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橘社長とりっくん~元極道なボディガード×奇抜でビッチな社長~

二人の出会い

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 生まれた時から日の当たらない道を歩いてきた。
 極道の家に生まれ、極道の家に育ち、気付けば周囲には荒くれた男ばかり。
 誰が兄貴だどいつが舎弟だと上下関係ばかり叩き込まれて、そうでなけりゃ喧嘩商売。
 次期組長としての教育を受ける日々。友達と呼べるような相手もいない。
 我ながら空しい人生を送ってきたと思う。

 高校を卒業と同時に家を飛び出して、一人で暮らし始めた。
 親父の後ろ盾のない場所で、やっと一人の人間として生きられると思った。

 友達もできた。
 拳を交えずとも解り合える友達。
 酒を酌み交わし、他愛もない言葉で笑い合い、無為の時間を楽しめる相手。
 俺がずっと望んでいたもの。
 俺はあの頚木からようやく解き放たれたのだと思っていた。
 ずっとこの新しい生活が続くんだと。もうあの頃のような孤独な世界は味わわずに済むのだと。そう、思っていたのに――


 ***


 ことことと何かを煮込む家庭的な音に目を覚ました。

 窓の外は宵闇。
 だが、室内は薄いオレンジの照明に照らされて仄明るい。
 キッチンに立つ男の後姿が見えた。――否、それは”多分”男の後姿だった。
 ぼんやりと熱に滲む視界の中で、やけに綺麗な長いピンクの髪が薄明かりに映える。ファンタジックなその色は、この光景の現実味を根こそぎ奪い去るに十分な破壊力を持っていた。

 ……これは何だ。

 あまりに多くの事が一度に起こり過ぎて、思考能力が麻痺している。
 大きく深呼吸を一つ。それから、自分の置かれている状況を整理する。

 覚えているのは、行きつけのバーから大通りに抜ける、薄暗い路地の曲がり角。
 いつも通りに右折した、その時だった。
 不意にずぶりと嫌な感触が肉に響き、続いて全身に熱が広がる。
 手を伸ばすとそこに、脇腹を背後から刺し貫く鋭いナイフ。振り返った目には走り去る黒服の背中。
 それを認識するとほぼ同時に、呼吸をするのも苦しいほどの痛みが神経を駆け抜ける。
 抗うことも出来ずに、俺はただその場に崩れ落ちて――

 (一体、何が、どうして。こんな事に。俺が一体何をした?)

 答えの無い問い。否、答えなど解り切った問い。
 そうだ、解っている。こんなことをする奴なんて、一人しかいないじゃないか。俺が裏切ったあの男しかいないじゃないか。そう、それは血の繋がった、俺にとって今はもうただ一人の――

 その名を思い浮かべた時、全身の血が滾るのを感じた。
 靄の掛かっていた視界が開けるように、頭がすっと冷えて行く。同時に、腸の底に狂惜しいような熱を感じた。がんっ、と怒りのままに壁を殴り付ける……その時、己の上に影が差し、俺はキッチンにいたはずの男に見下ろされているのに気付いた。

「ああ、良かった。目が覚めたみたいだね。あんまり呼吸が細いから、このままぽっくりお陀仏しちゃうかと思ったよ。でも、寝起きで暴れるのは感心しないなぁ。せっかくこの俺が手当てしてあげたっていうのに、いきなり自分で自分の体ぶっ壊すようなことは止してくれないと」
「あんたは……」

 釣られるように口を開く。が、その声は俺自身がこうと想定していたよりずっと弱々しく響いた。
 確かめるように押さえた唇はかさかさに荒れ、体の渇きを訴えている。無意識に強く噛み締めると血の味が広がり、僅かながらもたらされた潤いに、俺はごくりと喉を鳴らした。

 が、それも束の間。伸ばされた手が俺の頤を掴み、無理矢理に上向かせる。自然、男を見上げる形になって、俺はついと口を噤んだ。
 何をするかと思ったその男は、ゆっくりと指を伸ばすと……その指で俺の唇を拭った。

「……おっかしーな。さっきはちゃんと俺の質問に答えたから、中身は無事かと思ってたんだけど。治療中に壊れちゃった?俺の言ってる事、聞こえてる?きーずーを、つーけーるーなって言ってるんだけど」

 殊更に大きな声で、子供に言い聞かせるようにそう言われて、苦笑を漏らす。不自由な体で、その指を払うように首を振って、俺は睨むように男を見た。

「……意識はしっかりしている」
「あ、そう。そりゃ良かった」

 に、と悪びれも無く笑みを浮かべて、男は口付けでも出来そうなほどに近付いていた顔を離す。そして、一度キッチンの方に戻ると、湯気の立つ器を持って戻って来た。

「それじゃ、とりあえず栄養を取ってもらわないとねぇ。卵粥でいい? レトルトだけどここのは結構美味いんだ。あ、贅沢言ってもこれしかないから、我慢してでも食べてもらうけど」

 口数の多い男だ。
 が、罷りなりにも命の恩人だと思えば、その言葉を聞かないわけにもいかない。それに実際、逆らえぬほどには腹が減っていた。
 不承不承頷いて、俺は器を受け取ろうと腕を上げる。……その手は中空で制された。

「何考えてんのかなー、君は。そんなぷるぷるした手で、自分で食べられるわけないでしょが。零されて大騒ぎされても困るんでー。……ほら、あーん」

 騒ぐわけ無かろう。
 そう反論しようとして、俺は結局言葉を飲み込んだ。そんな口論をしている体力が惜しい。
 口を開くと、男は案外と几帳面に、匙に乗せた粥をふぅふぅと吹いて冷まし、俺の口に運んでくる。
 思えば、俺の短い人生の中でこんなに美味い粥があっただろうか?
 たった一匙の粥。
 その温かさと、仄かな甘みが全身に染み入る。味わうように咀嚼して、飲み込んだ。
 ちらりと男を見遣ると、俺の視線に気付いたのか、すぐさま次の匙が運ばれる。
 鳥の雛か何かのように俺を餌付けしながら、男は飽きもせず話し掛けて来た。

「そういえば、まだ名乗ってもいなかったっけね。俺は橘雄一郎……いや、デザイナーのユイ・タチバナって言った方がイイかな? 君の持ち物の中に俺のブランドの商品があったし、少なくとも名前くらいは知ってると思うんだけど」

 確かにその名前には覚えがあった。
 最近よく雑誌やテレビで騒がれている、新進気鋭の若手デザイナーだ。クールでスタイリッシュなデザインで、二十代の男女を中心に人気が高い。まさかそのブランドの主がこんなピンク頭の宇宙人のような男だとは、誰も想像だにしないだろうが。

「……千藤利久郎」
「せんどーりくろー。ふぅん……じゃ、りっくんね。それじゃ早速だけど、りっくん……君、これからどうするの?」

 一瞬、問われた意味が解らず、俺は目の前の男――橘を凝視した。

「どうする、だって?」

 どうもこうもない。
 今まで住んでいたアパートには戻れない。仕事先にも手が回っているだろう。姿を見せれば最後、確実に息の根を止められるだけだ。
 そう、俺は殺されたのだ。あの男に。完膚なきまでに。
 俺の存在はこの世界から抹消された。もう二度と日の当たる道を歩くことはない。
 命を助けてくれた事には感謝もするが、俺にはこの飄々とした男が追い詰められた俺を小ばかにしているようにしか思えなかった。
 自然、俺はまた挑みかかるように彼を睨み付けていたのだろう。橘は困ったような笑みを口元に浮かべて、敵意が無い事を示すように緩く手を振り、俺を押し留めた。

「ごめんごめん。揶揄ったつもりじゃないんだ、そんな顔しないでよりっくん。正直、俺は君に何が起こったのかとか良くわかってないからさ。でも、少なくとも君がカタギじゃないってことくらいはわかるよ。その立派な刺青を見ればね。ついでに君が何か問題を抱えてるってことも。だから病院に連れて行かずに、こうやって俺の家で俺の主治医を呼んでこっそり手当てさせたんだし。まぁ、そこに関しては、たまたまではあるけどそういう手を回せる立場にいた俺の存在に、感謝してもらってもばちは当たらないと思うんだけど」
「……それで、何が言いたい」

 押し殺した声には、十二分に殺意が篭められていたのだろう。
 立て板に水を流すように言葉を紡いでいた橘も、流石に一度言葉を区切る。
 だが、それで自分の調子を失ったわけではないらしい。ただ小さく肩を竦めてから、俺にきちんと向き直った。

「やれやれ。君は顔に似合わずなかなかせっかちだね。ン、まぁいいや。……今日のところは君に合わせておくよ」

 まだ気に障る物言いではあったが、俺は小さく溜息を吐いて、顎をしゃくった。先を促す。
 橘は、それまでの道化た顔はどこへやら、静かに頷くと、言葉を選ぶように黙し。薄桃色の簾の隙間から俺の目を真直ぐに見て、こう言った。

「結論だけ言えば――君、俺のところで働いてみない?」

 ……言われている意味が解らなかった。

「丁度ね、ボディガードを雇おうと思ってたんだ。俺も顔が売れてきちゃったもんで、最近物騒でね。……まぁ、ちょっと危険な目に遭うことも多々あるわけよ。だけどそれは誰でもイイってわけじゃない。四六時中傍に置く人間なんだもの。少なくとも俺の害にならないっていう”保障”が欲しい」
「それが……俺にあると?」
「そうだよ。この大都会で商売してると、裏街道にもいろいろとツテが出来るもんでね。幸いなことに、今の俺には金とコネがある。俺なら君を守ってあげられる。君の命を俺が守り、俺の命を君が守る。但し、君にはこれまでの名前を捨てて、別の人間として生きてもらうことになるよ。そして俺の傍を離れて、俺の加護が無い場所では生きていけなくなる。それでも、このままここを出て行くよりは数十倍安定した暮らしが出来るんじゃないかな?」

 説明書を読み上げるように、淡々と声は続いた。
 彼の声が一度途切れても、俺は暫く言葉を失い、口を開く事が出来なかった。
 漸く搾り出したのは、一言。

「……本気で言ってるのか?」
「こんな何の益にもならないような嘘は言わないよ。ほら、目の色が変わった。だから最初から、俺の言うことをちゃんと聞いてれば良かっ――」
「能書きは良い。俺は……生きられるんだな? 生きていて、良いんだな?」

 確認するべき事はそれだけ。それ以外の答えは要らない。
 そう言うように彼を見詰めると、橘はゆっくりと唇を笑みの形に崩し。俺の頬にそっと指を当てて。

「契約成立。今日から君は、俺のものだよ」

 その時の彼の顔を、俺はきっと忘れないだろう。
 俺の新しい生が始まった日。俺と橘の出会いの日。
 「藤堂陸」……それが俺の新しい名前。
 そしてここから、俺達の物語が始まる。
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