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【第一章】初めての経験
【第一話】いざ、物語の世界へ
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十六夜がハデスの腕に座らされたまま運ばれながら十数歩程歩くと、周囲の様子が徐々に変貌していった。書棚しか並ばない薄暗い空間が淡い光に溢れた空間へ少しづつ、ゆっくり、ゆっくりと変わっていく。
変貌したその先には二人掛けのソファーと小さなテーブル、あとは漆黒の様な色の布を使用した天蓋付きの大きなベッドが置かれているだけで他には一切何も無い。彼らの他には生き物の気配も無く、この真っ白な空間で完全に二人きりだ。
「十六夜は、もう眠いかな?」
彼女を作り上げた日に、たまたま下界の夜空には十六夜の月が浮かんでいた。ただそれだけで授けた名前だったが、銀糸の様な髪と白い肌はまさに月の様に美しく、この名を与えた事をハデス自身が誇らしく思う程だ。青藍色の瞳は星の浮かぶ夜空のように輝き、どうしたって血を連想する色味をしたハデスの赤い瞳をじっと見上げている。
「いいえ」
短く答え、首を緩く横に振った十六夜の体をベッドに下ろし、ハデスはトンッと彼女の体を押した。ぽすんっと敷布が音を立て、十六夜が銀髪を川の様に散らせながら寝転んだ姿はとても美しいが、羞恥を微塵も抱いていないせいか絵画か芸術品の域を出ない。少女の身を包む服の全てをこのまま脱がせても、それはきっと変わらないだろう。
(…… ごめんね。でも、もう流石に待てそうに無いんだ)
創世の頃にはもう、生き物の死と隣り合わせになって彼は生きてきた。永い永い——永劫にも近い時を一人で過ごし、たまに同様の存在と戯れる事は多々あれども、心許せる存在には終ぞ出逢えなかったハデスは、約二千年程前に己の一部から“十六夜”を産み出した。己の核となるものの一部を切り取り、それを伴侶と決めた。
『…… それでは、“私”は所詮“ハデス様”なのでは?』
己の産まれ方を十六夜に話した時にこう訊かれ、ハデスは苦笑した。
『自分で自分を伴侶にする気なのか』と暗に言われたのだと察したからだ。
『体は、確かにそうかもしれないね。でも君にはちゃんと独立した自我があるだろう?だから十六夜はもう、僕とは違う存在だ』
子供に言って聞かせるみたいに優しい声色でそう伝えると、十六夜は頷き、『わかりました』と無表情のまま呟いていた。
少女の体には知識を与え、神にも近い権能をも持っているが、経験が伴わないせいかこのままではまるで自動人形だ。だが、魂の番とも言える存在に経験を積ませるが為だけに肉体という人間の器に押し込んで、一人勝手に輪廻転生させてやるつもりは毛頭無い。
『二人だけの世界に囲い込み、その身を貪る事さえ出来ればそれでいいか』
産み出した直後まではそう考えていたのだが、いざこう十六夜とやり取りをしてみると、心が欲しくなった。
言いなりになる人形が欲しい訳じゃ無い。
好き勝手にヤレる玩具を抱きたい訳では——なくなった。
あくまでも“伴侶”が、“番”が欲しくなったハデスは、試しに十六夜に“仕事”を与えてみた。
肉体に入って輪廻を繰り返さなくても、人の紡ぐ人生模様を数多に見ていれば、奥底に眠る心も目を覚ますと考えたのだ。だが結果は——
残念ながら、ハデスの惨敗である。
十六夜は悔いを抱く魂達を優しく送り出すまでは丁寧にこなすのに、その後に対して興味を示さないのだ。他にする事など何も無いのに、ただひたすら淡々と、人様の旅路を見送るだけの毎日を過ごしているだけだった。
『このままでは、駄目だ』
そう考えたハデスは、一つの考えに辿り着いた。
一縷の望みを託すには悪くない案だと思う。どうせ時間は腐る程あるのだし、自分の余暇にも丁度いい。『仕事らしい仕事を全くと言っていい程しないくせに、余暇だけは楽しもうとするな!』と同類の者達に言われそうだが、好きに言わせておけばいいんだ。
「もうすぐ十六夜が二千歳になる誕生日だ。プレゼントとして休暇をあげようかと思うんだけど、どうかな」
——思案から意識の戻ってきたハデスは、十六夜にそう提案してみた。
「…… 」
産まれてから一度も休みの無い、ブラック企業もびっくりの勤務状況だったのに一つの文句も無く働いてきたせいか、十六夜が黙ってしまった。
「お休み…… ですか?今から寝ますので、それが休暇なのでは?」
「あぁぁ、ご…… ごめんね。でもそれは、休暇じゃないなぁ」
朝から晩まで魂を送り出し、ハデスの迎えが来たらベッドで眠る。その繰り返しをずっとしてきたせいか、そもそも“休暇”が何たるかを、彼女は知識の中から引き出せないみたいだ。その類の単語の意味を保存している部分が完全に錆び付いてしまっているのだろう。ハデスとは完全なる同一体ではないせいか、力の回復には休養が必要な十六夜の体を酷使し続けていた事に今更気が付き、己の不甲斐なさを彼は強く恥じた。
(悪い事をした…… 僕の、唯一の愛し子なのに)
——と、すまなそうな顔をしながらハデスが十六夜の上に覆いかぶさり、ぎゅっと小さな体を抱き締めた。心を育てる事にばかり注視し続けたせいで、彼女自身を見ていなかった事を悔やみ、十六夜を抱く腕に更に力を込める。彼女がただの人間だったらとっくに圧死している所だ。
「すみません。でも、ハデス様がくださるのなら受け取ります」
淡々とした十六夜の声のせいで、より一層ハデスの胸が痛む。
二千年近くも費やしたのに、自分が望む様な個体に十六夜がならぬ事も悔しくてならない。愛おしい者と初夜を迎える事が出来ぬままの現状も彼を追い詰めていく。元来彼は禁欲的なタイプではないせいで、もう色々と限界が近かった。
「良かった。期間を特には決めていないから、好きなだけ休んでいいよ」
「はい」
「やりたい事はない?何でもいいよ、言ってみて」
「ありません」
「…… だ、だよねぇ」
キッパリと即答されてしまい、ハデスが肩を落とす。でもその答えが返ってくる事は最初からわかっていたので、彼は自分から休暇の過ごし方を提案する事にした。
「じゃあ、書棚にある物語を、君も楽しんでみるっていうのはどうかな」
十六夜のアーモンドアイが大きく見開いた。
上半身を起こし、両腕で自身の身を支えていたハデスは十六夜の表情の変化を見逃さなかった。“物語”という響きに興味はあるのだ、きっと。もしかすると今までは、人々の生き様を『覗く』という行為に抵抗があっただけなのかもしれない、とハデスの中で淡い期待が生まれた。
「どう?行ってみる?綺麗な風景や、風を実際に体感出来るから楽しいと思うんだ」
この空間には何も無い。座ってただじっと虚空の空間を見上げるか、天蓋付きのベッドで寝転ぶ以外に時間の過ごし方がそもそも存在しない空間に長時間居るよりはずっと建設的だという事に早く気が付いて欲しくって、ハデスが返事を促した。
だが、黙ったままの十六夜からは返事が一向に返ってこない。そのせいでハデスの心臓が珍しく鼓動を早める。
どうする?どうなる⁉︎とソワソワしてきたが、この感覚こそ僕が欲しかったものだと嬉しくもあった。
自分の心を揺さぶる存在はいつだって君であって欲しい。
だって、その為に君を創ったのだから——
「…… わかりました」と小さく呟き、十六夜がこくりと頷いた。青藍色の瞳にはまだ迷いが感じられるが、ハデスの言葉に逆らう意思を持たぬせいで、彼女は頷く以外の選択肢を選べない。
つり目がちな赤い瞳をすっと細め、「行き先は、僕が選んでもいいかな?」とハデスが問い掛ける。
「もちろんです」
短い回答も彼の予想通りだったが、それでもハデスは満足気に頷いた。
「じゃあ最初の物語は——」
そうハデスが口にした途端、十六夜の意識はふっと途切れ、そのまま物語の中に引きずり込まれて行ったのだった。
変貌したその先には二人掛けのソファーと小さなテーブル、あとは漆黒の様な色の布を使用した天蓋付きの大きなベッドが置かれているだけで他には一切何も無い。彼らの他には生き物の気配も無く、この真っ白な空間で完全に二人きりだ。
「十六夜は、もう眠いかな?」
彼女を作り上げた日に、たまたま下界の夜空には十六夜の月が浮かんでいた。ただそれだけで授けた名前だったが、銀糸の様な髪と白い肌はまさに月の様に美しく、この名を与えた事をハデス自身が誇らしく思う程だ。青藍色の瞳は星の浮かぶ夜空のように輝き、どうしたって血を連想する色味をしたハデスの赤い瞳をじっと見上げている。
「いいえ」
短く答え、首を緩く横に振った十六夜の体をベッドに下ろし、ハデスはトンッと彼女の体を押した。ぽすんっと敷布が音を立て、十六夜が銀髪を川の様に散らせながら寝転んだ姿はとても美しいが、羞恥を微塵も抱いていないせいか絵画か芸術品の域を出ない。少女の身を包む服の全てをこのまま脱がせても、それはきっと変わらないだろう。
(…… ごめんね。でも、もう流石に待てそうに無いんだ)
創世の頃にはもう、生き物の死と隣り合わせになって彼は生きてきた。永い永い——永劫にも近い時を一人で過ごし、たまに同様の存在と戯れる事は多々あれども、心許せる存在には終ぞ出逢えなかったハデスは、約二千年程前に己の一部から“十六夜”を産み出した。己の核となるものの一部を切り取り、それを伴侶と決めた。
『…… それでは、“私”は所詮“ハデス様”なのでは?』
己の産まれ方を十六夜に話した時にこう訊かれ、ハデスは苦笑した。
『自分で自分を伴侶にする気なのか』と暗に言われたのだと察したからだ。
『体は、確かにそうかもしれないね。でも君にはちゃんと独立した自我があるだろう?だから十六夜はもう、僕とは違う存在だ』
子供に言って聞かせるみたいに優しい声色でそう伝えると、十六夜は頷き、『わかりました』と無表情のまま呟いていた。
少女の体には知識を与え、神にも近い権能をも持っているが、経験が伴わないせいかこのままではまるで自動人形だ。だが、魂の番とも言える存在に経験を積ませるが為だけに肉体という人間の器に押し込んで、一人勝手に輪廻転生させてやるつもりは毛頭無い。
『二人だけの世界に囲い込み、その身を貪る事さえ出来ればそれでいいか』
産み出した直後まではそう考えていたのだが、いざこう十六夜とやり取りをしてみると、心が欲しくなった。
言いなりになる人形が欲しい訳じゃ無い。
好き勝手にヤレる玩具を抱きたい訳では——なくなった。
あくまでも“伴侶”が、“番”が欲しくなったハデスは、試しに十六夜に“仕事”を与えてみた。
肉体に入って輪廻を繰り返さなくても、人の紡ぐ人生模様を数多に見ていれば、奥底に眠る心も目を覚ますと考えたのだ。だが結果は——
残念ながら、ハデスの惨敗である。
十六夜は悔いを抱く魂達を優しく送り出すまでは丁寧にこなすのに、その後に対して興味を示さないのだ。他にする事など何も無いのに、ただひたすら淡々と、人様の旅路を見送るだけの毎日を過ごしているだけだった。
『このままでは、駄目だ』
そう考えたハデスは、一つの考えに辿り着いた。
一縷の望みを託すには悪くない案だと思う。どうせ時間は腐る程あるのだし、自分の余暇にも丁度いい。『仕事らしい仕事を全くと言っていい程しないくせに、余暇だけは楽しもうとするな!』と同類の者達に言われそうだが、好きに言わせておけばいいんだ。
「もうすぐ十六夜が二千歳になる誕生日だ。プレゼントとして休暇をあげようかと思うんだけど、どうかな」
——思案から意識の戻ってきたハデスは、十六夜にそう提案してみた。
「…… 」
産まれてから一度も休みの無い、ブラック企業もびっくりの勤務状況だったのに一つの文句も無く働いてきたせいか、十六夜が黙ってしまった。
「お休み…… ですか?今から寝ますので、それが休暇なのでは?」
「あぁぁ、ご…… ごめんね。でもそれは、休暇じゃないなぁ」
朝から晩まで魂を送り出し、ハデスの迎えが来たらベッドで眠る。その繰り返しをずっとしてきたせいか、そもそも“休暇”が何たるかを、彼女は知識の中から引き出せないみたいだ。その類の単語の意味を保存している部分が完全に錆び付いてしまっているのだろう。ハデスとは完全なる同一体ではないせいか、力の回復には休養が必要な十六夜の体を酷使し続けていた事に今更気が付き、己の不甲斐なさを彼は強く恥じた。
(悪い事をした…… 僕の、唯一の愛し子なのに)
——と、すまなそうな顔をしながらハデスが十六夜の上に覆いかぶさり、ぎゅっと小さな体を抱き締めた。心を育てる事にばかり注視し続けたせいで、彼女自身を見ていなかった事を悔やみ、十六夜を抱く腕に更に力を込める。彼女がただの人間だったらとっくに圧死している所だ。
「すみません。でも、ハデス様がくださるのなら受け取ります」
淡々とした十六夜の声のせいで、より一層ハデスの胸が痛む。
二千年近くも費やしたのに、自分が望む様な個体に十六夜がならぬ事も悔しくてならない。愛おしい者と初夜を迎える事が出来ぬままの現状も彼を追い詰めていく。元来彼は禁欲的なタイプではないせいで、もう色々と限界が近かった。
「良かった。期間を特には決めていないから、好きなだけ休んでいいよ」
「はい」
「やりたい事はない?何でもいいよ、言ってみて」
「ありません」
「…… だ、だよねぇ」
キッパリと即答されてしまい、ハデスが肩を落とす。でもその答えが返ってくる事は最初からわかっていたので、彼は自分から休暇の過ごし方を提案する事にした。
「じゃあ、書棚にある物語を、君も楽しんでみるっていうのはどうかな」
十六夜のアーモンドアイが大きく見開いた。
上半身を起こし、両腕で自身の身を支えていたハデスは十六夜の表情の変化を見逃さなかった。“物語”という響きに興味はあるのだ、きっと。もしかすると今までは、人々の生き様を『覗く』という行為に抵抗があっただけなのかもしれない、とハデスの中で淡い期待が生まれた。
「どう?行ってみる?綺麗な風景や、風を実際に体感出来るから楽しいと思うんだ」
この空間には何も無い。座ってただじっと虚空の空間を見上げるか、天蓋付きのベッドで寝転ぶ以外に時間の過ごし方がそもそも存在しない空間に長時間居るよりはずっと建設的だという事に早く気が付いて欲しくって、ハデスが返事を促した。
だが、黙ったままの十六夜からは返事が一向に返ってこない。そのせいでハデスの心臓が珍しく鼓動を早める。
どうする?どうなる⁉︎とソワソワしてきたが、この感覚こそ僕が欲しかったものだと嬉しくもあった。
自分の心を揺さぶる存在はいつだって君であって欲しい。
だって、その為に君を創ったのだから——
「…… わかりました」と小さく呟き、十六夜がこくりと頷いた。青藍色の瞳にはまだ迷いが感じられるが、ハデスの言葉に逆らう意思を持たぬせいで、彼女は頷く以外の選択肢を選べない。
つり目がちな赤い瞳をすっと細め、「行き先は、僕が選んでもいいかな?」とハデスが問い掛ける。
「もちろんです」
短い回答も彼の予想通りだったが、それでもハデスは満足気に頷いた。
「じゃあ最初の物語は——」
そうハデスが口にした途端、十六夜の意識はふっと途切れ、そのまま物語の中に引きずり込まれて行ったのだった。
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