上 下
2 / 77
【第一章】初めての経験

【第一話】いざ、物語の世界へ

しおりを挟む
 十六夜がハデスの腕に座らされたまま運ばれながら十数歩程歩くと、周囲の様子が徐々に変貌していった。書棚しか並ばない薄暗い空間が淡い光に溢れた空間へ少しづつ、ゆっくり、ゆっくりと変わっていく。
 変貌したその先には二人掛けのソファーと小さなテーブル、あとは漆黒の様な色の布を使用した天蓋付きの大きなベッドが置かれているだけで他には一切何も無い。彼らの他には生き物の気配も無く、この真っ白な空間で完全に二人きりだ。

「十六夜は、もう眠いかな?」

 彼女を作り上げた日に、たまたま下界の夜空には十六夜の月が浮かんでいた。ただそれだけで授けた名前だったが、銀糸の様な髪と白い肌はまさに月の様に美しく、この名を与えた事をハデス自身が誇らしく思う程だ。青藍色の瞳は星の浮かぶ夜空のように輝き、どうしたって血を連想する色味をしたハデスの赤い瞳をじっと見上げている。
「いいえ」
 短く答え、首を緩く横に振った十六夜の体をベッドに下ろし、ハデスはトンッと彼女の体を押した。ぽすんっと敷布が音を立て、十六夜が銀髪を川の様に散らせながら寝転んだ姿はとても美しいが、羞恥を微塵も抱いていないせいか絵画か芸術品の域を出ない。少女の身を包む服の全てをこのまま脱がせても、それはきっと変わらないだろう。

(…… ごめんね。でも、もう流石に待てそうに無いんだ)

 創世の頃にはもう、生き物の死と隣り合わせになって彼は生きてきた。永い永い——永劫にも近い時を一人で過ごし、たまに同様の存在神々と戯れる事は多々あれども、心許せる存在には終ぞ出逢えなかったハデスは、約二千年程前に己の一部から“十六夜”を産み出した。己の核となるものの一部を切り取り、それを伴侶と決めた。

『…… それでは、“私”は所詮“ハデス様”なのでは?』

 己の産まれ方を十六夜に話した時にこう訊かれ、ハデスは苦笑した。
『自分で自分を伴侶にする気なのか』と暗に言われたのだと察したからだ。
『体は、確かにそうかもしれないね。でも君にはちゃんと独立した自我があるだろう?だから十六夜はもう、僕とは違う存在だ』
 子供に言って聞かせるみたいに優しい声色でそう伝えると、十六夜は頷き、『わかりました』と無表情のまま呟いていた。
 少女の体には知識を与え、神にも近い権能をも持っているが、経験が伴わないせいかこのままではまるで自動人形だ。だが、魂の番とも言える存在に経験を積ませるが為だけに肉体という人間の器に押し込んで、一人勝手に輪廻転生させてやるつもりは毛頭無い。

『二人だけの世界に囲い込み、その身を貪る事さえ出来ればそれでいいか』

 産み出した直後まではそう考えていたのだが、いざこう十六夜とやり取りをしてみると、心が欲しくなった。
 言いなりになる人形が欲しい訳じゃ無い。
 好き勝手にヤレる玩具を抱きたい訳では——なくなった。

 あくまでも“伴侶”が、“番”が欲しくなったハデスは、試しに十六夜に“仕事”を与えてみた。

 肉体に入って輪廻を繰り返さなくても、人の紡ぐ人生模様を数多に見ていれば、奥底に眠る心も目を覚ますと考えたのだ。だが結果は——

 残念ながら、ハデスの惨敗である。

 十六夜は悔いを抱く魂達を優しく送り出すまでは丁寧にこなすのに、その後に対して興味を示さないのだ。他にする事など何も無いのに、ただひたすら淡々と、人様の旅路を見送るだけの毎日を過ごしているだけだった。

『このままでは、駄目だ』

 そう考えたハデスは、一つの考えに辿り着いた。
 一縷の望みを託すには悪くない案だと思う。どうせ時間は腐る程あるのだし、自分の余暇にも丁度いい。『仕事らしい仕事を全くと言っていい程しないくせに、余暇だけは楽しもうとするな!』と同類の者達に言われそうだが、好きに言わせておけばいいんだ。

「もうすぐ十六夜が二千歳になる誕生日だ。プレゼントとして休暇をあげようかと思うんだけど、どうかな」

 ——思案から意識の戻ってきたハデスは、十六夜にそう提案してみた。
「…… 」
 産まれてから一度も休みの無い、ブラック企業もびっくりの勤務状況だったのに一つの文句も無く働いてきたせいか、十六夜が黙ってしまった。

「お休み…… ですか?今から寝ますので、それが休暇なのでは?」
「あぁぁ、ご…… ごめんね。でもそれは、休暇じゃないなぁ」

 朝から晩まで魂を送り出し、ハデスの迎えが来たらベッドで眠る。その繰り返しをずっとしてきたせいか、そもそも“休暇”が何たるかを、彼女は知識の中から引き出せないみたいだ。その類の単語の意味を保存している部分が完全に錆び付いてしまっているのだろう。ハデスとは完全なる同一体ではないせいか、力の回復には休養が必要な十六夜の体を酷使し続けていた事に今更気が付き、己の不甲斐なさを彼は強く恥じた。

(悪い事をした…… 僕の、唯一の愛し子なのに)

 ——と、すまなそうな顔をしながらハデスが十六夜の上に覆いかぶさり、ぎゅっと小さな体を抱き締めた。心を育てる事にばかり注視し続けたせいで、彼女自身を見ていなかった事を悔やみ、十六夜を抱く腕に更に力を込める。彼女がただの人間だったらとっくに圧死している所だ。

「すみません。でも、ハデス様がくださるのなら受け取ります」

 淡々とした十六夜の声のせいで、より一層ハデスの胸が痛む。
 二千年近くも費やしたのに、自分が望む様な個体に十六夜がならぬ事も悔しくてならない。愛おしい者と初夜を迎える事が出来ぬままの現状も彼を追い詰めていく。元来彼は禁欲的なタイプではないせいで、もう色々と限界が近かった。
「良かった。期間を特には決めていないから、好きなだけ休んでいいよ」
「はい」
「やりたい事はない?何でもいいよ、言ってみて」
「ありません」
「…… だ、だよねぇ」
 キッパリと即答されてしまい、ハデスが肩を落とす。でもその答えが返ってくる事は最初からわかっていたので、彼は自分から休暇の過ごし方を提案する事にした。

「じゃあ、書棚にある物語を、君も楽しんでみるっていうのはどうかな」

 十六夜のアーモンドアイが大きく見開いた。
 上半身を起こし、両腕で自身の身を支えていたハデスは十六夜の表情の変化を見逃さなかった。“物語”という響きに興味はあるのだ、きっと。もしかすると今までは、人々の生き様を『覗く』という行為に抵抗があっただけなのかもしれない、とハデスの中で淡い期待が生まれた。

「どう?行ってみる?綺麗な風景や、風を実際に体感出来るから楽しいと思うんだ」

 この空間には何も無い。座ってただじっと虚空の空間を見上げるか、天蓋付きのベッドで寝転ぶ以外に時間の過ごし方がそもそも存在しない空間に長時間居るよりはずっと建設的だという事に早く気が付いて欲しくって、ハデスが返事を促した。

 だが、黙ったままの十六夜からは返事が一向に返ってこない。そのせいでハデスの心臓が珍しく鼓動を早める。
 どうする?どうなる⁉︎とソワソワしてきたが、この感覚こそ僕が欲しかったものだと嬉しくもあった。

 自分の心を揺さぶる存在はいつだって君であって欲しい。
 だって、その為に君を創ったのだから——

「…… わかりました」と小さく呟き、十六夜がこくりと頷いた。青藍色の瞳にはまだ迷いが感じられるが、ハデスの言葉に逆らう意思を持たぬせいで、彼女は頷く以外の選択肢を選べない。
 つり目がちな赤い瞳をすっと細め、「行き先は、僕が選んでもいいかな?」とハデスが問い掛ける。
「もちろんです」
 短い回答も彼の予想通りだったが、それでもハデスは満足気に頷いた。

「じゃあ最初の物語は——」

 そうハデスが口にした途端、十六夜の意識はふっと途切れ、そのまま物語の中に引きずり込まれて行ったのだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

拝啓、婚約者さま

松本雀
恋愛
――静かな藤棚の令嬢ウィステリア。 婚約破棄を告げられた令嬢は、静かに「そう」と答えるだけだった。その冷静な一言が、後に彼の心を深く抉ることになるとも知らずに。

社長室の蜜月

ゆる
恋愛
内容紹介: 若き社長・西園寺蓮の秘書に抜擢された相沢結衣は、突然の異動に戸惑いながらも、彼の完璧主義に応えるため懸命に働く日々を送る。冷徹で近寄りがたい蓮のもとで奮闘する中、結衣は彼の意外な一面や、秘められた孤独を知り、次第に特別な絆を築いていく。 一方で、同期の嫉妬や社内の噂、さらには会社を揺るがす陰謀に巻き込まれる結衣。それでも、蓮との信頼関係を深めながら、二人は困難を乗り越えようとする。 仕事のパートナーから始まる二人の関係は、やがて揺るぎない愛情へと発展していく――。オフィスラブならではの緊張感と温かさ、そして心揺さぶるロマンティックな展開が詰まった、大人の純愛ストーリー。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

【完結】あわよくば好きになって欲しい(短編集)

野村にれ
恋愛
番(つがい)の物語。 ※短編集となります。時代背景や国が違うこともあります。 ※定期的に番(つがい)の話を書きたくなるのですが、 どうしても溺愛ハッピーエンドにはならないことが多いです。

忌むべき番

藍田ひびき
恋愛
「メルヴィ・ハハリ。お前との婚姻は無効とし、国外追放に処す。その忌まわしい姿を、二度と俺に見せるな」 メルヴィはザブァヒワ皇国の皇太子ヴァルラムの番だと告げられ、強引に彼の後宮へ入れられた。しかしヴァルラムは他の妃のもとへ通うばかり。さらに、真の番が見つかったからとメルヴィへ追放を言い渡す。 彼は知らなかった。それこそがメルヴィの望みだということを――。 ※ 8/4 誤字修正しました。 ※ なろうにも投稿しています。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

身分差婚~あなたの妻になれないはずだった~

椿蛍
恋愛
「息子と別れていただけないかしら?」 私を脅して、別れを決断させた彼の両親。 彼は高級住宅地『都久山』で王子様と呼ばれる存在。 私とは住む世界が違った…… 別れを命じられ、私の恋が終わった。 叶わない身分差の恋だったはずが―― ※R-15くらいなので※マークはありません。 ※視点切り替えあり。 ※2日間は1日3回更新、3日目から1日2回更新となります。

わたしは婚約者の不倫の隠れ蓑

岡暁舟
恋愛
第一王子スミスと婚約した公爵令嬢のマリア。ところが、スミスが魅力された女は他にいた。同じく公爵令嬢のエリーゼ。マリアはスミスとエリーゼの密会に気が付いて……。 もう終わりにするしかない。そう確信したマリアだった。 本編終了しました。

処理中です...