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蟇蛙の劣情
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錆一は世冶宮家に仕える忍、俗にいう御庭番衆の一である。
齢四十。幼少期は厳しい修行に文句ひとつ言わずに堪え、上の命令にも忠実な忍であったが、長らく下忍に留まるうち彼の性格は狡猾でどす黒く捻くれたものへと変質していった。腹の奥に溜め込んだ鬱屈は歪んで醜く、それは彼自身の顔にもありありと滲み出ていた為、場末の夜鷹にさえ敬遠されるほど。人相を忍装束で隠そうとも周囲からの目は冷え冷えとするばかりで、それは彼のへどろ染みた性根の悪化に拍車を掛けた。
そんな折に飛び込んできた”明星の監視”という任務は、ろくな任務にさえ恵まれぬ彼にとって滅多にない程の幸運であった。
”明星”は京の貴族に恋われるだけあり堪らなく見目の良い”女”で、しかも錆一の視線から逃げることすら許されぬ身。錆一はその任務にかこつけて度々”明星”に接近しては”彼女”の衣服を盗み、”彼女”の痴態を想像して己を慰めた。
当然、上忍である”明星”――”暮里”がそれに気付かぬ訳も無く、幾度となくその場を押さえられ叱責を受けたが、これから処分されようという彼が監視役の錆一に本気の害を成せるわけもなく、虫けらを見るように顰められたその美しい顔がまた、錆一の劣情を煽るばかりであった。
その”明星”の処刑まであと数日と迫る中、男は考える。
上の者達も気が利かん。どうせ殺してしまうのならば、最後に楽しませてくれれば良いものを。ここまで監視を続けた己に、多少の得くらいはあって良いはずだ。
いや、いっそ死んでいても構わない。何せあれだけの美貌なのだから、使い道は幾らでもある。そうだ、処刑が済んだ暁にはその死骸を貰い受け、防腐処理をして嫁に取るというのはどうだろう?どうせ己の元に嫁いでくる女など他にいないのだから、あの黒曜の瞳の代わりに翠玉の義眼を入れ、冷え冷えとした表情を保ったまま錆一の側に侍らせるのだ。
それはとても理にかなっているように思えた。潰れた蟇蛙のような相貌に、にまにまと厭らしい笑みが浮かぶ。
あと数日、たった数日。これまで何事も無かったのだから、これからも何事も起こるはずがない。今夜のうちに御庭番衆の頭目の元に出向き、この仕事の報酬を強請らねば……錆一の妄想はむくむくと膨らみ、同時に股間にも熱が籠ってむっくりと膨れ上がる。さて、と錆一が疣だらけの手を下穿きの内に突っ込もうとした――その時だった。
「キャアアアアアアアーー!!」
絹を裂くような悲鳴。と同時に、食堂の入口からよろよろと這い出してきた女中が地に倒れ込むのが見えた。背中には太刀傷。そこから噴き出した血が広がり、土に染み込んで赤黒い染みを付ける。寸の間をおいて、プン、と鉄の匂いが漂い鼻をついた。
「……なんじゃあ、ありゃ?」
錆一は呟くと食堂の様子を窺った。普段は清潔に整然としたその室内が、今は大分と様相を異にしている。
まず目につくのは数人の侍。フー、フー、と獣のように荒く肩を上下させ目を血走らせながら、城内だというのに腰のものを抜刀していた。先程の女はこのうちの誰かに斬り捨てられたようだ。
「喧嘩……というわけでもなさそうじゃのう」
大方、薬でも盛られたのだろう。男達の様子は以前共闘した忍が使った薬の効果によく似ていた。確かどこぞの一族に代々伝わる幻惑剤の一種だ。
――そういえば先ほど、明星の監視役の一人が伊示地の忍に殺されたらしい。
らしい、というのは錆一のような下忍に詳しいことは知らされないからだ。上の方でなんのかんのと話し合いが行われるようだが、これもまた錆一には知る由もない。とにかく今は”伊示地の忍”に気を付けろという指示だけが下忍の内に回っており、錆一はそれに従うのみである。
だが、この騒ぎが本当に伊示地の忍の仕業となれば、事は簡単に済むまい、と錆一は低く唸った。それはこの国の重鎮の一人である伊示地家の離反を意味するからである。
彼等がいったい何を考えているのか興味もないが、触らぬ神に祟りなし。こちらに飛び火してくれるなよと祈りながら、錆一はその場を離れることにした。
「おお、くわばらくわばら」
そう唱えたところでふと、錆一の中の野生の勘がざわめいた。嫌な予感に大きくぶるっと体を震わす。まさか、と分厚く荒れた唇が動き、次の瞬間に錆一は走り出していた。
彼が”明星”の部屋に辿り着いたのは、それから十を数えぬうちである。
室内にはいつも通り”明星”が好む香が深く焚き染められており、甘く蕩けるような良い匂いがしていた。だがその部屋の中にいるのはいつもの花のような姫君ではない。”明星”を胸に抱いた派手な装束の忍――華奢な肢体に美少女のような甘い顔立ち、それは悪名高い伊示地家配下の上忍”巴丸”であった。
既に十数人の下忍が”巴丸”と対峙していたが、己が一番の年長であるのを良いことに錆一は安全な一番後ろに陣取った。
「貴様、ここで何をしている!これは伊示地の意向か?」
「食堂の騒ぎも貴様の仕業か!」
「伊示地の忍風情が、このような騒ぎを起こしてタダで済むとは思うなよ!」
仲間達が口々に批難の声を向けながら、刀の柄に手を当ててじりじりと距離を詰める。一息に襲い掛かることが出来なかったのは、巴丸が手練れの上忍であることもまた周知の事実だったからだ。
――だが、と錆一は腰を低く落として舌なめずりした。
”巴丸”の技は一撃必殺と聞く。電光石火の攻撃と離脱が彼の戦法とすれば、”明星”という荷物がありそれを成しえない今ならば、下忍の自分達にも勝機はあろう。
一瞬の目配せでそれを確認し合うと、下忍達は一斉に短刀を抜き目の前の”巴丸”への襲い掛かった。
「ハアアアアッ!」
「り゛ゃあ゛ああああ!」
それは一つ間違えば”明星”の命すら奪いかねない攻撃であったが、それが”暮里”であることを知っている下忍達は意に介さない。少し傷付けたところで簡単に死ぬことはないだろうし、例え死んだとしてもその亡骸が奪取されない限りは上からの咎めがないことは解っていた。”明星の処刑”の方法が少々変わったところで、亡骸さえあれば幾らでも民や周辺諸国への言い訳は利く。
だが、その刃の切っ先が少年に届くことは無かった。先陣切って飛び出した一人の顔面に、つ、と一筋の線が浮く。
「え」
その唇が開き切る前に、ずるり、と彼の顔が斜めにずり落ち、伴ってその体も地面に崩れ落ちた。それを皮切りに迂闊に踏み込んだ者は次々に肉体の一部をすっぱりと切断され、ごろごろと畳に転がっていった。生臭い血の香りに混じり、”明星”の香が辺りに漂う。
蜘蛛の糸のように細く透明、それでいて強く張り詰めた糸が巴丸と”明星”の周りに張り巡らされているのだ――と、下忍達が気付いた時にはもう半数以上が事切れ、残る半分も体の自由を失っていた。
「ちぃ、使えんな」
舌打ちをして仲間の死骸を足で転がすと、錆一は短刀を振り回す。ピン、ピン、と高い音を立てて糸が切れ、道が開けた。感覚を尖らせて辺りの様子を窺うが、それ以上の罠は無いようだ。幾ら上忍とはいえ、短時間で用意できる罠には限りがあるのだろう。
「これで終わりか、”巴丸”。次は儂じゃ。そこらの下忍とは格が違うぞ」
錆一の前で”巴丸”は十代の少女のような顔で微笑んでいた。罠を破られても焦る様子すらない。女に苦労したこともなさそうなお綺麗に整った顔がやけに癪に障る――こいつを組み倒し、その顔をぐしゃぐしゃに引き裂いた後、目の前で”明星”を犯してやったらどんなにか気持ち良いだろうな――また錆一の中で邪な悦びがむくむくと鎌首擡げた。それを想像するだけで強い興奮を覚え、射精してしまいそうだ。
”巴丸”はゆっくり大事そうに”明星”の体を地面に横たえ、そうして漸く得物に手を伸ばした。可憐な細い指が短刀の柄にかかる。
もしこれが侍の戦いであれば、彼が刀を抜き構えを取るまで待つのが決闘の習わしなのだろう。だがここにいるのは忍である。相手の戦いの準備が整うまでのうのうと待ってやる道理はない。
「破ッ」
短い呼吸と共に、錆一は”巴丸”の体に飛び掛かった。完全に隙を突かれた”巴丸”は悲鳴もなく地面に倒れ込む。そこに至っても”巴丸”は顔色一つ変えない。
「まだ勝てるつもりか小僧……身の程が解っておらんようじゃなあ?」
べろり、と舌なめずりして錆一は短刀を振り上げる。”巴丸”の細い肢体は子供のように軽く、小枝のように柔く、錆一の乱暴な腕に組み敷かれて易々と動きを封じられた。血と香に混じり、砂糖菓子のように甘い匂いがやけに鼻につく。脳髄がうずうずと疼き、錆一の欲望はさらに膨れ上がる。
「上忍上忍と持て囃されたところで所詮子供は子供!呆気ないものよのう!ほれ、泣け、叫べ!」
衝動のままに短刀を振り下ろした。”巴丸”は抵抗しない。否、出来ない。ざく、ざく、と軽い手触りがあって、愛らしい人形のような美貌が紙のように引き裂かれていく。
「ひはははははっ、残念じゃったなあ”巴丸”!”明星”は儂のもんじゃ!誰にもやらん!誰にもやらんぞ!儂のもんじゃ!!」
高らかに錆一は笑う。ざくり、ざくり、と刃は”巴丸”に何度も突き刺さる。何度も、何度も、何度も、何度も。――もうこれでは、いくら上忍とて生きているはずもない。
「あの”巴丸”を討ち取り、”明星”を守ったのは儂じゃ!今日から儂が上忍じゃ!ひはっ……ひはははははははっ!!」
***
「きゃー、いやー、やめてー、ひどーい」
ざく、ざく、ざく、と。短刀が振り下ろされるに合わせ、感情の籠らない声で巴丸は悲鳴を上げる。
「……なんてね」
やがて、ぺろ、と無駄に可愛らしく舌を出すと、巻いた布団相手にせっせと手を上げ下げしている下忍の脳天をさくりと刀で叩き割った。
「はい、おしまい。最後に良い夢を見せてあげるなんて、慈悲をかけ過ぎてしまったかな」
周囲には下忍の死骸が累々と転がっていた。
だがそれは下忍”錆一”が認識していた状況とは若干異なる。彼等の肉体はどれも五体満足であり、残る傷は首から上への一撃のみであった。つまり彼等はここに足を踏み入れた時点で既に巴丸の術中にあったのである。”錆一”もまた同様であった。
「それにしてもこの蟇蛙、”明星、明星”って、下忍の分際で上忍の”暮里”に懸想していたのか。身の程知らずも過ぎる……よっ」
巴丸は事切れた体を雑に蹴り飛ばす。それから庭に降りると、縁の下に隠していた”明星”……暮里の体を引き出した。
目先の追手となりそうな下忍はこれで潰した。食堂の侍達も良い仕事をしてくれているようだ。薬物と暗示で正常な制御機能を失った彼等を止めるのは、手練れの忍びでもそう楽な仕事ではあるまい。死を恐れぬ兵ほど恐ろしいものが無いのは、古今東西変わらぬ道理である。
「さて、それじゃあ行くとしようか、暮里」
姫装束の体を易々と俵抱きに抱え上げ、巴丸は歩き出す。善之介との約束の場所に着く前には彼も意識を取り戻すだろう。それまで面倒な奴等の目に留まりませにょうに――神様、と祈りの言葉を零しながら、巴丸は森の暗がりへ姿を忍ばせた。
齢四十。幼少期は厳しい修行に文句ひとつ言わずに堪え、上の命令にも忠実な忍であったが、長らく下忍に留まるうち彼の性格は狡猾でどす黒く捻くれたものへと変質していった。腹の奥に溜め込んだ鬱屈は歪んで醜く、それは彼自身の顔にもありありと滲み出ていた為、場末の夜鷹にさえ敬遠されるほど。人相を忍装束で隠そうとも周囲からの目は冷え冷えとするばかりで、それは彼のへどろ染みた性根の悪化に拍車を掛けた。
そんな折に飛び込んできた”明星の監視”という任務は、ろくな任務にさえ恵まれぬ彼にとって滅多にない程の幸運であった。
”明星”は京の貴族に恋われるだけあり堪らなく見目の良い”女”で、しかも錆一の視線から逃げることすら許されぬ身。錆一はその任務にかこつけて度々”明星”に接近しては”彼女”の衣服を盗み、”彼女”の痴態を想像して己を慰めた。
当然、上忍である”明星”――”暮里”がそれに気付かぬ訳も無く、幾度となくその場を押さえられ叱責を受けたが、これから処分されようという彼が監視役の錆一に本気の害を成せるわけもなく、虫けらを見るように顰められたその美しい顔がまた、錆一の劣情を煽るばかりであった。
その”明星”の処刑まであと数日と迫る中、男は考える。
上の者達も気が利かん。どうせ殺してしまうのならば、最後に楽しませてくれれば良いものを。ここまで監視を続けた己に、多少の得くらいはあって良いはずだ。
いや、いっそ死んでいても構わない。何せあれだけの美貌なのだから、使い道は幾らでもある。そうだ、処刑が済んだ暁にはその死骸を貰い受け、防腐処理をして嫁に取るというのはどうだろう?どうせ己の元に嫁いでくる女など他にいないのだから、あの黒曜の瞳の代わりに翠玉の義眼を入れ、冷え冷えとした表情を保ったまま錆一の側に侍らせるのだ。
それはとても理にかなっているように思えた。潰れた蟇蛙のような相貌に、にまにまと厭らしい笑みが浮かぶ。
あと数日、たった数日。これまで何事も無かったのだから、これからも何事も起こるはずがない。今夜のうちに御庭番衆の頭目の元に出向き、この仕事の報酬を強請らねば……錆一の妄想はむくむくと膨らみ、同時に股間にも熱が籠ってむっくりと膨れ上がる。さて、と錆一が疣だらけの手を下穿きの内に突っ込もうとした――その時だった。
「キャアアアアアアアーー!!」
絹を裂くような悲鳴。と同時に、食堂の入口からよろよろと這い出してきた女中が地に倒れ込むのが見えた。背中には太刀傷。そこから噴き出した血が広がり、土に染み込んで赤黒い染みを付ける。寸の間をおいて、プン、と鉄の匂いが漂い鼻をついた。
「……なんじゃあ、ありゃ?」
錆一は呟くと食堂の様子を窺った。普段は清潔に整然としたその室内が、今は大分と様相を異にしている。
まず目につくのは数人の侍。フー、フー、と獣のように荒く肩を上下させ目を血走らせながら、城内だというのに腰のものを抜刀していた。先程の女はこのうちの誰かに斬り捨てられたようだ。
「喧嘩……というわけでもなさそうじゃのう」
大方、薬でも盛られたのだろう。男達の様子は以前共闘した忍が使った薬の効果によく似ていた。確かどこぞの一族に代々伝わる幻惑剤の一種だ。
――そういえば先ほど、明星の監視役の一人が伊示地の忍に殺されたらしい。
らしい、というのは錆一のような下忍に詳しいことは知らされないからだ。上の方でなんのかんのと話し合いが行われるようだが、これもまた錆一には知る由もない。とにかく今は”伊示地の忍”に気を付けろという指示だけが下忍の内に回っており、錆一はそれに従うのみである。
だが、この騒ぎが本当に伊示地の忍の仕業となれば、事は簡単に済むまい、と錆一は低く唸った。それはこの国の重鎮の一人である伊示地家の離反を意味するからである。
彼等がいったい何を考えているのか興味もないが、触らぬ神に祟りなし。こちらに飛び火してくれるなよと祈りながら、錆一はその場を離れることにした。
「おお、くわばらくわばら」
そう唱えたところでふと、錆一の中の野生の勘がざわめいた。嫌な予感に大きくぶるっと体を震わす。まさか、と分厚く荒れた唇が動き、次の瞬間に錆一は走り出していた。
彼が”明星”の部屋に辿り着いたのは、それから十を数えぬうちである。
室内にはいつも通り”明星”が好む香が深く焚き染められており、甘く蕩けるような良い匂いがしていた。だがその部屋の中にいるのはいつもの花のような姫君ではない。”明星”を胸に抱いた派手な装束の忍――華奢な肢体に美少女のような甘い顔立ち、それは悪名高い伊示地家配下の上忍”巴丸”であった。
既に十数人の下忍が”巴丸”と対峙していたが、己が一番の年長であるのを良いことに錆一は安全な一番後ろに陣取った。
「貴様、ここで何をしている!これは伊示地の意向か?」
「食堂の騒ぎも貴様の仕業か!」
「伊示地の忍風情が、このような騒ぎを起こしてタダで済むとは思うなよ!」
仲間達が口々に批難の声を向けながら、刀の柄に手を当ててじりじりと距離を詰める。一息に襲い掛かることが出来なかったのは、巴丸が手練れの上忍であることもまた周知の事実だったからだ。
――だが、と錆一は腰を低く落として舌なめずりした。
”巴丸”の技は一撃必殺と聞く。電光石火の攻撃と離脱が彼の戦法とすれば、”明星”という荷物がありそれを成しえない今ならば、下忍の自分達にも勝機はあろう。
一瞬の目配せでそれを確認し合うと、下忍達は一斉に短刀を抜き目の前の”巴丸”への襲い掛かった。
「ハアアアアッ!」
「り゛ゃあ゛ああああ!」
それは一つ間違えば”明星”の命すら奪いかねない攻撃であったが、それが”暮里”であることを知っている下忍達は意に介さない。少し傷付けたところで簡単に死ぬことはないだろうし、例え死んだとしてもその亡骸が奪取されない限りは上からの咎めがないことは解っていた。”明星の処刑”の方法が少々変わったところで、亡骸さえあれば幾らでも民や周辺諸国への言い訳は利く。
だが、その刃の切っ先が少年に届くことは無かった。先陣切って飛び出した一人の顔面に、つ、と一筋の線が浮く。
「え」
その唇が開き切る前に、ずるり、と彼の顔が斜めにずり落ち、伴ってその体も地面に崩れ落ちた。それを皮切りに迂闊に踏み込んだ者は次々に肉体の一部をすっぱりと切断され、ごろごろと畳に転がっていった。生臭い血の香りに混じり、”明星”の香が辺りに漂う。
蜘蛛の糸のように細く透明、それでいて強く張り詰めた糸が巴丸と”明星”の周りに張り巡らされているのだ――と、下忍達が気付いた時にはもう半数以上が事切れ、残る半分も体の自由を失っていた。
「ちぃ、使えんな」
舌打ちをして仲間の死骸を足で転がすと、錆一は短刀を振り回す。ピン、ピン、と高い音を立てて糸が切れ、道が開けた。感覚を尖らせて辺りの様子を窺うが、それ以上の罠は無いようだ。幾ら上忍とはいえ、短時間で用意できる罠には限りがあるのだろう。
「これで終わりか、”巴丸”。次は儂じゃ。そこらの下忍とは格が違うぞ」
錆一の前で”巴丸”は十代の少女のような顔で微笑んでいた。罠を破られても焦る様子すらない。女に苦労したこともなさそうなお綺麗に整った顔がやけに癪に障る――こいつを組み倒し、その顔をぐしゃぐしゃに引き裂いた後、目の前で”明星”を犯してやったらどんなにか気持ち良いだろうな――また錆一の中で邪な悦びがむくむくと鎌首擡げた。それを想像するだけで強い興奮を覚え、射精してしまいそうだ。
”巴丸”はゆっくり大事そうに”明星”の体を地面に横たえ、そうして漸く得物に手を伸ばした。可憐な細い指が短刀の柄にかかる。
もしこれが侍の戦いであれば、彼が刀を抜き構えを取るまで待つのが決闘の習わしなのだろう。だがここにいるのは忍である。相手の戦いの準備が整うまでのうのうと待ってやる道理はない。
「破ッ」
短い呼吸と共に、錆一は”巴丸”の体に飛び掛かった。完全に隙を突かれた”巴丸”は悲鳴もなく地面に倒れ込む。そこに至っても”巴丸”は顔色一つ変えない。
「まだ勝てるつもりか小僧……身の程が解っておらんようじゃなあ?」
べろり、と舌なめずりして錆一は短刀を振り上げる。”巴丸”の細い肢体は子供のように軽く、小枝のように柔く、錆一の乱暴な腕に組み敷かれて易々と動きを封じられた。血と香に混じり、砂糖菓子のように甘い匂いがやけに鼻につく。脳髄がうずうずと疼き、錆一の欲望はさらに膨れ上がる。
「上忍上忍と持て囃されたところで所詮子供は子供!呆気ないものよのう!ほれ、泣け、叫べ!」
衝動のままに短刀を振り下ろした。”巴丸”は抵抗しない。否、出来ない。ざく、ざく、と軽い手触りがあって、愛らしい人形のような美貌が紙のように引き裂かれていく。
「ひはははははっ、残念じゃったなあ”巴丸”!”明星”は儂のもんじゃ!誰にもやらん!誰にもやらんぞ!儂のもんじゃ!!」
高らかに錆一は笑う。ざくり、ざくり、と刃は”巴丸”に何度も突き刺さる。何度も、何度も、何度も、何度も。――もうこれでは、いくら上忍とて生きているはずもない。
「あの”巴丸”を討ち取り、”明星”を守ったのは儂じゃ!今日から儂が上忍じゃ!ひはっ……ひはははははははっ!!」
***
「きゃー、いやー、やめてー、ひどーい」
ざく、ざく、ざく、と。短刀が振り下ろされるに合わせ、感情の籠らない声で巴丸は悲鳴を上げる。
「……なんてね」
やがて、ぺろ、と無駄に可愛らしく舌を出すと、巻いた布団相手にせっせと手を上げ下げしている下忍の脳天をさくりと刀で叩き割った。
「はい、おしまい。最後に良い夢を見せてあげるなんて、慈悲をかけ過ぎてしまったかな」
周囲には下忍の死骸が累々と転がっていた。
だがそれは下忍”錆一”が認識していた状況とは若干異なる。彼等の肉体はどれも五体満足であり、残る傷は首から上への一撃のみであった。つまり彼等はここに足を踏み入れた時点で既に巴丸の術中にあったのである。”錆一”もまた同様であった。
「それにしてもこの蟇蛙、”明星、明星”って、下忍の分際で上忍の”暮里”に懸想していたのか。身の程知らずも過ぎる……よっ」
巴丸は事切れた体を雑に蹴り飛ばす。それから庭に降りると、縁の下に隠していた”明星”……暮里の体を引き出した。
目先の追手となりそうな下忍はこれで潰した。食堂の侍達も良い仕事をしてくれているようだ。薬物と暗示で正常な制御機能を失った彼等を止めるのは、手練れの忍びでもそう楽な仕事ではあるまい。死を恐れぬ兵ほど恐ろしいものが無いのは、古今東西変わらぬ道理である。
「さて、それじゃあ行くとしようか、暮里」
姫装束の体を易々と俵抱きに抱え上げ、巴丸は歩き出す。善之介との約束の場所に着く前には彼も意識を取り戻すだろう。それまで面倒な奴等の目に留まりませにょうに――神様、と祈りの言葉を零しながら、巴丸は森の暗がりへ姿を忍ばせた。
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