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二人、この手を繋いで
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ハァ、ハァ、ハァ、と。
荒い呼吸を繰り返しながら、暮里は走っていた。
下弦との決着はついた。最後に立っていたのは、暮里、唯一人だった。――けれど、暮里もまた無傷というわけにはいかなかった。彼の決死の刃は確かに暮里の横腹を捉え、浅からぬ傷をつけていたのである。
それでも暮里は立ち止まっている場合ではなかった。倒れた下弦の着物を容赦なく破り包帯代わりにして応急処置を施すと、善之介が待つ隠れ家に向けて先を急ぐ。
ぽたり、ぽたりと血が滴り、その匂いは野犬のみならず追手にもいずれ嗅ぎ付けられよう。もうこうなっては、二人で逃げ延びるなど無理だと、解っていた。解ってはいたけれど。
(最後に、一目だって構わない。彼に……善之介に、会いたい)
強く、強く願った。それだけが今、暮里を突き動かしていた。
「善之介……善之介、善之介っ……」
気付くと唇は歌を奏でていた。
昔、彼は自分の声を好きだと言った。綺麗な歌だと無邪気に褒めて、もっと歌えとせがんだ。そんな懐かしい日の出来事が走馬灯のように浮かんでは消える。
痛いのに、苦しいのに、血を失った体は重く悲鳴を上げているのに。善之介の満開の向日葵のような笑顔、自分を呼ぶ声を思うと、それだけでまだ幾らでも動けると思った。
彼が暮里の、生きる理由だった。
結末なんてもう、どうだっていい。ただ、彼に愛してると伝える為に暮里は走り続ける。
やがて、その時が――来た。
***
――歌っている。彼が、歌っている。
あの隠れ家から逃げた先、忍に取り囲まれ窮地に陥っていた善之介は夢を見ているような心地でその声を聴いた。
それは茫洋と凡庸な古い童歌。親が子供に歌い聞かせ、その子がまた己の子へと歌い継いでいくような。聞き慣れたその旋律も、その唇が紡げば不思議と心の奥底に染みついて、決して剥がれない。
顔を上げると、蝶が舞い踊るに似た動きに風を孕んだ着物の袖が大きく膨らみ、月の光に金糸銀糸がキラキラ映える。抜けるように白い肌も宝石に似たその瞳も、キラキラとチラチラと、今正に終わりを迎えんとする恒星が明滅するが如く。最期の輝きを全身から滾らせ迸らせて、清廉に凄惨に高潔に、華やいでいる。
「善之介」
彼が――暮里が善之介を呼ぶ。形の良い唇が艶やかな微笑みを形作って、真っ直ぐに善之介を見ている。
「善之介、おいで」
甘い甘い、砂糖菓子よりも甘い、脳髄を蕩かす音声。促され、善之介は素直に手を伸ばす。指を絡め取られ引き寄せられて、二人、自然と走り出した。
よく見ると彼の全身は真新しい鮮血で唐紅に染め上げられていて、それが返り血ばかりではない、彼自身の傷から染み出す血の臭いだと善之介にはすぐ解ってしまった。
ここに辿り着くまでに彼に何があったのか、巴丸は何故いないのか。それはあまりにも明白で明瞭で明確で、けれど善之介はそれが如何に忌まわしく傷ましいことだとしても、その手を離そうとは思わなかった。恐れなど、迷いなど、もう何もない。彼がここにいることだけが答えだ。
月明かりと互いの手の温もりだけを頼りに、森の中を駆ける。踏み荒らされた雑草が二人の行方を刻み残してしまう。
このまま先に進んだところで、逃げ場所など無い。恐らく国境を超えることなど、自分達には出来ない。
(――どんなに走ったって、どこへ向かおうとしたって、この道はどこにも続かない)
善之介にも、手を引く暮里にも、それは解っていた。きっと遠くない未来、たった小半刻も過ぎぬうちに、彼等には過酷な運命が訪れる。
それでもこの手は離さない。
最終最後の瞬間まで、絶対に離すものかと、善之介は指に力を籠める。
「暮里!」
先を行く背中に声を投げた。
「暮里、暮里、暮里!」
これは夢じゃない。彼は”明星”なんかじゃない。暮里だ――俺の、暮里だ。
何度も、何度も、確かめるように名を呼ぶ。答える代りに、暮里の指にも力が籠もる。
善之介はいつしか笑っていた。笑っている場合じゃないのは解っているのに、なんだか総てが馬鹿らしくて、腹の底から可笑しくて、とんでもなく自分達は滑稽で――なのに、満ち足りてしまった。この時間、この一瞬だけで、己は賭けに勝ったのだと思った。愛しさに、溢れる想いに、もう胸がはち切れそうだ。
「楽しいな!なあ、楽しいなあ、暮里!」
「……ああ」
彼も、そっと笑う。
「善之介、僕は今……初めて、自分の人生を生きている気がする」
ここから先は、淡く短い、その夢の続き。
荒い呼吸を繰り返しながら、暮里は走っていた。
下弦との決着はついた。最後に立っていたのは、暮里、唯一人だった。――けれど、暮里もまた無傷というわけにはいかなかった。彼の決死の刃は確かに暮里の横腹を捉え、浅からぬ傷をつけていたのである。
それでも暮里は立ち止まっている場合ではなかった。倒れた下弦の着物を容赦なく破り包帯代わりにして応急処置を施すと、善之介が待つ隠れ家に向けて先を急ぐ。
ぽたり、ぽたりと血が滴り、その匂いは野犬のみならず追手にもいずれ嗅ぎ付けられよう。もうこうなっては、二人で逃げ延びるなど無理だと、解っていた。解ってはいたけれど。
(最後に、一目だって構わない。彼に……善之介に、会いたい)
強く、強く願った。それだけが今、暮里を突き動かしていた。
「善之介……善之介、善之介っ……」
気付くと唇は歌を奏でていた。
昔、彼は自分の声を好きだと言った。綺麗な歌だと無邪気に褒めて、もっと歌えとせがんだ。そんな懐かしい日の出来事が走馬灯のように浮かんでは消える。
痛いのに、苦しいのに、血を失った体は重く悲鳴を上げているのに。善之介の満開の向日葵のような笑顔、自分を呼ぶ声を思うと、それだけでまだ幾らでも動けると思った。
彼が暮里の、生きる理由だった。
結末なんてもう、どうだっていい。ただ、彼に愛してると伝える為に暮里は走り続ける。
やがて、その時が――来た。
***
――歌っている。彼が、歌っている。
あの隠れ家から逃げた先、忍に取り囲まれ窮地に陥っていた善之介は夢を見ているような心地でその声を聴いた。
それは茫洋と凡庸な古い童歌。親が子供に歌い聞かせ、その子がまた己の子へと歌い継いでいくような。聞き慣れたその旋律も、その唇が紡げば不思議と心の奥底に染みついて、決して剥がれない。
顔を上げると、蝶が舞い踊るに似た動きに風を孕んだ着物の袖が大きく膨らみ、月の光に金糸銀糸がキラキラ映える。抜けるように白い肌も宝石に似たその瞳も、キラキラとチラチラと、今正に終わりを迎えんとする恒星が明滅するが如く。最期の輝きを全身から滾らせ迸らせて、清廉に凄惨に高潔に、華やいでいる。
「善之介」
彼が――暮里が善之介を呼ぶ。形の良い唇が艶やかな微笑みを形作って、真っ直ぐに善之介を見ている。
「善之介、おいで」
甘い甘い、砂糖菓子よりも甘い、脳髄を蕩かす音声。促され、善之介は素直に手を伸ばす。指を絡め取られ引き寄せられて、二人、自然と走り出した。
よく見ると彼の全身は真新しい鮮血で唐紅に染め上げられていて、それが返り血ばかりではない、彼自身の傷から染み出す血の臭いだと善之介にはすぐ解ってしまった。
ここに辿り着くまでに彼に何があったのか、巴丸は何故いないのか。それはあまりにも明白で明瞭で明確で、けれど善之介はそれが如何に忌まわしく傷ましいことだとしても、その手を離そうとは思わなかった。恐れなど、迷いなど、もう何もない。彼がここにいることだけが答えだ。
月明かりと互いの手の温もりだけを頼りに、森の中を駆ける。踏み荒らされた雑草が二人の行方を刻み残してしまう。
このまま先に進んだところで、逃げ場所など無い。恐らく国境を超えることなど、自分達には出来ない。
(――どんなに走ったって、どこへ向かおうとしたって、この道はどこにも続かない)
善之介にも、手を引く暮里にも、それは解っていた。きっと遠くない未来、たった小半刻も過ぎぬうちに、彼等には過酷な運命が訪れる。
それでもこの手は離さない。
最終最後の瞬間まで、絶対に離すものかと、善之介は指に力を籠める。
「暮里!」
先を行く背中に声を投げた。
「暮里、暮里、暮里!」
これは夢じゃない。彼は”明星”なんかじゃない。暮里だ――俺の、暮里だ。
何度も、何度も、確かめるように名を呼ぶ。答える代りに、暮里の指にも力が籠もる。
善之介はいつしか笑っていた。笑っている場合じゃないのは解っているのに、なんだか総てが馬鹿らしくて、腹の底から可笑しくて、とんでもなく自分達は滑稽で――なのに、満ち足りてしまった。この時間、この一瞬だけで、己は賭けに勝ったのだと思った。愛しさに、溢れる想いに、もう胸がはち切れそうだ。
「楽しいな!なあ、楽しいなあ、暮里!」
「……ああ」
彼も、そっと笑う。
「善之介、僕は今……初めて、自分の人生を生きている気がする」
ここから先は、淡く短い、その夢の続き。
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