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第三夜:白紙の母子手帳【10】
しおりを挟む「ママ、一緒に遊んでくれてありがとう。楽しかったよ」
「待って!嫌っ!お願いだから、ママと一緒に………!!」
何度手を伸ばしても
何度掴もうとしても
真由子の手は、優愛の体をすり抜けて、宙を切る。
「優愛っ!!」
触れる事すら叶わない。
「パパにあんまりお酒飲ませないでね」
優愛の体が、足下から散り始めた。
「駄目っ!優愛!!」
「誠と那奈には、これからもなかよしでいてほしいな」
爪先から膝、膝から腿………
少しずつ、消失していく。
「ママも、がんばりすぎないでね」
止めどなく溢れる涙はそのままに、真由子は幾度となく優愛に手を伸ばす。
愛する娘の消失を止めたいが為に。
「っ、消えたりなんか、しないで優愛……」
「ママ………」
真由子は、優愛の前に跪いた。
「っ………ママは……ママは、まだあなたに何もしてあげられてない……何も……」
込み上げてくる嗚咽を堪え切れず、真由子は苦しそうにしゃくり上げては、息を吐き出す。
もう優愛の体の大半が消失していた。
どれだけ願っても
どれだけの涙を流しても
消え入る運命には抗えないのだろう……
「悲しまないでママ。きっと、また会えるから」
「…………え?」
真由子が顔を上げると、光の中から優愛がにっこり微笑んだ。
「だいじょうぶ……いつかかならず会いに行く」
「優愛?会いに行くって………どういうーーー…」
戸惑う真由子に向かって、優愛は最後に天使のように無垢な笑顔で言う。
「ママ、だーいすきだよ」
その瞬間、優愛の体が跡形もなく消え失せた。
「優愛ーーーっ!!!」
その場に一人残された真由子の叫びは、ただ虚しく響くだけだった。
目を覚ますと、真由子の腕は天井に向かって伸びていた。
何かを掴もうと、高々と。
「………夢?」
ゆっくりと上体を起こす。
と、隣で寝ていた亮が目も覚ました。
「具合はどう?随分魘されていたみたいだけど…」
亮の言葉から、真由子は全身に冷や汗が滲んでいる事に気付く。
「………はぁ…」
深い溜め息を一つ。
「まだしんどい?」
心配そうに顔を覗き込んでくる亮。
それに「大丈夫」と笑顔で返してから、真由子は静かに切り出す。
「………不思議な夢を見たの」
「夢?どんな?」
亮が興味深そうに聞いてきた。
真由子はそっと目を伏せ、夢の記憶を辿る。
「………とても温かくて、楽しくて……だけど、悲しい夢でもあった…」
真由子は、自身が見た夢の一部始終を事細かに伝えた。
「それでか…」
「えっ?」
全ての内容を聞いた亮の手が、真由子の目尻に触れる。
「涙の跡がある」
まだ乾ききれていない涙が掬い取られた。
「俺も優愛と会いたかったな。夢でいいから」
そう言って亮は悲しげに微笑んだ。
「もう少しゆっくりしてなよ。朝食の用意は簡単にやっとくから」
亮が、真由子の肩を軽く叩きながら立ち上がった。
「あ………パパ…」
真由子が部屋を出ようとする亮を呼び止める。
「ん?何?」
ドアノブに手を掛けた状態で振り返る亮。
「ごめんね…」
申し訳なさそうに言った真由子に、亮が悪戯っぽく笑って言う。
「“ごめんね”よりも、“ありがとう”の方が嬉しいけどね、俺は」
その言葉にハッとした真由子は、すかさず言い直す。
「ありがとう、パパ」
亮は、満足気に目を細めると、部屋を後にした。
それから……
一月近くが経過した頃、真由子の体に小さな異変が起きた。
「7週目に入った所だって」
「本当に?」
愛しそうに自身の腹を擦る真由子。
彼女の体には、新たな生命が宿っている。
「きっとね、優愛が夢で言っていた“必ず会いに行く”って、この事だったのよ」
喜びを噛み締めながら真由子は言った。
亮は、そんな真由子のまだ膨らみのない腹にそっと手を添える。
「まだ性別も分からないのに?」
茶化す亮に、真由子は笑って言う。
「分かるよ。優愛がちゃんと約束してくれたもの。この子は、優愛。またパパと私の元に還って来てくれたのよ」
亮は、真由子の腹を擦りながら、胎児に向かって話し掛ける。
「優愛、パパ、優愛に会えるの楽しみにしてるから、元気に生まれておいで」
一生懸命に話し掛ける亮の姿を微笑ましく感じながら
「また、二人の宝物が一つ増えたね」
そう呟いた真由子の笑顔は、最高の輝きを放っていた。
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