまうんだとさ。
その昔、飲み屋のカウンターで隣に座ったオッサンが上記のような話を見ず知らずの私に語り出して大いに閉口したものだが、その話を今こうして、講習会で語っている。あのときのオッサン、話のネタをくれて、ありがとう。
そのとき私を隔てオッサンの反対側の席に座っていて、私が一生懸命口説いていた女性に顔立ちが少し似ている奇麗な娘さんが挙手した。それはノスタルジーがもたらした偶然か、ただの気のせいか、誰にも答えようがない。かつての自分に操られる錯覚に陥りながら、挙手した娘を指差す。
彼女は語り始めた。
「人は私を転生者だと言いますが、私は自分が異世界への転生者なのかどうか、分からないのです。ただの気のせい、あるいは、間違った記憶。もしもすべてが幻だとすれば、どんなにか幸せでしょう」
芝居がかったセリフだと思った。演劇部出身だろうか?
「私の前世の記憶は何もかも血で汚れています。生まれる前後の記憶からして、そうなのです」
母親の暖かな腹の中でスヤスヤ寝ていたら爆発音と銃撃音と女の悲鳴で目が覚めた、と思ったら急に明るく、そして寒くなったので驚いて泣いた。これが最初の記憶だった。何のことはない、戦闘に巻き添えで母親の腹が裂け、そこから彼女が出てきたということらしい。それでも死産せずに済んだのだから、臨月で幸いだったと言えなくもないが、だからといって神に感謝する気にはなれなかった、と彼女は語った。
「シングルマザーだった母を亡くした私は孤児となりました。同じような身の上の子供たちを集めた孤児院で生きながらえることはできましたが、そこは思い出したくもない地獄の毎日でした。それこれも皆、敵が私の母を殺したせいです。私は敵を恨みました。恨むこと憎むこと、そして敵を殺すことが私の人生のすべてになったのです」
その孤児院は単なる慈善団体ではなかったようで、みなしご相手の人体実験に励んでいたらしい。実験は成功でも失敗でも同じように被験者の大量死で終わるケースがほとんどだった。人道も人権もお構いなしの悪行だったが、それに目くじらを立てる者はいなかった。何しろ戦中である。食糧事情は悪化し、多くの者は飢えていた。食い扶持が減るのなら、それが一番なのだ。穀潰しどもの口減らし策として黙認されていただけでもない。食糧供給のために世間から求められる一面もあったらしい。何しろ市場には何の肉か分からない肉が高値で売られ、それにも買い手が付くくらい混沌とした世情である。身寄りのない子供なら何をしたって誰も文句を言わないわけで、実験に失敗して死んだ子供の死体を何なら売ってくれたって構わないよってな具合だったそうだ。
「そこで私は人体実験を受け奇怪な生物となりました。動物兵器となったのです」
どんな姿をしていたのか、彼女は語らなかった。こちらも尋ねない。話したくない過去は話さなくて良いのだ。
「私は貨車に乗せられて前線へ送られました。その貨車の中には私と似た境遇の子供や、大人になってから生体改造を受けた改造人間が大勢いました」
すし詰めの車内は何かのスイッチが入りがちなのか何なのか、発情した痴漢が数多く出没しただけでなく人間の形態を卒業し完全変態あるいは不完全変態を来す個体が多々現れた。それらの変化によるものなのか、満員電車に異臭や謎のガスが充満し床に液体が何処からともなく流れてきて乗客の靴または裸足それから蹄、個体によっては触手を濡らす。
「私に関しては、見た目は特に何も変わりありませんでした。痛くもかゆくもありません。ただ、満員の貨車に詰め込まれているのが辛くてたまりませんでした」
敵の度重なる砲撃や爆撃で線路は至る所で寸断されていた。列車は何度も停車を余儀なくされ、場合によっては迂回を強いられた。最前線が近づくと攻撃で切断された電線の修理が追い付かなくなり、電気機関車に代わって元気機関車が貨車を牽引するようになる。燃料用に加工された人間を吊るし選び抜かれた精鋭の機関士が特別に製造された精神注入棒で何度も何度も激しく殴打することにより発生した異常な熱気でタービンを回し発電する元気機関車は電気機関車に劣らぬ馬力を誇り、それでいて環境に優しい優れものだ。問題は線路が破壊されたら進めない点で、こうなると乗客は列車を下りて自力で目的地を目指すしかなくなる。
「翼のある個体は楽だと憧れる者が大勢いたものでした。地雷原を歩かなくても良いのですから。ですが敵のレーダーに捕捉されると対空砲の餌食になりますから地表ギリギリを飛びます。そうすると対空地雷に引っ掛かります。低空を飛ぶドローンや航空機を狙うため地中に埋められた兵器です。これにやられても死にますから、歩くのと比べればどっちもどっちなのですが、それでも空を飛ぶ方が好まれたのは、何なのでしょう? 私には分かりませんでした。飛んだ方が泥で汚れませんし、楽なのかもしれませんが、早く目的地に着きます。そうなると死にます。そんなに急いでも早く死ぬだけなのに、何なのでしょう、あの人たちは」
前世の彼女は動物兵器に改造されたのだが、それがどういうものなのか、詳細な説明を受けなかった。使い捨てなので高度な知能は与えられず、命令されるまま動けば十分という設計理念だったようだ。最前線に来て、自分が何になったのか、ようやく分かった。そうは言っても公式に伝えられたわけではない。並んで歩いていた顔中が目玉だらけの二足歩行の生物が彼女の体内を勝手に透視して、こう告げたのだという。
「娘さん、あんたは爆弾よ、爆弾に改造されているわ。敵陣へ突っ込んで爆発するの。そういう運命なのよ」
敵を道連れにして死ぬなら本望だと彼女は思った。核兵器で汚染された大地を歩き続けて最前線の陣地に到達したら、そこは敵の猛攻で陥落寸前だった。敵陣へ突撃するまでもない、今ここで爆発せよと彼女の体内に埋め込まれた発火装置を制御する安物の人工頭脳が命令を下す。命じられるまま、彼女は爆発した。すると、そこに異世界へ連絡する回廊が無数に開き始めたのだという。
「何が何だか、死んで霊魂となった私には分からず、混乱するだけでした。目覚めたら、この世界です。育児放棄されていた幼い私を親から引き取り愛のイニシエーションで高い次元に導いて下さった教祖様がおっしゃるには、罪深い汝は罰として霊的な壺を死ぬまで売り続けなければならないとのことでしたが、教祖様は多くの罪を犯して刑務所に収監されてしまいました。その後に入信した宗派の御宗祖様は私を愛人にして下さいました。彼は本妻を追い出し私を正妻にしてくれましたが、やがて別の女に心変わりして私を邪魔者扱いするようになりました。生活費をくれなくなっただけではありません。今までに与えた家や車を返すよう迫るのです。離婚しないと呪い殺すとまで……今までは、そんなこと絶対に言わなかったのに……私は自分が一人ぼっちになったと思いました。心の救いを求めインターネットでパパ活しましたところ、別の宗派の導師様とお知り合いになりました。彼は売春なんて恥知らずな真似は止せ、そんなことはしなくとも尻の穴を広げてさえいれば迷宮会に入れると私を新しい世界へ誘って下さいました……でも、私は痛くて、あんなことをされるのは嫌なのです。こんな酷い目に遭うのは、もうたくさんです。こんな思いをするのは、私が異世界への転生者だからだと、皆は言います。不幸なのは前世の罪なのだと。でも、それは本当なのでしょうか。私には分かりません……」
彼女は悲し気に言った。会場の出席者から啜り泣きの声が漏れた。羨ましいとのことも聞こえた。私は言った。
「転生者であるかどうかを決めるのは、あなた自身です。たとえ転生者だとしても、過去にどんな世界を生きていたのかは、今を生きるに当たって何の関係もありません。過去を忘れ、未来に向かって生きて下さい。新しい世界を作るのは、あなた自身なのです」
何の救いにもならないことを言っていると自分で自分に腹が立った。それでも彼女は頬をバラ色に輝かせ、私に何度も感謝してから自分の席に座った。物凄く騙されやすいタイプなのかもしれない。彼女の次のパトロンが良い人物であれば良いと、私は心から願った。勿論、お金持ちのパパでなくとも良い。どんな存在であれ、彼女に安らぎを与えてやれる人物であれば……いや、人でなくても構わない。金であれ、神であれ、愛玩動物であれ、彼女を幸せにしてくれるものであれば何だって良いのだ。
私は聴衆を見渡した。そして彼らに伝える。
「講習の途中でも、質問があれば受け付ける。どんどん手を上げてくれ」
そのとき司会が言った。次の予定がございますので、これを最後の質問にさせていただきます、と。
痩せた髭面が立ち上がったのは、その直後だった。質問を断ろうとする司会を私は制し、挙手した男に質問を促した。
「せっかくの機会だから、どうぞ。ただし、手短に」
F
痩せこけた髭面で半裸の男は頭に茨の冠をかぶり背中に十字架を背負っていた。手を十字架の横木に釘で止められているのでマイクを持てない。司会が男の隣に立ち、マイクを持ってあげた。男は司会に礼を言った。時間が気になっている司会はぎこちない笑みを浮かべた。男はマイクに向かって語り始めた。
「転生前の私は創造主でした。誰もな幸福で平和な世の中を作るために、出来る限りの努力を惜しまなかったつもりです。世界を創っただけではありません。悪へ流されがちな世を正すため、私は人々に訴えました。人類は皆、平等であると。そう、それが大事なことだと信じていたからです。さらに人々へ訴えます。友愛の精神に基づき、隣人を愛せと。それがたとえ敵であっても、互いを愛の対象とすることで争いは回避できると、私には思われたのです。私は創造主としての自覚と高い意識で布教活動に邁進しました。権力者によって処刑されるまでの三年に満たない期間でしたが熱心な信徒を得て信仰を地上に広めることが出来ましたので、充実した毎日だったと思っています」
異世界に転生する人間のほとんどは転生前の世界に対し良い思い出を持たない中にあって、リア充だったとは喜ばしい限りである。しかし創造主も鬱屈した思いを抱えているようだった。
「昇天した私は天国から地上の様子を眺めておりましたが、どうも様子がおかしいのです」
処刑された自分が生き返ったというデマが広がっていて、それを皆が信じ込んでいるので、とても困惑したと元創造主は語った。
「死んだ後に復活すると私が言ったのは、私自身ではなく平等と隣人愛の精神です。正しい考え方は、どれだけ厳しく弾圧されても滅びないのです……といったことを私は信者たちに語ったつもりなのですが、どういうわけか、私の死体が息を吹き返した! みたいなオカルト話になってしまって」
幽霊が見えるといった能力を有する人材は、その力の存在を絶対に口には出さない者を含めて少なからずいる。だから「創造主が復活した!」と言い出した人間が嘘を吐いたとは言い切れないわけだが、当の本人にしてみれば違和感があるのだろう。
「私が唱えた友愛の精神は曲解され、理性の欠片も無い愚民を操るための歪な宗教へ変貌してしまいました。これでは私の夢見た理想郷、神の国は地上に実現しません。もしも神の国が出現したとしても、それは本物ではありません。創造主である私の名を語る偽物が作り上げた偽の王国です」
そういうあなたが本物の創造主であるという保証も証拠も何もかも何処にも無いですよね! と論破することは出来ない。なぜなら異世界へ転移したと称する者に、その手の言い方は禁句だからだ。それを言ったら元も子もない、というだけでない。この世界に溶け込めず、疎外感を抱いている自称”異世界からの転移者”に向けた講習会は、不発弾除去作業にほかならないからだ。危険分子は抹殺しなければならないのだ……そして今、不発弾が発見された。この自称”元創造主”は、我々の社会秩序を乱す存在になりかねない、と私は判断した。
不発弾男は言った。
「創造主としての私は失格の烙印を押されたようなものです。誰もが幸せな神の国を創ろうとして、失敗したのですから。ですが、今度こそ、この異世界を楽園に変えたいのです。皆が幸福な世の中を実現したいのです。私は救世主になりたいのです。今度は失敗しません。理想郷を作りたいのです」
次こそ、失敗しません! と言い切る奴ほど信用できない者はいない。救世主志願の男には、後で詳しく話を伺うといって席に戻ってもらった。司会が「そろそろ終わりの時間が近づいて参りました」と名残惜しくもなさそうに言う。私は講習会のまとめに入った。
「約一か月にわたる講習会に参加していただき、本当にありがとう。【世界が世界を語るセカイ系を目指す】と書いておきながら、目指す場所にたどり着けなかったことを詫びたい。それというのも、私が『セカイ系』というものを理解していなかったからだ。九月三十日の二十三時を回った段階で、慌てて答えを探している現状だ。さて『セカイ系』とは何か? この世界に対する作者/読者の解釈あるいは捉え方が『セカイ系』なのではないか、と私は今、漠然と考えている。それでは『異世界もの』とは何か? この世界に対する作者/読者の反感ではないか、と私は根拠もなく思い込んでいる。わざわざ『異世界もの』へ行かなくても『セカイ系』で十分なのに、どうして別のセカイへ行かねばならないのかというと、フィクションの世界であっても、この世界にいたくない、その気持ちの表れなのではあるまいか、と」
聴衆の反応は薄かった。だからどうした、というのが彼ら彼女らの本音だろう。私も本音を語ることにした。
「当初の考えでは、私の正体は、この『世界』そのものにするつもりだった。そして登場人物に物語を語らせる『千夜一夜物語』や『デカメロン』のような枠物語の形式で、五万字を突破するのが目標だったが、終わってみると目標の半分にも達していない。従って、この小説は失敗作と断じて構わないだろう」
それでも――私は付け加えた。
「連載小説という形式に初めて挑戦して、分かったことがある。第一話以外のタグは無いみたいだ。もしかしたら、何処かにあるのかもしれないが、それを見つけ出すのは今回は無理だろう」
最後に私は言った。
「ここまで付き合ってくれた方々にはお礼を申し上げる。何かの機会があれば、講習会を再び開催したい。不思議な法則がまかり通る異世界のことだから、時間が巻き戻って最初から違った形の講習会が開かれるかもしれないが、先のことは分からないので、とりあえずは、この辺で、お別れしよう」
司会が言った。
「本日は講習会にご参加いただきまして誠にありがとうございました」
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
続いてはマントハ・デ・ラ・ラムモという名のコマンドの体に記されていた文章である。文中のルビが多かった。
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3 マントハ・デ・ラ・ラムモ:才覚のある貴族の貴公子。職歴無し。
貴女が転校してしまうと知った時の衝撃から、実は今も僕が立ち直れずにいると貴女が気付いたら……僕が貴女を愛していると知り嬉しさのあまり頬を染め、それから急に恥ずかしくなって下を向き、それでも僕の正直な想いに応えてくれる! なんてラッキーな展開はあるだろうか? それとも僕と同じ気持ちになって涙ぐんでくれるのだろうか? あるいは顔を真っ赤にしてゲラゲラ笑うだろうか? 多分それだ。ああ、笑いたければ笑うがいいさ! その方が僕らの関係に合っている。さっぱりした気分で、笑って別れられたら、それでいい。しばらくは落ち込むだろうけど、いつか気分スッキリな朝を迎えられるだろう。
そんなことを思いながら泳いでいたせいで僕は点検中の対潜網に絡まった。鋭い棘の密生する硬い鱗は、こういう時に厄介だ。第二次性徴が進むと棘の長さを調整できるようになるというけれど、その兆しは、僕にはまだない。仕方がないので棘に絡まった網を星状腕の指で取ろうとしたら、その指の棘まで絡まって、もっと酷くなってしまった。格闘戦用腕の巨大な鋏で網を切ってしまおうかと考える。だけど防衛設備管理マニュアルには〔防御品目の修復は破損させた者が行うこと。直せない場合は弁償〕と書いてあったような気がして、やめた。壊したら弁償は、僕の記憶違いかも……と思ったけど、確信が持てないからにはやらない方が良いに決まっている。網を切ったら自分の責任で直すなり賠償するなり、とにかく何とかしなければいけないということだからだ。それは大いに困る。海中に張られた対潜網は普通のネットではないのだ。人類の潜水兵器が発射する索敵用超音波を吸収する特殊繊維のハイテク網で、とても高額なので、苦学生の僕では絶対に弁償できない。
左右二十対の作業腕から伸びる鋭利な鉤爪で網を切断しないよう注意しながら、棘を外す。その間、触角と耳と微弱電流検知器官と八つの複眼で付近に怪しい陰影が現れないか気を配る。人類が送り込む潜水兵器は僕らを見つけたら魚雷を撃ってくるから、いつ何時でも用心、用心……していてもやられるときはやられるけどね。父は魚雷の直撃で死んだ。母は腹部を半分くらい吹き飛ばされたそうだけど、雌は雄より治癒能力が高いので助かったそうだ。そして僕が生まれたらしい。腹を半分以上吹き飛ばされていたら、僕はどうなっていたのだろう?
僕は父より早く死ぬかもしれないけど、それでも何とか子供を残したいな、できれば貴女と……なんてセンチメンタルな気分に浸っていたら、また失敗をしてしまった。頭上に急降下する黒い影に気付くのが遅れたのだ。人類には潜水兵器以外に航空兵器もある。空から爆弾を落としたり機銃掃射してくる航空兵器による犠牲は多い。その仲間入りをしてなるものか、と格闘戦用腕の巨大な鋏で網を切りかけたとき、頭にテレパシーが聞こえてきた。
「エヌエイ児五号、エヌエイ児五号、網に絡まってんのかよ!」
貴女の声だった。僕は鋏を止めた。ちなみにエヌエイ児五号とは僕の呼び名だ。父のエヌ氏と母のエイ氏の五番目の子供という意味である。
僕の頭上でビィィンと羽音が鳴る。貴女の背中に生えた八枚の翼が羽ばたく音だ。その喧しい音に負けないくらい、気に障る笑い声が僕のテレパシー受容器に響く。
「ギャハハ、ドジ踏みやがったな! 網の点検してて網に絡まるなんて、ドジっ子すぎるだろ!」
何もかも貴女のせいだ……なんて恥ずかしすぎるセリフは耳まで裂けた口がもっと裂けても絶対に言えない。代わりに悪態をつく。
「うるせーバカ! どっか行け!」
僕の頭上に静止して貴女がゲタゲタ笑った。
「パトロール飛行中だから、すぐに行くさ。だけど、私がどっか行ったら困るのはお前だろ? 網に引っ掛かったまま、ずっといる気かよ」
僕は黙り込んだ。まだ対潜網の点検が終わっていない。僕らの居住地がある海上浮遊島をぐるりと取り囲む対潜網の点検は、とても時間が掛かる。ここで手間取っている間に、万が一の事態が起きるかもしれないのだ。自分のミスで皆を危険にするわけにはいかない……というだけではなく、貴女と少しでも一緒にいたかったから、僕は素直に頭を下げた。
「分かった、助けてくれ」
ゲヘヘと貴女は笑い腹に生えた無数の触手を海面下に伸ばした。僕の棘に絡まった網を丁寧に外していく。貴女の触手が僕の棘に触れるたび、心がビクンビクンと震えた。
「おい、あんまり体を動かすな。棘がつかめないだろ」
貴女にそう言われて、自分の体が脈動していることに気付いた。体の震えを我慢しようにも、意識すればするほど抑えられなくなる。体がムズムズしてくる。
「震えが止まらないのか。よし、分かった。刺すぞ」
貴女は尾の毒針を僕の鱗の隙間にブスリと刺した。僕は「ひやあ!」と悲鳴を上げた。
「弱めの麻痺毒を打った。死なないけど動けなくなる」
なるほど、体の震えは止まった。体のムズムズも我慢できる程度になってきた。その間も貴女の触手は動きを止めず僕を網から放していく。
「もうすぐ終わる……よし、取れた!」
その時を待っていたわけではないだろうが、その瞬間、僕は魚雷の発射音を聞いた。こちらへ向かってくる魚雷は四本。高速で水中を移動する。僕は迫る魚雷へ向けて顎の毒腺から泳動痰を吐けるだけ吐き出した。鞭毛運動で泳ぐ黄褐色の痰を魚雷にぶつけ爆発させるつもりなのだが、幼生体の僕は放出量が少ないから、それで上手くいくとは限らない。そこで僕は、この場から早く離脱しようとした。対潜網の内側にいるので魚雷に直撃される恐れはないけれど、その爆発に巻き込まれると、それだけで致命傷になりかねないから、全力で逃げる。
何とか逃げ切れるだろう……と僕は思ったけど、考えが甘かった。貴女に打たれた麻痺毒のせいで、背びれも尾びれも動かないのだ。
不器用にドタバタするも前に進まない僕を、貴女は巨大な足の鉤爪でひっつかみ、そのまま空高く飛び上がった。僕らの下で魚雷が爆発し、水しぶきが盛大に上がる。海の中と陸上で生活する僕は空に縁が無く、海洋種族の生まれつきの性質で高所恐怖症なので、それこそ死ぬほど怖かったけど、四本の魚雷が同時に爆発した海にいたら死ぬのは間違いなかったので、これで助かったのは確かだ。
貴女は波打つ海を見下ろしながら空中を旋回した。魚雷を撃った人類の潜水兵器を探しているのだろう。しかし、そう簡単には見つけられない。深く潜った敵を見つけるのは、空からの目視では不可能だ。僕は貴女にテレパシーを送る。
「早く味方を呼ぼう。どれだけ視力が良くても、深く潜った敵は見つけられないよ。大人を呼ぶんだ。島の基地から呼び寄せよう。でも、この距離だと基地までテレパシーが届かないかもしれない。二人のテレパシーを合わせてパワーを増強させて、それでも届くかギリギリの距離かな。さあ始めよう。すぐに呼び出せば、敵は逃げきれない」
僕の提案は理にかなっている、だから貴女はテレパシーの同一化に応じる……かと思ったら、違った。
「いや、絶対にいや。テレパシーを合わせるのは、死んでも嫌!」
「死んでもイヤって……何を言ってんのさ、死ぬところだったのは、こっちだぞ」
「テレパシーを同一化すると、私の心を読まれるから嫌」
テレパシーを合わせると、お互いの心が見えてしまうことがある。知られたくない部分や隠しておきたい本音が読まれてしまうのだ。それが嫌なのだと貴女は言った。僕は説得を試みる。
「そうは言っても、これは戦争。生きるか死ぬかの瀬戸際で、そんなことを言っても」
人類とのは戦いは、一種の生存競争だ。人類が勝つか、人類が化け物と呼ぶ僕たちが勝つか、勝敗の行方は見えてこない。勝つために、僕たちみたいな半分ぐらい子供も動員されている。海洋生物の僕は海軍兵学校で勉強しながら戦っているし、飛行生物の貴女は海軍の予科練で戦闘訓練中で、もうすぐ生まれ故郷の海上浮遊島を離れ本土の空戦アカデミーに転校し、そこの訓練生となる予定だ。それもこれも、この闘争に勝つため――みたいな話をする前に、貴女が言った。
「お前とはテレパシーを合わせない。絶対だ! 文句を言うなら海に叩き落す。また魚雷を撃たれても助けない。私は本気だぞ!」
まだ麻痺毒が効いている僕は貴女の意見に従うしかなかった。島の方角へ移動しつつ、二人はそれぞれ別にテレパシーを飛ばした。敵の潜水兵器から攻撃されたことを伝えると、直ちに味方がやってきた。僕らみたいな子供よりずっと大きな成熟した個体が十数匹、空と海を凄い速度で進んできて、敵影を探した。だけど、遅すぎた。潜水兵器は遠くへ逃げたのだ。それでも、またやってくるだろうと大人たちは噂し合った。
海上浮遊島の基地へ帰還した僕ら二人は司令官から、テレパシーの同一化をしなかった理由を問い質された。やろうとしたけどた無理だったと僕らは答えた。司令官は、その答えに納得した。子供には難しいのだ。ちなみに大人なら、互いの心を読まれずにテレパシーの同一化が可能だ。要するに僕らは、子供すぎたのだ。
司令室を出た後で、僕は貴女にあらためて助けてもらった礼を言った。貴女に頭を下げるのは少し癪だけど、愛の告白をするより気分は楽だ。楽しくはないぞ! いくら貴女のことが好きでも、こっちにだってプライドがある。貴女は僕の想いに気付かないまま、さっさと廊下を飛び立った。僕はポカンと大口を開けて空を見上げた。息苦しかったからだ。貴女の後姿を見ていると、胸が痛くなるのだ。
僕らは小さな子供だった頃からライバルみたいなものだった。主に海中で生きる僕と空を飛ぶ貴女は、接点が海面ぐらいしかないけれど、まあ幼馴染と言っていい。どちらが早く大きくなるか、競争したよ。そして僕は負けた。飛行種族の貴女は僕ら海洋種族より小柄なはずだが、規格外の成長ぶりだった。大人たちが貴女を、大きくなったら空の英雄になれると褒めていたのが悔しかった。その気持ちがいつしか憧れに、そして愛へと変わっていった。その心理は、自分でも不思議だ。ともあれ初恋かと訊かれたら、そうだと答えよう。種族が違うから、結ばれるのは無理だとしても、それでも好きなのだ。顔を合わせれば喧嘩ばかりだから、僕が愛を語っても信じてもらえないだろうが。
いよいよ貴女が転校する日が迫ってきた。告白する気はなかったが、僕の棘を貴女の触手が触れた日から、考えが変わったよ。複数の単眼と真っ白な頬と鋭い牙の生えた貴女の顔が、羞恥で真っ赤になる瞬間を見たくてたまらない。断られるかもしれない。激怒されるかもしれない。もしかしたら尾部の毒針で刺殺されるかもしれない。でも、勇気を出して告白したい。少年兵の僕は、いつ死ぬか分からないのだから、後悔したくないのだ。
そんな僕は、子供らしくないと判断されるかもしれない。そう思われたら僕は「そっすね」と言うしかない。子供だからという理由で、愛の告白が許されない世界は、ずいぶんと不自由だとは思うが……まあ、それは僕に関わりの無いことだ。とにかく、貴女に告白する。貴女が転校する前に。僕が魚雷の的になって四散する前に。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
次は”警備員の”という二つ名のある人物クアンルンリントの体に記されていた文である。”懲りない男”シュールス・ルッケリング・ブースミス提督の訳文と構成を変えたが、内容は変えていない。
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4 ”警備員の”クアンルンリント:流刑囚。退役軍人。
私がコソ泥のマンキウィッツ・メンジンズキッギーと知り合ったのは、警備員のアルバイトをしていたときだ。とある町の大商人の店――何とか商会とか言ったが、もう名前は忘れた――の広大な敷地内を懐中電灯片手にグルグル回っていると大きな物音が聞こえた。私は怯えた。咄嗟に逃げようとしたのだけれど、手にした懐中電灯を落としてしまい、その懐中電灯につまづいて転んだところでパニックは収まった。夜警のバイトを始めて数日だが、その前はしばらく軍隊にいた。そのときだって基地の敷地内を夜間パトロールしていたのである。あのときも夜中に変な物音は聞こえたが、何事もなかった。あのときも武器は携帯していた――そして武器を使わなかったではないか! そう考えて自分を奮い立たせ、物音がした方へ向かう。
私の担当地域は川岸の倉庫群で、その対岸は入り江の中州だった。そこには工場や発電施設があって夜景が綺麗な場所として一部の人間には知られていた。若者のデートスポットでもあった。ただし、ここに勝手に侵入するのは不法侵入だ。それを知ってか知らずか、入ってくる奴らが絶えないので、私のような臨時雇いの警備員が必要とされる。そういった連中を相手にするのなら、懐中電灯で照らして怒鳴りつけるだけでいい。腰に下げた警棒を振り回すこともないし、拳銃を引き抜くなんて絶対にありえない。そもそも私は兵隊の頃から銃の扱いが苦手だった。誰かを打つ前に自分の足を撃ちそうな予感がするので、そういう事態は御免被る……とまあ、そんなことを考えつつ立ち並ぶ倉庫の間を歩く。物音は、この辺から聞こえたかな。そう思い、角を曲がると倉庫の横に立つ平屋の家屋が見えた。倉庫で働く労働者向けの食堂だった。入り口の明かりが付いていた。その扉が開いている。嫌な予感が足の先から頭のてっぺんまで満ちてきた。私はトランシーバーで警備員の詰め所を呼び出し事情を説明した。警察に通報するよう要請すると、詰め所にいた奴は中に入って盗人がいるかどうか確認して来いと言う。冗談じゃない! 強盗と鉢合わせしたらどうすんのよ! と私は小声で抗議したが、向こうは取り合わない。そうするよう警備マニュアルに書いてあると言う。そんなことは知らん! と突っぱねたら相手もギャーギャー喚き出したので、こちらも負けずに大声を出した途端、食堂の扉の中から大きな物音が聞こえた。私は思わず悲鳴を上げてしまった。食堂の中に泥棒がいるとしたら、聞こえたに違いない。私は「近くに誰かいる、すぐに警察を呼べ」と言ってトランシーバーを腰のホルターに戻し、代わりに拳銃を手に取った。しかし、食堂に入る気にはなれない。相手が銃を持っていたら? 警備マニュアルに何が書いてあるのか知らないが、私はマニュアル人間じゃない。自分の意志で行動する。だから私は、警察が駆けつけてくるまで待つつもりだった。いつまで経っても誰もやってこない。私は懐中電灯と拳銃を片手に持ち、違う手でトランシーバーのスイッチを入れた。
「もしもし、警察はまだか?」
「警察には連絡していない」
「何で、どうして!」
「俺はマニュアル人間だからだ。マニュアルに書かれたとおりにやる」
「相手は武器を持っているかもしれないんだぞ! 中に入ったところを刺されたら、どうすんの。撃たれたら、誰が責任を取ってくれるの? 死ぬのは御免だ。やってられん。こんな仕事、今すぐ辞める。辞めてやる!」
確か、そんな風に叫んでいたときだった(発言の全部を覚えているわけではないので、間違いがあったとしたら申し訳ない)。食堂の扉が大きく開いた。中から大きなドラム缶や一斗缶を幾つか満載した台車が出てきた。それを押す男は荷物運びが大変そうだった。体の前に中身がいっぱい入って膨れ上がったリュックサック、背中に冷凍肉の塊を背負った姿が入り口の明かりに浮かんだとき、私が真っ先に思ったのは「マシンガンやショットガンは持っていないな」だった。私は壁から顔と懐中電灯を出して叫んだ。
「動くな! こちらは銃がある。動いたら撃つぞ!」
盗人は口にくわえていたパンの塊を落とした。私は続けて怒鳴った。
「その場に伏せろ! すぐにだ! さもないと撃つ! 言うことを聞け。動いたら撃つからな!」
その場へ伏せた泥棒が手を伸ばした――落ちたパンを拾おうとしたらしい――ので、私は警告のために一発だけ空中に発砲した。銃声は大きく響いた。あまりに大きな音だったので対岸の工場街をパトロール中だった警官が異常に気付き警察署へ連絡してくれたそうだ。その警官が詰所にいたマニュアル人間の代わりに通報してくれなかったら、私は朝まで盗人と二人っきりの時間を過ごしていたかもしれない。他の警備員に案内された警官たちが私のところへ来てくれたので、私はお役御免となった……かというと、そうでもない。調書の作成のため警察署へ行かねばならなかったし、食堂から食料を盗もうとした盗人の顔をマジックミラーの向こうから確認しなければならなかった。
「夜で暗かったですし、一瞬のことでしたから、犯人の顔ははっきり見えませんでしたよ」
私はそう言ったが、念のためということで面通しをさせられた。そのとき私は初めてコソ泥のマンキウィッツ・メンジンズキッギーの顔をじっくり眺めた。なんてことはない、普通の男だった。あの男です、と私は適当なことを言って警察署を離れた。それで私と彼の関係は途切れた、と思った。だが、そうではなかった。
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商店街の年末福引大会で無料の温泉旅行券一枚が当たった私は年明けに、とある旅館へ一泊しに出かけた。平日だったので旅館は泊り客が少なく、浴場は空いていた。大きな浴場の湯船に浸かり、浪花節をビバノンノンしていたら、話しかけてくる男がいる。自分は傷痍軍人だが、貴方とは以前どこかで会ったことがあり、軍隊の基地か野戦病院で会ったのではないかと考えたが確証はないけれど、そちらは覚えていないか? と聞いてきたので知らないと答えた。相手の男は私の返答を聞いた後も、しばらく記憶を遡っていたようだが、そのうち思い出すのを諦めたらしい。そんな昔のことを考えていてもきりがないだろうし、考え込んでも頭の傷に良くないだろうから、ボケっとしているのが一番だ。そうそう、ゆったりした気持ちで、のんびり古傷を湯治で癒すのも悪くない……なんて考えていたら、思い出した。隣にいる奴は、警備員のアルバイトをしていたときに食料を盗もうとして捕まった泥棒だった。名前は、何と言ったかな……と、思い出そうとしたが思い出せない。尋ねるのも何だった。何と言っても、こっちはこいつに拳銃を突き付けたのだ。それに、捕まったことを恨みに思っているかもしれない。私が悪いのではなく、こいつが悪いのだが、そう考えないのが盗人というものだ。そういう根性の人間が身を持ち崩すのだ。そんなことを考えていたら、隣にいる男が湯船から上がった。浴場をそそくさと出て行く。奴さんを捕らえた、あの日のことを思い出されても厄介なので、少々時間を開けて風呂から上がる。あの男は、まだ脱衣場にいた。まだ裸である。私を見ると「おや」という顔をして、それから服を着て脱衣場を出て行った。私は脱衣籠の上に置いていたバスタオルを手に取った。違和感が湧いてきた。バスタオルをあった場所が、私の置いた位置と違う気がしたのだ。着替えの置き方も変に思われた。一番上に置いていたはずの肌着が衣類の一番下にある。あの盗人の顔が頭に浮かぶ。まあ、貴重品は持ってきていないから……と思い、自室に戻る。念のために金庫の中を調べる。何も盗まれていなかった。
夕食後、温泉街へ出た。赤ちょうちんに照らされたホロ酔い気分で歩き、湯煙が漂う川に架かる橋を鼻歌を歌いながら渡り、真冬の星明りを見上げたりライトアップされたダムを遠くから眺めたり、といった具合に散歩していたら建物と建物の間の木立から何者かが走って出てきた。大いに驚いた私は「うわっ!」と大声を上げた。飛び出して来た男は、私の叫びを聞いてビクッと震えて立ち止まった。照明が男の姿を照らし出す。私と男の目と目が合った。あの男だった。男は私に言った。
「悪い奴らに追われているんだ、誰かに聞かれたら、あっちへ行ったと言ってくれ、あっちだよ、あっち!」
そう言って指で示した方向とは逆に突っ走る男を、私は唖然と見送った。やがて数人の男が、例の男が出てきた木立の中から走って出てきた。凶悪な面構えをした男たちだった。私に気付いて「今ここに逃げて来た男は、どっちに向かった?」と訊いてくる。私は正直に言った。人相の良くない男たちは、例の男が消えた方向へ走って行った。酔いがすっかり醒めた私は宿に戻った。寝る前に再び入浴する。あの男、また何かやらかしたのか? それとも本当に、悪い奴らに追われていたのだろうか? 風呂から上がり部屋に戻って寝床に入るまで、そんな疑問が頭の中をグルグル回り続けていたが、いつの間にか寝てしまい、答えが出ないまま朝を迎えた。
翌朝、朝食の会場に向かう途中で、私は旅館の正面玄関前を通ったのだが、旅館の外に数台のパトカーが停まっているのが見えたので、フロントの従業員に「何かあったの?」と尋ねたら「客の中に泥棒の容疑者がいたようです」とのお返事で、ああアイツかと思った。
「何を盗んだんだろう?」
「詳しくは分かりませんが、暴力団の事務所に空き巣に入ったところを帰って来た暴力団員に見つかったらしいです」
あの男を追いかけていたのは暴力団員だったのか! あいつらに捕まらなかったとしたら、幸運だったな、と私は思った。同時に、少々ホッとしていた。男の逃げた方角を私が正直に言ったせいで、あいつが暴力団員に捕まり半殺しにでもされたなら、泥棒とはいえ心苦しい。
私はしばらくの間、その場に立ち止まっていた。あの男が捕らえられパトカーに乗せられる光景を見物しようかと思ったのだ。しかし、それは悪趣味な感じがしたので、朝食会場へ向かった。朝はバイキングだと聞いていたので、ここで食いだめして夜までもたせようとか、食べ過ぎると動けなくなるかもとか、色々と阿呆なことを考えていたら、手錠を嵌められた男と連行する警官たちと廊下の途中の曲がり角でバッタリ出くわした。
手錠姿のあの男と警官の組み合わせを見て、私は男の名前を思い出した。マンキウィッツ・メンジンズキッギーだった。確か、そうだ。
マンキウィッツ・メンジンズキッギーとかいう名前の男は私の顔を見て、またも「おや」と首を傾げたが、そのまま警官たちに連行されていった。私は朝食会場へ向かった。給仕の男性に「警官がいたけど、何があったの?」と訊くと「今さっき朝食を食べていた客が逮捕された」とのことだった。
食べ終わってから逮捕されたのかと訊いたら、そこは分からないとの返答だった。食いかけで捕まったら可哀想だと感じた。それは、あの男が口からパンを落とした光景が目に焼き付いているからだ。しかし、どっちであろうが、私の知ったことではない。そんなことを考えながら朝食を食べ終えた。思いっきり食べたつもりだったが、昼過ぎには空腹を感じ、帰り道で食事を摂った。取調室で犯人が店屋物のカツ丼を食べるドラマを最近は見かけない、と思いつつラーメンを啜る。マンキウィッツ・メンジンズキッギーは取調室で何を食べているのか? とも、少し考えた。それは分からないけれど、いずれは臭い飯を食うことになると思った。前に逮捕されたときから、それほどの時間が経っていないが、監獄飯が忘れられないのだろうか。私には、よく分からない心理だった。
夕食は食べないつもりだったが、結局は食べた。その頃にはマンキウィッツ・メンジンズキッギーの名前は忘れていた。
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マンキウィッツ・メンジンズキッギーとの三度目の出会いは、私が鉱山で働いていたときだ。海の底まで掘り進められていると皆に信じられている坑道の奥底で、私は落盤事故に遭った。幸いにも死なずに済んだが、手足の骨を折る重傷で長期にわたる入院生活を余儀なくされた。絶対安静を命じられ退屈な毎日を過ごす私の慰めとなったのは病室の窓から見える草花と回診に訪れる偽医者マンキウィッツ・メンジンズキッギーとの他愛のないおしゃべりだった。
奴さん、どこでどう手に入れたのか分からないが、医者の免状を持って鉱山に併設された診療所で働いていた。毎日やってくるのではない。たまにやってきて、怪しげな診療をやって、報酬を貰って帰るのだ。それで誰からも疑われず、当然だが捕まりもせずにいるのだから、金に困っている人間は医者の振りをして大金を稼ぐか医学部を目指すべきだろう。
さて私と偽医者となっていたマンキウィッツ・メンジンズキッギーの再会は偶然で突然だった。ベッドの上で全身を固定され身動き取れずにいる私に看護師が「先生の回診です」と言ってきた。だからといって私に何ができるわけでもなく、いつものように黙って天井を眺めていたら、視界の端に黒ぶち眼鏡とマスクと額に大きな丸い鏡を付けた白衣の男が見えてきた。いつもの主治医ではない。代診なのか? と疑問に思いつつ、いつもの質問である「いつになったらギブスを外せるのか?」そして「いつになったら退院できるのか」を今回も尋ねたところで代診の医者なら
尋ねても「分かりません、主治医の先生にお尋ねください」で終わるかもしれない、しかしそれ以外に聞きたいことはないよな~とか悶々と考えていたら、いつの間にか回診は進み、自分の番が来た。
ベッドの横に立った男の顔は大きなマスクで覆われていたし、黒ぶち眼鏡で目の周りの雰囲気が違っていたし、変に大きな丸い鏡で印象が前と違っていたせいで、これがあのコソ泥マンキウィッツ・メンジンズキッギーだとは一目で見抜けなかったものの、その声を聞いたとき記憶が蘇った。
「何か変わりはございませんか?」
そう言った医者の顔を、私はじっと見つめた。向こうは私の顔ではなく手元のカルテを見ている。私はしばし沈黙してから「あなた以前に盗みをやって捕まっていますよね」と口に出しかけて、止めた。私の勘違いだと思ったのだ。誤解で失礼なことを言って向こうが機嫌を損ねたために入院が伸びたら大変だ。私はギブスを外す予定や退院についての質問もしないことにした。
「何もありません」
そう答えるとマンキウィッツ・メンジンズキッギーは「お大事に」とおざなりなことを言って次のベッドへ向かった。回診後、看護師に「さっきの医者は見かけない顔だけど何者なのですか?」と聞いてみたら、普段いる先生方が出張で不在の時に応援に来てくれる医者だとの返事だった。その日常生活に関する質問をしてみると、普段は都会の方で開業しているとか、大きな病院の勤務医をしているとか、看護師によって答えがまちまちだった。
「そんなに気になるのなら、回診の時、直接聞いてみたらどう?」
そう言われて私は質問を考えた。
「お前、前に盗人やってパクられたよな?」
ストレートなクエスチョンをぶつけてみたら奴さん、どういう顔をするのだろう? 黒ぶち眼鏡の奥で目を白黒させる様子を想像して、退屈な入院生活で落ち込みがちな気分を紛らしながら、偽医者マンキウィッツ・メンジンズキッギーの訪問を待つ。そして、その日が来た。
「何か変わりはございませんか?」
そう言って私のベッドの横に立つ白衣の人物に、私は質問した。
「もう入院生活に飽きました。早く退院したいです。いつになったらギブスを外せるのでしょう? 骨折後のリハビリは大変だと聞きましたが、いつ頃から始められるのでしょうか?」
私は普通の質問をしていた。偽医者のマンキウィッツ・メンジンズキッギーはカルテから目を上げた。
「それは主治医の先生と相談してください。それでは」
私に一礼した後、マンキウィッツ・メンジンズキッギーは隣のベッドへ向かった。見ての通り、私の質問には何も答えていない。何も分からないものだから答えられないのだ。私は表情を変えなかったけれど、内心では笑い転げていた。お前は泥棒だろ! と急所に突っ込むより、あいつが答えられない難しい質問をした方が面白いと気が付いたのだ。
私は奴の次の回診を楽しみにして入院生活を過ごした。気分がちょっと上向きになったせいか、窓の外の風景が何だか素敵に見えてきた。ちなみに窓からの眺めは、葉っぱの落ちた木々、それだけだった。季節は冬で、見えるのは裸の山とか落葉した樹木とか、たまに飛んでくる名前の分からない野鳥とか、そんなものを見ても面白くも何ともないものばかりだったのが、何だか不思議なことに興味が出てきて「あれ、この木の名前、何だろう?」とか「野鳥図鑑を買ってみるかな」とか思うようになったのだ。
そんな中、またマンキウィッツ・メンジンズキッギー大先生の回診の日がやってきた。
「何か変わりはございませんか?」
それ以外に質問はないのか? と思ったけれど、それはこの際どうでもいい。私は思い付いたことを片っ端から尋ねた。
「手足を骨折して動かさないでいると筋力が低下するっていうじゃないですか? 元の体力に回復するまでに要する時間って、どのくらいなのでしょう? 回復しないってこともありえますよね? 後遺症が残るかもしれないと聞きました。関節が固くなって可動範囲が狭まるとか、痛くて動かせなくなってしまうとか、ラジオを聞いていたら、元患者って人が言ってました。いえ、葉書きですから、言っていたのは葉書きを読むアナウンサーの人だったんですけど。その人は、ギブスを外した後、自分の足が細くなっていて、凄く驚いたとも言っていました。自分の足じゃなくなった感じがしたって。私も、そんなになっちゃうんでしょうか? まさか歩けなくなるってことはないですよね? 重い物を持てなくなる、何ていうのも困ります。落盤事故にまた遭うのが怖いんで、鉱山はもうこりごりなんですけど、他の仕事に就くったって、体が不自由になったら働き口が減ってしまいますもの。そう、働かないといけないです。そのためには、やっぱり早く退院したいですし、そのためには、こうして寝てばかりもいられない。で、ギブスを早く外したい、リハビリをしたい……と、頭の中は堂々巡りですね」
私の話を聞き終えた名医マンキウィッツ・メンジンズキッギーはカルテに何やら記載してから言った。
「今のお話をカルテに記入しておきましたので、主治医の先生とよく話し合ってみてください。それでは失礼します」
大先生は私に会釈して、次のベッドで彼を待つ患者の元へ向かった。
その後ついにギブスの外れる日がやってきた。ずっと動かさずにいた手足は、やはり細くなっていたけれど、私が恐れていたように動けなくなっていたり、関節が曲がったまま固まっていた! なんてことは起きていなかった。早速リハビリが開始されたが、これがもう、予想より大変だった。動かすと痛い。すぐに疲れる。自分の手足じゃないみたいなのだ。それでも私はリハビリを頑張った。ずっと寝ているのには飽き飽きしていたのだ。
そんな中で行われたマンキウィッツ・メンジンズキッギーの回診で、あいも変わらず尋ねられる。
「何か変わりはございませんか?」
私は動かせるようになった手を見せながら言った。
「リハビリが始まりました。今のところ順調です。でも、まだまだ前のレベルには達していませんね。早く元通りになりたいです。できるだけ早く、できることなら明日にでも退院したいんです。そう言いますのは……ええと、こんなこと先生に言っちゃっていいのかと思うんですけど、言ってしまいますね。実は交際している女性がおりまして。女医さんなんですけどね。彼女との結婚を考えているんです。ただ、向こうの方が収入が上で、それがですね、結婚する上で、ちょっと問題になっているかな~と。私も、それなりの稼ぎをですね、向こうの親御さんに見せないと、いい顔されないかと思いまして。それで収入が良いって聞いた鉱山で働くことにしたんですけど、この怪我でしょう? どうしようかな、これからって悩んでまして。でも、まずは早く退院して、養生して、それからかな、と。これからのことを考えるのは。でも、でもですね先生、どうしたらいいんでしょうかね、私は。今後の人生を含め、入院中に色々と考えてしまいましたよ。いかに生きるべきなのか、今、悩んでいます」
人生について尋ねられたマンキウィッツ・メンジンズキッギーは、主治医の先生と相談ですね、と言って去った。
やがて私の退院予定日について主治医から話があり、今後のことなどを聞かれ、鉱山で働くのを止めようかと考えていると言ったら、それなら退院後に通院するのは新しい生活場所にある病院がいいね、と言われた。さあ、どうしよう、と考え込む。マンキウィッツ・メンジンズキッギーも主治医も、人生相談には答えてくれないのだ。忙しそうな看護師さんに聞くのも何だし、親しくなった入院患者だとか鉱山で働いている同僚に仕事を止めると言うのも、何だかな~と気が進まない。
また回診で来るはずのマンキウィッツ・メンジンズキッギーに話してみるか。何も答えてくれないだろうが、話しているうちに自分の考えがまとまるかもしれない。そんなことを考えながら、様々なリハビリ用の器械が置かれた回復運動棟と呼ばれる建物と入院病棟をつなぐ渡り廊下を歩いていると、病院裏の職員用玄関にパトカーが停まっているのが見えた。私は職員用玄関の方へ急いだ。長い間、早く走れるほど回復していなかったので、途中で息が切れたが、パトカーが発進するのには間に合った。
パトカーの後部座席に白衣のマンキウィッツ・メンジンズキッギーが乗せられていた。私の回診が始まる前にパトカーは大先生を連れ去った。看護師に後で聞いたところ、あの男は事務室にある金庫を開けようとしているところを見つかって、事務員や警備員に捕まったのだと言う。取り調べが進むと偽医者であることもバレたそうだ。その後どうなったのか、それは私が退院し鉱山を離れたので、知らずに最近まで過ごした。
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愛した女性と別れた私は夜汽車に飛び乗って旅に出た。行く先は決まっていない。飛び乗った電車が、どこへ向かっているのかも知らなかった。実際のところ、飛び乗りで良かった。心境的には飛び込みでもおかしくなかったのだ。そうだったら、ここに手記を投稿していなかっただろう。本当に良かったと思う。だが、そのときの私は、手記を書くような気分ではなかった。書くなら遺書、そんな感じだった。そんなとき私はマンキウィッツ・メンジンズキッギーと再会した。
私が乗った夜汽車に乗客は少なく、しかもその誰も彼もが寝ていて、私に孤独を感じさせた。夜の旅の切なさとか寂しさとか悲しさに満ちた車両で、動いている人物が一人いて、それがマンキウィッツ・メンジンズキッギーだった。彼は寝ている乗客の荷物を漁っているようだった。次々と座席を移り、盛んに物色している。寝ている人間が目覚めたら、何と言い逃れするつもりなのだろう? そして、起きている私がいるのに気付かないのだろうか? 大胆不敵と言おうか、懲りない奴と言うべきか。そのうち向こうは私に気が付いた。近寄ってくる。何を言ってくるのだろう? 見逃してくれとでも言うのだろうか? あるいは逆に脅迫してくるかもしれない。強盗するつもりかも。刃物や銃を出してホールドアップで「金を出せ」とか?
色々な想像をする私にマンキウィッツ・メンジンズキッギーは笑顔で手を振り、それから私の座る座席の通路を隔てた斜め向かいに腰を下ろした。小声で話し始める。
「お久しぶり。元気にしてた?」
私は何といっていいのか分からなかった。とりあえず「ああ」と肯定する。
「これで会うのは三回目かな、四回目かな」
私は正直に言った。
「数えていないんで分からない」
「そうだよな、そうだよ、うん」
納得した彼は一人で頷き、それから変なことを言い出した。
「思うんだけど、あなたとは不思議な縁があるよ。こんなに何度も会わない、普通はね」
「そうだねえ」と私は頷いたが、会いたくて会っているのではない、と本音では言いたかった。
「こういう縁をさ、大事にしたいと思うんだ」
まったく思わない、と言うのもアレなので、私は小さく頷いて見せた。
マンキウィッツ・メンジンズキッギーは聞いてもいないのに身の上話を始めた。かなり眠かったので聞いているふりをしたが、半分以上は聞き流す。何を言っているのか理解不能な部分もあった。たとえば、こんなところ。
「こうして流刑地に追放された身だけれども、元の世界へ戻ることを諦めたわけじゃない。諦めきれないのさ、だってさ」
人差し指の先を天井へ向ける。
「夜の路上で感じるわけよ、熱い視線を。見上げれば、そこには男の星座。あっ、見られている。そう感じるの」
何を言ってんだコイツ、とは思う。けれども、私はこのコソ泥に、そこはかとない親しみを感じ始めていた。少なくとも、盗難の被害に遭ったかもしれない乗客を起こしてやろう、という気にはなれなかった。実にまったく、不思議なものだが。
次の駅で降りる予定だが、あなたはどこまで行くのか? と尋ねられて、私は「決めていない」と答えた。
「それじゃ、一緒に行かない?」
断れ、と私の中の誰かが命じた。だが私は、それに歯向かった。
「そうだな、うん、そうするか」
私はマンキウィッツ・メンジンズキッギーと一緒に夜汽車を降りた。無人駅の弱々しい燈火が見えなくなるところまで歩くと、彼は夜空を見上げた。
「あれが男の星座だ。見えるかい?」
何が何だか分からないが、上機嫌のマンキウィッツ・メンジンズキッギーに気を遣い、私は「見える」と嘘を吐いた。私の返答を聞いて男は喜んだ。
「やっぱりそうだ。この目に間違いはなかった」
「何が?」
「見えると思った、あなたなら、男の星座が」
見えない。何が何だかさっぱりだ……と言えないまま、私は朝までコソ泥と歩き続けた。
§ § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §
ミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドの語った話を脚色した作品でノルマの五万字以上をクリアしたチャーガワー・バキンズは原稿用紙を机の上に置いて部屋を出た。予定より早く仕事が終わったので、飲みに出かけたのだ。
チャーガワー・バキンズの外出を心待ちにしていた女がいた。彼の隣室で暮らす女だった。彼女は本作品のヒロインである。隣人の奏でる鼻歌が廊下を遠ざかり、やがて聞こえなくなると、彼女は自室から出てきた。器用にピンを使って隣室の鍵を開ける。室内に入った女は机の上に置いてあった原稿を手に取った。中身を確認する。酷い作品だった。しかし書かないよりマシである。
アルファポリスの人間は前金を貰っておきながら締め切りになっても作品を出さない人間は絶対に許さない。彼女のように美しい女性であっても、だ。彼女は死ぬより酷い目に遭うかもしれなかった。
そうならないよう、彼女は一か月間、必死に頑張った。しかしノルマ達成はできなかった。
絶望していた、ある日。隣室の住人チャーガワー・バキンズが友人のミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドの語る話を小説化してアルファポリスに投稿するつもりだと知った。この好機を逃すわけにはいかない。隣の男の脱稿を彼女は待った。そして、この日が訪れたのである。
安い集合住宅の薄い壁とチャチな構造の鍵に感謝して、チャーガワー・バキンズの玉稿を持った美女はアルファポリスの夜に消えていった。
何度見ても、何回見ても、書かれた文字の数はゼロ、ゼロ、ゼロだ。
戯作者チャーガワー・バキンズは机に置かれた白紙原稿を前に頭を抱えた。大ピンチだった。目を血走らせて呟く。
「本当なら、とっくに出来上がっていたはずなのに、とうの昔に完成していたはずなのに、それが……どうして、どうして、こうなった」
絶望のあまり呑気に座ってなどいられなくなったチャーガワー・バキンズは顔を強張らせて立ち上がった。発作的な動きだった。急に立ったので、弾みで腰かけていた椅子が後ろに倒れる。思いのほか大きな音がした。彼は驚いて振り返った。部屋のドアが開いたものと錯覚したためだ。ドアは開いていなかった。椅子が背後に引っ繰り返って倒れているだけである。ほっと溜息を吐いて転んだ椅子を元通りに戻す。座りかけて止める。やはり呑気に座っていられない。そんな気分には到底なれないのだ。真っ白な紙に目を落とす。彼は天を仰いだ。白い天井へ向けて白目を剥く。またも呟く。
「もう終わりだ。私の人生は終わった、終わった」
もはや素面ではやってられない!
そう思ったチャーガワー・バキンズは戸棚へ駆け寄った。一番奥に隠した酒瓶を取り出す。栓を取って陶器のカップに酒を注ごうとするも、何も出ない。思い出す。昨夜、全部、飲み干したのだった。翌朝から酒を断ち新たな気分で執筆しようと心に誓い、その晩は最後のつもりで、しこたま飲んだ。そして空になった酒瓶を、とても大切な宝物か何かのように戸棚の奥へ入れたのだった。
落胆したチャーガワー・バキンズは一瞬、空の酒瓶を床に叩きつけて割ってやろうかと考えたが、止めた。酒瓶だって、ただではない。それを持って酒蔵へ行けば、中に酒を詰めてもらえる。そんなことを考えていたら、また思い出した。昨夜も同じことを考え、酒瓶を戸棚に入れたのだった。
進歩がないことに気落ちしてチャーガワー・バキンズは椅子に腰を下した。誘惑に弱く、そそっかしい。それがずっと続いている人生だった。
それでも、そのヘッポコな人生がこの先もずっと続いてくのなら、まだ良い。
問題は、ここで人生が終わってしまいかねないことだった。
心の中に焦燥感の嵐が瞬間最大風速毎秒百メートルを若干下回る程度の勢いで吹き荒れた。ちょうどそのとき部屋のドアが開いた。胸の内で荒れ狂う強風が心の隙間から体外に漏れたのではない。ノックもせず扉を開けて勝手に入って来た人間がいたのだ。
誰の断りもなく部屋の中へズカズカ入って来た男は言った。
「いやあいやあ我こそは遍歴の騎士ミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンド。成功を約束された白皙」の吟遊詩人チャーガワー・バキンズよ。未来の桂冠詩人チャーガワー・バキンズよ。栄冠が頭上に輝くこと間違いなしの貴殿のために祝杯を挙げようではないか。さあ、太陽の下へ行こう、そして日差しを浴びながら美味い物を食べ、美酒を思う存分飲み尽くそう。我々はそのために生きている。この一瞬、このひと時を逃してはならない、さあ行こう、さっさと行こう」
白皙というより末成りの瓢箪にような風貌のチャーガワー・バキンズは、いつもよりも青ざめた顔で振り向いた。ミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドは目を丸くした。
「どうしたどうしたどうしたってんだいチャーガワー・バキンズその面は。常よりも白く青い、普段よりも青くみずみずしい。まるで取れたての新鮮な野菜か、捕まってリンチにかけられる直前の泥棒のようだ。どこか具合でも悪いのか? 頭か? 心臓か? それとも腹か? 大事な場所か? もしも二日酔いだとしたら、拙者に任せたまえ。ん、なーに、治療法は簡単なんだ。迎え酒だ。飲みゃ治る。さ、グイっといこう、さあ行こう」
青白かったチャーガワー・バキンズの顔が、さらに真っ青になった。
「ごめんだよ、それはごめんこうむる。わが友ミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドよ、僕は今、酒のことなんかこれっぽっちも考えたくない心境なんだ」
「なにを愚かなことを言っているんだい、チャーガワー・バキンズ! 酒を飲まない人生に価値があると思っているのか? このクソ面白くもない世に生きる価値が何かあるとすれば、それは酒を飲むことをおいてほかにない。違うか?」
「勘弁してくれ、もう堪忍しておくれ、酒の話題は、もう結婚」
「そうか、結婚するのか、おめでとう」
「違う違う違う、健康」
「健康に気をつけようってことか?」
「ああ違う、酒の話は、もう結構。そう言うことだ」
「なんだ、これからは健康第一の人生を送るってんじゃないのかよ。それなのに、酒とは金輪際おさらばする、もう一生飲まないというのか?」
チャーガワー・バキンズは言葉に窮した。酒とは一生縁を切る、なんて考えてはいない。ただ、今のところは、酒の話は聞きたくないというだけなのだ。
「とにかく、酒の話は止してくれ。酒で人生を踏み外しそうなんだから」
真剣な面持ちのチャーガワー・バキンズに負けず劣らずの深刻な表情でミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドは言った。
「自分が真っ当な人生を送って来たかのような言い方で笑える。酒のせいで道を踏み外したって? それは言い訳。だが、その件について語り合うのは、またの機会としよう。オーケイ、ちょっといいか。椅子を一つ借りるぜ」
壁際の椅子を持って来て背もたれを前にして置き、ミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドは大股を開いて逆向きに座った。
「さて、相棒。何がどうしてどうなって、酒を断つ決意を固めるに至ったのか、よく分かるよう説明してくれ」
「実は、かくかくしかじか」
「そうか、分かった。いや待て、さっぱり分からん。それじゃ何が何だか分からないって」
察しの悪い奴だ、と思いつつチャーガワー・バキンズは説明した。
「物語の締め切りが迫っている。このままだと絶対に提出期限に間に合わない」
まったくの他人事であるからしてミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドは上辺だけの同情を見せた。
「それはお気の毒様だ。何とかならないのか?」
「ならない。だからこうして絶望しているんだ」
「完成していないと言ったらどうだ」
「言ったら私は破滅だ」
「事実だろ。いつも酒を飲むと言っているじゃないか。自分は破滅型の作家だとか何とか。それで女を口説いてるだろうが、毎度パッとしない結果だけど」
「それは言葉の綾だ。とにかく、ここままじゃ大変なことになるんだよ」
「どんなふうに」
「金を返せと言われるだろうね」
「金を貰ったのか?」
「前金を貰った。もう売約済みなんだ」
「謝ったら許してもらえるかもよ」
「そんなわけない。金を返せって詰め寄られるだけだ」
「返したら」
「もうない。皆、酒に使った」
そう言ってチャーガワー・バキンズは俯いた。ミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドは呆れた。
「これを破滅型の作家と言わずして何と呼ぶべきか。何も書いてないのだから作家の肩書を外し、破滅型の人間でどうだろうか」
「人間ではなく、ただの屑と言われないだけ良かった」
「いんや、人によっては呼ぶよ、ただの屑だと。しかし金を返せないんじゃしょうがない。素直に詐欺罪で逮捕されろよ。裁判の時は友人代表として弁護側の証人になるよ。少しでも刑が軽くなるよう、精いっぱい頑張るからさ」
「よしとくれ。裁判抜きで殺されるかもしれないってのに」
殺されると聞き、ミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドは目をぱちくりさせた。
「死刑になるくらいの大金をせしめたのなら、奢ってくれても良かったんじゃないかな」
「そんなに貰ってないから、だけど、返せと言われたら困る。私は無収入だ。返せる額じゃない」
働けよ、とミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドは思った。しかしチャーガワー・バキンズに働かれると暇潰しに付き合ってくれる友人がいなくなってしまう。
「夜逃げするか。黙っていてやるよ」
「相手が悪い。逃げきれない」
「どこの誰から金をがめたんだ?」
「人聞きが悪いな。がめたわけじゃない」
「同じことだろ、言えよ」
苦虫を噛み潰したような表情でチャーガワー・バキンズは言った。
「アルファポリスだ」
ミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドは驚いた。
「アルファポリスだと? ここか? この都市国家アルファポリスか!」
チャーガワー・バキンズは黙って頷いた。ミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドは頬の無精髭を撫でた。
「この悪名高きアルファポリスか。これは面倒だな。本当にまあ、面倒な奴らと関わってしまったもんだな」
虚ろな眼のチャーガワー・バキンズが呟く。
「契約前には、大丈夫だと思ったんだ。これは書けるってね。でも、だめだった。本当に困ったよ」
アルファポリスの人間は残虐な刑罰を好む。衆人環視の中で罪人を拷問し、皆で楽しむのだ。そしてアルファポリスにおいては、盗みは死刑である。盗人チャーガワー・バキンズの処刑は最高のショーとなるだろう。
「本当に悲惨なことになってしまう。何しろアルファポリスの人間は残酷だからね。どんな目に遭うか、知れたものじゃないよ」
実際、創意工夫を凝らした刑罰を罪人に与えることでアルファポリスは有名だった。見世物のショーとして観光資源にもなっている。
「アルファポリスの人間が好む小説や戯曲は陳腐なものばかりだけど、彼らの考え出すリンチに関しては前衛的で、しかも面白い。エンターテイメントの最高峰だね」
ミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドがそう言うと、チャーガワー・バキンズは真っ青になった。
「どうしたらいいんだ! 僕は一体どうしたらいいんだよ!」
「まず落ち着け。それから考えよう。何か良い方法はないかってね」
チャーガワー・バキンズは椅子から立ち上がった。
「逃げよう。遠くまで逃げるんだ」
座るように促してからミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドが言った。
「アルファポリスの人間は人狩りが得意だぞ。奴らのマンハントで取っ捕まった不運な奴をみたことがある。とてもじゃないが見られるものじゃなかった」
口の脇に吹いた泡が溜まっていることを気付きもせず、チャーガワー・バキンズはさらに泡を吹いた。
「ま、ま、落ち着け。チャーガワー・バキンズよ、お前は詩人だろう? ヘッポコかもしれないが吟遊詩人なんだろう? それなら、何か書けよ。何か書けば、どうにかなるさ」
「そうは言っても」
「いつも言っているじゃないか。自分は破滅型の作家だって。それなら、その生き方でも書けよ。メチャクチャだけど、どうせ破滅するんから、そのままでいいだろう。とにかく何か書いてマス目を埋めとけ」
「実は内容を予告する文章を書いている。その通りに書かないといけない」
「なんて書いたんだ?」
「ノルマを課せられたヒロインが奮闘します。期限は一か月です。そう書いた」
「それじゃ語り手は女性にしろ。とりあえず、何か書いておけ」
「どんなものを書いたらいいのか……アイデアが」
「アルファポリスの連中が好きなのは陳腐、ありきたり、流行遅れ、パクリ。そんなのだ。だから人と同じような話を書いておけ」
チャーガワー・バキンズは鼻の頭を撫でた。
「そんな作品を、私は書きたくない。ワンパターンな話を書くなんて、私のプライドが許さないよ」
ふんぞり返るチャーガワー・バキンズ大先生を、ミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドは冷たい目で見た。
「命よりもプライドが重いのなら、白紙を提出しとけよ。アルファポリスの読者は、誇り高き文筆家を喜んで縛り首にすると思うぞ」
チャーガワー・バキンズは小さくなって言った。
「それは困る。心の底から勘弁して下さいという心境だ」
ミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドは腕を組んだ。
「それならさあ、やるしかないって。今から書こう。こっちもできる限りの協力は惜しまないよ」
暇だからな、とミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドは心の中で付け加えた。
「何から始めようか。エールを送るか? それとも耳元で応援歌を歌うのがいいか? いや、逆に子守歌かな。眠れない日が続いているだろうから。それとも思念を送るか。テレパシーだよ。送ったことないけど」
「ネタを提供してくれ」
チャーガワー・バキンズは揉み手をせんばかりの卑屈な姿勢を示した。
「還暦の騎士ともなれば人生経験が豊富だから、色々な面白い話を知っていることだろう。何か教えてくれないか?」
ミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドは仏頂面で言った。
「遍歴の騎士だ。六十までは何年かある」
「四捨五入すれば六十だろう。それだけ長い時間を、この世で過ごしてきたんだ。何かあるだろう、ネタになりそうなことがさあ」
必死に説得するチャーガワー・バキンズも年齢は五十を過ぎているのだが、それはこの際どうでもいい。いい年をしたオッサン二人が、原稿用紙のマス目を埋めるために、ほぼ空っぽの頭から何かを引きずり出そうする作業が始まったという事実、それが大切なのだ。
「ネタはあることにはある。だが、それがアルファポリスの連中に好まれるかどうか分からない。需要を把握したうえで話を書く方が効率的だ」
ミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドの提案にチャーガワー・バキンズは同意した。
「これを見てくれ。参考になると思うから」
チャーガワー・バキンズは机の上に置いてあったメモを取り上げ、ミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドに渡した。
そこには、下記の文章が書かれてあった。
☆テーマ別賞
・ジョブ・スキル賞
異世界ならではの職業についたり、オリジナリティのあるスキルを手に入れたりと、独創的な力を持った主人公が活躍する作品。
キャラクター賞
・追放冒険者に勘当王子、悪役令嬢、天才幼女などなど、パッと読者の目を引く、個性的なキャラクターが登場する小説。
・バトル賞
手に汗握るアツい戦いや爽快感のある無双シーン、弱い主人公の大逆転劇など、心躍る展開を描いたバトルファンタジー。
・癒し系ほっこり賞
人々との心温まる交流や、愛くるしいモフモフの活躍など、異世界での楽しい暮らしを微笑ましく描いた物語。
・ヒロイン賞
誰もが憧れるヒロインやユニークな女性主人公、物語に彩りを加えるサブキャラクターなど、魅力的な女性キャラが描かれた作品。
「個別の賞が用意されているんだ。こういった話を書けば好意的に受け入れられると思う」
チャーガワー・バキンズはニヤッと笑って、そう言った。
アルファポリスは複数の小説家(アマチュアを含む)に執筆のオファーを出していた。その中で最も優秀な作品に大賞が贈られることになっている。その他にもテーマ別賞というものがあった。それが上に記した各賞である。
ミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドはメモに書かれた文面を眺めて唸った。
「こういうのがウケるのか……弱ったな、上手い具合にフィットするネタがないぞ」
チャーガワー・バキンズの笑顔が凍りつく。
「そんなことは言わないでよ。ぴったりフィットするネタでなくてもいいさ。ちょうどいい具合になるよう、脚色すればいいんだから」
そう言ってチャーガワー・バキンズは、還暦手前の遍歴の騎士に話を促した。
「そうだなあ、まあ、超適当で陳腐な物語なんだけれども、こんなのがあるんだよ」
そんな前置きをしてから、ミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドは語り始めた。
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ムー超王朝第四百二十七代皇帝リドッサク八十六世の治世というから二万年以上前だろうか。
金星へ亡命した反逆者シュールスを血祭りに上げるため、暗殺隊が組織された。
記録に残る暗殺隊メンバーは以下の通りである。
シュカール・トラウブウム:元コマンド部隊隊長。暗殺隊リーダー。
ラシェ・ジョジュオラグブ:元諜報員。語学の天才。
マントハ・デ・ラ・ラムモ:才覚のある貴族の貴公子。職歴無し。
”警備員の”クアンルンリント:流刑囚。退役軍人。
これ以外の詳細は伝えられていない。メンバーの人選を行ったのは第四百二十七代皇帝リドッサク八十六世だと史書には記されているが、これはありえないだろうと言われている。リドッサク八十六世は心優しい人物で殺人を禁忌とする穏健な宗教の熱心な信徒だった。謀反を起こした大罪人シュールスその他の反逆者や裏切者たちに恩赦を与えようとしたとも伝わっている。金星へ亡命したシュールスの家族に年金を支給したり、他の逃亡者の家族の生活が困らないよう財務官に命令した記録も残っている。金星にいるシュールスに無罪放免とするから帰還せよと秘密の手紙まで送っている。他の政治的な犯罪者――もっと危険な者たち――にも法的な名誉回復を与えようと模索していた節も見受けられる。そんな人物が、わざわざ暗殺隊を金星に送り出すだろうか?
シュールス暗殺計画を立案し、暗殺部隊のメンバーを集め、部隊を金星まで輸送する宇宙ロケットを用意したのは宰相ルッケリング・ブイスミスの周辺だと政権内では当時から噂されていたようだ。ルッケリング・ブイスミスは異世界からの転移者グループのリーダーだった。彼ら異世界転移者グループは、渡来系と呼ばれるムー大陸以外からの移住者の集団と手を組み、ムー大陸土着の民族集団と権力争いを繰り広げていた。その暗闘に敗れ、ムー大陸の国外へ逃れたのがシュールスだった。しかし追っ手が迫ったので、テレポーテーションの超能力をフル稼働させて、遥か金星にまで逃れたのである。
当時の金星は太陽系内で唯一の惑星統一政権が樹立されており、さすがのムー超王朝も、金星政府の庇護の下にあるシュールスに手を出しかねていた……のだが、やはり許してはおけぬとリドッサク八十六世――の名を騙った宰相ルッケリング・ブイスミス――が決断した。集められた暗殺部隊は不死鳥岬の先端にある名もなき無人島で訓練後、無縁仏砂漠のロケット発射台から大型ロケットに乗って宇宙へ飛び出した。
そして、そのまま行方不明になったのである。
エーテル化燃素分解式核融合イオンエンジンを搭載した最新鋭ロケットの遭難事故は当局にとって大問題だった。秘密の発射だったので事故原因調査究明委員会は秘密裏に開催された。秘密裏の調査は難航し、原因は不明という結果をまとめた報告書が宰相ルッケリング・ブイスミスの元へ届けられた頃、そのロケットが地球周回軌道上に出現した。突然の出来事に、人々は消息不明になった時よりも驚いた。
自動制御のロケットはプログラムされた飛行計画を実行し、本来の着陸予定地である労働者記念公園の荒野に降り立った。暗殺部隊回収の任を帯びた要員が着陸したロケットに近づく。その扉が開いた。中から宇宙服を着た乗組員が出てきた。乗組員たちは苦労してヘルメットを脱いだ。その顔を見た地上の回収要員たちは驚いた。
ヘルメットを脱いだ乗組員たちの顔に謎の黒い印が書かれていたのためである。
回収要員らは恐る恐る近づき、あらかじめ取り決めていた符丁を言った。
「山」
「川」
その返事を聞き、回収部隊の面々が安堵したのは言うまでもない。宇宙船から出てきたのは確かに、暗殺部隊のメンバーだった。
暗殺隊員とロケットは直ちに回収された。そして徹底的に調べられた。
ロケットに異常は認められなかった。しかし、運行データを記録するフライトレコーダーには、行方不明となっていた間の情報が残されていなかった。その部分だけ保存されていなかったのである。これが最初から保存されなかったのか、一度は保存されたが後から何者かによって消去されたのかは分からなかった。
暗殺団のメンバーも入念に調べられた。健康面での異常は認められなかった。顔その他の体表には変化があった。彼らの全身には、黒い謎の文様が記されていたのである。調査の結果、それは文字であり、その連なりには何らかの意味のあるものと予想された。ただし、研究機関は内容の解読には至らなかった。
その後しばらく、暗殺隊員の体に書かれた文章は謎のままだった。進展が見られたのはムー超王朝末期、前述した金星への亡命者シュールスの子孫で、これまた反逆者の烙印を押され永蟄居の刑に服していた財務総監”懲りない男”シュールス・ルッケリング・ブースミス提督(この人物は前述した宰相ルッケリング・ブイスミスの子孫でもある)が、ムー文明に先行する超古代文明の遺跡から発見された量子関数電卓を用い、その一部の読解に成功したのである。
これから”懲りない男”シュールス・ルッケリング・ブースミス提督が解読した文章の一部を紹介する。彼が解明した部分は全体の五パーセント弱であり、残りの大部分はまったく読めないことから、その解読方法は誤っているとの指摘があることをご承知いただきたい。
最初に表示するのは暗殺隊リーダーだったシュカール・トラウブウムの体に記されていた文章の中から、解読に成功した部分である。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
1 シュカール・トラウブウム:元コマンド部隊隊長。暗殺隊リーダー。
さようなら、あのヒト。そう呟く女の声を、私は確かに聞いた。声の方を見る。通勤客で混雑する駅のホームに、その女が佇んでいた。後ろ姿しか見えない。取り立てて目立つところのない普通の会社員のように思えた。だが、気になる。隣に立っているわけでもないのに、どうして私は彼女の呟きが聞こえたのだろう? それにどうして、私は彼女の呟きだと思ったのだろう?
私は彼女から目を離せなくなった。もっとも、通勤通学の時間帯なので混雑が酷く、やがて人込みに紛れて女の後頭部や肩の辺りしか見えなくなったので、それを注視し続けたと言い切るのは正しくない! と声高に指摘されたら、そりゃごもっとも! であり当方に反論の余地なしだ。しかし、私は彼女を見つめていた。だから、断言しよう。彼女はホームに立つスーツの男を見て、軽く手を振った。次の瞬間、その男はホームに設置された転落防止用の柵を軽々と乗り越え、ほぼ同時に構内へ滑り込んできた電車に身を投げた。
検討を重ねている数百のM&Aに関する調査報告書と別れの手紙と薬の効能書きに目を通しつつボイスレコーダーに録音された男の声を聴いていたケイ氏は、最後まで聞き終えると珈琲を飲み干し手紙を再読しながら音声を最初から聞き直した。どちらも意味が分からなかったからだ。一度に多くのことをやりすぎるから訳が分からなくなるのだ、という手厳しいアドバイスは秀才のケイ氏にとっては無用不要のご指導ご鞭撻……のはずだったが、やっぱり二度目も意味不明だった。深呼吸で心を落ち着かせ、手紙を三度、読み返す。やはり納得できないけれども、エヌ氏が自分に伝えたい想いは分かったような気がしなくもない。ボイスレコーダーに残されたエヌ氏の話は相変わらず謎のままだ。内容は概ね上記の如し。何とも奇怪な話だが、怪談の一種と捉えたら了解不能というほどでもない。分からないのはエヌ氏が、ボイスレコーダーを別れを告げる手紙の上に置いていたことである。さよならを告げる手紙と一緒に置くくらいなのだから、大事な話が収録されているかと思いきや、語っているのは鉄道自殺の目撃証言だ。
自殺を仄めかしているのだろうか? そうだとしたら、放ってはおけない。とても心配なので会って話したい――と素直な気持ちになって伝えられたら良いのだけれど、ケイ氏にも意地とプライドがある。というより、知能優秀で億万長者のケイ氏には、そういった性質が多分にあった。それが彼の味方を減らし、潜在的な敵を無駄に増やしている理由の一つとなっているが、本当に賢い人間なら自我を抑制しなければならないだろう(彼ほど賢くない人間でもやっていることだ)。とはいえ、同情すべき点もある。大富豪であるがゆえに寄って来る者は多いが、擦り寄ってくる人の正体がダニや蚊と変わらないことを鋭敏な彼は察していた。それが彼の孤独を深め、元から歪んでいる自意識をさらに捻じ曲げていた、といえよう。
しかし彼に助言できる立場にあったとしても、だ。幼少時から人間離れした神童と畏怖され十代前半で世界有数のIT長者となり十六歳の現在は自らが築き上げた巨大財閥を率いる辣腕経営者である天才に対し、謙虚であれと凡人風情が言うのも気が引けてしまうだろう。神に選ばれし者の恍惚と不安は、誰からも選ばれなかった屑には理解不能なのだ。ケイ氏の周囲は結局、心を持たないイエスマン&ウーマンだらけとなる。そんな人形たちの中にあって唯一「奢り高ぶるなかれ」と教え諭した人間がエヌ氏だった。
そんなエヌ氏と恋愛関係になったことは、必然だったとケイ氏は信じている。同性愛だったことは偶然に過ぎない。先のことは断定できないけれど、この愛がある限り、二人の関係は続いていく……という幸福な蓋然が誤りだったのは想定外だ。自身の頭脳に絶対の自信を持ち、かつエヌ氏との愛は絶対不変だと思い込んでいるケイ氏にとっては、認めたくない過ちである。だが彼は、過ちては改むるに憚ること勿れ、という格言が正しいことを知っていた。ミスを認めなければ次のステップへ進めないのだ。こんな悲劇的な過ちに、どうして自分は気付かなかったのか? 別離を防ぐ方法は何か無かったのか? 今からでもやり直すことは出来ないのか? とケイ氏は自問自答する。
恋愛の難問は、天才ケイ氏をもってしても、答えを出すまでに時間が掛かりそうである。
その間、本サイトにおける投稿小説のカテゴリーに関して感じたことを作者が書き連ねる愚をご容赦願いたい。
恋愛とBLが別のジャンルに分類されているのは、同じ愛情である異性愛と同性愛を分断することで同性愛者を差別しているのみならず、同性愛者という社会的弱者に対する性的搾取に相当するのでは? という疑問が生じた。
マーケティング戦略の一環であり差別を助長する意図は皆無であるとの抗弁は通用しない。その悪辣な商魂が差別を生み出すのだと叩かれるのが落ちだ。書店で専用スペースを確保するまでに膨張した各種ヘイト本と同じく消費者の要望に応じただけ、と読者に責任を転嫁する厚顔無恥な言い訳は出版・表現の自由を損ねる結果となるだろう。従って供給側がBLを恋愛から隔離している現状の是正が求められる。
一方、需要の側は恋愛とBLの棲み分けをどう認識しているのか? 同性愛の歴史は古く、それに関係する文化も昔から存在していた。我々の先祖は恋愛とBLの境を緩く捉えていた半面、時と場所によっては禁忌として封じ従わないのなら社会的制裁でもって応じた。同性愛は自然な感情であるという寛容さと、不自然で歪な異常であるという不寛容の二面が昔から存在していたわけだ。さて、現状に話を戻そう。BLが太古から続く同性愛文化の後継者の一つであることに間違いないだろう。ただし、同性愛者の間から自然発生した文化と私は言い切れない。現在のBLの直接の祖先は雑誌『JUNE』と思われるが、その読者層の中心は真の同性愛者よりカルチャーとしての同性愛愛好者ではなかったか、と考えているためである。雑誌『JUNE』を源とする流れは、同性愛の当事者ではなく傍観者がメインストリームだった、と私は認識している。傍観者たちにとって自分たちが立つ岸辺にある恋愛と、向こう岸のBLは最初から分かれていたのだ。そこに差別の意識は乏しい(元々BLを好む人々なのだ)。だからこそ無意識の差別に気付いていないと言えよう。恋愛とBLの同一化を図るには、BLを愛好する読者層の意識改革が必要なのである。
しかしBLコア層が現代の風潮に合わせて自分たちの意識を改めようと決意するかというと、それは望み薄のような気がしてならない。フィクションと現実の境目は曖昧な人間が少なからずいるクラスタだと根拠を示さず推測するが、この集団にとって恋愛とBLのボーダーレス化に重要な意義があるかというとそんなこと、どうでもいいのである。そこに興味はないのだ。読書中の脳を測定すれば大脳皮質より大脳辺縁系の方が活動は高まっていて、人間らしい高度な精神と知能の働きが期待できない状態にあるようにも思える。
外部からの働きかけが無ければ出版側は変化しないと思われるので、恋愛とBLのカテゴリーが融合するのは当分先のことになりそうだ。これがBLというジャンルの存亡に関わる大問題に発展しないことを願うばかりである。
同性であるエヌ氏との恋愛問題に苦悩するケイ氏に話を戻そう。愛に関する悩みを解決できず、それを彼は一時棚上げにした。そして心の傷を癒す一番の薬は仕事、と言わんばかりに買収を検討している企業の資料を読み込む。だが、内容が頭に入ってこない。心の師にして愛人を喪失したケイ氏の嘆きと悲しみは、それほどまでに深かった。書類の棚をデスクに叩きつけて立ち上がりグランドピアノへ向かう。闇の奥から溢れ出て止まぬ激情の命じるままにショパンを弾いて気持ちを落ち着かせる。デスクに戻る。床にまで散らばった書類を拾い集める。買収を検討している博物館の資料が目に入った。そこにエヌ氏が行きたがっていたことを思い出す。
息苦しくなったケイ氏は新鮮な海風を求めてベランダに出た。赤道直下の大西洋を吹く風は熱気と湿気を含んでおり、空調の効いた屋内の方が涼しくて快適だったけれど、気分転換にはなる。潮の香りを胸いっぱいに吸い込み吐き出したときには考えがまとまっていた。自分にエヌ氏が本当に必要な人間なのか評価検討しよう、と。そのためには、何をするべきなのか……ケイ氏はデッキチェアに腰かけ、水平線の彼方へ広がる南北両半球を眺めながら考え始めた。
作者だ。ケイ氏が思いを巡らせている間に、私が思い巡らせたことを書く。BLが好まれる点の一つとして愛に打算が無いことはありそうな気がする。異性間の恋愛には、愛情以外の計算が働く。友人たちに見せびらかして自慢できる見た目とか、資産や家柄、あるいは他人には分からない良さがあるっつーか自分に都合の良い相手だから、みたいな要因が存在するわけだ。それでも最終的なポイントとなるのは一般の恋愛小説と同様に実際のBLも愛情だけれど、物語のゴールが異性愛に比べると結婚エンドになりにくいため、生活を安定させる社会経済的な要素の果たす役割はノンケ同士の恋愛小説より相対的に低くなるように思える。それを純愛度が高いと表現しても構わない。もっとも時代が変わったので、同愛愛のカップル間でパートナーの扶養に入る者がいるだろうから、愛情以外のファクターも重要となる一般的な恋愛小説との違いとして打算の有無が挙げられなくなってきたかも、とは思う。しかし結婚はしないけれど無気力で生活能力に乏しいため自活できず愛玩動物に等しいペット型愛人となることでハッピーエンドとなる、みたいな羨ましいったらありゃしない幕切れも、結婚でハッピーエンド! の何とも言い難い圧迫感が無い分、BLの美点と捉えることが可能なのではあるまいか。結婚がすべての幸せではないはずなのに、恋愛したら結婚がセットとなってしまっていることに対しての反論、とまではいかなくとも違和感を表明する場としても、BLは意義深いように思われる。二人が結婚して、めでたしめでたし……で終わる一般向け恋愛小説のアンチテーゼとしても、BLは存在し続ける価値があるのでは、と思った次第である。あ、恋愛とBLを統合せい! という前の発言とは別の意見としてお聞きいただければ幸甚に存じます。
ところで、ケイ氏の思案はどうなったのだろうか? 幸せの意味を己に問い掛けても答えを得られなかったケイ氏は玉虫色の結論を出した。エヌ氏の面影を追い求める旅に出てみよう。その旅路の果てに、自分の本当の気持ちが見えてくるはずだ――要は自分探しの旅に出ようと決意したということである。超大金持ちだが十六歳の青少年に過ぎないケイ氏は、今まさにモラトリアムの季節を迎えていた。
愛と青春の旅立ち、予測変換で出てくるほどにメジャーな作品とは何の関係も無いけれど、何かちょっとそれっぽい気分に足の先まで浸りつつ機上の人となったケイ氏は、そのまま帰らぬ人となった。飛行機事故が起こったのだ。ケイ氏が操縦するプライベートジェット機は海上空港を離陸後にエンジントラブルを起こして失速、赤道と本初子午線の交点つまり経度0度にして緯度0度の洋上に同氏が建設中の宇宙エレベーター、通称<ケイ氏の世界塔>に激突した。爆発炎上し、大海原に四散した機体の残骸からケイ氏の遺体が回収された。短くも激しい生き方だったと人々は彼の死を悼んだ。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
次はラシェ・ジョジュオラグブの体に残されていた文章である。これは解読された文章の中で最も長く、解読者の”懲りない男”シュールス・ルッケリング・ブースミス提督は六つに分割している。本稿はそれに従う。
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2 ラシェ・ジョジュオラグブ:元諜報員。語学の天才。
A
上手くいかない人生をリセットするのは良いことだ。無事に再起動できるとしての話だが。同様に、どうしようもなくなった世界を一度ぶっ潰し、一から再建するのも悪くない。世界をやり直しても肝心要の創造主が同じなら、また同じ失敗を繰り返すに違いない! なんて外野の意見に耳を貸すな。インターネットの無記名投稿なんてものは放っておけ。信用して良いのは自分の感性だけ、それを忘れたらおしまいだと思え。
世界の主である私の発言は、概ね上記のような内容に要約される。聴衆の反応は鈍かった。表明するべき態度に困っているというか、隣の者の顔を窺っている。
私はわざとらしく深い溜息を吐いてから再び発言した。
「生まれ変わっても、また他人の顔色を窺って生きるのか? そうじゃないだろ! 何のために異世界に転生したんだよ」
私に罵倒されても皆の表情は特に変わらない。奴らは死んだような顔をしている――まあ、一度は死んだ者たちだから、当たり前っちゃ当たり前だが。
その中にあって生きのいい者は目立つ。長い金髪の武骨な男が、私に冷酷な視線を送っている。私と目が合うと、男は片手を上げた。
「異世界転生者向けの講習会と聞いてきたが、俺の場合それに当てはまるのか、質問したいのだが」
質問は講習会の後で……と言いかけた司会進行役を片手で制して、私は言った。
「話を聞かせてくれ。まず、君の名前は?」
男は立ち上がった。かなりの長身だった。服の上からでも逞しい体格だと分かる。前世は兵士、プロレスラー、あるいはボディービルダーと私は踏んだ。
男は名乗った。
「カール・ゴルドゥノフ、職業はバレエ・ダンサー、スパイ、犯罪者だった。それに亡命者でもある」
バレエ・ダンサーとは意外だった――私は頷いて、話を続きを促した。男は自分の半生を語り始めた。
男はソビエト連邦時代のシベリアに生まれた。幼い頃からバレエを学んでいた彼はレニングラード国立バレエ団の特待生となり、やがてソビエト連邦で最高のバレエ・ダンサーと呼ばれるまでに出世し、西側諸国にも名が知られるようになった。だが、それは表の顔に過ぎない。裏ではシベリア・マフィアとつながりを持ち、さらに西側のスパイとしても活動していた。
そんな危険な生活が、遂に終わりを告げるときが来た。ソ連の秘密警察KGB(Komitjet gosudarstvjennoj bjezopasnosti pri Sovjetje Ministrov SSSR、国家保安委員会)が、彼の正体に気付いたのだ。彼は妻を連れて逃亡した。目指すは西側の国境だ。彼の妻もバレリーナだった。二人は抜群の運動神経の持ち主だったので、走る列車から飛び降りたり逆に飛び乗ったりして逃亡を重ねた。高度一万メートルを飛ぶ旅客機のタイヤにしがみついて半分ぐらい冷凍状態のまま移動したこともある。苦労の甲斐あって、二人は西側への亡命に成功した。新しい人生の始まりだ! と夫婦二人で乾杯した直後、彼は意識を失った。酒に毒が入っていたのだ。妻は乾杯しただけで一滴も飲まなかったので無事だった。祝杯のグラスを干した夫は死に、やがて蘇った。この異世界に、異世界転生者として。
「俺は聞きたいのは、異世界転生者は元の世界へ戻れないのかってことだ。俺は元の世界に未練がある。俺はここでスローライフや成り上がりのユニークな異世界ライフを送るつもりはないし、爽快バトルをやる気はないし、人生をやり直したくもない。この世界で癒されたくもないし、婚約破棄された令嬢の復讐なんかに興味もない。俺は元いた世界へ戻って、俺を殺したソ連に復讐したい。ただそれだけなんだ」
私はソビエト連邦は既に崩壊していることを告げた。カール・ゴルドゥノフは自分の死後つまり現世に転生してから元の世界で起こったについて何も知らなかったようだ。それでも、表情が変わったのが一瞬だけで、すぐにポーカーフェイスに戻ったのは見事だった。彼の記憶が事実だとすれば、前世で有能なスパイだったのは間違いなかろう。
だが前世の記憶が蘇り混乱しているのも、また事実。そうでなければ、私の講習会に来ることはなかったはずだ。元の世界へ戻りたい、そのための方法を教えてほしいと聞かなかったことから察するに、以前のスリリングであり過ぎる生活へ逆戻りするのも不安なのだろう。迷いがあるのだ、と私は判断した。その上で問いかける。
「元の世界に戻ってどうする? ここで暮らしていくのが一番だ。異世界転生者は、選ばれた者なんだ。ここでもう一度バレエ・ダンサーをやってみたらどうかなあ? そういう異世界転生ものは、まだやってみる余地があると思うんだ」
カール・ゴルドゥノフは考えさせてくれと言い、それから質問に答えてくれたことの礼を言って座った。
転生前は犯罪者だが、礼儀正しい男だった。
私は聴衆を見渡した。そして彼らに伝える。
「講習の途中でも、質問があれば受け付ける。どんどん手を上げてくれ」
B
人生が二度あればと井上陽水は歌う。その歌詞に異議は無い。けれど自論は有る。同じ人生を繰り返して面白いのか? と感じない日は無い。同じ人生が二度あれば嬉しい! なんて奴には異世界に転生する資格が無い、と私は確信している。その幸せな思い出を胸に、あの世で永遠に寝ていろよ、と思うのだ。同時に、同じ味を二度も噛みしめるのは反芻動物に任せておけ、とも言いたくなる。確かに、ループものには抗しがたい魅力がある、それは分かる。だが、新しい人生に一からチャレンジする、それもまた堪えきれない魅力がある。今までとは違う人生を、転生した異世界で過ごすこと。これが再チャレンジの本当の理念であり、そのためのあらゆる支援を惜しまない。それが本講習会を開催する理由の一つである……といった趣旨の発言をした私に向かって、おずおずと挙手した者がいる。風采の上がらぬ中年男だった。
自信なさげな様子だったので、安心感を与えようと、私は笑顔で大きく頷いた。中年男は立ち上がり話し始めたが、声量が足りない。司会が小走りに駆け寄ってマイクを手渡す。中年男はマイクを握る手の小指をピンと立てて話を再開した。鈍臭くて使えない職場の役立たずっぽい風貌なので嫌な予感がしたら案の定マイクがハウリングを起こす。それが全く気にならないのか、なおも話を続けようとするので、司会が男をスピーカーから遠ざけさせた。
能無しが自分の名前を名乗る。何の興味も無いけれど回答時に必要なので手元の紙にメモしておく。その後、男は何事かに気付いたらしく、慌てた様子で言った。
「すみません、今の名前は間違っていました。私は自分の戸籍を売ってしまいましたので、今はもう、名無しです」
戸籍を売買したからといって名前まで失うわけではないだろうが、社会的にはそうなったも同然だ。私は男の名に斜線を引きながら問うた。
「それでは何とお呼びしたらよろしいでしょうか?」
男は、しばし考えた。
「名無し、名無しでお願いします」
戸籍売買は、この世界では犯罪に該当する。ここに司法当局の関係者がいたら、ここにおわす名無しはお縄になるのだ。それを知ってか知らずか、講習会の会場に漂う雰囲気は変わらない。この珍妙な問答に無言で耳を傾けている聴衆の胸中は如何に? と考え私は心中で答えを導き出した。この者たちもまた、名無しと似たような境遇にあるのだろう。だからこそ、自分が異世界から転生した者であるという思いに囚われて、そこから離れられずにいるのだ。
「質問と申しますのは、異世界への転生者は、元の世界に再転生することはあるのですか、という質問なのですが」
頭と尻の両方で質問という言葉を使っているせいか回文みたいになっているが回文でも何でもない。あえていうなら怪文か。
「異世界への転生者が元の世界へ再び転生することがあるのか、というご質問ですね」
私の質問に中年男は頷き、アイドル歌手か選挙の立候補者か何かのようにマイクを両手で握った。
「私は金欠で苦しみ、自殺を考えています。ですが、死んだ後に自分がどうなるか不安なのです。もし以前の世界に転生するのなら……あの世界に生まれ変わってしまうのなら、死ぬよりも恐ろしいことが私を待っている予感がするのです。そう考えると怖くて、死ぬに死ねないのです」
名無しは前世で王族の一員だったという。物心が付いて最初の思い出は王位をめぐる争いに敗れた一派の処刑シーンなのだそうだ。柵に囲まれた刑場に手足を縄で縛られた罪人が放り込まれ、続いて猛獣が放たれる。獅子や狼の群れであったり飛べない巨大な怪鳥や二足歩行の爬虫類であったり、時と場合によって死刑執行役は変わる。そのときはゾンビの大群だった。初めて目にした処刑の思い出は、自分を可愛がってくれた親戚のお兄さんやお姉さん、それに遊び相手だった友達全員がゾンビに食い殺されるもので、何分幼児なので何が何だか事情は分からないが阿鼻叫喚の惨劇を目の当たりにして普通ではいられない。引き付けを起こし倒れてしまう。それを見て新王となった父親が怒り出し「失神するとは我が子ながら情けない奴だ、父の敵が皆殺しになるところを近くで眺めよ!」と叫んで意識の無い娘を柵の近くへ抱いて運び、特等席で捕食の光景を見させようとしたら動きの素早いゾンビが新王の腕を肩から引き千切ってしまった。それが致命傷となり即位して一週間も経たず崩御して、王位在位日数の最短記録を更新したのだが、父の後を継いで王に即位した長男が何者かに一服盛られて死亡し、これが新記録となったのも束の間のこと。我こそは王にふさわしいと好き勝手に即位する輩が王族のみならず卑賎な生まれだが実力のある者まで次から次へと年寄りの顔のシミの如く湧いて出ては消え、どれが正式な在位最短記録になるのかも分からなくなってしまった。そんな中でも猛獣による人食いショーは絶えることなく続けられ、これだけ殺していたらいつか人がいなくなってしまうのではあるまいか、と危惧する者まで現れた。それが誰あろう、引き付けを起こして父の死因を作った幼児、すなわち現世の中年男の前世の姿である。その頃には十代手前の少女となっていたが、成長を喜ぶ者もいれば、父王の血を引く王位継承者である彼女をライバル視する敵もいて、その宮廷生活は危険がいっぱい、猛獣のいる柵の中で毎日を過ごすのと大差なかった。
そんなとき、新たなる大事件が勃発する。仲間割れしているので攻めやすいと判断したのだろうか、隣国が攻めてきたのである。宮廷は大混乱だった。そのときの王は少女の異母兄で、この人物は異母妹に対し病的な敵意を抱いていなかったのは彼女にとって幸運だったといえよう。都へ外国軍が迫るという非常事態にあって、異母兄の王は異母妹を田舎に疎開させようとした。彼女の母は早くに亡くなっていたが、その実家は地方に領地を持っていたので、ここに異母妹を預ければ、まずは安心との考えである。
安心できないのは異母妹つまり中年男の前世である少女だ。宮廷を追い出された者が最終的にどうなってしまうのか、彼女は悲惨な例を数多く知っていた。異母兄の方も、異母妹の安全を第一に考えて疎開させたわけではありまい。近くに置いておくと、いつ寝首を掻かれるか分からない。まだほんの小娘なので、そんな陰謀を企むとは思えないが、何が起こるか分からないのが政治の世界。先に布石を打っておくのが長生きの秘訣――と、兄妹の双方が思った。
兄は妹を厄介払いし、攻め込んできた外国軍との戦争に精力を傾けた。妹の方は、兄と外国軍の両方を殲滅する方法の研究に着手した。簡単にできることではない。常軌を逸した奇策を用いねば勝てないだろう。だが、様々な本を読んでも、これといった良策が書かれていない!
そんな中、解決のヒントとなる一冊が見つかった。天下三分の計が書かれた『三国志演義』である。彼女は諸葛孔明を召喚し、自軍の軍師に招こうとしたが、彼女の黒魔術では孔明を長い時間この世界に留めておくことが不可能だった。せいぜい一夏が限度だろう……ならば、その間に孔明をこき使って、兄と外国軍の両方を滅ぼすのだっ!
そんな虫の良い話が上手くいくはずがなく、召喚した孔明は三顧の礼で迎えなかった無礼者の彼女に仕えることを拒否した。ただし、戦略戦術の講義はして差し上げようと言ったので、彼女はそれで手を打った。かくして女王を目指す少女の夏季集中講義が始まる、その日の朝。彼女は目を覚まさなかった。何者かが先手を打ち、毒殺を試みたのだ。孔明の治療が功を奏し死を免れたとはいえ、意識を取り戻すまでには至らない。死んではいないが意識の無い彼女の魂が、何処にあるかというと、異世界の冴えない中年男の体内である。
その中年男が言った。
「ある日、私は気が付いたのです。自分は異世界の女王となるべき少女の生まれ変わりであると。そしていつかきっと元の世界へ戻り、自分を取り戻すだろうと」
それからマイクを持つ両手で顔を覆った。
「しかし、私が行く世界は修羅の世界です。血を分けた肉親が憎み殺しあうのが常態化している獣の道です。そんな恐ろしいところへ、私は行きたくありません。優しくて温かみのある人間らしい幸せな世界へ転生したいのです」
最良のアドバイスとは言えないが――と前置きしてから私は言った。
「悪役令嬢が弱肉強食の修羅の国でスローライフを目指す、というのはありだと私は考える。難しいと思うが」
中年男の頬に一筋の涙が流れた。
「私にできるでしょうか? この世界では落ちこぼれでした。それに私はロスト・ジェネレーション世代の典型と言われています。社会的には落第だと、上の世代からも下の世代からも笑われて……」
中年男の泣き言にうんざりした私は、きつめのセリフをかました。
「元の世界の君が目覚めないのは、君自身がそれを望んでいるからなのかもしれない。目覚めることのない異世界の娘さんには気の毒だが、それが君の望みならしょうがないね。困難の待つ運命に立ち向かうのは、負け犬の君には荷が重すぎるよ」
自殺を考えている人間に言うのはどうかと自分でも思ったが、自殺した後に別の異世界へ転生するとして、そこが眠る少女の中だとしたら、目覚めるや否や嫌でも運命を戦わねばならなくなる。そこから逃避すべく自殺を試みることは、まずあるまい。そうとも、悪役令嬢は自殺しないだろ(多分)。
中年男はさめざめと泣きながら礼を述べ、司会にマイクを返してから席に座った。
私は聴衆を見渡した。そして彼らに伝える。
「講習の途中でも、質問があれば受け付ける。どんどん手を上げてくれ」
C
否定的な意味合いで使われることの多い言葉に<旅の恥は掻き捨て>がある。自分を誰も知らない場所でなら、何をしても大丈夫なので好き勝手なことをしよう……という意味だと思われているが、その通り、実に正しいことを言っている。羞恥心に負けて自分を抑え込むのは恥ずかしいことだ。もっと、もっと、もっと己をさらけ出すべきなのだ。剥き出しの自我に陽光を、ときに寒風を、またある時は熱湯を浴びせろ。その刺激が、人を大きくする。公衆の面前で、満座の席上で、自分を見せつけろ。逮捕されそうになったら、すぐ逃げろ。
概ね上記のような発言をしていたら手を上げる者がいた。垢抜けない中年女だった。地味な顔で小太り、そしてツインテールが異彩を放ち、只者ではない雰囲気も、あるにはある。女は勝手に話し始めた。マイクの要らない野太い声だった。
「前世あーし、現世あーし、来世あーし。この三つのあーしがいて、それぞれ名前が違うんでげすが、今の自分の名を語るのは控えさせてもらいますです。あーしはバレンシア・オレンジの産地で生まれましたんでバレンシアと呼ばれていました。ああっと、そう呼ばれていたのは前世あーし、転生前のあーしです」
文字起こしされた発言を読むと分からなくもないが、彼女が話し始めたときは混乱した。彼女の話し方は呂律が回っていないのに早口だったので聞き取りにくかったし、おまけにこちらの困惑などお構いなし、説明抜きで固有名詞を繰り出してくるコミュニケーション戦のインファイターだった。
「アーシャとアーチャーはアッシャー家公認の恋人同士だったんだけど転生前の前世あーしは二人の仲を妬んでアーチボルト家に取り入ってアッシャー家に圧力をかけて二人を別れさせようとしたんでげすよ、ところが怒ったアーチャーが前世あーしに弓矢を射かけてアーシャが転生の呪いをかけたものだから現世あーしに転生したんですけど、これっておかしいですよね」
アルファポリス主催の異世界転生者向け講習会だというのに、なろう系小説にありがちな長ったらしくて粗筋の代用と化した刺激に乏しいタイトルみたいなセリフになってしまっているが、それは私の責任ではない。アルファポリスそのものが、なろうのエピゴーネンだからだ(おいおい)。
「人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて何とやら、という都々逸は前世になかったのかな? 都々逸のある文化圏ではなかったのかもしれないが、念のためにお尋ねしておくよ」
これが皮肉であると理解できるかどうか……彼女の返答次第で私の回答は変わってくる。質問の内容が分からないのなら、それに応じた答えしかできない。
「ごめんなさーい。ドイツには行ったことがありません。でも、その隣のオランダにはチューリップ・バブルの頃に行きましたです」
彼女に知性の欠片はあるようだ。私は心の中で安堵の溜息を洩らした。
チューリップ・バブルの崩壊による経済恐慌ついては経済学者の間で意見が分かれているようだが、異世界の泡宇宙は破れておらず、その多元性が無限である限り存在は否定されない。バレンシア・オレンジの誕生がチューリップ・バブルの時代より後年であることも同様だ。だからといってジャガイモ警察を揶揄するのは愚かしい。ある宇宙のある時代の、とある土地においては、ジャガイモが存在しなかったのは事実なのだ。ありとあらゆる可能性を否定できない、それが異世界の本質だ。
だから私は、あーし即ち転生前はバレンシアと呼ばれていた中年女の話を否定せず、傾聴……したいところではあるものの、訳が分からないので質問する。
「アーシャが転生の呪いをかけたので、この異世界に転生した。そして死後は来世へ行くことが決まっている、ということかな?」
「如何にもタコにも」
「そういった輪廻のサイクルに不満があると?」
「だって、あーしとアーシャは来世では絶対一緒になろうねって約束したのに、あーしだけこの異世界に飛ばされて、しかも次の来世は何だか分からない何かに生まれ変わるって決まっているですげすよ。それって酷くねって話っすよ」
「……未来は完全に決まっているわけではないよ。生まれ変わった先が何処で、自分が何になっているのかなんて、誰にも分からない」
中年女は首を横に振った。
「転生の呪いの恐ろしさを、講師の先生がご存じないとはねえ。何だかガッカリっすよ」
大袈裟に溜息を吐くところがわざとらしくて腹立たしい。文句があるならとっとと出てけ! と言いたいところをぐっとこらえて下手に出る。
「興味深い事例のようですね。詳しいお話を伺いたいです」
言葉遣いを改めて尋ねると、あーし御大は機嫌よく話し始めた。
御大将あーし様は鼻の陽性だったそうだ。間違えた。これでは末期の梅毒患者だ(待て待て)。花の妖精である。梅ではないよ(しつこいな)。バレンシア・オレンジの産地で生まれ冬の間は土に埋もれた球根の中でぬくぬくと眠る怠惰な毎日を送っていたあーしは、春が間近なある日、球根ごと船に積み込まれた。気が付くと、そこはオランダだった。風車と木靴とチューリップでお馴染みのオランダは、その当時の世界で最も繁栄した経済大国だったそうだ。ビジネスだけでなく文化芸術分野でも他国をリードし特に絵画は制作過程が先進的だった。個人のアトリエよりもむしろ資本家が経営する工房で生産される工芸品と化していたのだそうだ。その制作システムは分業制となっており高品質の作品を大量に生産可能とし、そこで生まれた絵画は後の時代に強い影響を与えた――と、あーしは語っていたが無限に存在する異世界の中には、そういう歴史を有するオランダがある、ということだけであって、これを覚えたところで読者が存在している異世界の歴史の試験勉強のためには何の役にも立たないと忠告しておこう。
とりあえず話の背景となっているのは、あーしがいたオランダは資本主義経済の先進地域であり、そこには美術の産業化に目覚めた商人階級がいて、そういった連中が芸術作品を作る工房を数多く運営していて、そういった工房の経営者の中にアッシャー家があり、そのお抱え女流画家がアーシャだった、ということらしい。春の訪れと共に目覚めたあーしは、あちこち飛び回って花々を咲かせた(それが花の妖精の主な仕事らしい)。そんなとき、咲きほころぶ花々をうっとりと見つめる美女アーシャを一目見て、あーし様は恋に落ちた。アーシャこそが自分の花粉を受粉すべき唯一の女だと確信したのだ――あーしは女なのか男なのか、よく分からない読者は多くいることだろう。あーしが言うには両性具有らしい。確かめる気になれないので、鵜飲みにするしかあるまい。さてアーシャの鼻粘膜から彼女の体内に入り込んだあーしは、内側から洗脳を開始した。手始めにアーシャの脳細胞を調べ上げ、彼女の最も好みのタイプに成りすまして、夢の中に現れたのだ。アーシャは痩身で女性的な外見の男性を好んでいたので、そういった形になり、夢の中で愛を囁いた。
気高い芸術家の魂は霊的な存在に高い親和性を持つようだ。優れた画家のアーシャが夢の中に幾度も現れる理想の男性(あーしが自らをバレンシア・オレンジの産地で生まれたと紹介したものだから、アーシャはあーしをバレンシアと呼ぶようになっていた)へ急速に傾斜していったのは無理からぬこと。ニンフのように優美な姿と化したバレンシアことあーしは愛の言葉を絶え間なく囁く。そうなると人は夢と現実の区別がつかなくなってしまうものらしい。二人でバレンシア・オレンジの産地へ行き、そこで結婚式を挙げようといった戯言まで真に受けるようになる始末。そればかりか、来世そして次の来世も一緒にいようと約束するありさまである。あーしことバレンシアはほくそ笑んだ。後は実体化してアーシャに種付けするだけだ。
その間にも、アーシャの現実世界での時は流れ、問題が発生する。まだ見ぬ恋人と夢の中で幾度も逢瀬を重ねるうちに、本業がおろそかになってしまったのだ。それに苦情を申し立てたのがオランダの有力な貴族アーチボルト家だった。
うら若き女流画家アーシャの名声を聞いてアーチボルト家はオランダ議会のエントランスホール真正面に飾る特大の絵画をアッシャー家に注文していた。納期までに注文品が納められないので、アーチボルト家の家令アーチャーが様子を見に工房へやってきた。そこでアーシャとアーチャーの二人が顔を合わせてしまったのが、あーし最大の誤算だった。アーチャーは、あーしことバレンシアと瓜二つだったのだ。アーシャは運命の男性と自分が巡り合ったと確信した。猛烈なアプローチを開始する。無論アーチャーはアーシャと夢で逢ったとか言われても困惑するだけだ。相手にするなよ! とアーシャの体内から殺気の入ったガンを飛ばしていたあーし様だったが、華奢な体つきでもオランダ独立戦争の英雄として知られる武闘派のアーチャーには効力が乏しく、いつしかアーシャとアーチャーは恋仲になってしまった。二人の仲を引き裂きたいあーしはアーチャーの雇い主アーチボルト家の当主アーチボルト・マクリッシュ・コーチャン氏の鼻腔から脳内に入り込み、あることないこと吹き込んだ。アーチャーは仕事の邪魔をしているからアーシャは注文の絵を描かない――この段階では、これは事実と化していた――等の夢の中の讒言を信じるほどコーチャン氏は愚劣ではなかったけれど、前金を払った以上は納品を求めるのが普通なので、アッシャー家に圧力を掛けたし、アーチャーには恋人の仕事を進ませるよう促した。
その一方で、絵画工房のアッシャー家は新たなるビジネスチャンスの到来を感じていた。アーシャは恋人のアーチャーを題材とした官能的な男性美の絵画を大量に描くようになっていたのだが、これが国内外で異常な評判を呼び、注文が殺到していたのである。とはいえアーチボルト家から依頼を受けたオランダ議会正面の絵画を放置させておくわけにはいかない。創作意欲が霧散しないよう注意しつつ、アーシャに仕事を急がせる。
こういった状況で、あーしは何をしていたかというと、恋敵アーチャーの体内に入り込み、その肉体を攻撃していた。アーチャーを殺し、その死後に現れて、今度こそアーシャをものにしようというのだ。愛の世界で官能に酔いしれる二人への怒りで頭がどうにかなりそうだったあーしは、なかなか死なないアーチャーに業を煮やし、禁じ手を発動させる。まずは魔力で地盤沈下を起こし、アッシャー家の屋敷を崩壊させた。次いであーしの匿名の密告で、アーチボルト家は他国への贈賄が発覚してしまう。重要参考人として議会で証言したコーチャン氏の権威は失墜、その手足となって動いたアーチャーは牢獄へ収監される恐れが出てきた。高跳びを試みるアーチャーとアーシャに、魔物へ実体化した花の妖精あーしが襲い掛かった――のに、返り討ちにあった無念は如何ばかりか。あーしの正体を知った恋敵アーチャーに弓矢で射られ、大好きなアーシャには異世界へ転生するよう呪われ、さらに来世の来世で何だか分からない何かに転生して絶対に姿を現すな! と罵られた自分って、可哀想すぎるっしょ……というのがあーしの話だった。
その通りですね、と私は言った。なおも何かを言おうとするあーしに司会が「まだ講習会が続きますので、この話はここまでをさせていただきます」と告げて、無理やり話を打ち切った。
私は聴衆を見渡した。そして彼らに伝える。
「講習の途中でも、質問があれば受け付ける。どんどん手を上げてくれ」
D
命より大事なものは無いという人がいる。それは本当だろうか? それというのは<命より大事なものは無い>の部分であって『命より大事なものは無いという人がいる』の文章全体を指していないつもりだが、講演の草稿を書いているとき、不安を抱いた。講演を聞く聴衆は指示代名詞を分かっているのだろうか? 分かるだろう! と絶対の確信を抱けないのが異世界転生者向け講習会での講演の難しさだ。元の世界では何者だったのか予想が付かない。まともな国語教育を受けていたのか、それすら分からないから厄介なのだ。ちなみに今『それすら分からない』と書いた中の指示代名詞「それ」は「まともな国語教育を受けていたのか」を示している……と書いておきながら、心配になってきた。それで、本当に正しいのだろうか? 左記の文の『それで、本当に正しいのだろうか』の「それ」は何を指示しているのか、と問われたら、何と答えれば良いのか。書いている本人も『それで、本当に正しいのだろうか』の「それ」が示すものを明確にできないのは、どうしたことか! ううむ、書いている自分の国語能力も怪しくなってきた。面倒だ、次行ってみよう! で済ませたくなる。それで済まして良いのか? 良いのだ。そう割り切ってしまえれば、どんなに楽か。でも考えているうちに、分かったような部分がある。指示代名詞は基本、前の言葉に掛かる。「後のそれ」と書いてあったとしても、この「それ」は前に存在する……はずである。知らん。やはり、分からない。それでも<命より大事なものは無い>という命題の答えは分かる。命より大事なものは在る。それは異世界だ。異世界無くして異世界への転生者はありえない。そして異世界が無ければ異世界転生者向け講習会は成り立たない。そうなると私に講演料が入らない。→→ここで笑い。そんな草稿を書いていて、思った。<命より大事なものは無い>は正しくない。<自分の命より大事なものは無い>が正解。他人の命ぃ? どうでもいいのだ、そんなものは!
そんなことを講習会で言ったら大ブーイングだろうなあ……と講演の草案を書いているときに考えたことを今、男性質問者の話を聞きながら思い出した。
「私は、この異世界に来る前は、野見宿禰と名乗っていました。日本という国号を有する皇国に生まれ育ち、当時の支配者に仕えておりました」
若い頃の彼は腕自慢の猛者で怖いもの知らずだったという。当麻蹶速なる剛の者との一対一の勝負で相手を蹴り殺した武勇伝は後々までの語り草となったらしい。そんな彼も、永遠に若くはいられない。他の連中と同じく、次第に老いていく。そして、いつしか彼は死について深く考えるようになった。
「昔は死ぬことなんて全然怖くありませんでした。いつだって全開バリバリです。どんな戦いだって平気、だからこそ勝てたんだと思います。それは一種の平常心ですからね。ですが、体にガタが来るようになると、そうもいかなくなって」
平常心を以(っ)てすれば死の恐怖を克服できるかと思いきや、心頭滅却すれば火もまた涼しの高みには達せず、老いと病と死に対する不安が頭から離れない。眠れぬ夜を過ごすうち、彼は若き日の死闘にまで思い及んだ。
「私が戦った当麻蹶速は、ベテランの試合巧者でした。もう若くありませんでしたが、ペース配分が上手くて、戦いを長引かせて、こっちが疲れてくるのを待つ作戦だったようです。その裏をかいて、ラッシュをかけて倒しました。そう、私は勝ったんです。でも、年を取るにつれて、試合には勝ったのに勝負に負けてしまったような気がしてきたんです」
かつて野見宿禰という最強の戦士だった男は、疲れた顔で咳を一つした。
「失礼。当麻蹶速は大和の国の最高の力士として、その絶頂期に戦いの場で死にました。一方、その後を継いだ私は、その後も勝利を重ねましたが、いつの間にか老いて、格闘技をする体ではなくなっていました。これは戦う男として恥ずべきことです。鍛えて鍛えて、鍛え抜いた体を失った私に、何が残されているというのでしょうか。何もありません。無残な老害がいるだけです」
男は再び咳をした。また謝って、話を続ける。
「それ以上、醜態をさらし続けることは、私には耐えられませんでした。ですから死のうと思ったのです。しかし普通の死は私の誇りが許しませんでした。栄誉ある死こそ、私にふさわしいと思いました」
まもなく宮廷を悲劇が襲った。支配者の妻が亡くなったのである。有力者や、その肉親が亡くなると殉死が普通に行われる時代だったので、その準備が整えられた。その支配者自身は殉死を好ましく思っていなかったが、長く続いた風習を変えることを好まぬ保守派が殉死の継続を強く主張したので、政局運営の関係上、彼ら保守派の意見に従わざると得なかった。
殉死の風習を変えないからこそ国家は安泰であり続けるのだ……という主張に科学的根拠は無いに等しいが、因習とは常にそういったものである。意見する者は国体を揺るがす反社会的勢力として排除されるのが筋というものなので、誰も表立って反対はしない。死ぬのが自分でさえなければ良いのだ。
そんな中でただ一人、野見宿禰は殉死に反対した。その理由を以下に挙げる。
①亡くなられたお妃様は、とてもお優しく、そして気高く、死を恐れるようなお方ではありませんでした。死出の旅路に共は無用とおっしゃられるに違いありません。
②殉死によって有用な人材を失うのは国家の安定を揺るがしかねません。それこそ、お妃様が望まれることではないでしょう。
③かつて、この島国に暮らしていた先住民は土偶という聖なる人形を死者と共に埋葬したと聞き及んでおります。現代においては焼き物の技術が発達しておりますので、土偶より精巧な像が作れると思います。これを以(っ)て殉死者の代わりにすべきかと存じ上げます。
当時の支配者は野見宿禰の進言を取り上げた。守旧派は反対したが「そんなに殉死を望むなら、お前たち全員が殉死せよ」と主人に言われたのか、最終的には殉死の停止に同意した。かくして殉死の悪習は終わり、代わりに埴輪と呼ばれる踊る人形が死者の魂に安らぎを与えるようになったのである――が、それはこの際どうでもいい。
「私は喜びました。これで私に、私だけに殉死のチャンスが巡ってきたのです。私は自殺を試みました。ですが、死にきれなかったのです。何度も死のうと思いましたが、怖くて死ねなかったのです」
死ぬに死ねなかった野見宿禰は、やがて病気になって死んだ。死の床で彼は思った。
「自分のエゴで殉死を止めさせたにすぎませんが。でも、私は死にかけながら考えました。これって、結果オーライじゃね。俺もしかして、凄くイイことしたんじゃね……そう思って、死んでいったんです」
彼はまた咳をした。酷い咳だった。それから口元をハンカチで拭った。私は彼に少し休まれたらいかが、と休憩を勧めた。彼は、もう少しだから、と話を再開した。
「殉死は良くないこと。私のかつての主人は、そう信じていました。私の進言は、主人の意を汲んでのものにすぎませんでしたから、殉死に良いも悪いも無いと思っていました。要は、自分だけの特別な死を迎えられたら良かったのです」
しかし、この異世界に転生し、またも死の病になって苦しむようになると、殉死に対する考え方が変わったのだという。
「故人への弔意を示すために殉死するのは自然なことです。それを止めようとすることは不自然なのです。いえ、亡くなった者に対してだけではなりません。生きている者に対して、自分の命を捧げる。これは気高い行為です、人間にしかできない、尊い、尊いことです。人に対してだけではないです。例えば思想、例えば国家、例えば宗教、例えば家族同然の動物。金のためなら命を捨てると断言する者だっているでしょう――主に他者の命でしょうが。とにかく命を捧げるべき対象は人それぞれですが、そのどれもが尊い行為であることに変わりありません。しかし、今の時代、殉死は禁じられています。殉死を心から願っているのに法律が許さないのです。これは法改正が必要です。変えなければならないのは、他にもあります。子供でも殉死はできるのに、大人がそうさせない。教育が大切です。何も知らない子供たちに命の大切さを教え、殉死の素晴らしさを伝える。それが異世界に転生した私の義務だと思うのです。ですが、私に、それだけの時間が残されているのか……」
最後の声はかすれていた。私は講習会場の外のロビーで休まれた方が良いと言った。水分を取り、ゆっくり休んで、それでも体調が戻らないときは、お帰りになった方が宜しいかと思いますと司会が言い、会場の後ろに控えていた係りの者たちに目で合図した。係りの者たちが、前世では野見宿禰だったという男を会場の外へ連れ出した。会場の後ろの扉が開き、静かに閉まる。
私は聴衆を見渡した。そして彼らに伝える。
「講習の途中でも、質問があれば受け付ける。どんどん手を上げてくれ」
E
セイガクさんセイガクさん、大それた夢を持っちゃア、いけないよ。身の丈ってものを考えないと駄目駄目ね。ヤドカリは自分の体に合わせた巻貝を背負うもんらしいけど、奴らは正しいね。もしかしたら人間様より、ずっと賢いかもしれんやね。結局さ、自分の器にあった生き方を目指せってこと。その生き方にフィットした相手を選ぶってこった。これ大事なとこね。それが一番、相性がいいんだよ、長続きするんだよ。付き合う相手だって、そう。ランクを考えないと、自分のランクを。デートするときだって同じ。見栄を張って借金して、高い店に連れて行くなんて無理な事、無理は言わない、やめときな。それが続くかい? 続かないだろ? 幸せなんてものはね、手のひらに載るぐらいがちょうどいいんだよ。こぼれるくらい持ってみな。指の隙間から落ちる幸せがもったいないってんで、全部を拾おうと四苦八苦しているうちに、すべてが落っこちてしまうんだとさ。
その昔、飲み屋のカウンターで隣に座ったオッサンが上記のような話を見ず知らずの私に語り出して大いに閉口したものだが、その話を今こうして、講習会で語っている。あのときのオッサン、話のネタをくれて、ありがとう。
そのとき私を隔てオッサンの反対側の席に座っていて、私が一生懸命口説いていた女性に顔立ちが少し似ている奇麗な娘さんが挙手した。それはノスタルジーがもたらした偶然か、ただの気のせいか、誰にも答えようがない。かつての自分に操られる錯覚に陥りながら、挙手した娘を指差す。
彼女は語り始めた。
「人は私を転生者だと言いますが、私は自分が異世界への転生者なのかどうか、分からないのです。ただの気のせい、あるいは、間違った記憶。もしもすべてが幻だとすれば、どんなにか幸せでしょう」
芝居がかったセリフだと思った。演劇部出身だろうか?
「私の前世の記憶は何もかも血で汚れています。生まれる前後の記憶からして、そうなのです」
母親の暖かな腹の中でスヤスヤ寝ていたら爆発音と銃撃音と女の悲鳴で目が覚めた、と思ったら急に明るく、そして寒くなったので驚いて泣いた。これが最初の記憶だった。何のことはない、戦闘に巻き添えで母親の腹が裂け、そこから彼女が出てきたということらしい。それでも死産せずに済んだのだから、臨月で幸いだったと言えなくもないが、だからといって神に感謝する気にはなれなかった、と彼女は語った。
「シングルマザーだった母を亡くした私は孤児となりました。同じような身の上の子供たちを集めた孤児院で生きながらえることはできましたが、そこは思い出したくもない地獄の毎日でした。それこれも皆、敵が私の母を殺したせいです。私は敵を恨みました。恨むこと憎むこと、そして敵を殺すことが私の人生のすべてになったのです」
その孤児院は単なる慈善団体ではなかったようで、みなしご相手の人体実験に励んでいたらしい。実験は成功でも失敗でも同じように被験者の大量死で終わるケースがほとんどだった。人道も人権もお構いなしの悪行だったが、それに目くじらを立てる者はいなかった。何しろ戦中である。食糧事情は悪化し、多くの者は飢えていた。食い扶持が減るのなら、それが一番なのだ。穀潰しどもの口減らし策として黙認されていただけでもない。食糧供給のために世間から求められる一面もあったらしい。何しろ市場には何の肉か分からない肉が高値で売られ、それにも買い手が付くくらい混沌とした世情である。身寄りのない子供なら何をしたって誰も文句を言わないわけで、実験に失敗して死んだ子供の死体を何なら売ってくれたって構わないよってな具合だったそうだ。
「そこで私は人体実験を受け奇怪な生物となりました。動物兵器となったのです」
どんな姿をしていたのか、彼女は語らなかった。こちらも尋ねない。話したくない過去は話さなくて良いのだ。
「私は貨車に乗せられて前線へ送られました。その貨車の中には私と似た境遇の子供や、大人になってから生体改造を受けた改造人間が大勢いました」
すし詰めの車内は何かのスイッチが入りがちなのか何なのか、発情した痴漢が数多く出没しただけでなく人間の形態を卒業し完全変態あるいは不完全変態を来す個体が多々現れた。それらの変化によるものなのか、満員電車に異臭や謎のガスが充満し床に液体が何処からともなく流れてきて乗客の靴または裸足それから蹄、個体によっては触手を濡らす。
「私に関しては、見た目は特に何も変わりありませんでした。痛くもかゆくもありません。ただ、満員の貨車に詰め込まれているのが辛くてたまりませんでした」
敵の度重なる砲撃や爆撃で線路は至る所で寸断されていた。列車は何度も停車を余儀なくされ、場合によっては迂回を強いられた。最前線が近づくと攻撃で切断された電線の修理が追い付かなくなり、電気機関車に代わって元気機関車が貨車を牽引するようになる。燃料用に加工された人間を吊るし選び抜かれた精鋭の機関士が特別に製造された精神注入棒で何度も何度も激しく殴打することにより発生した異常な熱気でタービンを回し発電する元気機関車は電気機関車に劣らぬ馬力を誇り、それでいて環境に優しい優れものだ。問題は線路が破壊されたら進めない点で、こうなると乗客は列車を下りて自力で目的地を目指すしかなくなる。
「翼のある個体は楽だと憧れる者が大勢いたものでした。地雷原を歩かなくても良いのですから。ですが敵のレーダーに捕捉されると対空砲の餌食になりますから地表ギリギリを飛びます。そうすると対空地雷に引っ掛かります。低空を飛ぶドローンや航空機を狙うため地中に埋められた兵器です。これにやられても死にますから、歩くのと比べればどっちもどっちなのですが、それでも空を飛ぶ方が好まれたのは、何なのでしょう? 私には分かりませんでした。飛んだ方が泥で汚れませんし、楽なのかもしれませんが、早く目的地に着きます。そうなると死にます。そんなに急いでも早く死ぬだけなのに、何なのでしょう、あの人たちは」
前世の彼女は動物兵器に改造されたのだが、それがどういうものなのか、詳細な説明を受けなかった。使い捨てなので高度な知能は与えられず、命令されるまま動けば十分という設計理念だったようだ。最前線に来て、自分が何になったのか、ようやく分かった。そうは言っても公式に伝えられたわけではない。並んで歩いていた顔中が目玉だらけの二足歩行の生物が彼女の体内を勝手に透視して、こう告げたのだという。
「娘さん、あんたは爆弾よ、爆弾に改造されているわ。敵陣へ突っ込んで爆発するの。そういう運命なのよ」
敵を道連れにして死ぬなら本望だと彼女は思った。核兵器で汚染された大地を歩き続けて最前線の陣地に到達したら、そこは敵の猛攻で陥落寸前だった。敵陣へ突撃するまでもない、今ここで爆発せよと彼女の体内に埋め込まれた発火装置を制御する安物の人工頭脳が命令を下す。命じられるまま、彼女は爆発した。すると、そこに異世界へ連絡する回廊が無数に開き始めたのだという。
「何が何だか、死んで霊魂となった私には分からず、混乱するだけでした。目覚めたら、この世界です。育児放棄されていた幼い私を親から引き取り愛のイニシエーションで高い次元に導いて下さった教祖様がおっしゃるには、罪深い汝は罰として霊的な壺を死ぬまで売り続けなければならないとのことでしたが、教祖様は多くの罪を犯して刑務所に収監されてしまいました。その後に入信した宗派の御宗祖様は私を愛人にして下さいました。彼は本妻を追い出し私を正妻にしてくれましたが、やがて別の女に心変わりして私を邪魔者扱いするようになりました。生活費をくれなくなっただけではありません。今までに与えた家や車を返すよう迫るのです。離婚しないと呪い殺すとまで……今までは、そんなこと絶対に言わなかったのに……私は自分が一人ぼっちになったと思いました。心の救いを求めインターネットでパパ活しましたところ、別の宗派の導師様とお知り合いになりました。彼は売春なんて恥知らずな真似は止せ、そんなことはしなくとも尻の穴を広げてさえいれば迷宮会に入れると私を新しい世界へ誘って下さいました……でも、私は痛くて、あんなことをされるのは嫌なのです。こんな酷い目に遭うのは、もうたくさんです。こんな思いをするのは、私が異世界への転生者だからだと、皆は言います。不幸なのは前世の罪なのだと。でも、それは本当なのでしょうか。私には分かりません……」
彼女は悲し気に言った。会場の出席者から啜り泣きの声が漏れた。羨ましいとのことも聞こえた。私は言った。
「転生者であるかどうかを決めるのは、あなた自身です。たとえ転生者だとしても、過去にどんな世界を生きていたのかは、今を生きるに当たって何の関係もありません。過去を忘れ、未来に向かって生きて下さい。新しい世界を作るのは、あなた自身なのです」
何の救いにもならないことを言っていると自分で自分に腹が立った。それでも彼女は頬をバラ色に輝かせ、私に何度も感謝してから自分の席に座った。物凄く騙されやすいタイプなのかもしれない。彼女の次のパトロンが良い人物であれば良いと、私は心から願った。勿論、お金持ちのパパでなくとも良い。どんな存在であれ、彼女に安らぎを与えてやれる人物であれば……いや、人でなくても構わない。金であれ、神であれ、愛玩動物であれ、彼女を幸せにしてくれるものであれば何だって良いのだ。
私は聴衆を見渡した。そして彼らに伝える。
「講習の途中でも、質問があれば受け付ける。どんどん手を上げてくれ」
そのとき司会が言った。次の予定がございますので、これを最後の質問にさせていただきます、と。
痩せた髭面が立ち上がったのは、その直後だった。質問を断ろうとする司会を私は制し、挙手した男に質問を促した。
「せっかくの機会だから、どうぞ。ただし、手短に」
F
痩せこけた髭面で半裸の男は頭に茨の冠をかぶり背中に十字架を背負っていた。手を十字架の横木に釘で止められているのでマイクを持てない。司会が男の隣に立ち、マイクを持ってあげた。男は司会に礼を言った。時間が気になっている司会はぎこちない笑みを浮かべた。男はマイクに向かって語り始めた。
「転生前の私は創造主でした。誰もな幸福で平和な世の中を作るために、出来る限りの努力を惜しまなかったつもりです。世界を創っただけではありません。悪へ流されがちな世を正すため、私は人々に訴えました。人類は皆、平等であると。そう、それが大事なことだと信じていたからです。さらに人々へ訴えます。友愛の精神に基づき、隣人を愛せと。それがたとえ敵であっても、互いを愛の対象とすることで争いは回避できると、私には思われたのです。私は創造主としての自覚と高い意識で布教活動に邁進しました。権力者によって処刑されるまでの三年に満たない期間でしたが熱心な信徒を得て信仰を地上に広めることが出来ましたので、充実した毎日だったと思っています」
異世界に転生する人間のほとんどは転生前の世界に対し良い思い出を持たない中にあって、リア充だったとは喜ばしい限りである。しかし創造主も鬱屈した思いを抱えているようだった。
「昇天した私は天国から地上の様子を眺めておりましたが、どうも様子がおかしいのです」
処刑された自分が生き返ったというデマが広がっていて、それを皆が信じ込んでいるので、とても困惑したと元創造主は語った。
「死んだ後に復活すると私が言ったのは、私自身ではなく平等と隣人愛の精神です。正しい考え方は、どれだけ厳しく弾圧されても滅びないのです……といったことを私は信者たちに語ったつもりなのですが、どういうわけか、私の死体が息を吹き返した! みたいなオカルト話になってしまって」
幽霊が見えるといった能力を有する人材は、その力の存在を絶対に口には出さない者を含めて少なからずいる。だから「創造主が復活した!」と言い出した人間が嘘を吐いたとは言い切れないわけだが、当の本人にしてみれば違和感があるのだろう。
「私が唱えた友愛の精神は曲解され、理性の欠片も無い愚民を操るための歪な宗教へ変貌してしまいました。これでは私の夢見た理想郷、神の国は地上に実現しません。もしも神の国が出現したとしても、それは本物ではありません。創造主である私の名を語る偽物が作り上げた偽の王国です」
そういうあなたが本物の創造主であるという保証も証拠も何もかも何処にも無いですよね! と論破することは出来ない。なぜなら異世界へ転移したと称する者に、その手の言い方は禁句だからだ。それを言ったら元も子もない、というだけでない。この世界に溶け込めず、疎外感を抱いている自称”異世界からの転移者”に向けた講習会は、不発弾除去作業にほかならないからだ。危険分子は抹殺しなければならないのだ……そして今、不発弾が発見された。この自称”元創造主”は、我々の社会秩序を乱す存在になりかねない、と私は判断した。
不発弾男は言った。
「創造主としての私は失格の烙印を押されたようなものです。誰もが幸せな神の国を創ろうとして、失敗したのですから。ですが、今度こそ、この異世界を楽園に変えたいのです。皆が幸福な世の中を実現したいのです。私は救世主になりたいのです。今度は失敗しません。理想郷を作りたいのです」
次こそ、失敗しません! と言い切る奴ほど信用できない者はいない。救世主志願の男には、後で詳しく話を伺うといって席に戻ってもらった。司会が「そろそろ終わりの時間が近づいて参りました」と名残惜しくもなさそうに言う。私は講習会のまとめに入った。
「約一か月にわたる講習会に参加していただき、本当にありがとう。【世界が世界を語るセカイ系を目指す】と書いておきながら、目指す場所にたどり着けなかったことを詫びたい。それというのも、私が『セカイ系』というものを理解していなかったからだ。九月三十日の二十三時を回った段階で、慌てて答えを探している現状だ。さて『セカイ系』とは何か? この世界に対する作者/読者の解釈あるいは捉え方が『セカイ系』なのではないか、と私は今、漠然と考えている。それでは『異世界もの』とは何か? この世界に対する作者/読者の反感ではないか、と私は根拠もなく思い込んでいる。わざわざ『異世界もの』へ行かなくても『セカイ系』で十分なのに、どうして別のセカイへ行かねばならないのかというと、フィクションの世界であっても、この世界にいたくない、その気持ちの表れなのではあるまいか、と」
聴衆の反応は薄かった。だからどうした、というのが彼ら彼女らの本音だろう。私も本音を語ることにした。
「当初の考えでは、私の正体は、この『世界』そのものにするつもりだった。そして登場人物に物語を語らせる『千夜一夜物語』や『デカメロン』のような枠物語の形式で、五万字を突破するのが目標だったが、終わってみると目標の半分にも達していない。従って、この小説は失敗作と断じて構わないだろう」
それでも――私は付け加えた。
「連載小説という形式に初めて挑戦して、分かったことがある。第一話以外のタグは無いみたいだ。もしかしたら、何処かにあるのかもしれないが、それを見つけ出すのは今回は無理だろう」
最後に私は言った。
「ここまで付き合ってくれた方々にはお礼を申し上げる。何かの機会があれば、講習会を再び開催したい。不思議な法則がまかり通る異世界のことだから、時間が巻き戻って最初から違った形の講習会が開かれるかもしれないが、先のことは分からないので、とりあえずは、この辺で、お別れしよう」
司会が言った。
「本日は講習会にご参加いただきまして誠にありがとうございました」
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続いてはマントハ・デ・ラ・ラムモという名のコマンドの体に記されていた文章である。文中のルビが多かった。
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3 マントハ・デ・ラ・ラムモ:才覚のある貴族の貴公子。職歴無し。
貴女が転校してしまうと知った時の衝撃から、実は今も僕が立ち直れずにいると貴女が気付いたら……僕が貴女を愛していると知り嬉しさのあまり頬を染め、それから急に恥ずかしくなって下を向き、それでも僕の正直な想いに応えてくれる! なんてラッキーな展開はあるだろうか? それとも僕と同じ気持ちになって涙ぐんでくれるのだろうか? あるいは顔を真っ赤にしてゲラゲラ笑うだろうか? 多分それだ。ああ、笑いたければ笑うがいいさ! その方が僕らの関係に合っている。さっぱりした気分で、笑って別れられたら、それでいい。しばらくは落ち込むだろうけど、いつか気分スッキリな朝を迎えられるだろう。
そんなことを思いながら泳いでいたせいで僕は点検中の対潜網に絡まった。鋭い棘の密生する硬い鱗は、こういう時に厄介だ。第二次性徴が進むと棘の長さを調整できるようになるというけれど、その兆しは、僕にはまだない。仕方がないので棘に絡まった網を星状腕の指で取ろうとしたら、その指の棘まで絡まって、もっと酷くなってしまった。格闘戦用腕の巨大な鋏で網を切ってしまおうかと考える。だけど防衛設備管理マニュアルには〔防御品目の修復は破損させた者が行うこと。直せない場合は弁償〕と書いてあったような気がして、やめた。壊したら弁償は、僕の記憶違いかも……と思ったけど、確信が持てないからにはやらない方が良いに決まっている。網を切ったら自分の責任で直すなり賠償するなり、とにかく何とかしなければいけないということだからだ。それは大いに困る。海中に張られた対潜網は普通のネットではないのだ。人類の潜水兵器が発射する索敵用超音波を吸収する特殊繊維のハイテク網で、とても高額なので、苦学生の僕では絶対に弁償できない。
左右二十対の作業腕から伸びる鋭利な鉤爪で網を切断しないよう注意しながら、棘を外す。その間、触角と耳と微弱電流検知器官と八つの複眼で付近に怪しい陰影が現れないか気を配る。人類が送り込む潜水兵器は僕らを見つけたら魚雷を撃ってくるから、いつ何時でも用心、用心……していてもやられるときはやられるけどね。父は魚雷の直撃で死んだ。母は腹部を半分くらい吹き飛ばされたそうだけど、雌は雄より治癒能力が高いので助かったそうだ。そして僕が生まれたらしい。腹を半分以上吹き飛ばされていたら、僕はどうなっていたのだろう?
僕は父より早く死ぬかもしれないけど、それでも何とか子供を残したいな、できれば貴女と……なんてセンチメンタルな気分に浸っていたら、また失敗をしてしまった。頭上に急降下する黒い影に気付くのが遅れたのだ。人類には潜水兵器以外に航空兵器もある。空から爆弾を落としたり機銃掃射してくる航空兵器による犠牲は多い。その仲間入りをしてなるものか、と格闘戦用腕の巨大な鋏で網を切りかけたとき、頭にテレパシーが聞こえてきた。
「エヌエイ児五号、エヌエイ児五号、網に絡まってんのかよ!」
貴女の声だった。僕は鋏を止めた。ちなみにエヌエイ児五号とは僕の呼び名だ。父のエヌ氏と母のエイ氏の五番目の子供という意味である。
僕の頭上でビィィンと羽音が鳴る。貴女の背中に生えた八枚の翼が羽ばたく音だ。その喧しい音に負けないくらい、気に障る笑い声が僕のテレパシー受容器に響く。
「ギャハハ、ドジ踏みやがったな! 網の点検してて網に絡まるなんて、ドジっ子すぎるだろ!」
何もかも貴女のせいだ……なんて恥ずかしすぎるセリフは耳まで裂けた口がもっと裂けても絶対に言えない。代わりに悪態をつく。
「うるせーバカ! どっか行け!」
僕の頭上に静止して貴女がゲタゲタ笑った。
「パトロール飛行中だから、すぐに行くさ。だけど、私がどっか行ったら困るのはお前だろ? 網に引っ掛かったまま、ずっといる気かよ」
僕は黙り込んだ。まだ対潜網の点検が終わっていない。僕らの居住地がある海上浮遊島をぐるりと取り囲む対潜網の点検は、とても時間が掛かる。ここで手間取っている間に、万が一の事態が起きるかもしれないのだ。自分のミスで皆を危険にするわけにはいかない……というだけではなく、貴女と少しでも一緒にいたかったから、僕は素直に頭を下げた。
「分かった、助けてくれ」
ゲヘヘと貴女は笑い腹に生えた無数の触手を海面下に伸ばした。僕の棘に絡まった網を丁寧に外していく。貴女の触手が僕の棘に触れるたび、心がビクンビクンと震えた。
「おい、あんまり体を動かすな。棘がつかめないだろ」
貴女にそう言われて、自分の体が脈動していることに気付いた。体の震えを我慢しようにも、意識すればするほど抑えられなくなる。体がムズムズしてくる。
「震えが止まらないのか。よし、分かった。刺すぞ」
貴女は尾の毒針を僕の鱗の隙間にブスリと刺した。僕は「ひやあ!」と悲鳴を上げた。
「弱めの麻痺毒を打った。死なないけど動けなくなる」
なるほど、体の震えは止まった。体のムズムズも我慢できる程度になってきた。その間も貴女の触手は動きを止めず僕を網から放していく。
「もうすぐ終わる……よし、取れた!」
その時を待っていたわけではないだろうが、その瞬間、僕は魚雷の発射音を聞いた。こちらへ向かってくる魚雷は四本。高速で水中を移動する。僕は迫る魚雷へ向けて顎の毒腺から泳動痰を吐けるだけ吐き出した。鞭毛運動で泳ぐ黄褐色の痰を魚雷にぶつけ爆発させるつもりなのだが、幼生体の僕は放出量が少ないから、それで上手くいくとは限らない。そこで僕は、この場から早く離脱しようとした。対潜網の内側にいるので魚雷に直撃される恐れはないけれど、その爆発に巻き込まれると、それだけで致命傷になりかねないから、全力で逃げる。
何とか逃げ切れるだろう……と僕は思ったけど、考えが甘かった。貴女に打たれた麻痺毒のせいで、背びれも尾びれも動かないのだ。
不器用にドタバタするも前に進まない僕を、貴女は巨大な足の鉤爪でひっつかみ、そのまま空高く飛び上がった。僕らの下で魚雷が爆発し、水しぶきが盛大に上がる。海の中と陸上で生活する僕は空に縁が無く、海洋種族の生まれつきの性質で高所恐怖症なので、それこそ死ぬほど怖かったけど、四本の魚雷が同時に爆発した海にいたら死ぬのは間違いなかったので、これで助かったのは確かだ。
貴女は波打つ海を見下ろしながら空中を旋回した。魚雷を撃った人類の潜水兵器を探しているのだろう。しかし、そう簡単には見つけられない。深く潜った敵を見つけるのは、空からの目視では不可能だ。僕は貴女にテレパシーを送る。
「早く味方を呼ぼう。どれだけ視力が良くても、深く潜った敵は見つけられないよ。大人を呼ぶんだ。島の基地から呼び寄せよう。でも、この距離だと基地までテレパシーが届かないかもしれない。二人のテレパシーを合わせてパワーを増強させて、それでも届くかギリギリの距離かな。さあ始めよう。すぐに呼び出せば、敵は逃げきれない」
僕の提案は理にかなっている、だから貴女はテレパシーの同一化に応じる……かと思ったら、違った。
「いや、絶対にいや。テレパシーを合わせるのは、死んでも嫌!」
「死んでもイヤって……何を言ってんのさ、死ぬところだったのは、こっちだぞ」
「テレパシーを同一化すると、私の心を読まれるから嫌」
テレパシーを合わせると、お互いの心が見えてしまうことがある。知られたくない部分や隠しておきたい本音が読まれてしまうのだ。それが嫌なのだと貴女は言った。僕は説得を試みる。
「そうは言っても、これは戦争。生きるか死ぬかの瀬戸際で、そんなことを言っても」
人類とのは戦いは、一種の生存競争だ。人類が勝つか、人類が化け物と呼ぶ僕たちが勝つか、勝敗の行方は見えてこない。勝つために、僕たちみたいな半分ぐらい子供も動員されている。海洋生物の僕は海軍兵学校で勉強しながら戦っているし、飛行生物の貴女は海軍の予科練で戦闘訓練中で、もうすぐ生まれ故郷の海上浮遊島を離れ本土の空戦アカデミーに転校し、そこの訓練生となる予定だ。それもこれも、この闘争に勝つため――みたいな話をする前に、貴女が言った。
「お前とはテレパシーを合わせない。絶対だ! 文句を言うなら海に叩き落す。また魚雷を撃たれても助けない。私は本気だぞ!」
まだ麻痺毒が効いている僕は貴女の意見に従うしかなかった。島の方角へ移動しつつ、二人はそれぞれ別にテレパシーを飛ばした。敵の潜水兵器から攻撃されたことを伝えると、直ちに味方がやってきた。僕らみたいな子供よりずっと大きな成熟した個体が十数匹、空と海を凄い速度で進んできて、敵影を探した。だけど、遅すぎた。潜水兵器は遠くへ逃げたのだ。それでも、またやってくるだろうと大人たちは噂し合った。
海上浮遊島の基地へ帰還した僕ら二人は司令官から、テレパシーの同一化をしなかった理由を問い質された。やろうとしたけどた無理だったと僕らは答えた。司令官は、その答えに納得した。子供には難しいのだ。ちなみに大人なら、互いの心を読まれずにテレパシーの同一化が可能だ。要するに僕らは、子供すぎたのだ。
司令室を出た後で、僕は貴女にあらためて助けてもらった礼を言った。貴女に頭を下げるのは少し癪だけど、愛の告白をするより気分は楽だ。楽しくはないぞ! いくら貴女のことが好きでも、こっちにだってプライドがある。貴女は僕の想いに気付かないまま、さっさと廊下を飛び立った。僕はポカンと大口を開けて空を見上げた。息苦しかったからだ。貴女の後姿を見ていると、胸が痛くなるのだ。
僕らは小さな子供だった頃からライバルみたいなものだった。主に海中で生きる僕と空を飛ぶ貴女は、接点が海面ぐらいしかないけれど、まあ幼馴染と言っていい。どちらが早く大きくなるか、競争したよ。そして僕は負けた。飛行種族の貴女は僕ら海洋種族より小柄なはずだが、規格外の成長ぶりだった。大人たちが貴女を、大きくなったら空の英雄になれると褒めていたのが悔しかった。その気持ちがいつしか憧れに、そして愛へと変わっていった。その心理は、自分でも不思議だ。ともあれ初恋かと訊かれたら、そうだと答えよう。種族が違うから、結ばれるのは無理だとしても、それでも好きなのだ。顔を合わせれば喧嘩ばかりだから、僕が愛を語っても信じてもらえないだろうが。
いよいよ貴女が転校する日が迫ってきた。告白する気はなかったが、僕の棘を貴女の触手が触れた日から、考えが変わったよ。複数の単眼と真っ白な頬と鋭い牙の生えた貴女の顔が、羞恥で真っ赤になる瞬間を見たくてたまらない。断られるかもしれない。激怒されるかもしれない。もしかしたら尾部の毒針で刺殺されるかもしれない。でも、勇気を出して告白したい。少年兵の僕は、いつ死ぬか分からないのだから、後悔したくないのだ。
そんな僕は、子供らしくないと判断されるかもしれない。そう思われたら僕は「そっすね」と言うしかない。子供だからという理由で、愛の告白が許されない世界は、ずいぶんと不自由だとは思うが……まあ、それは僕に関わりの無いことだ。とにかく、貴女に告白する。貴女が転校する前に。僕が魚雷の的になって四散する前に。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
次は”警備員の”という二つ名のある人物クアンルンリントの体に記されていた文である。”懲りない男”シュールス・ルッケリング・ブースミス提督の訳文と構成を変えたが、内容は変えていない。
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4 ”警備員の”クアンルンリント:流刑囚。退役軍人。
私がコソ泥のマンキウィッツ・メンジンズキッギーと知り合ったのは、警備員のアルバイトをしていたときだ。とある町の大商人の店――何とか商会とか言ったが、もう名前は忘れた――の広大な敷地内を懐中電灯片手にグルグル回っていると大きな物音が聞こえた。私は怯えた。咄嗟に逃げようとしたのだけれど、手にした懐中電灯を落としてしまい、その懐中電灯につまづいて転んだところでパニックは収まった。夜警のバイトを始めて数日だが、その前はしばらく軍隊にいた。そのときだって基地の敷地内を夜間パトロールしていたのである。あのときも夜中に変な物音は聞こえたが、何事もなかった。あのときも武器は携帯していた――そして武器を使わなかったではないか! そう考えて自分を奮い立たせ、物音がした方へ向かう。
私の担当地域は川岸の倉庫群で、その対岸は入り江の中州だった。そこには工場や発電施設があって夜景が綺麗な場所として一部の人間には知られていた。若者のデートスポットでもあった。ただし、ここに勝手に侵入するのは不法侵入だ。それを知ってか知らずか、入ってくる奴らが絶えないので、私のような臨時雇いの警備員が必要とされる。そういった連中を相手にするのなら、懐中電灯で照らして怒鳴りつけるだけでいい。腰に下げた警棒を振り回すこともないし、拳銃を引き抜くなんて絶対にありえない。そもそも私は兵隊の頃から銃の扱いが苦手だった。誰かを打つ前に自分の足を撃ちそうな予感がするので、そういう事態は御免被る……とまあ、そんなことを考えつつ立ち並ぶ倉庫の間を歩く。物音は、この辺から聞こえたかな。そう思い、角を曲がると倉庫の横に立つ平屋の家屋が見えた。倉庫で働く労働者向けの食堂だった。入り口の明かりが付いていた。その扉が開いている。嫌な予感が足の先から頭のてっぺんまで満ちてきた。私はトランシーバーで警備員の詰め所を呼び出し事情を説明した。警察に通報するよう要請すると、詰め所にいた奴は中に入って盗人がいるかどうか確認して来いと言う。冗談じゃない! 強盗と鉢合わせしたらどうすんのよ! と私は小声で抗議したが、向こうは取り合わない。そうするよう警備マニュアルに書いてあると言う。そんなことは知らん! と突っぱねたら相手もギャーギャー喚き出したので、こちらも負けずに大声を出した途端、食堂の扉の中から大きな物音が聞こえた。私は思わず悲鳴を上げてしまった。食堂の中に泥棒がいるとしたら、聞こえたに違いない。私は「近くに誰かいる、すぐに警察を呼べ」と言ってトランシーバーを腰のホルターに戻し、代わりに拳銃を手に取った。しかし、食堂に入る気にはなれない。相手が銃を持っていたら? 警備マニュアルに何が書いてあるのか知らないが、私はマニュアル人間じゃない。自分の意志で行動する。だから私は、警察が駆けつけてくるまで待つつもりだった。いつまで経っても誰もやってこない。私は懐中電灯と拳銃を片手に持ち、違う手でトランシーバーのスイッチを入れた。
「もしもし、警察はまだか?」
「警察には連絡していない」
「何で、どうして!」
「俺はマニュアル人間だからだ。マニュアルに書かれたとおりにやる」
「相手は武器を持っているかもしれないんだぞ! 中に入ったところを刺されたら、どうすんの。撃たれたら、誰が責任を取ってくれるの? 死ぬのは御免だ。やってられん。こんな仕事、今すぐ辞める。辞めてやる!」
確か、そんな風に叫んでいたときだった(発言の全部を覚えているわけではないので、間違いがあったとしたら申し訳ない)。食堂の扉が大きく開いた。中から大きなドラム缶や一斗缶を幾つか満載した台車が出てきた。それを押す男は荷物運びが大変そうだった。体の前に中身がいっぱい入って膨れ上がったリュックサック、背中に冷凍肉の塊を背負った姿が入り口の明かりに浮かんだとき、私が真っ先に思ったのは「マシンガンやショットガンは持っていないな」だった。私は壁から顔と懐中電灯を出して叫んだ。
「動くな! こちらは銃がある。動いたら撃つぞ!」
盗人は口にくわえていたパンの塊を落とした。私は続けて怒鳴った。
「その場に伏せろ! すぐにだ! さもないと撃つ! 言うことを聞け。動いたら撃つからな!」
その場へ伏せた泥棒が手を伸ばした――落ちたパンを拾おうとしたらしい――ので、私は警告のために一発だけ空中に発砲した。銃声は大きく響いた。あまりに大きな音だったので対岸の工場街をパトロール中だった警官が異常に気付き警察署へ連絡してくれたそうだ。その警官が詰所にいたマニュアル人間の代わりに通報してくれなかったら、私は朝まで盗人と二人っきりの時間を過ごしていたかもしれない。他の警備員に案内された警官たちが私のところへ来てくれたので、私はお役御免となった……かというと、そうでもない。調書の作成のため警察署へ行かねばならなかったし、食堂から食料を盗もうとした盗人の顔をマジックミラーの向こうから確認しなければならなかった。
「夜で暗かったですし、一瞬のことでしたから、犯人の顔ははっきり見えませんでしたよ」
私はそう言ったが、念のためということで面通しをさせられた。そのとき私は初めてコソ泥のマンキウィッツ・メンジンズキッギーの顔をじっくり眺めた。なんてことはない、普通の男だった。あの男です、と私は適当なことを言って警察署を離れた。それで私と彼の関係は途切れた、と思った。だが、そうではなかった。
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商店街の年末福引大会で無料の温泉旅行券一枚が当たった私は年明けに、とある旅館へ一泊しに出かけた。平日だったので旅館は泊り客が少なく、浴場は空いていた。大きな浴場の湯船に浸かり、浪花節をビバノンノンしていたら、話しかけてくる男がいる。自分は傷痍軍人だが、貴方とは以前どこかで会ったことがあり、軍隊の基地か野戦病院で会ったのではないかと考えたが確証はないけれど、そちらは覚えていないか? と聞いてきたので知らないと答えた。相手の男は私の返答を聞いた後も、しばらく記憶を遡っていたようだが、そのうち思い出すのを諦めたらしい。そんな昔のことを考えていてもきりがないだろうし、考え込んでも頭の傷に良くないだろうから、ボケっとしているのが一番だ。そうそう、ゆったりした気持ちで、のんびり古傷を湯治で癒すのも悪くない……なんて考えていたら、思い出した。隣にいる奴は、警備員のアルバイトをしていたときに食料を盗もうとして捕まった泥棒だった。名前は、何と言ったかな……と、思い出そうとしたが思い出せない。尋ねるのも何だった。何と言っても、こっちはこいつに拳銃を突き付けたのだ。それに、捕まったことを恨みに思っているかもしれない。私が悪いのではなく、こいつが悪いのだが、そう考えないのが盗人というものだ。そういう根性の人間が身を持ち崩すのだ。そんなことを考えていたら、隣にいる男が湯船から上がった。浴場をそそくさと出て行く。奴さんを捕らえた、あの日のことを思い出されても厄介なので、少々時間を開けて風呂から上がる。あの男は、まだ脱衣場にいた。まだ裸である。私を見ると「おや」という顔をして、それから服を着て脱衣場を出て行った。私は脱衣籠の上に置いていたバスタオルを手に取った。違和感が湧いてきた。バスタオルをあった場所が、私の置いた位置と違う気がしたのだ。着替えの置き方も変に思われた。一番上に置いていたはずの肌着が衣類の一番下にある。あの盗人の顔が頭に浮かぶ。まあ、貴重品は持ってきていないから……と思い、自室に戻る。念のために金庫の中を調べる。何も盗まれていなかった。
夕食後、温泉街へ出た。赤ちょうちんに照らされたホロ酔い気分で歩き、湯煙が漂う川に架かる橋を鼻歌を歌いながら渡り、真冬の星明りを見上げたりライトアップされたダムを遠くから眺めたり、といった具合に散歩していたら建物と建物の間の木立から何者かが走って出てきた。大いに驚いた私は「うわっ!」と大声を上げた。飛び出して来た男は、私の叫びを聞いてビクッと震えて立ち止まった。照明が男の姿を照らし出す。私と男の目と目が合った。あの男だった。男は私に言った。
「悪い奴らに追われているんだ、誰かに聞かれたら、あっちへ行ったと言ってくれ、あっちだよ、あっち!」
そう言って指で示した方向とは逆に突っ走る男を、私は唖然と見送った。やがて数人の男が、例の男が出てきた木立の中から走って出てきた。凶悪な面構えをした男たちだった。私に気付いて「今ここに逃げて来た男は、どっちに向かった?」と訊いてくる。私は正直に言った。人相の良くない男たちは、例の男が消えた方向へ走って行った。酔いがすっかり醒めた私は宿に戻った。寝る前に再び入浴する。あの男、また何かやらかしたのか? それとも本当に、悪い奴らに追われていたのだろうか? 風呂から上がり部屋に戻って寝床に入るまで、そんな疑問が頭の中をグルグル回り続けていたが、いつの間にか寝てしまい、答えが出ないまま朝を迎えた。
翌朝、朝食の会場に向かう途中で、私は旅館の正面玄関前を通ったのだが、旅館の外に数台のパトカーが停まっているのが見えたので、フロントの従業員に「何かあったの?」と尋ねたら「客の中に泥棒の容疑者がいたようです」とのお返事で、ああアイツかと思った。
「何を盗んだんだろう?」
「詳しくは分かりませんが、暴力団の事務所に空き巣に入ったところを帰って来た暴力団員に見つかったらしいです」
あの男を追いかけていたのは暴力団員だったのか! あいつらに捕まらなかったとしたら、幸運だったな、と私は思った。同時に、少々ホッとしていた。男の逃げた方角を私が正直に言ったせいで、あいつが暴力団員に捕まり半殺しにでもされたなら、泥棒とはいえ心苦しい。
私はしばらくの間、その場に立ち止まっていた。あの男が捕らえられパトカーに乗せられる光景を見物しようかと思ったのだ。しかし、それは悪趣味な感じがしたので、朝食会場へ向かった。朝はバイキングだと聞いていたので、ここで食いだめして夜までもたせようとか、食べ過ぎると動けなくなるかもとか、色々と阿呆なことを考えていたら、手錠を嵌められた男と連行する警官たちと廊下の途中の曲がり角でバッタリ出くわした。
手錠姿のあの男と警官の組み合わせを見て、私は男の名前を思い出した。マンキウィッツ・メンジンズキッギーだった。確か、そうだ。
マンキウィッツ・メンジンズキッギーとかいう名前の男は私の顔を見て、またも「おや」と首を傾げたが、そのまま警官たちに連行されていった。私は朝食会場へ向かった。給仕の男性に「警官がいたけど、何があったの?」と訊くと「今さっき朝食を食べていた客が逮捕された」とのことだった。
食べ終わってから逮捕されたのかと訊いたら、そこは分からないとの返答だった。食いかけで捕まったら可哀想だと感じた。それは、あの男が口からパンを落とした光景が目に焼き付いているからだ。しかし、どっちであろうが、私の知ったことではない。そんなことを考えながら朝食を食べ終えた。思いっきり食べたつもりだったが、昼過ぎには空腹を感じ、帰り道で食事を摂った。取調室で犯人が店屋物のカツ丼を食べるドラマを最近は見かけない、と思いつつラーメンを啜る。マンキウィッツ・メンジンズキッギーは取調室で何を食べているのか? とも、少し考えた。それは分からないけれど、いずれは臭い飯を食うことになると思った。前に逮捕されたときから、それほどの時間が経っていないが、監獄飯が忘れられないのだろうか。私には、よく分からない心理だった。
夕食は食べないつもりだったが、結局は食べた。その頃にはマンキウィッツ・メンジンズキッギーの名前は忘れていた。
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マンキウィッツ・メンジンズキッギーとの三度目の出会いは、私が鉱山で働いていたときだ。海の底まで掘り進められていると皆に信じられている坑道の奥底で、私は落盤事故に遭った。幸いにも死なずに済んだが、手足の骨を折る重傷で長期にわたる入院生活を余儀なくされた。絶対安静を命じられ退屈な毎日を過ごす私の慰めとなったのは病室の窓から見える草花と回診に訪れる偽医者マンキウィッツ・メンジンズキッギーとの他愛のないおしゃべりだった。
奴さん、どこでどう手に入れたのか分からないが、医者の免状を持って鉱山に併設された診療所で働いていた。毎日やってくるのではない。たまにやってきて、怪しげな診療をやって、報酬を貰って帰るのだ。それで誰からも疑われず、当然だが捕まりもせずにいるのだから、金に困っている人間は医者の振りをして大金を稼ぐか医学部を目指すべきだろう。
さて私と偽医者となっていたマンキウィッツ・メンジンズキッギーの再会は偶然で突然だった。ベッドの上で全身を固定され身動き取れずにいる私に看護師が「先生の回診です」と言ってきた。だからといって私に何ができるわけでもなく、いつものように黙って天井を眺めていたら、視界の端に黒ぶち眼鏡とマスクと額に大きな丸い鏡を付けた白衣の男が見えてきた。いつもの主治医ではない。代診なのか? と疑問に思いつつ、いつもの質問である「いつになったらギブスを外せるのか?」そして「いつになったら退院できるのか」を今回も尋ねたところで代診の医者なら
尋ねても「分かりません、主治医の先生にお尋ねください」で終わるかもしれない、しかしそれ以外に聞きたいことはないよな~とか悶々と考えていたら、いつの間にか回診は進み、自分の番が来た。
ベッドの横に立った男の顔は大きなマスクで覆われていたし、黒ぶち眼鏡で目の周りの雰囲気が違っていたし、変に大きな丸い鏡で印象が前と違っていたせいで、これがあのコソ泥マンキウィッツ・メンジンズキッギーだとは一目で見抜けなかったものの、その声を聞いたとき記憶が蘇った。
「何か変わりはございませんか?」
そう言った医者の顔を、私はじっと見つめた。向こうは私の顔ではなく手元のカルテを見ている。私はしばし沈黙してから「あなた以前に盗みをやって捕まっていますよね」と口に出しかけて、止めた。私の勘違いだと思ったのだ。誤解で失礼なことを言って向こうが機嫌を損ねたために入院が伸びたら大変だ。私はギブスを外す予定や退院についての質問もしないことにした。
「何もありません」
そう答えるとマンキウィッツ・メンジンズキッギーは「お大事に」とおざなりなことを言って次のベッドへ向かった。回診後、看護師に「さっきの医者は見かけない顔だけど何者なのですか?」と聞いてみたら、普段いる先生方が出張で不在の時に応援に来てくれる医者だとの返事だった。その日常生活に関する質問をしてみると、普段は都会の方で開業しているとか、大きな病院の勤務医をしているとか、看護師によって答えがまちまちだった。
「そんなに気になるのなら、回診の時、直接聞いてみたらどう?」
そう言われて私は質問を考えた。
「お前、前に盗人やってパクられたよな?」
ストレートなクエスチョンをぶつけてみたら奴さん、どういう顔をするのだろう? 黒ぶち眼鏡の奥で目を白黒させる様子を想像して、退屈な入院生活で落ち込みがちな気分を紛らしながら、偽医者マンキウィッツ・メンジンズキッギーの訪問を待つ。そして、その日が来た。
「何か変わりはございませんか?」
そう言って私のベッドの横に立つ白衣の人物に、私は質問した。
「もう入院生活に飽きました。早く退院したいです。いつになったらギブスを外せるのでしょう? 骨折後のリハビリは大変だと聞きましたが、いつ頃から始められるのでしょうか?」
私は普通の質問をしていた。偽医者のマンキウィッツ・メンジンズキッギーはカルテから目を上げた。
「それは主治医の先生と相談してください。それでは」
私に一礼した後、マンキウィッツ・メンジンズキッギーは隣のベッドへ向かった。見ての通り、私の質問には何も答えていない。何も分からないものだから答えられないのだ。私は表情を変えなかったけれど、内心では笑い転げていた。お前は泥棒だろ! と急所に突っ込むより、あいつが答えられない難しい質問をした方が面白いと気が付いたのだ。
私は奴の次の回診を楽しみにして入院生活を過ごした。気分がちょっと上向きになったせいか、窓の外の風景が何だか素敵に見えてきた。ちなみに窓からの眺めは、葉っぱの落ちた木々、それだけだった。季節は冬で、見えるのは裸の山とか落葉した樹木とか、たまに飛んでくる名前の分からない野鳥とか、そんなものを見ても面白くも何ともないものばかりだったのが、何だか不思議なことに興味が出てきて「あれ、この木の名前、何だろう?」とか「野鳥図鑑を買ってみるかな」とか思うようになったのだ。
そんな中、またマンキウィッツ・メンジンズキッギー大先生の回診の日がやってきた。
「何か変わりはございませんか?」
それ以外に質問はないのか? と思ったけれど、それはこの際どうでもいい。私は思い付いたことを片っ端から尋ねた。
「手足を骨折して動かさないでいると筋力が低下するっていうじゃないですか? 元の体力に回復するまでに要する時間って、どのくらいなのでしょう? 回復しないってこともありえますよね? 後遺症が残るかもしれないと聞きました。関節が固くなって可動範囲が狭まるとか、痛くて動かせなくなってしまうとか、ラジオを聞いていたら、元患者って人が言ってました。いえ、葉書きですから、言っていたのは葉書きを読むアナウンサーの人だったんですけど。その人は、ギブスを外した後、自分の足が細くなっていて、凄く驚いたとも言っていました。自分の足じゃなくなった感じがしたって。私も、そんなになっちゃうんでしょうか? まさか歩けなくなるってことはないですよね? 重い物を持てなくなる、何ていうのも困ります。落盤事故にまた遭うのが怖いんで、鉱山はもうこりごりなんですけど、他の仕事に就くったって、体が不自由になったら働き口が減ってしまいますもの。そう、働かないといけないです。そのためには、やっぱり早く退院したいですし、そのためには、こうして寝てばかりもいられない。で、ギブスを早く外したい、リハビリをしたい……と、頭の中は堂々巡りですね」
私の話を聞き終えた名医マンキウィッツ・メンジンズキッギーはカルテに何やら記載してから言った。
「今のお話をカルテに記入しておきましたので、主治医の先生とよく話し合ってみてください。それでは失礼します」
大先生は私に会釈して、次のベッドで彼を待つ患者の元へ向かった。
その後ついにギブスの外れる日がやってきた。ずっと動かさずにいた手足は、やはり細くなっていたけれど、私が恐れていたように動けなくなっていたり、関節が曲がったまま固まっていた! なんてことは起きていなかった。早速リハビリが開始されたが、これがもう、予想より大変だった。動かすと痛い。すぐに疲れる。自分の手足じゃないみたいなのだ。それでも私はリハビリを頑張った。ずっと寝ているのには飽き飽きしていたのだ。
そんな中で行われたマンキウィッツ・メンジンズキッギーの回診で、あいも変わらず尋ねられる。
「何か変わりはございませんか?」
私は動かせるようになった手を見せながら言った。
「リハビリが始まりました。今のところ順調です。でも、まだまだ前のレベルには達していませんね。早く元通りになりたいです。できるだけ早く、できることなら明日にでも退院したいんです。そう言いますのは……ええと、こんなこと先生に言っちゃっていいのかと思うんですけど、言ってしまいますね。実は交際している女性がおりまして。女医さんなんですけどね。彼女との結婚を考えているんです。ただ、向こうの方が収入が上で、それがですね、結婚する上で、ちょっと問題になっているかな~と。私も、それなりの稼ぎをですね、向こうの親御さんに見せないと、いい顔されないかと思いまして。それで収入が良いって聞いた鉱山で働くことにしたんですけど、この怪我でしょう? どうしようかな、これからって悩んでまして。でも、まずは早く退院して、養生して、それからかな、と。これからのことを考えるのは。でも、でもですね先生、どうしたらいいんでしょうかね、私は。今後の人生を含め、入院中に色々と考えてしまいましたよ。いかに生きるべきなのか、今、悩んでいます」
人生について尋ねられたマンキウィッツ・メンジンズキッギーは、主治医の先生と相談ですね、と言って去った。
やがて私の退院予定日について主治医から話があり、今後のことなどを聞かれ、鉱山で働くのを止めようかと考えていると言ったら、それなら退院後に通院するのは新しい生活場所にある病院がいいね、と言われた。さあ、どうしよう、と考え込む。マンキウィッツ・メンジンズキッギーも主治医も、人生相談には答えてくれないのだ。忙しそうな看護師さんに聞くのも何だし、親しくなった入院患者だとか鉱山で働いている同僚に仕事を止めると言うのも、何だかな~と気が進まない。
また回診で来るはずのマンキウィッツ・メンジンズキッギーに話してみるか。何も答えてくれないだろうが、話しているうちに自分の考えがまとまるかもしれない。そんなことを考えながら、様々なリハビリ用の器械が置かれた回復運動棟と呼ばれる建物と入院病棟をつなぐ渡り廊下を歩いていると、病院裏の職員用玄関にパトカーが停まっているのが見えた。私は職員用玄関の方へ急いだ。長い間、早く走れるほど回復していなかったので、途中で息が切れたが、パトカーが発進するのには間に合った。
パトカーの後部座席に白衣のマンキウィッツ・メンジンズキッギーが乗せられていた。私の回診が始まる前にパトカーは大先生を連れ去った。看護師に後で聞いたところ、あの男は事務室にある金庫を開けようとしているところを見つかって、事務員や警備員に捕まったのだと言う。取り調べが進むと偽医者であることもバレたそうだ。その後どうなったのか、それは私が退院し鉱山を離れたので、知らずに最近まで過ごした。
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愛した女性と別れた私は夜汽車に飛び乗って旅に出た。行く先は決まっていない。飛び乗った電車が、どこへ向かっているのかも知らなかった。実際のところ、飛び乗りで良かった。心境的には飛び込みでもおかしくなかったのだ。そうだったら、ここに手記を投稿していなかっただろう。本当に良かったと思う。だが、そのときの私は、手記を書くような気分ではなかった。書くなら遺書、そんな感じだった。そんなとき私はマンキウィッツ・メンジンズキッギーと再会した。
私が乗った夜汽車に乗客は少なく、しかもその誰も彼もが寝ていて、私に孤独を感じさせた。夜の旅の切なさとか寂しさとか悲しさに満ちた車両で、動いている人物が一人いて、それがマンキウィッツ・メンジンズキッギーだった。彼は寝ている乗客の荷物を漁っているようだった。次々と座席を移り、盛んに物色している。寝ている人間が目覚めたら、何と言い逃れするつもりなのだろう? そして、起きている私がいるのに気付かないのだろうか? 大胆不敵と言おうか、懲りない奴と言うべきか。そのうち向こうは私に気が付いた。近寄ってくる。何を言ってくるのだろう? 見逃してくれとでも言うのだろうか? あるいは逆に脅迫してくるかもしれない。強盗するつもりかも。刃物や銃を出してホールドアップで「金を出せ」とか?
色々な想像をする私にマンキウィッツ・メンジンズキッギーは笑顔で手を振り、それから私の座る座席の通路を隔てた斜め向かいに腰を下ろした。小声で話し始める。
「お久しぶり。元気にしてた?」
私は何といっていいのか分からなかった。とりあえず「ああ」と肯定する。
「これで会うのは三回目かな、四回目かな」
私は正直に言った。
「数えていないんで分からない」
「そうだよな、そうだよ、うん」
納得した彼は一人で頷き、それから変なことを言い出した。
「思うんだけど、あなたとは不思議な縁があるよ。こんなに何度も会わない、普通はね」
「そうだねえ」と私は頷いたが、会いたくて会っているのではない、と本音では言いたかった。
「こういう縁をさ、大事にしたいと思うんだ」
まったく思わない、と言うのもアレなので、私は小さく頷いて見せた。
マンキウィッツ・メンジンズキッギーは聞いてもいないのに身の上話を始めた。かなり眠かったので聞いているふりをしたが、半分以上は聞き流す。何を言っているのか理解不能な部分もあった。たとえば、こんなところ。
「こうして流刑地に追放された身だけれども、元の世界へ戻ることを諦めたわけじゃない。諦めきれないのさ、だってさ」
人差し指の先を天井へ向ける。
「夜の路上で感じるわけよ、熱い視線を。見上げれば、そこには男の星座。あっ、見られている。そう感じるの」
何を言ってんだコイツ、とは思う。けれども、私はこのコソ泥に、そこはかとない親しみを感じ始めていた。少なくとも、盗難の被害に遭ったかもしれない乗客を起こしてやろう、という気にはなれなかった。実にまったく、不思議なものだが。
次の駅で降りる予定だが、あなたはどこまで行くのか? と尋ねられて、私は「決めていない」と答えた。
「それじゃ、一緒に行かない?」
断れ、と私の中の誰かが命じた。だが私は、それに歯向かった。
「そうだな、うん、そうするか」
私はマンキウィッツ・メンジンズキッギーと一緒に夜汽車を降りた。無人駅の弱々しい燈火が見えなくなるところまで歩くと、彼は夜空を見上げた。
「あれが男の星座だ。見えるかい?」
何が何だか分からないが、上機嫌のマンキウィッツ・メンジンズキッギーに気を遣い、私は「見える」と嘘を吐いた。私の返答を聞いて男は喜んだ。
「やっぱりそうだ。この目に間違いはなかった」
「何が?」
「見えると思った、あなたなら、男の星座が」
見えない。何が何だかさっぱりだ……と言えないまま、私は朝までコソ泥と歩き続けた。
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ミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドの語った話を脚色した作品でノルマの五万字以上をクリアしたチャーガワー・バキンズは原稿用紙を机の上に置いて部屋を出た。予定より早く仕事が終わったので、飲みに出かけたのだ。
チャーガワー・バキンズの外出を心待ちにしていた女がいた。彼の隣室で暮らす女だった。彼女は本作品のヒロインである。隣人の奏でる鼻歌が廊下を遠ざかり、やがて聞こえなくなると、彼女は自室から出てきた。器用にピンを使って隣室の鍵を開ける。室内に入った女は机の上に置いてあった原稿を手に取った。中身を確認する。酷い作品だった。しかし書かないよりマシである。
アルファポリスの人間は前金を貰っておきながら締め切りになっても作品を出さない人間は絶対に許さない。彼女のように美しい女性であっても、だ。彼女は死ぬより酷い目に遭うかもしれなかった。
そうならないよう、彼女は一か月間、必死に頑張った。しかしノルマ達成はできなかった。
絶望していた、ある日。隣室の住人チャーガワー・バキンズが友人のミソスレス・グローリオ・フォールスタッフンドの語る話を小説化してアルファポリスに投稿するつもりだと知った。この好機を逃すわけにはいかない。隣の男の脱稿を彼女は待った。そして、この日が訪れたのである。
安い集合住宅の薄い壁とチャチな構造の鍵に感謝して、チャーガワー・バキンズの玉稿を持った美女はアルファポリスの夜に消えていった。
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