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忘れ難き人、明星の記憶

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 善之介の背が闇に紛れ隠れるまで、暮里はじっと微動だにせず見送った。

 それから辺りに意識を飛ばし、忍の気配がないことを確かめると裸足のまま庭に降りる。
 失くしたはずの簪がそこにある。善之介が見付け、ここまで持って来てくれたものだ。着物が汚れるのも構わず土の上に崩れ落ちると、暮里は震える手でそれを拾い、膨らみのない胸へ掻き抱いた。

「ああ……もう二度と、戻らないと思ってた」

 明星様、と呟く。
 その簪は本物の姫である明星の形見であった。大切な大切な、たった一つの、暮里の”私物”。

 本来忍が”物”に執着することは許されない。毒薬や武具など己の能力を高め活かすためのものならばいざしらず、身を飾るだけの私物を持つなど以ての外だ。それらはすべて組織に献上し、一族の糧にせねばならぬ。だが暮里はそれを手離すことが出来なかった。こっそりと隠し、実のところ善之介にしかその簪を挿した姿を見せたことがない。

 彼女の灯が潰える前、やせ細った白い指でこれを髪に挿してくれた日のことを、暮里はよく覚えている。

「綺麗ね……よく似合っていますよ、暮里。それは貴方に差し上げましょう」
「……そんな、明星様……僕は貴方の影。このようなものを受け取る訳には参りません」
「これは命令です。受け取って。そして必要な時が来たら手離しなさい。……妾が持っていても、二度と挿すことはないのですから」

 自分と同じ顔、違う性を受けた明星。その指が優しく暮里の頬を撫でる。
 淡く儚く微笑みを浮かべた彼女は、家族を知らぬ暮里にとって唯一人の理解者であり、拠り所であり、対の双子のようでいて、姉であり、また無償の愛を注ぐ母のような存在でさえあった。
 忍として教育され、感情のままに泣けない暮里の代わりに、明星はよくほろほろと涙を零した。その温かな涙が暮里はとても好きだった。

「ああ、其方を残して逝くこの身が口惜しい……」
「そのような弱音を仰いますな。明星様にはこの暮里がついております。きっと快癒なさいますとも」

 弱く震えるその肩を、本当は抱き締めてあげたかった。今にも消えそうな体をそっと抱いて、大丈夫だと慰めたかった。
 けれど触れた手を握り返すことさえ、暮里には許されていない。彼女と己は主君とその忍。暮里は忠実にその一線を守り続けた。彼女が命を落とすその日まで。

「明星様、暮里はすぐお傍に参ります。だからご安心ください」

 そう言う暮里の手をぎゅっと握り締め、最後の力を振り絞って目を開いた明星は、いつものように大粒の輝石のような涙を零して吐き出した。

「……暮里、妾を許して……どうか、どうか妾の代わりに、幸せに……」

 それが暮里が聞いた明星の最後の言葉。叶わないことは解っていた。それでも願わずにいられなかった。この地獄の時代を寄り添い共に生きた、先立つ娘から戦友へと捧げる最後の祈り。

 その時、暮里には彼女の気持ちが解らなかった。それより一刻も早く、彼女の元に逝きたかった。彼女を独り孤独な旅路へ赴かせることが耐えられなかった。
 心は抜け殻、しかし自ら命を絶つことなど許されず、今は亡き”明星”として人を騙し嘘を重ねる。暮里にとって残りの人生はただ、明星の元に逝くまでの残り滓でしかない。虚ろな日々はまるで闇の中を手探りで進むように、暮里から希望や歓びといった感情を剥ぎ取っていった。

 善之介と出会ったのは、そんなある時のこと。

 隔離軟禁された小屋の側に不審な気配を察知した暮里は、彼を排除しに向かった。
 本当は、殺してしまうつもりだった。これ以上の面倒事など御免だ。このままひっそりと明星の為に喪に服し、死に向かうことだけが暮里の願いであったから。

 ――なのに。

 その男は暮里がかつて出会ったことがないほど生命力に溢れていて、向けられた満面の笑顔は裏表なくキラキラと輝き眩しくて。なんだか、その光を掌から零してしまうことが勿体なく思えて、暮里は彼を殺すことが出来なくなってしまった。
 こんな影に生まれ影に生き影に死んでいくような己が、光に生まれ光を浴びて育ち光り輝く道を行く人を手にかけるなど、許されないような気がしたのだ。

 幸いなことに、善之介は”明星”の顔を知らなかった。暮里がその影武者であることにも気付くことなく、二人の密やかで秘めやかな友情は育まれたのである。

(善之介、貴方はいつでも私の欲しかったものを届けてくれる)

 闇に閉ざされた心に光を。
 凍り付いた面に人間らしい感情を。
 嘘しか吐き出せぬ唇に真の声を。

 明星を失って人形と成り果てた暮里を、善之介が変えてくれた。
 無遠慮に垣根を踏み荒らし、手を引いて、新しい世界を見せてくれた。善之介の前でだけ、暮里は明星と過ごしたあの頃のように――否、あの頃以上に、心を羽ばたかせ遠く希望へと思いを馳せることが出来た。
 騙る言葉は幻でも、二人の間ではそれが真実で、その偽りの中で二人は限りなく自由だった。

(次に彼が訪れたら、今度はどんな話をしよう?彼とどんな時間を過ごそう?)

 薄闇に包まれた生活の中、それを想像することだけが暮里のすべてで、暮里の希望で――いつしか暮里は、彼に恋をしていた。

(愚かな)

 終わりの日が迫る中、暮里はまた絶望した。
 どんなに望んでも、どんなに求めても、彼と自分の間に明るい未来が訪れることなどない。この想いを伝えることも出来ない。
 なぜなら自分は彼を遺して逝くから。それはもう決定していることだから。この想いを告げて、優しい彼の心を波立たせるなど、ただの自己満足だ。

 それならいっそ何も知らずにいて欲しい。暮里はそう思った。

 何もかもが幻だったのだと、あれはすべて貴方が見た夢なのだと。そうしていつしか自分を忘れ、美しく聡明な伴侶を得て、可愛らしい子を成し、穏やかに年を重ねて、幸せな生涯だったと笑いながら多くの人に看取られ、立派な墓石の下に眠る。
 それが彼に相応しい人生だと思った。

 だから何も言わず、あの場を去ったのだ。
 きっと一度は恨まれるだろう、憎まれるかもしれない。それでも構わない。彼がこの先の未来で笑っていてくれるなら、自分はどんな痛みも苦しみも乗り越えられる。

(なのに、どうして)

 貴方はここまで来てしまった。
 一目見た瞬間、愛しさに胸がざわめいた。凍らせたはずの想いが溶け出して、全身に微熱が灯り、心が震える。叶うなら貴方の後を追い、その手を取って逃げ出してしまいたい。貴方と繰り返した戯言を本物に変えてしまいたい。誰も知らない遠い国へ、二人で行けたらどんなにか――どんなにか。

(解っている。そんなのは妄想に過ぎない。だって僕は絶対に、ここから逃げることなど出来ないのだから)

 明星の愛したこの国を捨てて、仲間達の捜査の目を掻い潜り、他国へ逃げ延びるなど。針穴に麻縄を通すようなものだ。
 願わずにはいられなかった明星の気持ち、あの時に頷くことの出来なかった明星の祈りが、今更になって暮里にも解った。

(どうか、どうか……僕がこの世界から消え、あの方の元に逝ったとしても……善之介、貴方だけは幸せに)

 ”明星”の唇が開いた。
 よく通る綺麗な高い声が、いつかどこかで聞いた旋律を歌う。遠い世界の子守唄を奏でるように。伝えられない想いを風に乗せ。


 ***


「……この歌……」

 耳を澄まして、巴丸は小さく声を漏らした。

 ”暮里”は”明星”の役割を捨てられなかったのだと、その声を聴けば解る。しかし己の主がその程度の障害で諦めてしまうような腹の括り方をしていないことも、巴丸は気付いていた。

(頭を使うのは僕の仕事なんだから、馬鹿な真似はやめてくれたまえよ、主君)

 巴丸が恐れたのは、善之介が何の下準備もせず敵の本陣である本城、もしくは暮里を擁する世冶宮せいぐう家配下の忍一族の元に特攻してしまうことである。その前に巴丸は二人にとっての障害を少しでも取り除かねばならない。

 まず、巴丸が考えたのは敵の数を減らすことであった。

 暮里の見張りについていた下忍を見付け出し、その死角を縫って背面に回り込む。
 木の枝を渡っているにも関わらず、巴丸の小柄な肢体は鳥の羽のように軽やかに、音もなく男の後ろへと着地した。
 人の気配に気付いた男が担当の柄に手を伸ばしてももう遅い。巴丸はにっこり微笑むと、容赦なくその首を真横に掻き切る。ぷしゅ、と軽い音を立てて血飛沫が上がり、力を失った男の体は糸の切れた人形のように地面に落ちた。

(一丁あがり、っと)

 ふふん、と鼻を鳴らして、巴丸は近くの木の幹に己の一族の暗号を刻む。あからさまに過ぎる挑発だが、忍同士撹乱するには浅はかなくらいが丁度良い。
 これを見た世冶宮せいぐう家の忍達は勝手にいろいろと勘繰って、伊示地家とその忍に疑いの目を向けるだろう。無論すぐにそれは晴れるだろうが、短時間でも世冶宮せいぐうと伊示地双方の目が逸らせれば上々だ。

 続いて巴丸は善之介の元に走った。こんな時に彼がどう行動するか、巴丸には解っている。

(善之介、短気を起こすなよっ……)

 一方、城から出て真っ直ぐ己の屋敷に取って返した善之介は、その足で蔵に向かうと大小刀を手にした。
 暮里が複雑な立場にいることは理解した。それでも善之介はいつものように身を引く気持ちになれなかった。自分でも愚かな真似をしている自覚は重々にあったけれど、一度決めてしまったことだ。武士に二言はない。

(俺は、暮里といきたい)

 行きたい、なのか、生きたい、なのか。自分でもよく解らない。
 ただ、いきたい、そう思った。これだけは絶対に譲れない。彼を諦めることだけは出来ない。――だって彼が、彼だけが、自分が本当に欲しかったものだから。
 懐紙を掴んで着物に突っ込む。振り返るとそこに巴丸がいた。予想していた善之介は驚きもせず、目を細めて彼を見る。

「……止めるなよ、巴丸。おまえに止められたら、気持ちが揺らぐ」
「よく言うよ、僕のことなんか本当はどうとも思っていない癖に」
「そんなことはないさ」
「別に、それならそれで構わない。それでも僕は善之介につく。だって僕は君の忍だから。だから……独りで無様に逝くだなんて、許さないよ?」

 艶やかに彼が微笑むので、善之介は少しだけ笑って返した。
 それが本当に忍としての矜持からなのか、それとも善之介への情なのかを問い質す気はない。どちらにせよ善之介には同じことだ。

「いざ、出陣だ。供をせよ」

 重なった掌が、パンッ、と小気味よく鳴り響く。
 そうして、二人だけの小さな戦いが今、始まった。
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