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いつものようにモップ掛けしながらフロアを行ったり来たりしていた。

この会社の定時間際は社内がバタつく。

仕事の追い込みなのか、人の往来が激しく、忙しない。

行き来する従業員達にぶつからないよう注意しながら己の業務を遂行していると、背後から「うわっ……」という声がした。

かと思えば、すぐに「ちょっと、おばさん」と声が聞こえてきた。

まだ“おばさん”’と呼ばれる歳じゃないもんだから自分の事だとは思わずに作業を続けていたら「掃除のおばさん!」と、今度は怒りの籠った声が飛んできた。

漸く“おばさん”が自分を呼ぶ単語だと気付いた。

“おばさん”………地味にショック。


「………何ですか?」


振り返ると、ムスッとした顔の男性社員がいた。

つられてこっちもムスッとしそうになる。


「あっ………と、オネエサンか」


おばさんと呼ばれて振り返ったのが思っていたより若かったからか、相手は一瞬怯んだものの、すぐに元の不機嫌そうな表情に戻る。


「あんな所にバケツを置かないでくれる。邪魔だよ、邪魔!!」


捲し立てるように言った男性は「見てよ、これ」と脚を上げた。

ズボンの裾に、小さなシミが出来ている。


「蹴躓いた拍子に水がかかったよ。汚れちゃったじゃん」

「………すみません」


一応は謝ったけど、それでも気を遣って人が通らないような端に置いておいただけあり、腑に落ちない。


「オネエサンみたいに、汚れてナンボな仕事と違って、こっちは身なりが大切なんだよ。気を付けてくれる?!」


普通に歩いてる分には、必ずバケツが視界に入る筈。

きっと余所見でもしていたんじゃないかと思う。

それか歩きスマホとか。

なのに、自分の不注意を私のせいにして当たられても迷惑だ。

取り敢えず「すみません、以後気を付けます」と頭を下げると、男性は気が済んだのか「ふん」と鼻を鳴らして踵を返した。


「ったく………これだから底辺は」


吐き捨てるように言った男性に同僚らしき別の男性が「まぁまぁ」と宥める。


「あーいう底辺な仕事、俺は絶対したくないね」

「おい……言い過ぎだぞ。まぁ、分からんでもないけど」


言いながら二人はこちらをチラリ。

それから顔を見合わせた後、声を出して笑い合った。


「っ……」


悔しさから奥歯をぐっと噛んだ。

清掃の仕事はどうしてだか世間から軽く見られる傾向にある。

何故?汚れる仕事だから?

人の役に立つ仕事だし、欠かせない人員だ。

どうして下に見られないといけないんだろう?

底辺なんて言われたくない。

落ち込むよりも憤りを感じてモップの柄を握る手に力を込める。


「今の発言はどうかと思いますよ」


不意に聞こえてきた声にハッと我に返った。

咄嗟に声の主を探す。


「誰のお陰で綺麗な職場で気持ち良く働けると思ってるんですか?撤回すべきです」


現れたのは、キリッとした顔立ちの若い男性だった。


「おいおい……青柳あおやぎ、先輩に向かって説教かよ。偉くなったもんだな」


忽ち不穏な空気が流れるも、青柳と呼ばれた男性は顔色一つ変えずに言う。


「人として最低な発言を聞き流せなくて、つい……尊敬している先輩だからこそ意見したまでです。後輩を失望させないで下さい」


相手を選ばずに毅然とした態度で言い切った彼に、先輩社員は「チッ…」と舌打ち。


「格好いいねぇ、青柳くんは」

「出来る男は違うね。流石だわ」


皮肉を残して撤収していく二人を見送ってから、青柳という男性が私に近付いて来る。


「………気を害されましたよね?すみません、良い方達なんですけど、今日は業務上のトラブルがあって虫の居所が悪いみたいなんです」


彼は困ったように笑った。


「あ、いえ……私は平気です。ありがとうございました」


ちょっぴりキョドりながら言うと、今度は頭を下げられる。


「いつもお仕事ご苦労様です。それから、職場をピカピカに磨き上げて下さってありがとうございます」


思いがけない言葉に胸がじーんと熱くなった。

年齢は同じ位か、少し上だと思う。

短く整えられた黒髪に細身のスーツが似合うスラリとした体型からして、スポーツマンっぽい。


「それじゃ………失礼します」


爽やかな笑顔を向けられ、不覚にもときめいてしまった。

慌ててペコリと頭を下げ、青柳さんの背中を目で追う。

不思議と視線を逸らせない。


「…………ラブロマンスの予感」

「ひぅっ……?!」


背後から聞こえてきた低い声に大きく肩が揺れた。

振り向けば、不気味な程満面の笑みの佐伯さんが居て…


「彼は確か……総務課の青柳 謙太あおやぎ けんたくん。仕事は早くて的確。礼儀正しく、人間性も花丸で見た目も中々のハンサム……」

「よ、良く知ってますね……」

「歳はいくつだったかしら?凪ちゃんと同じ位?ちょっと上だったかしらね………まぁでも、有望株に間違いないわ。凪ちゃん、お目が高い」


そんな事細かな情報をどこで入手して来るのか、果てしなく疑問だ。


「お目が高いって………私は別に…」


そんな風に考えてないのに。

佐伯さんは「あらぁ、そう?」と年甲斐もなく小首をかわいらしく傾げてみせる。


「凪ちゃんの円らなお目々がずっと青柳くんの背中を捉えて離さないじゃな~い」

「な、何を言って……」

「恋しちゃった顔してるし」

「んなっ……?!」


楽しそうに私をおちょくる佐伯さんのお陰で体温が一気に上がった。


「凪ちゃんてば、顔が赤いわよ~」

「違います!これは単に一生懸命働いたからで……」


もし、佐伯さんの言う通りならば、たったこれだけの事で恋に落ちてしまう私はチョロい女だ。

心無い言葉から庇って貰って、ちょっと優しくされただけ………それだけなのに。

いや、でも………




―――これって、運命………?


高鳴る胸を押さえる。


羽鳥 凪はとり なぎ、25歳。


平成最後のこの夏は、今まで生きてきた中で一番熱い夏になる予感がする……






「ちょっと佐伯さん!勝手に変なナレーション付けないで下さいよ!」

「ホホホ………いいじゃな~い」


佐伯さんのせいで、変な汗が沢山出た。
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