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【幕間の物語・③】

『私が移住を決めた理由』・前編(あんず・談)

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 私が『不儀の子供なんて酷い扱いをされるもの』だなんて先入観を持っていないのは、ひとえに姉のおかげだと言える。彼女は私の人生の恩人だ。唯一にして絶対的な味方であり、常に励まし合って生きてきた、心から大事な人でもある。

 姉と初めて会ったのは、私が小学校に入学する直前くらいの頃だった。父を知らず、ずっと今まで母子家庭で育ってきたのだが、母が突然事故で亡くなり、嫌々『お前の父親だ』と名乗る男に引き取られる事となった。初めて会った父は私を不快そうな顔で見てくるし、継母となった正妻の女性は初対面の時から罵りの言葉を浴びせてきた。

『保険金がなかったら、引き取らなったわ』

 つまりは金目当てに私を引き取ったのかと、子供ながらに理解した。だけど、『そういう扱いを受けるのは当然なのかも』とも心の片隅で思っていた。当時流行っていたテレビドラマとかの影響で、既に“継母”に対しては悪いイメージしか抱いていなかったし、突然の事で新しい家族への期待なんか抱ける心境ではなかったからだ。だから当然、五歳年上の姉にも嫌われるものだと思っていた。なのに、だ——

『ウチの父親が浮気したのが悪いのであって、結果的に生まれたアナタには罪はないでしょう?…… それとも何?卵子の段階で、ウチの馬鹿親を誘惑でもする様に母親に命令でもしたの?違うでしょう?もしそれが出来るんなら、むしろ尊敬しちゃう』

 姉は初対面時にこう言ってのけた。小学生とは思えない発言に、ただただ驚く事しか出来なかった。正直、当時の私は姉が何を言っているのかもわかっていなかったんだけども。

『あの二人には愛情とかそういうのは全く期待しない方がいいよ。でも最近仕事が上手くいってるみたいだしさ、お金は持ってるからアイツらを沢山利用して、賢くなんな』
『責めるべきなのは無責任に浮気した父の方なのに、母さんは貴女の事ばっかり目の敵にして…… ホント、バカみたい』

 当時からもう達観気味だった姉は、私によくそんな話をした。浮気者の父を嫌い、恨む先を間違っている母親を軽蔑しながらも、ひんやりとした家庭環境の中で姉さんはずっと私を守ってくれた。まともな人が一番近くに居てくれたから、家庭環境の割には自分は比較的真っ当に育った方だと思う。


 色々と苦労はありながらもなんとか大人になり、姉さんは弁護士に、私は薬剤師になった。
 私が遠方の大学へ進学する事が決まったと同時に一緒に家を出て部屋を借り、二人で暮らした日々は本当に穏やかで幸せだった。こんな日々がずっと続けばいいのにって思うくらいに幸せだったせいか、気が付けば私は喪女になっていた。でも推しを応援する事をやめようとは思わなかったし、そんな私でも姉は受け入れてくれたもんだから暴走は止まらず、稼ぎのほぼ全てを推しに貢いでも彼女は笑って許してくれた。


       ◇


 ——あの日。いつも通り私が仕事を終えて帰宅すると、珍しく姉の方が先に帰って来ていたみたいで、部屋の鍵が開いていた。女性の二人暮らしだから普段は必ず鍵を閉めるているのに、開いていたせいで不安が胸にわいてくる。
 玄関で靴を脱ぎ、トイレ、風呂場へとつがる脱衣場の扉の横を通過してリビングへと続く扉の前に立った。室内の電気がついていないのか、扉に使われている曇りガラスの向こうは暗い。扉に何かがぶつかったみたいで大きくヒビが入っていて赤黒く汚れている箇所まで多々ある。室内からは鼻を啜る様な音が聞こえる以外に物音はないから、何かしらのトラブルは去った後なのだろう。
『…… お姉、ちゃん?帰ってるの?』
 ゆっくり扉を開けると、予想通り室内の主照明は消えていた。背の高いフロアライトが床に倒れていて点滅し、部屋に大きな影を映し出している。うずくまり、ガタガタと肩を震わせ、床に直座りしている姉を見付けて私は即座に駆け寄ろうとしたが、何かに躓き行く手を阻まれた。

(…… え?)

 こんな所に何かあっただろうか?と視線を下に落とす。その瞬間、『——ヒッ!』と短い悲鳴をあげて私の体は固まってしまった。まるで石化の呪いでもかけられたみたいに。
『あ、あの男、お金、だけじゃ…… 満足しなかった…… 』
 簡単に聞き逃してしまいそうなくらいに小さな姉の声が耳に届く。
 私の足元にはあの男…… 私と姉の生物学的父親がうつ伏せの状態で転がっている。真っ白な私の靴下は徐々に血で濡れ染まっていき、父の周囲は大きな血溜まりがあった。一万円札も大量に散らばっている様子から察するに、あの男は姉の元へ金の無心にでも来たのだろう。親戚から聞いた話によると、両親の会社はもう倒産寸前らしい。方々から金を借りてはそのままにしているそうだ。『絶対にアイツらとは関わりたくない』と常々姉は言っていたが、金銭トラブルの解決依頼として職場まで来たのだとしたら、立場上無下には出来なかった…… といった所だろうか。
『た、ただ、名前で、名前で呼んだだけで、アイツ、あのクズは…… 』
 よく見ると体を震わせている姉の服がかなり着崩れている。無理矢理引っ張られたのか、ブラウスの小さなボタンが血溜まりの中に何個も床に落ちていた。

『お、女として見て欲しかったんだなって…… 体を、触って…… む、娘なの、に、アイツは、名前ってだけで…… 』

 要領を得ない言葉をポツポツとこぼし、自分の体の汚れを落としたいみたいに姉が体を掻きむしった。
 姉の真っ青な頬には返り血がべったりとついているし、膝近くには果物ナイフが転がっている。きっとあの男は、『お前の父なのだから』と家にまで来た挙句、姉が自分を『父さん』と呼んでこない事を、“女として見て欲しい気持ちの現れだ”とでも解釈して襲い掛かったのだろう。歳を取り、昔と違って金も無くては言い寄ってくる女もいなくなっただろうから欲求不満だったのかもしれないが、だからって許される事ではない。実の娘に性行為を目的にして手を出すなど、生き物としても最下等な行いだ。だから自分の邪推でしかないと思いたいが、きっと間違い…… じゃない。

『…… も、ぅ嫌だ…… 。こんな奴のせいで、私の人生が…… 無理、もう、嫌だ嫌だ嫌だ、い、や…… 』

 ボロボロと涙をこぼし、姉が真っ赤な手を見て『あぁぁぁぁぁっ!』と叫んだ。
『壊された!もう無理!終わったのよ!そいつが、そいつのせいでぇ!』
 ダンッと両手で床を強打する。階下に響くとか、そんな事を考える余裕なんかまるで無い。
 姉は頭の回転の速い人だ。弁護士である自分が罪を犯した後の人生が全て読めてしまったのだろう。もし正当防衛が認められたとしても、弁護士の仕事は出来なくなるだろう。最初はただ、あの男を見返したいと目指した職だったらしいが、天職だったのか、弁護士になった後の姉は本当に生き生きとしていた。弱き者を助ける事を生き甲斐にしていたのに、散々な子供時代から抜け出せて二人で幸せになれていたのに、あの男がまた、全部、全部、全部!台無しにしやがった。

『ごめん、もう生きられる、気がしないわ』

 惨事と悲しみに満ちた顔に笑みを浮かべ、姉は床に転がっていた果物ナイフを手に取ると、次の瞬間には迷わず自らの首元を切り裂いてた。深く、迷いなく切り裂いたせいで勢いよく姉の首から血が吹き出し、部屋の壁や天井が真っ赤に染まった。なのにまるでホラー映画のワンシーンでも見ているみたいに現実味がない。

(助け、なきゃ…… )

 頭が動かない。足も、手も、何もかも。
 絶対に助からないくらいに出血量だ。一刻も早くどうにかしないといけないのに、何も出来ないまま足元に膝から崩れていく。

 今、目の前で、私の最推しが——
 死んだ、の?

(何か言えば止められたんだろうか?)

 そんな事を考えたが、生きる事そのものに絶望した人間にかける言葉なんか、姉のおかげで割と能天気に生きてきた私は持ち合わせてなどいない。ドラマやアニメの説得シーンみたいに綺麗事を並べてどうにか出来る問題でもなかったし、私が姉に変わって罪を被れば済む話でもなかった。だって、姉は父に心を木っ端微塵に砕かれたんだ、最後を看取るのが、私に出来る精一杯の行為だったんだと今でも自分は思っている。
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